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9ー1ー8 地方行政・軍隊・議会

2024-04-07 11:15:48 | 世界史


『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
1 エリザベス朝――四十四年間のイギリスの治世――
8 地方行政・軍隊・議会

 イギリス絶対主義において、中央政府が官僚組織をとっていることは、大陸の絶対主義諸国とまったく共通である。
 しかし地方行政とか、軍隊とかいうことになると、イギリスは大陸とひじょうにちがってくる。
 そのうえ大陸では絶対主義時代には議会(身分制議会)が停止されたが、イギリスでは、絶対主義の最高潮期にも議会が存在した。
 以下、イギリス絶対主義の特色をしめす地方行政・軍隊・議会の三つについて検討する。
 まず中央政府で決定した政策を、地方に浸透させる役割を果たしたのはだれか。隣国のフランスでは、中央から地方に派遣された有給の地方監察官がこれに当たったが、エリザベス朝のイギリスでは、治安判事であった。
 治安判事になったものはその土地に在住している騎士、エスクワイア、ジェントルマンらがほとんどで、在地性ということが、フランスの地方監察官との第一のちがいである。
 第二のちがいは治安判事がもらったのは手当で、俸給ではなかった。
 すなわち無給であったことである。
 しかし治安判事は女王から任命されて、枢密院の監督をうけ、中央政府の命令にしたがい、中央集権化を推進したのであるから、彼らは、イギリス絶対主義における地方官僚の役割を代行したものとみられる。
 つぎに軍隊としては、エリザベス朝には二つの組織があった。
 その一つは民兵制で、有事のさい君主がこれを徴集した。
 独立自営農民であるヨーマンなどがそのよい供給源であった。
 その二は従者制といわれるもので、君主が貴族やジェントルマンに対して、その配下の従者を引きつれて出征することを求めた。
 従者の第一は奉公人で、各家には軍役に適する腕っぷしの強いものが数十名養われていた。
 第二は小作人で、彼らの小作契約の中にはいざという時、従軍する義務が含まれていた。
 しかしイギリスではフランスやプロシアのような、君主に直属する常備軍が発達しなかった。
 「勇敢で、強く、敏捷な優秀射手」である近衛兵がいたけれども、二百名くらいのもので、常備軍といえるようなものではない。
 イギリスの絶対主義の特色として官僚制度と常備軍制度の欠如ということがいわれるのは、このためである。
 それからエリザベス朝でもう一つ忘れてならないのは議会の存在である。
 まず議会の開会の回数をみると、足かけ四十六年の治世のあいだ議会が十回開かれたが、年数にすると、十七年で、治世の三七パーセントの期間にあたる。
 したがって議会のなかった年が二十九年、すなわち六三パーセントということになり、議会を開くことなく政治の行なわれた期間が、治世のなかば以上におよんでいるわけである。
 ここに、エリザベス朝の政治の絶対主義的傾向をみとめることができよう。
 つぎに第二の大事な点として、この十回の議会は、議会本来の君主権を制限する機能をはたしたであろうか。
 この時代は、議会における言論が活発になった時代で、女王の結婚、王位継承、宗教改革、議会特権、独占権などの問題がやかましく論ぜられた。
 一五六六年の第二議会で、エリザベスが王位継承に関する討論を禁止すると、ウェントワースというピューリタン議員が立ちあがって「それは議会の自由な言論の特権を侵すものではありませんか」と質問し、議会は女王に対して、討論は法律でゆるされた行為であり権利であるから、前例のない命令で議会をしばらないようにと請願した。
 このとき、女王は「言論の自由」をおさえることの危険を察知し、この命令を撤回した。
 また女王は、財政の窮乏を救うためむやみに独占権をゆるして、議会において独占論争がおこった。
 一六〇一年の第十議会であげられた特許のリストには、塩、澱粉、酢(す)、ガラス、銅、錫(すず)、トラップ、硝石(しょうせき)などが含まれており、ある議員は「最重要な品物はこの国の吸血鬼の手中に独占されている」といい、ある議員は「これらのものに対して指図が下されないならば、次の議会前にパンまで独占になるだろう」と述べた。

 女王は急迫した事態を察して、先手をうって議会に対し、独占の弊害を改善する布告をだした。
 このようにエリザベス朝の議員たちは、ときに反抗したことがあったが、いつも王権にうまく操縦され、女王の介入にあうと、謝意とお詫びとを言上し、女王の手に接吻をゆるされ、感激して退出するという従順な態度にでた。
 したがってエリザベスの議会も、根本においては、テューダー朝特有の「従順議会」にほかならなかった。
 それはピューリタン革命後の議会とはまったくちがうもので、絶対主義と両立しうるものであった。

 最後に女王自身について――
 すばらしい知性、満々たる自信と意志の力、ねばり強い慎重さなどの長所はむろんのこと、女らしい虚栄心、二枚舌、わがまま、傲慢(ごうまん)などの欠点も、一六〇三年三月二十四日、国民敬愛のうちに世を去るまで、この女王の人気を傷つけなかった。
 ただエリザベスが国民の希望に背いたのは、一生を独身で過したことである。
 しかし女王にはレスター伯ロバート・ダットリー(一五三二頃~八八)やエセックス伯ロパート・デバルー(一五六六~一六〇一)のような恋のお相手がいた。
 二人とも美丈夫で、レスターは「堂々として王侯の風貌をもち、長身で威厳があり、体格が立派で、目鼻立ちが整い、女王が感心して眺めるような細長い指をもち」、エセックスは「背が高く、釣り合いがとれ、大変凛々(りり)しく明るい顔づきの、もの柔かい夢見るような眼」をしていた。
 女王はレスターと同年配で、エドワード六世の宮廷で会ったのが馴(な)れ初(そ)めといわれるが、彼は女王の主馬頭にとりたてられ、妻と別居して宮廷内で起居した。
 「女王は日夜レスターの部屋を訪ねる」ありさまで、一時は熱烈に彼との結婚を希望したが、側近が猛烈に反対した上、レスターの妻の変死事件が起こったため、断念せざるをえなくなった。
 また女王とエセックスとは年が三十三もちがったが、昼は馬を乗りまわし、夜は二人だけで宮廷に泊まるという仲であった。
 しかし彼はアイルランド遠征中君命に反して帰国し、君側の奸を除くと称して、武装決起し、失敗して処刑台の露と消えた。
 生理的に結婚を恐れたとか、母になる確信がなかったからとか、夫という男性に権力がうつるのをいやがったとか、独身は一つの政略であったとか、推測は多々あるが、だれもこの「処女女王(バージン・クイーン)」の秘密を知ろうはずはない。
 しかし男のおべっかと愛情とをつねに必要としていたエリザベスは、一方では、自分の精神を官能の迷いの外に保つことができるという、理知的な「君主の術」をもっていた。
 この理性はまた、重要な国務において、女王を「女性」から「冷静で厳格な政治家」にひきもどしたのである。




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