みこころネット

ファチマ・クルセーダー、昔のカトリック書籍などを掲載します。

ファチマの聖母 1 三上茂

2017-09-28 11:44:28 | ファチマの聖母(紹介)
今から82年前1915年以来、ポルトガルのファチマで起こった歴史的事実についてFrere Michel de la Sainte TriniteのThe Whole Truth about Fatima(tr.from French into English by John Collorafi)を参考にして若干のことを述べ,いくらかの私見も加えてみたいと思います。

天使の出現

1915年

4月から10月の間にルシア・ドス・サントスとその友人 たちは3回天使の出現を受けました。昼食の後ロザリオの祈りを唱えているときに雪でできた像のような白く光り輝く天使の姿を見ました。彼女は最初それを 「紙で巻かれた人物のようでした」と言っています。ルシアは家族にこのことを話しませんでしたが、友人の話から噂が広まり、ルシアはこのことについて母親 から詰問されています。その後2回天使は出現しましたが、この年には天使からのメッセージはありませんでした。

1916年

この年はルシアは友人とではなく、いとこのフランシスコ とジャシンタと共に羊の放牧に出かけることになりました。フランシスコとジャシンタがルシアと一緒に行くことを望んだからです。小さな羊飼いたちは春、 夏、秋に3回天使の出現を受けました。天使は彼らに3回共メッセージを伝えました。

第1回目の出現

3人の羊飼いの子どもたちはカベソの東斜面で羊の番をしていました。昼食後ロザリオを唱えた後で、遊びを始めたとき、「雪よりも白い」14,5歳くらいの少年の姿をオリーブの木の上に見ました。彼は三人の子どもたちにこう言いました。

- 私と一緒に祈りなさい。-

子どもたちは驚いて声も出ませんでした。天使は続けてこう言ました。

-恐れないで。私は平和の天使です。私と一緒に祈りなさい。-

天使は地面に跪き、額が地につくまで身を屈めました。そしてこう祈りました。

-私の神よ、あなたを信ぜず、崇めず、希望せず、愛しない人々のために私はあなたを信じ、崇め、希望し、愛します!-

天使はこの祈りを3回繰り返した後、立ち上って彼らに言いました。

-このように祈りなさい。イエズスとマリアの御心はあなたがたの嘆願の声に注意を払っておられます。-

第2回目の出現

夏の盛り、3人の羊飼いの子どもたちは暑さを避けて木陰で昼寝をしようとしていたとき、天使が現れてこう言ました。

-何をしているのですか?もっともっと祈りなさい!イエズスとマリアの御心はあなたがたの上に憐れみのご計画を持っておられます。いと高き御者に絶えず祈りと犠牲を捧げなさい。-

ルシアはどのように犠牲を捧げればよいのかと尋ねました。天使はルシアにこう答えました。

-あなたがたができるすべてのことを犠牲とし、それを神に背く罪の償いの行いとして、また罪人の回 心を嘆願して神に捧げなさい。あなたがたはこのようにして自分たちの国に平和をもたらすでしょう。私はあなたがたの国の守護の天使、ポルトガルの天使で す。特に主があなたがたにお与えになる苦しみを従順に受け入れ、忍びなさい。-

第3回目の出現

9月の終わりか10月に、3人の羊飼いの子どもたちはカ ベソの丘の東斜面で羊に草を食べさせていました。昼食後、彼らは丘の反対側の斜面で、第1回目の出現で天使から教えられた祈りを、跪き、額を地につけなが ら何度も繰り返していました。そのとき、異常な光が彼らを照らし、彼らはカリスを持った天使を見ました。カリスの上には御聖体があって、それから血がカリ スの中に滴っていました。空中にカリスを浮かせたままにして、天使は子どもたちの側に跪き、彼らにもそうさせて、次の祈りを3回唱えました。

-いとも聖なる三位一体、父と子と聖霊よ、私はあなたに、世界のすべての祭壇の中に現存されている イエズス・キリストのいとも尊い御身体、御血、霊魂と神性を、イエズス・キリスト御自身が背かれておられる冒涜、侮辱、無関心を償うために、捧げます。イ エズス・キリストのいとも聖なる御心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳を通して、私はあわれな罪人の回心をあなたにお願いします。-

それから天使は立ち上がり、カリスと御聖体を手に取って、御聖体をルシアに、カリスの御血をジャシンタとフランシスコに与えて、こう言ました。

-恩知らずの人々によって恐ろしく冒涜されたイエズス・キリストの御身体と御血を受け、飲みなさい。-

天使は再び地にひれ伏し、子どもたちと一緒に先ほどの祈りを3回唱え、それから消えました。子どもたちはそれから数日間、神が彼らの中におられるのを強く感じていました。

この天使のメッセージはシスター・ルシアによって、1937年に彼女の第二の手記において詳しく述べられましたが、1916年に子どもたちに宛てて述べ伝えられたばかりでなく、現代の私たちに宛てて伝えられたと考えることができます。



聖母の御出現

第1回目の御出現:1917年5月13日(日曜日)

この日、三人の小さな羊飼いたちは、早ミサに与った後、ルシアの両親が所有しているコヴァ・ダ・イリアと 呼ばれる土地で羊に草を食べさせるために出かけましたが、ゆっくりと羊に草を食べさせながら行ったので、そこに着いたときにはほとんど正午ちかくになって いました。昼食の後、ロザリオを唱えてから、彼らは丘の上の方に移動し、遊びを始めました。突然彼らは閃光と思われるものを見ました。閃光の後には雷鳴を 伴う暴風雨が来ることを経験的に知っていた彼らは急いで家に帰った方がよいと考えて移動を始めました。丘の途中のウバメガシの木のところまで降りて来たと き、彼らはその小さな木の上に全身を白い衣装に身を包んだ貴婦人を見ました。ルシアの表現によれば、その貴婦人は「太陽よりももっと明るく、キラキラ輝く 水で満たされた水晶のコップよりも透明で強い光線を発していました」。彼らはその貴婦人と距離があまりにも近かったので、彼女を取り巻いている、あるいは 彼女から発散している光の中に浸されていました。その貴婦人は彼らにこう言われました。

-恐れないで。私はあなたがたに害を加えませんから。-

ルシアはどこから来られたのですかと尋ねました。

-私は天からの者です。-

-あなたは私に何をお望みですか?-

-これから続けて6ヶ月の間13日に、同じ時間にここに来ることを求めるために来ました。後に、私が誰であり、何を望んでいるかを言いましょう。後になって、7度目にもここに戻って来るでしょう。-

-私は天国に行けるでしょうか?-

-ええ、行けます。-

-では、ジャシンタは?-

-彼女も行けます。-

-フランシスコも?-

-彼も天国へ行くでしょう。しかし、彼はロザリオをたくさん唱えなければならないでしょう。-

ルシアは先に亡くなった友だちのことについて尋ねました。

-マリア・ダス・ネヴェスは天国にいますか?-

-ええ、います。-

-では、アメリアは?-

-彼女は世の終わりまで煉獄にいるでしょう。-

それから、貴婦人はルシアにこうお尋ねになりました。

-あなたは、神に背く罪の償いと罪人たちの回心への嘆願の行いとして、喜んであなた自身を神に捧げ、神があなたにお与えになるすべての苦しみを耐えますか?-

-はい、喜んで。-

-それでは、あなたは多く苦しむことになるでしょう。しかし、神の恩寵があなたの慰めとなるでしょう。-

聖母はこう言われて、初めて両手を拡げられ、彼女の手から非常に強い光を三人の子どもたちに放射されまし た。彼らは跪き、心の中で「おお、いとも聖なる三位一体よ、私はあなたを賛美します!わが神よ、わが神よ、私はいとも祝せられた秘蹟においてあなたを愛し ます!」という祈りを繰り返し唱えました。しばらくして、聖母は再び語られました。

