2022年1月8日(土)



13:00

南部馬講習会受講のため、公演会場の称徳館へ。

講演会は14:00スタートなので、しばし館内を散策。

こんな特別展もやっていました。下矢印





14:00 開講

先ずは和種馬の歴史から。14種いた日本在来種は、軍部の馬政計画(馬匹去勢法、種馬統制法)により、身体の大きな外来馬との掛け合わせが義務付けられてしまったが為に、純血種がほぼ失われてしまいました。時代とはいえ、愚策としか言いようがないですタラー僅かながら純血が保たれたのは東京から遠く離れた離島の馬たち。故意に軍部から隠して純血を守った種もあれば、単純に軍部の指令が行き届かず、うっかり純血を守った種もあったそうです。


現在残っている日本在来馬は8種のみ。


北海道和種馬(道産子)、木曽馬(長野県)、対馬馬(長崎県)、野間馬(愛媛県)、御崎馬(宮崎県)、トカラ馬(鹿児島県)、宮古馬(沖縄県)、与那国馬(沖縄県)


いずれも島国、またはアルプスに阻まれた山梨県などですね。今回のテーマの南部馬は、戦国時代から優れた馬を多く産出していたが為に、軍馬補充部が設置され、まさに軍馬の中心地となってしまったが為に、南部馬の純血種は失われてしまいましたタラー


日本人の生活に寄り添ってきたのは牛が多く、平安貴族の移動手段も馬車ではなく牛車ですよね。

速い馬に対する憧れは多くの人々にあったそうです。


貴族の時代(平安時代)から武士の時代(鎌倉時代)になると、早くて力強い馬が主流となっていきます。命がかかってくるので、良馬を競って求めるようになります。

そこで注目されるのが南部馬です。名馬が多かった理由としては、種として身体が大きかったんですよね。更にいうと、粗食に耐え、蹄が強かったのも大きかったようです。コレは戦争でも有利でしたし、太平の世になってくると、参勤交代の時の武者行列の良いデモンストレーションになったようです。


さて、名馬が多かった南部馬は南部藩がきっちり統制して、外部に良馬が流出しないように、法律でギチギチに縛っていたようです。馬の格付けも行われていたようで、たてがみの切り方でその馬のランクが分かったようです。


講義の中で、南部馬の名馬10選として挙げられたなかでも有名なのは義経の愛馬太夫黒(たゆうくろ)、または青海波。


一ノ谷の戦いで、断崖絶壁を背に陣を張る平家に対して、その崖の上から急襲した時のお馬です。


銀次に見えて仕方のない私ウインクそっくりですよねおねがいピンクハートキラキラルンルン音符ハート




良い話だな〜と思ったのは、この明智左馬助秀光の愛馬、大鹿毛(おおかげ)。


これは敵に囲まれた万事休すアセアセ琵琶湖を騎乗したまま渡り切って命を繋いだ有名なシーン。

光秀の死を知り、死を覚悟して坂本城に向かう途中、大鹿毛を道中のお寺に繋いで置き去りにしました。愛馬を自分の道連れにしたくなかったのですアセアセピンクハートアセアセアセアセピンクハートアセアセ後に大鹿毛は秀吉が貰い受け、曙と名付けて可愛がったそうです。泣ける。。。ピンクハートピンクハートピンクハート


その他雄々しい武勇伝を数々講義の中で語られて、楽しい時間を過ごしましたが、私が印象に残ったのは最後の最後、この写真です。


胸に日の丸をつけた軍馬。先の戦争で日の丸をつけて外地に出征した馬はたったの1頭も帰って来ませんでした。たったの1頭も。人の命の方が大切なのは分かります、理解できます。人だって帰ってくるのが大変だったのは知っています。でも、それでも、たったの1頭もですよ。。。臆病で繊細で心優しい馬たちが、大砲のなる中、銃声の中、人々の阿鼻叫喚の中、どんなに恐ろしい思いをしながら、絶望の中で瞳を閉じていったのか。。。想像するだけで心が痛みます。


私は和種馬の活躍の場を広げる為に和式馬術を集中的に学びたいと思って昨年ブリティッシュから離れました。愚かな人間の犠牲となった日本の馬たち。和種馬の系統を継ぐ馬たち。この子たちの活躍の場を広げる為に今出来ることを、微力ながら考えて行きたいと気持ちを強く持った時間でした。


最後、しんみりしちゃってごめんなさい🙏

明日からはまた楽しい馬遊びの記事、いきますよ〜音符ルンルンキラキラスター流れ星


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