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聖マルチナおとめ殉教者  St. Martina V. et M, 

2024-01-30 13:01:57 | 聖人伝
聖マルチナおとめ殉教者  St. Martina V. et M,     記念日 1月 30日


 聖ペトロ等の殉教を皮切りとしてローマ帝国に起こったキリスト教の迫害は、無慮300年間も続いたが、それでも絶え間なく一様に行われていた訳では決してない。面も向けられぬように激しくなる時があるかと思うと、また殆ど収まったのではないかと思うほど小康を保った時もあったのである。それにローマ帝国の広大な版図は、東は小アジアから西はスペインまでも及んでいたので、その一地方、例えばスペインでは迫害が猛烈を極めていても、他の地方、例えば小アジアでは比較的無事であるというような事もあるのであった。
 第世紀の初め頃。即ち220年から235年頃までのアレクサンドロ・セヴェロ皇帝の御代は、全聖会にとって割合に安穏な時代であった。それは皇太后マメアが宗教思想に興味を有し、ヒッポリトやオリゲネスなどという名高い聖会博士と交際していた為でもある。それでも同皇帝の治世の初めには、国に重きを為していた某元老の忘れ形見なる少女聖マルチナが白百合の如き純潔を守り通して輝かしい殉教の冠を戴いたという事件があった。
 マルチナはまだ頑是ない11、2歳の頃、既に両親に死に別れ、淋しい孤独の身になった。それで浮き世のはかなさを早くも小さい胸にしみじみと感じたのであろう、彼女は我が身をイエズス・キリストの浄配として献げる覚悟を定め、ウルバノ教皇の前に童貞の誓願を立ててからは、自分の相続した財産の殆ど全部を慈善事業に投じ、己の為には唯生計を保つに足るだけのものをしか遺さなかった。
 ところがかねがねその財産に目をつけていた異教人があって、彼女に結婚を申し込んだが、もとより童貞を守るつもりのマルチナはそれをきっぱり拒絶すると、相手はこれを深く怨み、彼女のキリスト教信者である旨をその筋に密告した。
 当時キリスト教徒に対する当局の方針は、100年余りも以前、トラヤノ皇帝に制定された「キリスト信者は強いて捜索するには及ばざるも、告訴されし者あらば、これを拘引訊問し、確実に信者と認められたる時は厳罰に処すべし」という掟を、なお金科玉条としていたので、聖女はたちまち捕縛されて法廷に連行され、偶像に供物を献げる事を強要された。然し信仰の厚いマルチナにどうしてかかる冒涜の業が出来よう、言下にそれを拒絶すると、まず様々な責め苦拷問にかけられ、ついには猛獣の餌食にされる死刑の宣告を受けたのである。
 いよいよ定めの日が来ると、彼女は処刑場である円戯場の中央に引き出され、続いて血に飢え哮ぶ獅子や虎が連れ込まれた。場を囲む数万の観衆は今にも彼等がか弱い少女に躍りかかってその体を寸断し、その肉を貪り食うであろうと固唾を呑んで打ちまもる。然るにこれは何という意外な事であろう。猛獣共はマルチナを見るより猫の如く大人しくなって、さも馴れ馴れしげに頭を聖女に擦り付け、その足下にうずくまるではないか!これを見た残酷な観衆は宛が外れて不平らしく口々に叫んだ。「火炙りにせよ!火炙りにせよ!」
 そこで役人は彼女を炎々と燃え上がる薪の中に立たせたが、その清らかな体は、今度もまた不思議にも鵜の毛でついた程も害われなかった。それを見た数人の人々は彼女を守り給う天主の御力を明らかに悟り、「私もキリスト教を信ずる」と叫んで直ちに殺されたという。
 さて重ね重ねの失敗に立腹した法官は、彼女を魔法使いと思い、遂に打ち首の刑に処し、ここに始めてマルチナの霊魂は、その愛する浄配の御許に帰り、貞潔と殉教との二つの宝石に輝く栄冠を、その御手から戴いたのである。
 彼女の遺骸は、嘗て聖ペトロ聖パウロの二大使徒が囚われていたマメルチノの牢獄上に建てられている聖堂に葬られた。彼女の遺物も今なおそこに保存されている。

教訓

 このか弱い少女の勝利を考える時、我等は「強き所を辱めんとて、神は世の弱き所を召し給う」という聖パウロの聖言を思い起こさずにはいられない。彼女はひたすら天主の御力を信頼して非道な法官、刑吏等の多くの拷問や苦しみにも屈しなかったのである。されば我等も日常の苦労や心配を天主の御旨に委ねて忍耐しよう。そうすれば他日この聖なる童貞殉教者と、天国に於いて喜びを共にする事が出来るに相違ない。





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