-世界平和と戦争終結がもたらされるように毎日ロザリオの祈りを唱えなさい。-

ルシアはこう尋ねました。

-戦争が長い間続くのか、それとも間もなく終わるのか、私に教えてくださることができますか?-

-そのことはまだあなたに教えることはできせん。というのは、まだ私が何を望んでいるかを言っていませんから。-

そう言われて、聖母は東の方角へと天に昇って行かれました。聖母の御出現は10分間ほど続きました。

この御出現において、特徴的なことは、三人の子どもたちのうち、フランシスコは聖母の姿を見ることができ ましたが、聖母の御言葉を聴くことができなかったということ、ジャシンタはすべてを見聴きすることができましたが、彼女自身聖母に話をすることはなかった ということです。ルシアだけが聖母と話すことができました。その彼女は唯一の生き証人として、現在もスペイン・コインブラのカルメル会修道院にいます。聖 母の御出現があった1917年にルシアは10歳、フランシスコは9歳、ジャシンタは7歳でした。彼らは当時の状況として、まだ読み書きができませんでし た。上に述べて来たことは、ルシアが学校に行って読み書きができるようになり、修道院に入ってから書いた第四の手記(1941年トゥイの修道院で)に基づ く記述です。しかし、御出現そのものについては、ジャシンタがその日に母親をはじめ、家族に聖母を見たことを告げて、表面化し、ファチマ教区司祭のフェレ イラ神父によって、御出現の翌日には子どもたちに対する厳しい尋問が行われ、記録されていますから、以後の御出現でも同じように、その翌日には記録を取ら れているということです。もちろん、子どもたちには直ぐに他人には明かしてはならない秘密もありましたから、尋問の時にはためらいや答えられないことも あったでしょうが、三人の証言は核心部分において一致し、以後の御出現において、客観的な現象が多数の人々によって確認されてゆくことになります。

第2回目の御出現:1917年6月13日(水曜日)

6月13日は聖アントニオの祝日で、聖アントニオはファチマの守護の聖人であると同時にポルトガルの国家 的守護の聖人でも・りました。ルシアの母親はこの大祝日がルシアたちに聖母の御出現のことを忘れさせてくれることを期待していました。しかし、子どもたち にとっては聖母との約束を違えることなぞ論外のことであり、もちろんコヴァ・ダ・イリアへ行くことにしていました。
コヴァ・ダ・イリアでは、近隣の村から御出現の噂を聞いた人々が約五十人ほど集まっていました。ファチマの教区からはマリア・カレイラ以外にはほとんど来ていませんでした。
ジャシンタ、フランシスコ、ルシアがロザリオの祈りを唱え終わったとき、彼らは近づいて来る光のひらめきを見ました。次の瞬間に彼らは5月のときと同じウバメガシの木の上に聖母を見ました。
ルシアが尋ねます。

-あなたは私に何をお望みですか?-

-あなたが来月の13日にここに来ること、毎日ロザリオの祈りをすること、読み書きの勉強をすることを望みます。後で、私が何を望んでいるかを言いましょう。-

ルシアが一人の病人の癒しをお願いすると、聖母はこう言われました。

-もし彼が回心するならば、今年の間に癒されるでしょう。-

ルシアは自分たちを天国に連れて行ってほしいとお願いしました。聖母はこう言われました。

-ええ、私はジャシンタとフランシスコをまもなく連れて行くでしょう。しかし、あなたはそれよりも 少し長く地上にとどまらなければなりません。イエズスは人々に私を知らせ、愛させるためにあなたを使うことを望んでおられます。イエズスはこの世界に私の 汚れなき御心への信心を打ち立てることを望んでおられます。この信心を実行する人に私は救いを約束します。これらの人々の霊魂は神の玉座を飾るために私に よっておかれた花のように、神にとって大切なものです。-

ルシアは悲しくなって、自分だけ一人で地上にとどまらなければならないのですかと聖母に尋ねます。

-いいえ、娘よ、あなたはたくさん苦しんでいますか?気を落とさないでください。私は決してあなたを見放しません。私の汚れなき御心はあなたの避難所であり、あなたを神へと導く道であるでしょう。-

こう言われた後、聖母は両手をお広げになり、三人の子どもたちにおびただしい光線の束をお注ぎになりました。ルシアの言葉によれば、彼らはいわば「神の中に浸された」かのようでした。彼らはそのとき聖母の汚れなき御心を見ました。ルシアの言葉によればこうです。

「聖母の右の手の前に茨によって取り囲まれた心臓があって、それを茨が突き刺していました。私たちはこれがマリアの汚れなき御心であり、人間の罪によって踏みにじられ、償いを求めておられるということを理解しました。」

ルシアが後に(1927年)語ったところでは、このマリアの汚れなき御心のことは聖母から秘密を守るよう に言われたことではなかったけれども、神によってそうするように動かされていると感じたということのようです。御出現の後、子どもたちは聖母のメッセージ について明かすように迫られたとき、最初は月の13日に御出現の場所に行くこととロザリオの祈りを毎日唱えることの2点だけを明かしていましたが、他にな いかとさらに問いつめられて嘘を言わないために、「聖母はあることを言われましたが、それは秘密です」と答えざるを得ませんでした。1916年の天使の第 2回目の出現のときに天使が語った「イエズスとマリアの御心はあなたがたの上に憐れみのご計画を持っておられます」という言葉はそのときには、子どもたち にはよく理解できませんでしたが、聖母のこの第2回目の御出現でその意味が少し明らかにされたのです。

この日、御出現に立ち会った50人ほどの人々は不思議な現象をいくつか経験しています。ファチマ教区のマ リア・カレイラはルシアが聖母が去って行かれると叫んだときに、ロケットのような音がしたと証言しています。また聖母が東の方角に去って行かれるときに、 木の枝が東の方へとなびいた、小さな雲が東の方角へ向かって上って行った、聖母が御出現になったウバメガシの木のてっぺんの若枝が人が乗ったように傾いた という証言もありました。最初の巡礼者となった彼らは村に帰り、自分たちの経験した不思議なことを人々に語ります。このようにして、次の7月13日の御出 現にはもっと多くの人々が集まることになります。

第2回目の御出現の後、ルシアはファチマ村において不信の嵐にさらされることになります。マリア・カレイ ラを除いてほとんどのファチマの人々は御出現を信じませんでした。ルシアの母親、マリア・ロサやルシアの姉妹たちもルシアの言うことをまだ信じていません でした。教区司祭フェレイラ師はフランシスコ、ジャシンタ、ルシアの順番に質問をしました。フランシスコは神父の問いに答えられることを全部答えました が、ジャシンタは何も言いませんでした。ジャシンタはルシアが神父の質問に答えている間ロザリオの祈りを唱えていました。三人の質問の後、主任神父のフェ レイラ師は「これは全部悪魔の発明だ」という宣告をくだしました。あまりにも静かに言い渡されたこの宣告はルシアを暗闇の中に突き落としました。ルシア自 身、悪魔のせいかもしれないという疑念にさいなまれます。ルシアはこの疑念をジャシンタとフランシスコに打ち明けますが、彼らはそのことを否定し、ルシア を励まします。「悪魔は醜いけれど、私たちが見たあの貴婦人はあのように美しかった。私たちはあの方が天に昇って行かれるのを見ました」と。しかし、ルシ アは悪魔が彼女を欺く夢をさえ見て、疑いの暗闇から解放されることなく、いとこたちから身を隠すまでになりました。10歳の少女ルシアは教区の司祭と母親 という二つの権威ある存在から信じて貰えず、ついには約束したコヴァ・ダ・イリアへはもう行かない決心をします。ルシアはジャシンタとフランシスコにこの 決心を告げます。彼らは泣いてルシアのこの決心を翻すように頼みますが、ルシアの決心は変わりませんでした。ルシアが後でジャシンタに聞いたところでは、 ジャシンタはルシアの決心を聞いた夜、一晩中眠らずに泣きながら聖母に、ルシアが一緒に行くように祈ったということです。



第3回目の御出現:1917年7月13日(金曜日)

