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公教要理図解:第8図 使徒信経 天に昇り給う

2021-11-27 11:51:20 | 要理(カテキズム)
「第8図 使徒信経 天に昇り給う」『公教要理図解』ワグネル神父


天に昇り給うとは、イエズスが御復活の後40日目に、御自分の能力にて多数の弟子等の目前において、天に上がり給うたということである。


イエズス・キリストが天に御昇りになったことを記念する日を御昇天の祝日と申す。


イエズス・キリストは、御昇天の前にただ天主としてのみ天上に居られたが、御昇天の後は人としても天に在しますようになった。


そして、その天に昇り給うたのは、
(1)御自分の受けるべき当然の光栄を受け給うがため
(2)我等のために居所を備え給うため
(3)我等のために御父に願い給うがため
(4)我等に聖霊を遣わし給うため
である。


イエズスの御昇天のありさまを、使徒行録の第1章、第1節より第11節までのところに書き記してある。すなわち、下のとおりである。


イエズスは、全く御自分の能力にて天に昇り給うたので、決して他の力を御借りにならなかった。たとえば、エリヤが火の車にて天に上げられ、また、ハバククや助祭フィリッポが天主の御力にて遠い所を経歴したようなこととは、大いに違っている。


また、イエズスが天に昇り給うたのは、神性に依り給うたのみならず、また人性にも依り給うたのである。


それは、人性と申しても、イエズスの人性は、元来普通の人間の性の力に超越したものであるから、イエズスの御霊魂の御力は、御随意に御肉体を動かし給うた、御肉体もまた限りなき光栄を受け給うたので、善く御霊魂の命令に従われた。


さて、考えれば、イエズスが天主の御子にて在しましながら、我等のために人性を受けてこの世に生れ給い、そして御苦難御死去までなされたのであるから、イエズスのへりくだりはこの上もないことである。しかし、イエズスの御復活、御昇天などの有様を見れば、イエズスの御光栄は実に大いなるものであって、そのすぐれたことは、人間の力では到底想像されないほどである。

◎絵の説明

10
この絵は、イエズスがオリベト山より天に昇り給う有様を示すのである。
その足跡をそこに残し給うて(古伝による)弟子等と聖女等の目前において天に昇られた。

11
そのとき、輝ける雲イエズスを包擁して、弟子等の目に見えなくなった。
時に、二天使が現れて「ガリラヤ人よ、どうして天を仰いで立っているのか。
 汝等を離れて天に上げられ給うたこのイエズスは、 汝等が、イエズスが天に行き給うを見たようにまた、このようにして来たり給うことになる」と申した。






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