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聖ダマソ1世教皇  St. Damasus P. 

2023-12-11 19:34:12 | 聖人伝
聖ダマソ1世教皇  St. Damasus P.                  記念日 12月 11日


 聖ダマソは西暦305年呱々の声を挙げた。その頃ローマ帝国はディオクレアノ皇帝の治世で、古今未曾有の酷烈なキリスト教迫害が行われていた。しかし幸いに同信徒である彼の両親には官憲の魔手も及ばなかった。ダマソは父母のこまやかな愛を育まれてすくすくと生い立った。そして8歳を迎えたとき。天下を掌握したコンスタンチノ大帝から聖教信奉の自由を差し許す旨の布告が下り、聖会の上には一陽来復の春が訪れたのである。
 彼の一家はことごとく篤信敬虔な人達ばかりであった。父は後に聖職に就き、母は修道誓願を立て、妹イレーネは終生童貞を守った。さればその間に伍してダマソが父と同じく聖職者として世に立ちたいと志すに至ったのも、別に不思議ではなかったのである。
 かくて彼は355年教皇リベリオの補佐司祭となったが、やがて教皇がコンスタンチノ皇帝にローマから追放されるやダマソはローマの聖職者一同とこれに変わらぬ忠誠を誓い、又教皇の委任を受けてその留守中聖会の統治に当たることとなった。そして10年後リベリオが崩ぜられると、彼は正式に選挙推薦されてその後継者となったのである。
 所がその時ウルシチノと呼ぶ一助祭が、身の程知らぬ野望に駆られ、一群の人々に擁立されて教皇を僭称したから、たちまちこの両教皇方の間に闘争が起こり、大騒ぎとなって遂にローマ市長ユヴェンチノは偽教皇ウルシチノに市外へ退去を求めるの已むなきに至った。
 するとウルシチノ方では武力で勝ち得なかったのを残念に思い、今度はあらん限りの讒謗非難を浴びせかけてダマソを傷つけようと試みた。けれどもダマソは更に動ぜず、全聖会の司教達を召集して会議を開き、以て何れが正教皇なるかその黒白の判定を求めたのである。
 その結果はもちろんダマソがペトロの正統の後継者と認定発表された。で、彼は容赦なく騒動を起こしたウルシチノの部下を罰する事も出来たのであるが、寛大にも不問に付したばかりか、徳を以てこれを化素ように努め、遂に彼等を帰服させることに成功した。
 時あたかもアリオ派の異端が勢いを得、聖会覆滅を図ったから、ダマソは同派に心を寄せる司教達を罷免し、正しい信仰を守る司教達を擁護した。かのアウグスチノやアンブロジオなどの有名な教父達が教皇を扶けて大いに活躍したのもこの時のことである。幸い皇帝ヴァレンチニアノも聖会側に加担され、特別の勅令を出して教皇権を尊重し正統信仰を守るべき旨を諭された。かように護教に努めるにつけてもダマソは信仰の基礎なる聖書の重要さを痛感し、聖ヒエロニモに命じてそのラテン語訳を完成させ。これを聖会一般に採用させることとした。今も世に名高いヴルガタ訳聖書とは即ちこれである。
 その他ダマソはローマに数宇の聖堂を建立し、殉教者の聖骨の納めてあるカタコンブの保存に意を用い、その埋没されたものを発掘させ、聖人方の墓を大理石で改築させ、自ら作った碑銘、頌徳の詩編を、彫刻家フィロカロの手を煩わしてその上に新字体を用いて刻ませなどした。なおダヴィドの詩編に栄誦を添えて誦うべきことを聖職者達に命じたのも彼である。
 かくさまざまの輝かしい事蹟を残したダマソは、聖会を統治すること18年、80歳の高齢で永眠した。その遺骸は彼が生前アルデアチナ街道を建てさせた聖堂に葬られ今日に及んでいる。

教訓

 聖ダマソ教皇がその敵に対し取った処置は、我等の学ぶべき絶好の模範ではあるまいか。彼はまず相手の讒謗に騒がず、聖なる生活をして識者の批判を仰ぎ身の潔白を明らかにし、次いで仇に怨みを報いず、寛大にその罪を赦し、徳を以てこれを化した。これはもとより一朝一夕に達し得る境地ではないが、少なくともキリスト信者たる者はこの境地を理想として進まねばならぬ。






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