約束の第3回目の日になり、ルシアはほとんど抵抗できないある力に促されて、突然行かなければならないと 感じました。彼女がいとこたちの家に行くと、フランシスコとジャシンタは寝台の側に泣きながら跪いていました。ルシアが出かけないのかと尋ねると、彼らは ルシアと一緒にでなければ行かない、一緒に行こうと言いました。ルシアが一緒に行くと言うと、彼らの顔は喜びに輝きました。彼らは一緒に出かけましたが、 途中で群衆が待ち受けていて思うようにコヴァ・ダ・イリアに近づけませんでした。マリア・ロサはジャシンタとフランシスコの母親オリンピア・マルトと一緒 に、何が起こるかを見るために、人目につかないように身を隠しながら、彼らから遠く離れてついて行くことにしました。ティ・マルトは三人の子どもたちの側 にいました。ルシアがロザリオの祈りを先唱し、群衆がその後を続けました。人々は日差しをよけるために日傘をさしていましたが、聖母の御出現の時刻になっ たとき、ルシアは「傘をすぼめてください。聖母がおいでになりました!」と叫びました。

ルシアが尋ねます。

-あなたは私から何をお望みですか?-

-あなたがたが来月の13日にここに来ること、世界のために平和を得、戦争を終わらせるために、ロザリオの聖母をたたえて毎日ロザリオの祈りを続けることを望んでいます。なぜなら、ただロザリオの聖母だけがあなたがたを助けることができるからです。-

-私はあなたがどなたであるかを私たちに教えてくださること、そしてあなたが私たちに御出現になっていることをすべての人が信じるように奇蹟を行ってくださることをお願いしたいのです。-

-毎月ここに来続けなさい。10月に、私が誰であるか、何を望んでいるかをあなたがたに教えます。そしてすべての人のために見て信じるように一つの奇蹟を行います。-

ルシアはあることを聖母にお願いしましたが、聖母はそれに対して恩寵をその年の内に得るためにはロザリオを祈る必要があるとお答えになりました。聖母はそしてこう続けられました。

-罪人のためにあながた自身を犠牲として捧げなさい。そして何度も、特に何か犠牲をするときにはこう言いなさい。おお、イエズスよ、これはあなたのため、罪人の回心のため、そしてマリアの汚れなき御心に対して犯される罪の償いのためです、と。-

聖母がこう言われた後、5月、6月の時と同じように、三度目に両手を拡げられました。強い光線が地上を貫 き、その中で彼らは一瞬の間でしたが、火の海のような地獄を見せられました。悪魔、人間の形をした霊魂たちが絶望と苦悶のうちに透明な火の固まりとなって いました。ルシアが恐怖のあまりに叫んだ声を周りにいた人々が聞いています。三人は救いを求めるかのように聖母を見ました。そのとき、聖母はこうおっしゃ いました。

-あなたがたは哀れな罪人たちが行く地獄を見ました。彼らを救うために、神は世界の中に私の汚れな き御心に対する信心を打ち立てることを望んでおられます。私があなたがたに言っていることがなされるならば、多くの霊魂が救われ、平和が来るでしょう。戦 争は終わるでしょう。しかし、人々が神に背くことを止めないならば、ピオ十一世の御代の間にもっとひどい戦争が起こるでしょう。未知の光によって照らされ る夜を見るとき、これが神によってあなたがたに与えられる大きなしるしであるということを知りなさい。神は戦争、飢饉、教会と教皇の迫害によって世界をそ の罪のために罰しようとしておられるのです。-

-このことを避けるために、私は私の汚れなき御心へのロシアの奉献と、初土曜日の償いの聖体拝領を 求めるために来るでしょう。もし私の要求が顧みられるならば、ロシアは回心し、平和が来るでしょう。もしそうでないならば、ロシアは戦争と教会の迫害を引 き起こしながら、その誤謬を世界中に広めるでしょう。善い人々は殉教し、教皇は多く苦しみを受け、さまざまの民族が絶滅させられるでしょう。-........(ここに第三の秘密と言われる部分が来ますが、この部分はいまだに公開されていません。)

-最後に、私の汚れなき御心は勝利するでしょう。教皇は私にロシアを奉献するでしょう。そしてロシアは回心し、ある期間の平和が世界に与えられるでしょう。-
-ポルトガルでは信仰の教義が常に保たれるでしょう。このことを誰にも言ってはいけません。フランシスコには、ええ、言ってもよいです。-

-ロザリオの祈りを唱えるとき、各玄義の後にこう言いなさい。おお、わがイエズスよ、私たちの罪を赦し、私たちを地獄の火から守ってください。すべての人々、ことに最も御憐れみを必要としている人々を天国へ導いてください。-

ルシアが最後に「何かもっと私にお望みのことがありますか?」と尋ねると、聖母はこう言われました。

-いいえ、今日はそれ以上何も望んでいません。-

この3回目の御出現に立ち会った人々の数は800人くらいという報告から1000人、1000人以上、中には2000人という報告まであり、一致していません。しかし、いずれにせよ、前回の50人を大幅に上回る人々が集まったことは確かです。

1917年の6回の御出現のうち、この第3回目の御出現の持つ意味はいちばん大きいと思われます。聖母は 3ヶ月も前に、10月13日に人々が見て信じるように大奇蹟を起こすことを預言されました。これは、ルルドのベルナデッタがやはり聖母に奇蹟をお願いした のと同じように、ルシアが聖母の御出現を信じない人々のために起こしてくださいとお願いし、聖母がお応えになったものです。ただし、ルルドの場合には、聖 母はベルナデッタが教区司祭ペイラメール師の助言に従って、御出現の場所であるグロット(洞窟)のバラの茂みに花を咲かせてもらうようにお願いし、聖母は それに微笑んでお応えになっただけでしたが、ファチマでは正確に日時を定めて、立ち会うすべての人々の前で、彼らが「見て信じるように」なる奇蹟を行うと いう公開の約束をされたのです。

聖母の3回の御出現の後、ルシアの母親のマリア・ロサはルシアにさらにつらく当たります。ある日彼女はル シアを呼んで、これから司祭のところへ連れて行くから、「これまで嘘を言っていました。ごめんなさい」と謝りなさいと命じます。マリア・ロサがジャシンタ の家に立ち寄ったときに、ルシアはジャシンタにそのことを伝えます。ジャシンタとフランシスコはルシアのために、以前に天使に出会った井戸の側でルシアの ために祈っていると言います。司祭館に着いたとき、母親はルシアに説教をしますが、ルシアは「お母さん、私は実際に聖母を見たのに、どうして見ていないと 言うことができるでしょうか?」と言います。母親はそれに対して、「私が望んでいることはおまえが本当のことを言うことです。もし見たのなら、見たとおっ しゃい。でも、見なかったのなら、嘘を言っていたとお認めなさい」と言いました。司祭はルシアに親切に、礼儀正しく接し、彼女の話が矛盾していないかどう か、いろいろ質問しました。結局、司祭はルシアの話に矛盾点を見出せずに、肩をすくめて「どうしてよいのか私には分からない」と言いたげに、彼女を放免し ました。帰宅途中にルシアが井戸のところに行くと、フランシスコとジャシンタが跪いて祈っていました。ジャシンタは彼女に駆け寄って、「何も怖がることは ないわ、マリア様がいつも助けてくださるわ」と言いました。

7月13日以来、コヴァ・ダ・イリアには好奇心の強い人たち、信仰心を持った人々が大勢やってきてロザリ オの祈りを唱えるようになりました。マリア・ロサはますますルシアにつらく当たりますが、ルシアは決して母親を恨んだり、憎んだりしませんでした。彼女は それは主イエズス・キリストの特別な恵みだったと、後になって述懐しています。天使の第2回目の出現の時に言われた「特に主があなたがたにお与えになる苦 しみを従順に受け入れ、忍びなさい」という勧めの中にルシアは神の御手を見ていたのでした。

公権力の介入:1917年8月10日(金曜日)から8月15日(水曜日)まで

ファチマの聖母御出現の問題はもはや教会内の問題や三人の子どもたちの問題ではなくなってきました。何千 人もの人々が集まり出したからでしょう。ここに、公権力が介入して来ます。当時のポルトガルは自由主義的思想傾向が強く、フリーメーソンの考え方が政治と マスコミを支配していました。ブリキ屋というニックネームを持つアルトゥール・デ・オリヴェイラ・サントスは30歳の若さでヴィラ・ノヴァ・ダ・オウレム 地区の行政官でした。「オウレムの声」という新聞まで持っていました。 その新聞は反王権的、反聖職的な旗印をかかげていました。オリヴェイラ・サントスは自由と民主主義の名の下にファチマの御出現によって起こされた大衆の信 心を押しつぶそうと目論んだわけです。

