特別なRB10

昭和の東武バス野田の思い出や東京北東部周辺の乗りバスの記録等。小学生時代に野田市内バス全線走破。東武系・京成系を特に好む

北柏01 北柏ライフタウン循環線にまつわる雑な思い出

2021年03月09日 04時12分34秒 | 旅行

いよいよ新世紀エヴァンゲリオン最終章が公開の運びとなりました今日このごろ、みなさまいかがお過ごしでいらっしゃいますか。いやあ全く最終章にふさわしい内容でしたねえ。渚カヲルがシンジくんと一緒に真実一路のマーチを連弾して綾波レイが熱海駅在来線ホームの駅そばでにんにくラーメンチャーシュー抜きを注文するあのラストシーンは館内にいる者一堂涙なくしては見られない感動的な場面でございました。ん?なんか違うアニメの話になってますかね。
 このブログはいつまでたっても旧世紀の話ばかりしておりますが以前小5~小6の春休みに柏の豊四季団地循環という路線に旧世紀時代に乗ったお話しをいたしました。
始発から出て始発に帰ってくる、途中下車しようが終点まで乗ろうが運賃は同額という
循環線というものの知見をそこで得たわけですが、この北柏ライフタウン線はその後日に乗った路線です。均一運賃ではなく初めて乗ったあの日からずっと多区間制運賃体系になっており整理券が発券されます。
 


ところがでこの路線については当時と現在とで特段の変化がないようで野田出張所管内でもないので今さら後代に語り継ぐべき事物がないようにも思います。だから当時の乗りバスの記憶があるのに今の今までお話ししなかったのです。
 もちろん時刻とか運賃とか車両が異っているのは当然のことですが、例えばバス停の名前が変わってるとかルートが変わってるとかそういう要素がない、1点だけありますけどそれはおって申します。管轄が柏営業所から西柏営業所に変わったなどと今更いっても価値がない。わたくしが小学5年生であったという途方もない大昔の時分からこの路線は北柏01北柏ライフタウン循環と称していたのです。
 

(『常磐線1960~90年代の思い出アルバム』)
 しかしながらとかくこの世は月に叢雲、花に風と申します。
設計の世界などでは初期値に含まれるわずかな誤差をゼロとみなして差し支えないものだと油断しておりますと出来上がった代物がゼロどころかとてつもなく大きな差異を伴ったものになってしまうバタフライ効果という恐ろしい現象があります。
重箱の隅つっつくような現代との誤差というか異同をいくつか後代の人々へ伝えておきたいと思います。


 

 

 

あの頃、開業から10年も経っていない北柏駅から南側を見ますとまるでスタート直後の「シムシティ」のように、道路こそ方眼紙の罫線のごとく綺麗な十文字を描いて整然としていましたが人家はぽつぽつと点在するのみで今日のように商店や飲食店などまったく見当たりませんでした。わずかにある建物はみな高さに乏しく、そのまた向こうには水たまりのような色をした農地と深い森が続いていて上空の雲間から差し込む春の陽光でキラキラと輝いており、ある種メルヘンチックな光景にも思われました。ただ、今後は家が増え人も増えるであろう、ということが子供にもわかりました。駅前を出ると手賀沼方面めがけて急勾配で土地が下っていくのも当時のままでこの世は長い坂道だけど長さじゃないよ人生は~という昭和の名曲がまたしても脳裏をよぎります。
 ロータリーのど真ん中にある時計台の立つ緑化スペースはすでに当時もありましたが、時計はいたく地味で学校の校舎の外壁の高い所に付いてる大時計のような不愛想なデザインをしておりました。取り囲んでいる灌木は現在のものよりはるかに背丈の低いもので木というより、よく国道の中央分離帯に植栽されている短い草のように見えました。
 北柏駅を訪れたあの日、いきなりバスのりばへ行くのではなくまずはこの駅の窓からぼんやりとロータリーを俯瞰していると、ハンドル操作を誤ったおばさんが運転する車が先の植込みスペースに突っ込む事故を目撃しまして、本当はそちらのゴタゴタ劇の方がバスよりも明瞭に覚えているのですが記憶のまま忠実に思い出すとジェンダー論に立ち入らざるを得ない大人たちの口論も起きていたので今は胸にしまっておきます。

 

 

 

 

 

阪東バスの慈恵医大線はまだ開通前で影も形もなくここには降車専用標柱がぽつねんと立っていました。 
 茨城の岩井市内で見るたびにこれに乗ると水海道とかいう水戸の近くまで連れていかれて家に帰れなくなるのだ絶対乗ってはならん、と一人勝手に恐れ慄いていた関東鉄道バスと東武の共同運行だったパークシティ守谷線も未開通でした。すなわちここに現れるバスは東武しかありませんでした。。
 

