2024年04月30日
連休? 9-1 “松の木”は知っていた (昭和に生きる)
4月最終日。ゴールデンウイーク中の平日ですが、どのようにお過ごしでしたか。
2019年も10連休となるゴールデンウイークでした。その連休の過ごし方を、大学生に尋ねています。
◇10連休,いかがでしたか?(2019/05/08)
今での大学は、祝日にも授業が入るところも多く、社会人のような連休にはならにようですが、若者には“いつもと違う過ごし方”をして欲しいものです。
故・渥美利夫氏が還暦の年に著した『昭和に生きる』(1987(昭和62)年刊)からです。
渥美氏の教育実践、教育論は、“昔の話”ですが、その“根”そして“幹”となるものは、今の教育に活きるものです。これからの教育を創っていくヒントもあると思います。
この項は、「第四章 ハナノキの下で──教育断想」から構成されています。
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ハナノキの下で──教育断想
4 “松の木”は知っていた
──東郷東小学校前史
いくえにもいくえにも重なり合っている。
そのわずかな平地をぬうように
豊川がひとすじ南へと流れている。
四反田の小川と併行して小高い穂陵が丘が
その背後には雁峯の山々がそそり立っている。
谷間、平地に、民家がはいつくばるように
かたまっている。
村人たちは、ほんとうに肩をよせあうように
くらしていた。
天正の昔、設楽が原に散った武田の武将の祠が
そして村人の墓が、静かにねむっている。
祠や墓をみおろすように
大きな“松の木”が二本たっていた。
明治六年の産声
明治の新政府は、維新後の新しい日本を建設するため「富国強兵」のスローガンに、ヨーロッパの文明に「追いつけ追いこせ」を合言葉に力強い足音とともに歩み始めた。これが新しい日本の夜明けをつげる明け6つの鐘の音であった。
教育政策の一つに、明治5(1872)年大政官布告とともに「学制」が発布された。それをみると新しい日本の教育体制の理想を「必ず邑に不学の戸なく、家に不学の人なからしむことを期す」と声高らかに歌いあげていた。世の中は明らかに、ここで江戸時代から続いていた寺子屋教育に別れを告げて、学校という義務的な教育施設ヘと移りかわり、まがりなりにも近代学校教育の基礎がそこにできあがるのであった。
この新しい「学制」も実際には、明治6(1873)年に発足することとなる。“おらが学校”東郷東小学校の前身、浅木学校が、この世に産声をあげたのも、日本の多くの学校と同じように、今をさかのぽる百余年前の明治6年のことだった。
ひなびた寒村、設楽郡浅木村は慈眼寺に、明治6年9月27日新しい学校が開設されたのである。「第二大学区第九番中学区第六番小学浅木学校」というまことに長ったらしい名称であったけれど、そのいかめしさは、当時の村人を驚かすにはそれで十分であった。
新しい学校は、地形や交通などのことは考えないで、ただ人口割でいくつかの村に一つの学校をおくという、いわば地図上における形式的配置であったから、最初から通学は不可能な村々があったのも当然のことかもしれない。
そのため、各地にひそかに開校するところができたり、それが出張所になり、さらに分校になったり独立したりしたようである。浅木学校からも清井田学校(7年)が独立し、川路学校(8年、草部学校から分離)も新しくできたのである。さらに教育令も明治12(1879)年、13年と改正があったので、学校の存亡の系譜はまことに複雑そのものであった。
(つづく)
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注)これまでの記事は〈タグ「昭和に生きる」〉で
注2)本文内で、縦書き漢数字で書かれている数値を横書きに改めて表記した箇所、年号に西暦を追記したところがあります。
2019年も10連休となるゴールデンウイークでした。その連休の過ごし方を、大学生に尋ねています。
◇10連休,いかがでしたか?(2019/05/08)
今での大学は、祝日にも授業が入るところも多く、社会人のような連休にはならにようですが、若者には“いつもと違う過ごし方”をして欲しいものです。
故・渥美利夫氏が還暦の年に著した『昭和に生きる』(1987(昭和62)年刊)からです。
渥美氏の教育実践、教育論は、“昔の話”ですが、その“根”そして“幹”となるものは、今の教育に活きるものです。これからの教育を創っていくヒントもあると思います。
この項は、「第四章 ハナノキの下で──教育断想」から構成されています。
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ハナノキの下で──教育断想
4 “松の木”は知っていた
──東郷東小学校前史
校長として学校へ赴任すると、わたしは必ずその学校の歴史をていねいに調べることにした。そのおかげで、しばらくすると古いことについて一番くわしくなる──そのことを学区の人たちは見のがさない。それは、やがて学校への信頼として返ってくる。まるい山や、とがった山が
──つぎは、学校文集「かんぼうの子」に連載したものである。
いくえにもいくえにも重なり合っている。
そのわずかな平地をぬうように
豊川がひとすじ南へと流れている。
四反田の小川と併行して小高い穂陵が丘が
その背後には雁峯の山々がそそり立っている。
谷間、平地に、民家がはいつくばるように
かたまっている。
村人たちは、ほんとうに肩をよせあうように
くらしていた。
天正の昔、設楽が原に散った武田の武将の祠が
そして村人の墓が、静かにねむっている。
祠や墓をみおろすように
大きな“松の木”が二本たっていた。
明治六年の産声
明治の新政府は、維新後の新しい日本を建設するため「富国強兵」のスローガンに、ヨーロッパの文明に「追いつけ追いこせ」を合言葉に力強い足音とともに歩み始めた。これが新しい日本の夜明けをつげる明け6つの鐘の音であった。
教育政策の一つに、明治5(1872)年大政官布告とともに「学制」が発布された。それをみると新しい日本の教育体制の理想を「必ず邑に不学の戸なく、家に不学の人なからしむことを期す」と声高らかに歌いあげていた。世の中は明らかに、ここで江戸時代から続いていた寺子屋教育に別れを告げて、学校という義務的な教育施設ヘと移りかわり、まがりなりにも近代学校教育の基礎がそこにできあがるのであった。
この新しい「学制」も実際には、明治6(1873)年に発足することとなる。“おらが学校”東郷東小学校の前身、浅木学校が、この世に産声をあげたのも、日本の多くの学校と同じように、今をさかのぽる百余年前の明治6年のことだった。
ひなびた寒村、設楽郡浅木村は慈眼寺に、明治6年9月27日新しい学校が開設されたのである。「第二大学区第九番中学区第六番小学浅木学校」というまことに長ったらしい名称であったけれど、そのいかめしさは、当時の村人を驚かすにはそれで十分であった。
新しい学校は、地形や交通などのことは考えないで、ただ人口割でいくつかの村に一つの学校をおくという、いわば地図上における形式的配置であったから、最初から通学は不可能な村々があったのも当然のことかもしれない。
そのため、各地にひそかに開校するところができたり、それが出張所になり、さらに分校になったり独立したりしたようである。浅木学校からも清井田学校(7年)が独立し、川路学校(8年、草部学校から分離)も新しくできたのである。さらに教育令も明治12(1879)年、13年と改正があったので、学校の存亡の系譜はまことに複雑そのものであった。
(つづく)
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注)これまでの記事は〈タグ「昭和に生きる」〉で
注2)本文内で、縦書き漢数字で書かれている数値を横書きに改めて表記した箇所、年号に西暦を追記したところがあります。
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