8月10日にジャシンタとフランシスコの父親、マヌエル・マルトとルシアの父親アントニオ・ドス・サント スは8月11日正午に子どもたちを伴ってヴィラ・ノヴァの町役場に出頭せよという通知を受け取りました。町役場まではかなりの距離があって、マルトは子ど もを連れずに出かける決心をしますが、アントニオの方はルシアを連れて出かけました。ルシアはロバの背に乗せられて行きましたが、途中で三度もロバの背か ら落ちました。マルトは郡長オリヴェイラ・サントスから子どもたちを連れてこなかったことで激しく非難されました。ルシアは皆のいる前で郡長からいろいろ と質問され、聖母から告げられた秘密を明かし、コヴァ・ダ・イリアには二度と行かない約束をするように、脅迫さえされました。ルシアはこれらの苦しみを神 さまへの愛のため、罪人たちの回心のための犠牲として捧げました。夜になって、戻されたとき、ルシアが例の井戸のところに行くと、ジャシンタとフランシス コが井戸の縁によりかかり、跪いて祈りながら、激しく泣いていました。彼らはルシアが郡長によって殺されたとルシアの姉から聞かされていたのでした。

このようにして、ルシアは始めて当局からの迫害を受けたのですが、それは迫害の始まりでしかありませんで した。8月12日、聖母御出現の日の前日に大群衆が方々から集まり始めました。あらゆる種類の車、自転車、自動車、馬車等々が道路にひしめきます。8月 13日(月曜日)の朝、9時に郡長のオリヴェイラ・サントスはマルト家に来て、子どもたちに会いたいと言います。子どもたちをファチマまで馬車に乗せて行 きたいというのです。子どもたちはその必要はないと言いますが、群衆にじゃまをされないために馬車に乗って行く方がよいと郡長は頑張ります。結局、アント ニオが子ども三人を歩いて連れて行くことになりました。しかし、郡長は司祭館まで行き、そこでフェレイラ神父と会い、神父がルシアに質問することを納得さ せます。ルシアはここでも、聖母を見、メッセージを受けた事実を主張します。しかし、郡長の目論見は別のところにありました。彼は司祭館から子どもたちを 連れ出して、御出現の場所であるコヴァ・ダ・イリアに行かせないことを企んでいたのです。フェレイラ神父の質問の後、郡長は馬車の中に子どもたちを乗せ、 コヴァ・ダ・イリアに行くと見せかけて、方角を変え、馬に鞭を与えました。ルシアは方角が違うと抗議しますが、郡長はまずオウレムに行って司祭に会い、そ れから自動車でコヴァに行くのだと嘘を言います。途中で群衆は子どもたちが郡長の馬車に乗せられて連れ去られるのを見ましたが、郡長は子どもたちを見えな いようにするために彼らに敷物を被せています。1時間か1時間半ほどして、彼らはコヴァにではなく、郡長の家に到着します。これはまさに権力者による子ど もの誘拐です。到着すると、彼らは一室に監禁され、秘密を明かすまでは出さないと言われます。しかし、昼には郡長夫人、セニョーラ・アデリーナ・サントス が彼らを親切に遇し、昼食にごちそうを出し、食後には自分の子どもたちと遊ばせたり、絵本を与えたりしています。夫のやり口を償うつもりだったかも知れま せん。

8月13日、聖母との約束の日に三人はコヴァ・ダ・イリアに行くことは結局できませんでした。郡長はそこ では何事も起こらず、すべてが失敗に帰するであろうと考えていました。しかし、コヴァ・ダ・イリアでは三人がいないにもかかわらず、巡礼者たちには聖母が おいでになったと思われる出来事が起っていました。この日の巡礼者は1万8000人から2万人くらいいたと言われています。御出現の木、ウバメガシのまわ りを取り囲んだ群衆は祈りを始め、聖歌を歌いました。しかし、子どもたちはやって来ず、皆は我慢できなくなり始めました。そのとき、ファチマから人が来 て、郡長が子どもたちを誘拐したと告げました。人々が一斉にしゃべり始め、何が起こるかわからないような雰囲気になったとき、雷が轟きわたりました。中に は泣き出す人もいました。その後で稲光がしました。そしてあのウバメガシの上に真っ白な小さい雲がしばらく止まり、それから上の方へと上がり、やがて消え ました。人々の顔や衣服、木々の葉が虹のすべての色に次々と染まりました。葉は花のように見えました。それは聖母マリアがご自分の現存をお示しになるため に、雷鳴と稲光と虹というすべての人に見え、聞こえるしるしを与えられたと考えられます。モンテロ村のマヌエル・ゴンサルヴェスは多くの異常なしるしが あって、そこ居合わせたすべての人がそれを見た、と証言しています。人々はお互いに聖母がおいでになったのだと言い合いました。このようにして、郡長の目 論見は逆の結果を生むことになったのです。

翌日、8月14日は三人の子どもたちにとってはもっと苦痛な日でした。郡長は何としてでも子どもたちから 秘密を聞き出そうと思っていました。彼は子どもたちの裏にきっと聖職者たちの陰謀が隠されていると読んだのでしょう。まず、柔軟路線で始めます。最初は老 婦人を使って子どもたちから聞き出そうとしましたが、うまく行きませんでした。今度は郡長自らが子どもたちをひとりづつ呼んで、お金や金の鎖のついた時計 を餌にしながら、何とか秘密を明かさせようとしましたが成功しませんでした。子どもたちの間でのお互いの矛盾をつくことも試みましたが駄目でした。この 日、郡長は子どもたちのヒステリーか幻覚を見つけて貰うために、レイリアから医師のアントニオ・ロドリゲス・デ・オリヴェイラを呼んでいます。医師は子ど もたちにいくつかの質問をし、医学検査をしていますが、異常を見つけることはできなかったようです。午後、郡長は強硬方針に切り替えます。彼らを恐怖の中 に陥れることによって口を割らせようとしたわけです。それから、彼は彼らを強盗や他の囚人たちのいる監獄に入れました。母親から引き離され、囚人と一緒の 監獄に閉じこめられた子どもたちの不安はどれほどだったでしょう。ジャシンタは激しく泣きました。フランシスコがこう言って妹を慰めました。「この苦しみ を罪人たちの回心のために捧げよう!」と。

その後、彼らはもう一度、別々に質問されました。それから、また一緒に別の部屋に移され、順番に生きたま ま煮えたぎる油の中に入れられる、と告げられました。彼らは本気で殉教を考えました。ジャシンタにとって両親に、特に母親に会えないまま死ぬことは大変悲 しいことでした。三人は7月13日に聖母が教えられた祈りを唱えました。「おお、私のイエズスよ、これはあたの愛のため、罪人の回心のため、そしてマリア の汚れなき御心に対して犯される罪の償いのためです。」それから、囚人たちと一緒にロザリオの祈りを唱えました。まず最初にジャシンタが牢番から呼び出さ れ、油で揚げられたくなければ、秘密を明かせと言われて、連れ去られます。フランシスコはジャシンタのためにアヴェ・マリアを唱えます。次ぎにフランシス コが、そして最後にルシアが連れて行かれます。結局、彼らは誰も秘密を明かしませんでしたので、郡長は三度目の脅迫として、今度は三人を一緒に釜ゆでにす ると言います。それも効を奏しませんでした。郡長の目論見はことごとく失敗しました。

