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第35 数多の人が神に背きしを悔まず、キリスト教的完徳を離れて、徳なく暮らしつつある理由

2023-02-02 23:02:54 | 心戦
第35 数多の人が神に背きしを悔まず、キリスト教的完徳を離れて、徳なく暮らしつつある理由

 何故に人がぬるき心を以て眠り、身を罪に委ねて、徳を守るべき義務を省みず、これにいささかも力を出さずにいるかと云うに、その理由が種々あって、 重[おも]なるものは次の如くである。先ず人が我が身を省みず、その心は如何なる立場にあって、心の中に如何なる事が行われ、誰に司られているかと云う事を見ずして、うろうろして、物好きに、ぷらぷらして、無駄に月日を送るから、あるいは正当な事、良い事に身を委ねておって、善徳及びキリスト教的完徳に導く事については、少しも気を付けぬのである。もし時によって、その思いが起り、己が霊魂上の憐れなる状態を合点して、神の声の己れを召して、悔い改める事を勧め給うのが、心の中に聞こゆるならば、これに対して「明日、明日、後から、後から」と答えるばかり。而してその期日は度々延引せられて、終に来たる事なく、罪人は何時を限りともせず、愈々延引するのである。

 ある人は、改心すると云う事と、徳を行うと云う事とは、新人の勤めに極まるものと想像して、終日祈祷を唱うるも、被造物に己れを愛着せしむる猥らな情慾を懲らす事には少しも気を付けぬのである。

 ある人は、道徳の修業に身を委ねても、前に堅き基礎[どだい]を据えずして建築を為し、善徳には各自特別なる基礎のあると云う事を知らぬのである。例えば謙遜の基礎は、自ら僅かなものである、実に何でもないものであると見られ、人にも軽蔑せられ、自分にも卑しきものの如くに思う望みに基づくのである。前にこの根掘りをした人は、後に謙遜の建物となるべき材料と、喜んで受けるようになる。その材料は即ち、世間より蔑ろにされる事、及び謙遜の業を為す機会である。斯かる状態であるならば、軽蔑せられるのを愛する事が益々増加し、その軽蔑の来たる時は、喜んでこれを受け、而して謙遜の徳を得るに至るのである。しかしながら忘れてはならぬ、第一に天主に向って、聖子の卑しめられた、またその功徳によって、度々謙遜を願わねばならぬ。

 たまたま既に述べた事を悉く行う者の中に、単に神を愛する為に、その聖意に適わんとの唯一の目的を以て、これを為さざるものあり。これに由って、徳行を為すと雖も、その徳行は衆人に対し、また凡ての場合に於てするのでない、即ち、ある人に対しては謙遜者となり、ある人に対しては威張るのである。ちょうど人々を重んずる次第、また眼前に在る目的次第である。

 またある人は、真実にキリスト教的完徳に至らんと欲して、専ら力を尽してこれを努むれども、力が足らず、あるいは勉励して巧みなれども、神を頼む事が足らずして、己れを頼み過し、進むよりはむしろ退却するのである。

 終にある人は、未だようやく道徳の道に入ったばかりであるのに、もはや完徳に達したように思う事がある。これは己れについて甚だしき迷いであるが、やはりその自称徳についても迷うているのである。

 故にもし徳に達し、真面目にキリスト教的完徳に至らんと欲するならば、先ず己れを頼まず、神に信頼して、出来る限り善徳、及び完徳の望みを日々引き立て、且つ増して行くように努めねばならぬ。また徳を行う機会は如何なる方法によって来たるとも、一つもこれを失わぬように注意せねばならぬ。なお己れを避けて、しばしば克己の業を為し、改悛の業を何時にしてもやめてはならぬ。

 完徳の道に於て、既に如何ほど進歩してあるとも、日々に事を為す時は、あたかも始めたばかりの如くして、事々に、一つ一つに、さながら完徳はこの一つの業に極まるもののように注意を尽し、次の業をも同じくその通りにせねばならぬ。あたかも注意深きものが、最も重き過失を避けるに注意する如く、我等は軽き過失を避けるに注意せねばならぬ。

 徳に付くのは、徳そのものの為、また神の聖意に適わん為にすべきものである。この方法によれば、何時にしても、身も心も行いも変る事なく、一人であっても、人と共に在っても、陰日向の差別なく、相変わらぬものとなる。ただにそれのみならず、この方法によって、入用の時は徳の為に徳を措き、神の為に神を措くと云う事も知るようになる。徳の為に徳を措くとは、何の徳を選む事なく、一の徳の代りに他の徳を守ることで、例えば熱心に専ら善業を励まんとて、楽しみにしているのに、病気や種々の妨害[さまたげ]の起るのを、よく堪忍するが如き事、即ち奮発などの代りに堪忍、謙遜、従順などを守る事である。また神の為に神を措くとは、直接に神に対する事をやめて、間接に対する事に従事する事で、例えば熱心に祈祷でもするのに、人の頼みに応じて、あるいは人を教え、助け、その世話をする為に、祈祷をやめる事で、何事によらず神の為にこれをする事である。右へも左へも寄らず、後退もするな。程よき所に止まりて、淋しき事、単独なる事、または黙想や祈祷をせよ。神に向って度々渇望する所の善徳、及び完徳を賜らん事を、願わねばならぬ。何故なれば、神は自ら萬徳の泉であって、始終我等を召し給う所の、完徳そのものにてましますからである。

ロレンツォ・スクポリ神父『心戦(霊魂の戦い)』





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