 

 駅の北口にある東我孫子車庫ゆきの阪東バスのバス停には関東鉄道の名とともにパークシティ守谷線の痕跡が残っています。
 もしも当時守谷線があったならばわたくしは関鉄バスにも乗って守谷へ行ったかもしれません。なぜなら東武と共同してるのを見れば自分の行動可能圏と認識して、あの変な水色の模様をしたバスに乗っても家に帰ってくることができると思うでしょうから。そして関鉄バスに対するATフィールドにも似た精神的なバリヤは著しく減衰し、別の日には野田市駅から岩井へ東武で行って岩井から水海道まで関鉄に乗って会社の枠を超えた貴重な昭和時代の路線バスの記憶を蓄えることができたでありましょう。これほどまでにわたくしは当時のバス会社のテリトリーをもって自縄自縛していたのです。

 


 東急柏ビレジゆきのダルマ型のバス停も当時すでにあってこれは全くの野ざらしで立っていました。当時から系統が野田出張所管内の柏駅西口~東急柏ビレジ線と同じ「柏14」でそこだけみると柏営業所ではなく野田出張所が担当していたと推定できそうですが当時の車内掲示路線図には全く書かれていなかったし、わたくしがちらちらオタク席から覗き見していた野田出張所の行路表に「北柏駅入口」はあっても「北柏駅」と書いてあるものはただの一度も見たことがないのでなんとも言えません。当時の鉄板に直接インク書きされた時刻表盤は今日のそれとは異なり罫線外には改正日時以外にはせいぜい「東武バス」と社名くらいしか表記しているものがなく管轄している営業所名まで書かれていることなどありません。では同じ東武でありながら異なる営業所の路線が重複しているバス停の時刻表は営業所の枠を超えて鉄板一枚に集約されていたのかというとダイヤ改正が全営業所一斉にあるわけではないので極めてまれであったと思います。ならばと一本のポールに営業所ごとに異なる時刻表板を付けるというやり方もよさそうですがこれは間違いです。時刻表のみならずそのバス停標柱という設備を管理するのはどこの営業所かをきっちりさせなければなりません。
 今試みに野田市にあった専売公社前という運賃区界停留所の姿を思い出してみますと、ここは野田出張所の東宝珠花から来た野田市駅ゆきと境営業所の境車庫から来る野田市駅ゆきがあっていずれも運行は同じ東武鉄道で終点もそこへ至る経路も完全に同一ですが営業所が混在しております。それで丸板に【野12】野田市駅ゆきと書かれた野田出張所が管理する標柱が一本、すぐそばにただ単に野田市駅ゆきと書かれた境営業所が管理する一本と合計2本のバス停が根元の台石を接して密なる状態で並立していました。だからそこから野田市駅ゆきのバスに乗ろうとする人は全く同じ東武バスであるにも関わらず2本どちらの時刻表にも目を通す必要があったわけです。その野12の終点間際の旧関宿町に今もある日枝神社というバス停は上記2つにさらに埼玉から来た春日部出張所の東宝珠花ゆきも入り混じってくるので狭苦しい路肩に3本もポールが並立していました。バス停留所のこのような姿は少なくもこの辺の東武バスエリアでは当たり前のように見ることが可能で橙色した丸い頭が初夏のオレンジ畑のように並んでいる姿は当時のバス通りを彩る風物詩の感がありました。

 


最後の1本がライフタウン循環線で現在とまったく同じロータリー頭端に位置していてまたルーフが設けられていたのは唯一ここだけでした。バス停は背の高い2面式のものがドスっと置かれていて白地に黒文字で「北柏ライフタウン」とあって、下方になんとか不動産だったかなんとか建築だったか赤っぽい文字でそんな企業の広告盤がはめ込まれていました。


時刻表は全て循環路を貫通するものばかりで今日のように途中止まりのものは一つもありません。先回りの書き分けは現行と同じようなやり方だったと思いますが北柏ライフタウン先回りは片仮名など含まない違う停留所の名をもって表していたと思います。

 
途中にある松葉町七丁目というバス停の近くに待機場があって、松葉町七丁目ゆきというものが出来ています。この待機場が小学生当時もあったかどうかちょっと定かではありません。わたくしが高校生になった頃には間違いなくありました。下校中にこの付近を歩いていて敷地内にバスが1台停まっているのを地金堀の川越しに見たことがあるからです。

 


 