翌8月15日、最後の尋問をした後で、郡長は子どもたちをファチマに連れて帰らざるをえませんでした。彼 らがファチマに到着したとき、聖母マリアの被昇天の大祝日ミサがちょうど終わったところでした。郡長は子どもたちを司祭館の入り口に置いて、居酒屋へと逃 げ込みます。教区司祭のフェレイラ師はこのとき人々から郡長とぐるになっていたのではないかと疑われて、身の潔白を主張する声明を発表しています。フェレ イラ師のこの声明は聖母御出現の出来事に大きなインパクトを与え、次の9月13日の御出現の日にもっと多くの巡礼者たちをコヴァ・ダ・イリアに呼び寄せる ことになります。

ヴァリニョスにおける聖母の第4回目の御出現:1917年8月19日(日曜日)

三人の羊飼いの子どもたちは日曜日のミサの後、ロザリオ の祈りを唱えるためにコヴァ・ダ・イリアへ出かけました。午後には、ルシアとフランシスコはフランシスコの兄のジョンと一緒に羊に草を食べさせるために ヴァリニョスに行きます。ヴァリニョスはアルジュストレルとカベソの丘の中間にあるところです。ここで、予期していなかった聖母の御出現がありました。ル シアは、聖母の御出現が近いことを直感して、ジョンにジャシンタを呼びに行ってほしいと頼みます。ジャシンタが御出現に立ち会えないと悲しむと思ったから です。しかし、ジョンも聖母の御出現を見たかったので、その場に残りたいと思いました。ルシアはポケットにあった2枚の硬貨をジョンにまず1枚あげるか ら、ジャシンタを呼んで来てほしい、戻ってきたときにもう1枚をあげると言いました。ジョンは大急ぎで走り去り、ジャシンタを連れて戻って来ます。しばら くして、ルシアとフランシスコが例の稲光を見たとき、ジャシンタが駆けつけ、一本のウバメガシの上に聖母が御出現になりました。ルシアは聖母に尋ねます。

-私から何をお望みになりますか?-

-13日にコヴァ・ダ・イリアに引き続き行くこと、毎日ロザリオの祈りを続けることを望みます。最 後の月に私はすべての人が信じるように一つの奇蹟を行います。あなたがたが町へ連れて行かれることがなかったならば、その奇蹟はもっと大きなものとなるは ずでした。聖ヨゼフが世界に平和を与えるために、幼子イエズスを連れていらっしゃるでしょう。私たちの主は人々を祝福なさるために来られます。ロザリオの 聖母と悲しみの聖母も来られます。-

-人々がコヴァ・ダ・イリアに残して行ったお金で何をすることをお望みになりますか?-

-二つの駕籠を作らせなさい。一つの駕籠はあなたとジャシンタ、それに他の二人の少女が白い衣装を 着て、もう一つの駕籠はフランシスコと他の三人の少年が担ぐのです。駕籠からのお金はロザリオの聖母の祝日のためのものです。そして残りのお金はここに建 てられなければならない聖堂の建設に役立つでしょう。-

-ある病人を癒していただきたいのですが....-

-ええ、今年のうちにそのうちの何人かの人々を癒しましょう。-

それから聖母は悲しそうにこう言われました。

-祈りなさい。たくさん祈りなさい。そして罪人たちのために犠牲を捧げなさい。多くの魂が、彼らのために犠牲を捧げたり、祈ったりしてくれる人を持っていないからです。-

こう言って聖母はいつものように東の方角へと上って行かれました。

この日の御出現は三人のほかにはジャシンタとフランシスコの兄弟であるジョンだけが立ち会う御出現でし た。彼が母親に語ったところによれば、三人が跪いて祈り、ルシアが話しているのを彼は聞いていますが、もちろん聖母を見ることも聞くこともできませんでし た。聖母が去られるとき、彼は銃声のようにはじける雷鳴を聞いています。

御出現の後、フランシスコとジャシンタは聖母が上におられたウバメガシの枝を一本を折り取って大切に家に 持って帰りました。帰宅するとジャシンタがヴァリニョスで聖母を見たと母親のオリンピアに報告します。母親はジャシンタに「いつになったらその嘘は終わる のかね。行くところではどこででもお前はマリア様を見るのだね」と皮肉を言います。ジャシンタは取って来た枝を母親に見せます。その枝からはえもいわれぬ よい香りがしました。母親はよい香りがするけれども、バラの香りではないし、何の香りかわからない、と言いました。父親のティ・マルトは同じように、何と も表現できないよい香りをその枝からかぎますが、妻のオリンピアとは違いジャシンタの言葉をますます信じるようになりました。



第5回目の御出現:1917年9月13日(木曜日)

9月13日の夜明けにファチマに向かう道路は大混雑をしていました。人々はロザリオを唱えながらコヴァ・ ダ・イリアへと歩き続けました。正午近くになるとおよそ2万5000人から3万人の巡礼者が御出現を待ってつめかけていました。コヴァ・ダ・イリアではほ とんどの人が帽子を取り、跪いてロザリオの祈りに唱和しました。三人の牧童たちは人混みでなかなか御出現の場所に近づくことができませんでした。途中で 人々は彼らにマリア様へのさまざまな願い事を取り次いでほしいと懇願しました。三人はやっとのことでいつものウバメガシの木のところに着き、そこでルシア がロザリオの祈りを先唱し、群衆が唱和しました。後に枢機卿となったレイリアのジョン・カレスマ神父は友人二人と一緒に神父の制服を脱いで背広を着て御出 現の様子を見に行きました。彼はそのときの様子を後に枢機卿になってから回想しています。正午になると、完全な沈黙があたりを支配しました。その後突然聖 母を賛美する声が響きわたり、人々が一斉に空に向かって手を挙げました。空は一点の雲もない真っ青の晴天でした。そのとき、カレスマ神父は東の方向から西 の方向へ向かってゆっくりと荘厳に滑ってゆく光り輝く球体を見ました。もちろん、彼だけでなく、友人二人も、そして居合わせた3万人の人々のうちの多くが この球体を見て叫び声をあげました。異常な光を放っていたその球体は突然消え去りました。その球体は御出現のウバメガシの木に近づきました。そのとき、太 陽の輝きが鈍り、あたりが黄金色になりました。ある人は空に星を見ることができたと報告しています。

ルシアが尋ねます。

-あなたは私から何をお望みですか?-

-戦争が終わるようにロザリオの祈りを続けなさい。10月には私たちの主がおいでになるでしょう。悲しみの聖母とカルメルの聖母も来ます。聖ヨゼフが世界を祝福するために幼子イエズスと一緒においでになるでしょう。
神はあなたがたの犠牲を喜んでおられます。神はあなたがたが縄をつけて眠ることを望んでおられません。つけるのは昼間だけにしなさい。-

-あなたにたくさんのことをお願いするように頼まれました。病気の人々の癒しや聾唖の人の癒しなどです....-

-はい。ある人々を癒しましょう。しかし、他の人々は癒しません。なぜなら、私たちの主は彼らを信用しておられないからです。-

-人々はここに聖堂を建てたいと思っています。-

-お金の半分でロザリオの聖母の祝日に行列で担ぐ駕籠を作りなさい。後の半分は聖堂のためです。-

ルシアはこのとき、オリヴァル教区のある人から捧げられた2通の手紙と香水の小瓶を聖母に捧げようとしましたが、聖母は天国ではそれらは必要でないとお断りになられました。ルシアが第4の手記で明らかにしたところでは、このとき聖母はこう付け加えられました。

-10月にはすべての人が信じるように一つの奇蹟を行います。-

そう言われて、聖母はいつものように天に昇られ始め、そして消え去られました。

聖母が天に昇って行かれるとき、多くの人々が再び先ほどの光り輝く卵形の球体が東の方角へと上ってゆくの を見ました。中には全然何も見ることができなかった人もいました。信心深い一人の女性は自分が何も見ることができなかったので、いたく泣いていました。そ のほかにもこの御出現の間に巡礼者たちは不思議な光景を見ることができました。彼らが見たのは空から舞い落ちる白い花びらのようなもの、丸くて輝いている 雪片のようなものでした。それは地上に落ちると消えてなくなりました。非常に多くの人々がこのような感覚的な形で異常なことを経験したこの5回目の御出現 は人々に聖母の現前を強く感じさせました。目に見えるこのしるしは次の10月13日、最後の回の御出現にはこのときの倍以上、5万人から8万人という大群 衆をコヴァ・ダ・イリアに引き寄せることになります。

