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4-18-1 藩鎮と宦官

2023-03-25 19:50:02 | 世界史
『六朝と隋唐帝国 世界の歴史4』社会思想社、1974年
18 藩鎮(はんちん)と宦官(かんがん)
1 はびこる藩鎮

 安史の乱ののち、節度使は内地にも多く列置され、軍政だけでなく、民政や財政もつかさどった。
 いまや強力な節度使が管轄する地方では、中央政府の威令もおこなわれなくなった。
 こうした節度使を、ふつう藩鎮とよんでいるが、その数は四十から五十にものぼった。

 これらの藩鎖のうち、もっとも横暴をきわめたのは、いまの河北省にあった盧竜(ろりょう)・魏博(ぎはく)・成徳(せいとく)の三節度使である。
 「河北三鎮」とよばれた。安史の乱の末期にあたって、この反乱を唐朝はなかなか討滅できない。
 ようやく河北三鎮の力によって、どうにか乱を鎮定したのであった。これより三鎮の力は、いよいよ強大となっていった。
 藩鎮は、強大なる武力を背景にした軍閥である。その直属の軍は牙(が=衙)軍とよばれ、節度使の治所のある会府(かいふ)におかれた。
 牙軍は藩鎮の主力軍で、その質もなかなか優秀であった。
 このほかに節度使が管轄する地方には外鎮軍がおかれて、管内の防衛や治安の維持にあたり、州の長官である刺史(しし)や、県の長官である県令をおさえていた。
 ところで、そのころの兵士といえば、もはや府兵制はくずれさっており、その後にできた官健(かんけん)と団練(だんれん)が主力となっている。
 官健とは、募集に応じてきた職業軍人であった。
 流民や、無頼の徒や、また盗匪(とうひ=どろぼう)から応じてきたものも多く、素質はよくないが、いざ戦争となれば、ほうびをもらうため、掠奪をほしいままにするため、いさましく行動する。
 藩鎮にとっては、都合のよい手先であった。
 いっぽう団練は、一般の農民のなかから強壮なものをえらんだ。
 農閑期に訓練し、平時にはふつうに農耕をいとなんでいて、いざというときに郷村の防衛にあたる。
 農民であるからじぶんの村をまもるためには真剣にたたかうが、村の防衛と関係のない進攻には適さなかった。
 もっとも維持のための費用は安くあがるという利点があった。
 それでも征討というと、病気だと申したてたり、いつわって馬から落ちて、出征をさけた。
 官健や団練は税で維持されたが、そのほか節度使には家兵(かへい)というものがあった。
 これは私費でやしなわれ、藩鎮の親衛隊を組織していた。そして家兵のなかには、節度使と義理の親子(仮父子)関係を結ぶものもあり、一千人もの仮子(かし)をもった節度使もあった。
 このような藩鎮の兵力は、多いもので十万、すくないものでも一万、平均して二万くらいといわれている。
 安史の乱を平定した代宗は、ほっとするまもなく、つぎは藩鎮の横暴に苦しまねばならなかった。
 魏博節度使を討とうとすると、成徳節度使もこれに通じて唐朝に対抗しようとする(ともに河北三鎮)。
 そこで、やむなく討伐を中止した。
 また藩鎮のがわで、かってに節度使を擁立したばあいでも、これをみとめなければならない形勢となった。
 じぶんの子孫に節度使の地位をつがせるものさえでてきた。
 もはや藩鎮は、封建諸侯のような形にちかづいている。
 財政の面でも、正規の税収を藩鎮が保留し、中央へ上納しなくなって、国家の財政に打撃をあたえた。
 つぎの徳宗の世(七八〇)となっても、この形勢はつづく。
 徳宗が節度使の世襲をやめさせようとこころみたところ、諸鎮は連合して反対する。
 ついに節度使たちは、おのおの王と称するにいたった。こうなっては戦国時代の諸侯とかわらない。
 ついに反乱をおこすものがあらわれた。これを徳宗が討伐しようとして、ほかの節度使の兵を召した。
 ところが、平定のために長安にきた兵士たちは、待遇のわるいことをおこって、また反乱をおこした。
 長安は占領された。
 兵士たちに擁立されて、朱泚(しゅせい=前の蘆竜節度使)は皇帝を称した。徳宗は西方へのがれた。
 そうして「己(おのれ)を罪する詔」を発して、なんとか切りぬける始末であった。
 憲宗が即位すると(八〇六)、藩鎮に対して強硬策をたてた。
 ついに元和十年(八一五)、横暴をきわめた淮西(わいせい)節度使(呉元済=ごげんさい)の討伐にのりだした。
 すると平盧(へいろ)節度使(李師道)は、やがてじぶんにも討伐のおよぶことをおそれ、淮西征伐の中止を要求した。
 ときの宰相であった武元衡(ぶげんこう)は、これを断固として拒絶した。
 平盧がわは刺客をおくりこんで、武元衡を暗殺した。
 おこった憲宗は諸将をつかわして淮西を攻めたて、ようやく淮西節度使を平定した。
 この強硬策はほかの藩鎮にも影響し、ついに河北三鎮は降伏した。
 この機に乗じて憲宗は、武元衡を殺した平盧節度使も平定したのであった(八一九)。
 こうして安史の乱ののち、六十年にわたって横暴をきわめた藩鎮も、ようやく勢いをそがれた。
 しかし藩鎮を根本から改革したのではないから、藩鎮の禍(わざわい)が根絶したわけではなかった。


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