現在では北柏駅を出て最初のバス停はこの「竹ノ台」という停留所になっていますがこれはわたくしの記憶には全くなく次の「コープタウン前」が最初だったはずです。始発地を出ていきなり片仮名が出てくるので「あ、この路線はかなり出来たての路線だな」などと思ったのを覚えています。コープタウン北柏と北柏ライフタウンは同じようなところにあって名前もよく似た住宅地ですがバスから降りてきたおばあちゃんつかまえて聞いてみたら似て非なる関係で別物なんだそうです。
 もろもろの記録によれば、北柏ライフタウンは昭和51年住宅都市整備公団によって完成、アクセス手段として完成前から北柏駅への路線バス開通を想定しており、総面積は豊四季団地の約3倍、人口2万超、とのことですが肝心のバスは完成と同時に走り始めたのではなさそうで、ではいつ開通したのか柏市議会議事録を見てもよくわかりません。

 

 

竹ノ台とやらの背後を見るとタケノコではなく河津桜が咲いております。25年半も前にTVで見てたアニメを映画館で見て嬉しがるほどに齢を重ねると桜のよさもわかるようになります。また松ケ崎城跡と書いてあります。
 柏に城があったなど初耳であったので、本格的城郭を期待してさっそく検索してみたところ、戦国時代の小豪族がつくった「館」程度の砦であって竹ノ台という地名も館ノ台が転訛して生まれたのだそうです。大体千葉県のこの辺りは「城」と言われてもこのような風雲たけし城レベルの残念なものが多い。時代劇などを通して培われた我々のイメージするお城、深いお堀の跳ね橋の向こうにしゃちほこ煌めく天守が聳え長槍を携えたヒゲやっこが睨みをきかせて門番に立ち知行何万石とかいう殿様が望遠鏡で城下の町人を見ながら「今日も天下泰平じゃ」と側室を引き寄せて囁くが天井裏には息を殺して潜む怪しい忍びの影・・・そんなステレオタイプな城となるとこの辺じゃ桜、もといっ、佐倉か関宿くらいでしょうな。

 

(『80'柏市勢要覧』)
 と、まあ戯れ言だらけになりましたが、この路線でわたくしがお話しできることは以上のようなものでたいそうなタイトルつけて他に言うことないのかと怒られそうですが、後のことはひとくちで申し上げて当時も今も変わっていないように見えます。まあ柏の葉キャンパスとかいう新駅など存在しておりませんでしたが。
 駅も団地もともにあの時でも数年しか経年していませんから当時からバス停もよく整備されていて場所が移動させられているということもなさそうです。


この鉄塔も変わらずありました。男の子は理由は言えませんが大きさにこだわる生き物。バスから見えるこの鉄塔の足の巨大さに目を奪われたのをよく覚えております。遠い遠い昭和の昔、大人たちが花見の話をし始める春先のよい日のことでした。

ではまた次回。



5 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (a67cd)
2021-04-22 21:29:49
こんばんは🌙😃❗️

ご訪問、リアクションありがとうございます😊

北柏住みです。住んで14年になりますが、まだ北柏駅にエレベーターができる前の写真ですね😊

貴重な写真拝見できて良かったです😉

ちなみに出身は流山です✌️
Unknown (surrender90)
2021-04-22 23:14:45
a67cdさま。
御覧いただいてありがとうございます。昭和の間はエレベーターなんぞありませんでしたね。
高校の頃南口にあったのはシルバーというパチンコ屋、やまさいというスーパーくらいですかね。
あとはもう鋭意開拓中という感じで。まあまだまだ若い街でした。
どうぞ息災にお過ごしを。
Unknown (南栗橋車両管理区荒川支所)
2021-08-19 14:29:33
こんにちわ

大本営から発表が出まして
9/1より“沼南”へ持ち換わるそうです

また
灰毛も9/1から平日だけ運行し土休日は休止だそうです。
Unknown (surrender90)
2021-08-19 18:51:56
南栗橋車両管理区荒川支所さま。
いつもありがとうございます。
今回言われて改めて気づきましたけど北柏駅の南側は高田車庫より沼南車庫の方が近いですね。
今コロナでいろいろな物事が小さくなってきていて
セントラルとイーストが合併してウエストもまた合併せざるを得ないと予想しておりますが
高田車庫と沼南車庫を一緒にすることもあるかなと思ってましたので
沼南車庫に回すのはちょっと意外な気がいたしました。
灰毛もちょっと前までは1時間1本くらいあったはずですが随分退化してしまいました。
セントラルは規模の割には利益率が低かったと思いますが
そんなところと合併したらいよいよ命脈も危うくなってきました。
Unknown (南栗橋車両管理区荒川支所)
2021-08-19 20:37:44
CEは越谷以北を東武本体から切り離し朝日へしましたが
越谷を朝日にしたのは“朝日にも収益出せるエリア”を
持たせるためだったとか…

ウエストも川越・鴻巣付近は収益的に厳しめですから

ただこの時勢柄厳しいのは東武だけじゃないので
他事業者も青息吐息だと思います

https://mikurishakanku.blog.fc2.com/

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。