この後、三人の牧童たちは人々につきまとわれ、質問攻めに会います。ひっきりなしの訪問者たちによってル シアとジャシンタの家庭はかきまわされます。牧場であるコヴァ・ダ・イリアは人々に踏み荒らされ、畑の野菜も取れなくなります。マリア・ロサとオリンピア は羊を売り払わなければならなくなります。家計は苦しくなり、ルシアは母親からお前のせいでこうなったと非難されます。マリア・ロサもオリンピアもティ・ マルトも三人とも9月13日には人々が見た不思議な現象を何も見ませんでした。

10月の初めに、レイクシダのマリア・ド・カルモ・メネゼス夫人がルシアとジャシンタをマルト家とサント ス家の許可を得て、自分の家に連れて行きます。彼らを人々から引き離して8日間休ませるためです。しかし、二人が滞在していることは人々に知れて、多くの 人々がつめかけて来ます。このメネゼス夫人が二人に「あなたがたが予言している奇蹟がもし10月に起こらなかったら、大いに期待して興奮しているこれらの 人々が、あなたがたを生きたまま焼き殺すかもしれませんよ」と言いますが、子どもたちは確信に満ちて「聖母が私たちを欺かれることはないので、ぜんぜん怖 くありません。マリア様は皆が信じるように大きな奇蹟を行うとおっしゃいました」と答えています。それ以前の9月27日にも、フォルミガオ神父が同じこと を彼らに尋ねていますが、ルシアは同じ答えをしています。10月の御出現のときには、子どもたちの近くで当局が爆弾を仕掛けて爆発させるという噂も広まっ ていましたが、ルシアは、もしそうなら、私たちはすぐに天国に行けることになる、といとこたちと話しています。しかし、子どもたちの両親にしてみれば、こ ういう状況は非常な不安をかき立てるものでした。マリア・ロサは御出現の前日10月12日の朝早く、ルシアを起こして教会に告解に行こうと言います。彼女 は「明日コヴァ・ダ・イリアで聖母が奇蹟を起こしてくれなかったら、人々が私たちを殺すという噂だから、死の準備のために告解をしておいたほうがよい」と 娘に言います。ルシアは「お母さんがそうしたいなら、一緒に行ってもよいですが、殺されることを恐れているからではありません。私は聖母が約束されたこと を必ずなさると確信していますから」と答えています。それでもう誰も告解について話す者はいませんでした。マルト家では父親が御出現を信じていましたの で、静かにその時を待っていました。こうしてファチマにおける最後の御出現の日、大奇蹟の日が来ます。

第6回目の御出現:1917年10月13日(土曜日)

遂に聖母が預言された大奇蹟の日がやってきました。前日から雨の中を大勢の人々があらゆる方角からコ ヴァ・ダ・イリアめがけて集まり始めました。彼らはロザリオの祈りを唱え、聖歌を歌いながら、降り続く冷たい細かい雨でぬかるんでいる道を進みました。雨 宿りするものが何もない野原で夜を明かしました。夜明けのかなり前から彼らは祈ったり、歌ったり、泣いたりしていました。

アルジュストレルのルシアの家ではマリア・ロサが、予言された奇蹟が起こらなかったときに生じるかも知れ ない悲劇のことを考えて不安にさいなまれていました。彼女はルシアを涙ながらに抱きしめ、ルシアが殺されるときには自分も一緒に死のうと思い、ルシアと同 道する決心をしました。彼女は教区の司祭からコヴァ・ダ・イリアには行ってはいけないと言われていましたので、そのことが気がかりでしたが、聖水で身を 護って出かけることにしました。彼らはまずマルト家に立ち寄ります。オリンピアはマリア・ロサと同じように子どもたちのことを心配していましたが、マヌエ ル・マルトは子どもたちを信じ、何事もうまく行くと確信して落ち着いていました。パンバリニョから来た婦人がルシアに青色のドレスをジャシンタに白いドレ スを用意して来ていて、着せました。

彼らは人混みのために時間に遅れないように早めに家を出ました。外は篠つく雨でした。人々はぬかるむ道で ひるみもせずに跪き、子どもたちにマリア様への取り次ぎを頼みました。マヌエルがジャシンタの手を取り、ルシアは父親のアントニオに手を引かれて、大群衆 の中を御出現の場所に向かいました。フランシスコもマリア・ロサも一緒でした。ウバメガシの木のところに着いたとき、ルシアは群衆に傘をすぼめ、ロザリオ の祈りを唱えるように求めました。雨はまだ降り続いていましたが、人々はルシアの求めに素直に応じて、傘をたたみ、祈り始めました。人々は全身ずぶぬれに なりながら泥の上に跪きました。

午後1時半頃--これは太陽時の正午にあたります--ル シアは東の方角を見てジャシンタにこう言いました。「おお、ジャシンタ!跪きなさい。聖母が来られます!もう稲光を見ました!」近くにいたマリア・ロサは 娘に「ルシア、注意してごらんなさい、失敗しないでね!」と叫びます。このとき、ルシアはしばらく脱魂状態に陥ります。ジャシンタがルシアをつついて、 「ルシア、お話なさい、聖母がもう来ておられますよ!」と言いました。ルシアはそれで正気に戻って二回深呼吸をし、聖母と話し始めました。

-あなたは私から何をお望みですか?-

-私をたたえてここに聖堂を建てることを望んでいます。私はロザリオの聖母です。毎日ロザリオの祈りを続けて唱えなさい。戦争はまもなく終わり、兵士たちは自分たちの家に帰って来るでしょう。-

-あなたにお願いしたいことがたくさんあります。ある病人を癒し、ある罪人を回心させてほしいのです.....-

-ある人々を癒しますが、ある人々は癒しません。人々はその生活を改め、罪の赦しを願わなければなりません。-

それから、聖母は悲しそうな様子になられて、こう言われました。

-彼らはもうこれ以上私たちの主に背いてはなりません。なぜなら、すでに彼らはあまりにも主に背いているからです。-

-何かもっと望んでおられることがありますか?-

-これ以上はありません。-

-では、私もこれ以上あなたにお尋ねしません。-

聖母がルシアと話されている間、ウバメガシの木の上には9月のときと同じような雲があり、聖母が去られる と同時に、雲も上の方に上がって行きました。それから、聖母が去って行かれるとルシアが叫んだとき、オリンピアは8月19日のときと全く同じ芳香をかぎま した。それから、またルシアが人々に向かって叫びました。「太陽をごらんなさい!」(このとき、ルシアは 太陽を見てそう叫んだのではなく、聖母が去って行かれるとき、聖母が両手を拡げられ、それを太陽の上に反射させられ、彼女自身の光の反射を太陽そのものに 投射されるのを見ていて、内的な促しを受けて人々に「太陽をごらんなさい!」と叫んだと言っています。) その後、10分間にわたって、大群衆は預言されていた奇蹟をいわゆる「太陽のダンス」という形で見ました。それまで降っていた雨が突然止み、雲が急速に切 れ、晴天になりました。顔を出したぎらぎら輝くはずの太陽を人々は裸眼で何ら眼を痛めることなしに見ることができました。真昼の雲一つない太陽が裸眼で見 ても眼を損なわないなどということは科学的に見てあり得ないことですが、このとき、そのことが7万人ないし8万人といわれる大群衆の前で起こりました。す べてのものが動かず、静かでした。このこと自体が不思議なことですが、次ぎにさらに不思議なことが起こりました。その太陽がさまざまの方向に光線を発し、 その光線が空気、大地、木々やその他大地にあるすべてのもの、人間たちをさまざまの色に染め上げました。しばらくして、太陽が止まったと思われ、次ぎに揺 れ、震え、いわゆるダンスを始めました。その太陽が天からはがれたかのように、人々の上に回転する大車輪になってまさに落ちかかって来るように見えまし た。人々は叫び、泣きわめき、地にひれ伏しました。大声で自分の犯した罪を告白する人もいました。しかし、最後に太陽は動きを止めました。人々は助かった と安堵の胸をなでおろすことができました。これが、聖母が預言され、三人の子どもたちが必ず起こると確信していた奇跡の内容でした。もちろん、聖母が初め から太陽の奇蹟を内容として預言され、三人の子どもにもそれを伝えられたわけではありません。すべての人が見て信じるようになる奇蹟と言われていたことが このような内容のものだったというわけです。聖母の約束はこのようにして文字通りに果たされました。マリア・ロサは「これを信じないことはできない。誰も 太陽に触れることはできないのだから」と言いました。

