防長歴史探訪2、神が与えてくれた水 弁天池・別府念仏踊 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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神が与えてくれた水1
弁天池・別府念仏踊(秋芳町)

秋吉台周辺には多くの湧泉がみられ、中で最も大きいのが秋芳町の「弁天池」であるが、そのほとりに池の守護神・堅田弁財天社が祀られており、正式の名称を厳島神社という。祭神は市杵島姫命(弁財天) 田心姫命・多芸津姫命となっている。

創建について社伝は、大同元年(八〇六)、安芸国宮島から分霊を勧請したとする。しかし神社に伝わっている「別府念仏踊」(昭和四十三年県指定無形民俗文化財)の伝承では、別府の長者が諏訪明神の夢のお告げで当地の北にあった弁天社を勧請して祀ったという。

むかし堅田の長林という林をきり開きたいと念願していろいろと工夫していた別府の長者が、夢の中で老翁に二つの鎌で林をきり開けと教えられ、眼が覚めてみると鎌だけが残っていた。

教えにしたがい長林をきり払い土地を開拓したものの、水がなく困っていたところ、ある夜、諏訪明神のお告げがあり、これより北にある弁財天を勧請し祭りをすれば必ず神の恵みがあるとのことであった。

さっそく社を建立し祭りや神楽を催したところ、その夜にわかに水が湧き出て来たというのが弁天池の伝説である。『防長風土注進案』に「池中まことに鏡の如し田地六十町(六〇ヘクタール)余りに水掛り、池水満々として実に一郷の重宝也」とある。

現在も日本の名水百選に選ばれた池だけあって、きれいな水がこんこんと湧き出ており、昔から田に引く井手も七か所に設けられたが、大旱ばつの際には分水をめぐって上流の堅田と下流の下嘉万の間にはしばしば水争いが起こった。中世以来の水論調停史料が別府の河野家、飯田家、秋吉の恵藤家に残り、今日でもそれが拘束力をもっているという。現在は井手の数は五つになっている。

この神様が与えてくれた水に感謝をし、村の中が三軒に衰えるまではやめないと誓い合って伝えて来たのがこの念仏踊りであるという。念仏踊りの奉納は、水支配人(水年寄)四人が主宰し、踊り組は当家一人、のぼり持ち二人、鉄砲二人、胴取り二人、団扇使い四人、棒使い二人、鉦たたき八人で構成する。

踊りは庭誉狂言ののち、鉄砲の合図で踊り始める。鉦たたきが円陣をつくる中でまず棒使いが演技し、次いで胴取りが太鼓をたたきながら前後左右に飛びかい、鶏の蹴り合う様子を演じ、団扇使いがその間をぬって踊り、さらに棒使いの演技があって終わる。胴取りがかぶる鶏冠に似た花笠などが踊りに花やかさを加える。

(防長歴史探訪2)


神が与えてくれた水2
弁天池・別府念仏踊(秋芳町)

『防長風土注進案』には、堅田下組より腰輪踊り一組江原組より(鶏楽)二組中組より子供楽(花楽)を執行したとある。今日、子供楽は子踊りと称し、中組より幼児六人が踊ることになっているが、腰輪踊りと鶏楽の区別は不明である。両者の要素が融合して今日伝えられる念仏踊りとなったものかどうか『秋芳町史』も疑問のまま記している。

厚狭郡近辺で行なわれている、また行なわれていた南無是踊り、腰輪踊り、またはここのような念仏踊りは確かに皆似ているが、またそれぞれ違っているところも多い。長年踊り継がれていくうちにその地方のものができていったのであろう。

踊り手は神社を中心にして上組(三組)と下組(二組)から各一組ずつ出るきまりがある。以前は下嘉万から出たこともあって、念仏踊りに加わらなければ弁天池の水を分けてもらえぬこともあったという。弁天池の用水権と密接なつながりがあったらしい。

この別府念仏踊は毎年九月の第一日曜日に行なわれる。踊りに使う道具は、頭にかぶる鶏頭だけは大切に保管しているのでそれを用いるが、花やその他のかざりは、各戸から集まって作る。一年きりの道具で、行事が終わったら、その年の頭屋の屋根に放り上げて、引きあげるという習慣がある。

また、ここの弁天池から湧き出す水を利用してニジマスが養殖されている。これは山口県が河川の高度利用と湧水地帯の開発利用に必要な種苗を供給するため「別府養鱒場」を設置したことに始まる。

この施設は昭和二十九年(一九五四)から二か年計画で建設された。その後、昭和四十七年、町に譲与され、町営の事業として管理運営されることになった。いま、河原上は稚魚育成に、また弁天池は釣堀として観光に主体をおいた運営をしている。

なお、施設は河原上分場を含め飼育池が三七面あって、それに孵化室なども備えている。平成元年(一九八九)度の生産量は河川や湧水地帯放流用が二〇万尾、鱒釣堀用に六万尾、食用として一八万尾、このほか鮎も一万五、〇〇〇尾飼育している。

このあたりはまた秋芳梨の産地であり、秋の収穫時には観光梨狩りの客も多い。弁天池、鯨釣り、それに梨狩りとセットにした団体客も多く、秋芳洞とともに町おこしのための観光の目玉として宣伝している。

また、別府地区には「別府岩戸神楽舞」も伝承されており、これは昭和六十一年四月に山口県の無形文化財に指定された。

(防長歴史探訪2)





(やまぐち散歩 別府弁天池)

(彦島のけしきより)