この日のことは進歩的、反カトリック的であることを標榜しているポルトガルの多くの新聞に記事として載せ られました。聖職者のでっち上げであるとか、子どもたちの妄想であると言われていた事柄もここまで来ると、一つの動かしがたい事実としての重みを持ちま す。この事実をどう解釈するか、ということだけが残される問題であって、事実をなかったことにすることは不可能です。

大群衆がこの大スペクタクルを目撃していていた10分間、三人の幻視者たちは実は太陽の奇蹟を見ていませ んでした。彼らはその間、もっとすばらしいこと、すなわち聖母が8月19日と9月13日の両日に約束なさった預言の実現に立ち会っていました。聖母が去ら れた後、彼らは聖ヨゼフが幼子イエズスを連れて、そして聖母が白い衣装を着、青いマントを羽織られて太陽の側に立っておられるのを見ました。聖ヨゼフと幼 子イエズスはその手でそれぞれ十字架の印をされて世界を祝福されました。この御出現が終わってしばらくして、今度はわれらの主イエズス・キリストと聖母が 御出現になりました。聖母は悲しみの聖母だとルシアには思われました。主は聖ヨゼフがそうされたのと同じやり方で世界を祝福されました。その御出現も終 わった後に、また聖母が来られましたが、今度はカルメルの聖母でした。

こうして、6回にわたるファチマ:コヴァ・ダ・イリアおよびヴァリニョスにおける聖母の御出現は幕を閉じ ました。しかし、これでファチマの出来事は終わったのでしょうか?上に述べて来たことは前にも言いましたように、1917年の時点ですべて人々に明らかに されていたことではなく、ファチマの秘密として後になって明らかにされたこともあり、「第三の秘密」と呼ばれている部分は未だに明らかにされないままに なっています。

私見ですが、ファチマの聖母のメッセージが意味しているものは、単に個人的な信心の問題ではなくて、もっと世界史的、現代的な文脈の中で捉えられるべき問題であるように思われます。



ファチマに関して日本語で読める書物を数点紹介します。

*矢代静一(文)・菅井日人(写真):奇蹟の聖地ファチマ、講談社
*菅井日人:聖母マリアの奇蹟 -メジュゴリエ/ファチマ/ルルド-、グラフィック社
*ヴィットリオ・ガバッソ、志村辰弥(共訳編):現代の危機を告げるファチマの聖母の啓示、ドン・ボスコ社
*渡辺吉徳(編訳):ファチマのロザリオの聖母、ドン・ボスコ社
*アントニオ・アウグスト・ボレッリ・マシャド著、特別寄稿 プリニオ・コヘイア・オリヴェイラ、成相明人訳:ファチマの聖母 そのメッセージは希望の預言か? 悲劇の預言か? 『フマネ・ヴィテ』研究会


ファチマの聖母 2 三上茂

2017-09-28 10:54:29 | ファチマの聖母(紹介)
今から82年前1915年以来、ポルトガルのファチマで起こった歴史的事実についてFrere Michel de la Sainte TriniteのThe Whole Truth about Fatima(tr.from French into English by John Collorafi)を参考にして若干のことを述べ,いくらかの私見も加えてみたいと思います。

メッセージの成長

1917年以後

1917年に聖母マリアの6回の御出現があ りましたが、ファチマの出来事はそれで終わったわけではありません。1925年、1926年、1927年、1929年、1939年...1941年、 1943年...と続きます。しかも、 1917年の御出現についても、前にも言いましたように、その時点ですべてのメッセージが公表されたわけではなく、後に1935年から1943年にかけて のシスター・ルシアの手記の中で初めて明らかにされたものもあります。たとえば、1917年7月13日の大きな秘密の最初の二つの部分は1942年まで明 らかにされませんでした。いわゆる「第三の秘密」と言われている第三の部分はシスター・ルシアによって1944年に書かれましたが、未だに公開されていま せん。



1930年代の文献と40年代以後の文献の違い

1939年以前に出版されたファチマに関す る文献では、三人の羊飼いの子どもたちに聖母が突然、1917年5月13日に出現されたことになっています。現在では認められているそれに先立つ天使の出 現については言及されていません。1917年の聖母の6回の御出現、子どもたちの受難については詳細に述べられたものが多いのですが、聖母のメッセージの 内容は短い記述しかありません。1917年6月の聖母の御出現の記事にも、聖母マリアの汚れなき御心をルシアが見たことについての言及は見られません。ま た、7月13日の大秘密についても触れられていないのは当然です。聖母のメッセージは要するに三人の子どもたちに天国を約束なさったこと、戦争を終わらせ るために毎日ロザリオを唱えるよう言われたこと、7月13日には10月13日の奇蹟が預言されたことが内容となっています。

子どもたちの地獄の幻視、第二次世界大戦勃発の預言、神の懲罰としてのロシアの果たす役割、 聖母マリアの汚れなき御心にロシアを奉献することなど、聖母のメッセージの核心部分については40年代以後の文献にシスター・ルシアの手記をもとにして明 らかにされて行きます。それらの著作の中には、ローマ教皇庁立聖書研究所のポルトガル人のイエズス会士ダ・フォンセカ師が1942年4月に出版した『ファ チマの大奇蹟』や同年5月のイタリア人司祭ドン・ルイジ・モレスコ師の『ファチマの聖母』、さらに同年10月ガランバ師の『ジャシンタ』などがあります。 それらはいずれも、枢機卿など高位聖職者が序言を書いており、教会当局によって認可された書物です。



ファチマに対する反論

シスター・ルシアの手記によって新たに明ら かにされたファチマのメッセージは、しかし、必ずしもすべての人々によって支持されませんでした。1917年の聖母のメッセージを純粋に霊的なものだけに とどめておこうとする神学者たちがいました。ダニス神父は、聖母はロザリオの祈りをすること、わたしたちの罪の痛悔をすることを勧めておられるのであっ て、政治には関わられないと主張しています。聖母がナチス・ドイツやファシズムの危険に反対するソビエト・ロシアを名指しで挙げられ、その回心のためにロ シアをマリアの汚れなき御心に奉献するように求められる、というようなことは考えられないというわけです。だから、聖母がそのようなことをメッセージの中 で述べられたことはない、したがって、そのようなメッセージはおそらくシスター・ルシアの創作であろうというのが、ダニス神父の言い分です。ダニス神父は メッセージをファチマ1とファチマ2に分け、ファチマ1、つまり1917年に明らかにされていたメッセージだけを真正のものとし、ファチマ2、つまりシス ター・ルシアが後に明らかにしたメッセージの真正性を否定します。

ベルギーのイエズス会士エドゥアール・ダニス神父は1933年から1949年までルーヴァン 大学の神学教授を勤め、その後ローマのグレゴリアナ大学で教鞭を執り、1963年には教皇パウロ6世によって学長に指名された高名な神学者でした。この影 響力の強い神学者ダニス神父によって、1944年以来ファチマのメッセージに対する攻撃が始まりました。彼は1944年にフラマン語で『ファチマの御出現 と予言について』と題された2編の長い論文を書き、翌1945年初めに少し変えて『ファチマの御出現と秘密について』という題で書物の形で出版しました。 ダニス神父の著書の要点は1917年アルジュストレルの3人の羊飼いへの聖母の御出現は真正のものであるが、後に加えられたものについては疑わしい、信じ るに足るものではない、わたしたちは最初のメッセージにとどまるべきであるということでした。1946年にオランダのモンフォール会のヨンゲン神父がシス ター・ルシアに会って、これに対する反論を書き、1950年にはポルトガルのイエズス会士ヴェロゾ神父が、1951年には同じくポルトガルのイエズス会士 ダ・フォンセカ神父がダニス神父の主張に対して、鋭い論駁をします。同じ修道会の同僚からの論駁に対して、修道会の上長の勧めもあって、ダニス神父は論争 を終わらせるために、1953年5月16日、「チヴィルタ・カットリカ」に『ファチマに対する見解と議論の評価』という論考を載せました。この論考は回り くどい言い回しで議論を展開し、同僚たちの怒りを宥めようとはしていても、結局のところ彼の主張のどれ一つも撤回しないものでした。

1978年に亡くなるまでの30年以上にわたるダニス神父のファチマ問題に与えた大きな影響 力は他の高名な神学者にも及んでいます。たとえば、ルルドの聖母の御出現に関する権威であるルネ・ローランタン神父は1982年に書かれた『ファチマの秘 密』という論考においてダニス神父の見解をこの問題における一つの権威として引用し彼の見解に賛成しています。



シスター・ルシアの手記

それでは、シスター・ルシアがレイリアの司 教コレイラ・ダ・シルヴァに要請されて1935年から41年にかけて書いた4篇の手記はいったい何であったのでしょうか?まず1935年に第1の手記が ジャシンタについて書かれます。第2の手記は1937年にルシアについて、第3の手記は1941年8月に再びジャシンタについて書かれました。最後の第4 の手記は同じ年1941年12月8日に書き上げられました。その内容は聖母の御出現とフランシスコ、ジャシンタのその後の生活、ポンテ・ヴェドラの御出現 のメッセージなどです。

ダニス神父はこの1935年から41年にかけて書かれたシスター・ルシアの手記に基づく出来 事を「新しい歴史」としてファチマ2と呼び、1917年の時点で明らかにされていた出来事を「古い歴史」としてファチマ1と呼んでそれから峻別し、前に述 べましたように、ファチマ1は真正性があるが、ファチマ2には真正性がないと主張します。

ファチマ2には真正性がないという理由は何でしょうか?その理由をダニス神父は小さな子ども にそのように長い間の沈黙は不可能だからと言っています。1916年の天使の出現をルシアが1937年の第2の手記で初めて明らかにしたことは第1部の天 使の出現の項で述べましたが、ルシアをはじめ子どもたちが天使の出現に強い衝撃を受け、地にひれ伏して礼拝するという体験によって、1917年当時誰にも このことを打ち明けなかったというルシアの説明は、子どもの心理から考えてあり得ないことである、という理由でダニス神父を納得させるものとはならないの です。1917年の聖母の御出現の際にも子どもたちは聖母との約束を守って沈黙を守りますが、それもダニス神父にとっては、1917年から 1935年ないし1941年までというほとんど20年間もの長い間、沈黙を守ることが不自然であり、疑念を持たせることであることになります。

ダニス神父は結局シスター・ルシアの1935年以後の手記による証言の信憑性を否定します。 さらに、三人の証人のうちフランシスコが1919年にジャシンタが1920年に亡くなっていますから、残るルシア一人の証言では信憑性に欠けるというわけ です。「一人の証言は何ら証言ではない」(testis unus, testis nullus)。シスター・ルシアの司教宛の手記の中の「聖霊の御助けに感謝」という言葉もダニス神父には「錯覚」としか思えません。ルシアの誠実さや日 常生活における健全な判断力を疑いはしないが、しかし、ファチマ2はルシアの「無意識的なうそ」unconscious fabricationだというのが、ダニス神父の結論です。つまり、1916年の天使の出現はルシアの作り出した想像力のなせる業だということです。こ のようにして、地獄の幻視もまたルシアの想像力の中で知らず知らずの間に作り出された幻覚でしかないことになります。これは罪の恐ろしさの意識とカテキズ ムを通して植え付けられた中世的観念の結合によってもたらされた想像の産物であるというダニス神父の近代主義的解釈ではないでしょうか?聖母マリアの汚れ なき御心の問題についても、ダニス神父はそれをシスター・ルシアの聖マルガリタ・マリアからの「無意識的な剽窃」にしてしまいます。無意識的というのはル シアの誠実さを疑わないからだそうです。誠実で健全な判断力を持ちながら無意識的剽窃をやってのけるルシアという人間を想像してください。



ダニス神父のテーゼ

ダニス神父のテーゼは三つの点にまとめることができます。

1)ファチマ1とファチマ2の間には対立がある。
2)ファチマ2はでっち上げである。
3)ファチマ1は真正性を持っている。
したがって、わたしたちはファチマ1だけを信じ、ファチマ2を無視しなければならないということになりますが、本当にそういうことになるのでしょうか?次ぎにその問題について見て行きたいと思います。



ダニス神父のテーゼの検討

ファチマ1を受け入れること

1917年5月から10月までの6回の御出 現の真正性を認めることは何を意味するのでしょうか?神がファチマの三人の子どもたちを他の人々の中から選ばれ、彼らをコヴァ・ダ・イリアで聖母の御出現 に立ち会わせるようにご計画になったこと、ルシア、ジャシンタ、フランシスコは聖母の姿を見、聖母の声を聞き(フランシスコは聞くことができませんでした が)、聖母のメッセージを伝えるために神によって選ばれたこと、彼らの証言の真正性を保証するために神が多くの奇蹟、科学的には説明できない癒しや自然科 学的に説明不可能な太陽の奇蹟を大観衆の前で行われたこと、三人の子どもたちが大奇蹟のことを三ヶ月も前から場所、日時を特定して予告していたこと、その ことは聖母がすべての人がそれを見て聖母の言葉を信じるために子どもたちに約束されたこと、つまり、御出現の超自然的起源を信じることを意味します。ダニ ス神父はこのすべてのことを真正なものとして受け入れます。



ファチマ2を否定すること

しかし、同時にダニス神父はそれ以後のルシ アの証言を否定し、ファチマ2を拒絶しなければならないと主張します。「無意識のうちに物事をでっち上げる」傾向のあるルシアが1917年の超自然的出来 事に尾鰭をつけ始め、ことがらをでっち上げ、メッセージを膨らませて行った、と彼は考えます。このようにして、尾鰭をつけられて膨らまされたものがファチ マ2であり、それは1917年の真正の御出現を歪曲するものだ、というわけです。



ファチマ1とファチマ2の対立??

ダニス神父はファチマ1とファチマ2をこの ように分離し対立させますが、そのことはそもそも可能なのでしょうか?事柄の前半部分は真であるが、後半部分は虚偽であるというようなことはあり得るので しょうか?ダニス神父のように主張することは、カトリックの信仰に照らして矛盾しないでしょうか?つまり、ファチマ1を真正のものと認めながら、ファチマ 2を虚偽のものとして否定することは、神がお選びになった証人をファチマ1では承認しながら、同時にファチマ2において拒否することになりますが、それは 神の選定に対する疑義の提出にならないでしょうか?ルシアは1917年には神の証人として相応しかったが、それ以後相応しくなくなったと言われているよう ですが、それは神ご自身によるルシアの幻視者としての選定が誤っていたということにならないでしょうか?ファチマ1が真正であるならば、ファチマ2も真正 でなければならない、と考えるべきではないでしょうか?もし、ファチマ2が虚偽であるならば、ファチマ1も虚偽であるはずです。1930年10月13日に ファチマの司教がファチマの御出現の真正性を公式に宣言したときに、メッセージの受け手であったルシアがその数年前から正気を失い、ありもしないメッセー ジをでっち上げ、霊的指導者ばかりでなく、世界中をいかさまのメッセージによって混乱させたなどということを考えることは不可能です。フレール・ミッシェ ルはこう言っています。「もしルシアが半世紀間も世界を欺いていたとするならば、まず第一にその責任を負わなければならないのは神御自身である」と。



ファチマメッセージ伝達の四つの段階

ファチマの出来事とメッセージは次の四つの段階を経て人々に伝達されて行きました。

1) まず出来事があり、何が起こったのかを人々に知らせる最初の口頭の証言があります。これは1917年に三人の子どもたちが家族や教会の神父に尋ねられて答えた内容です。

2) 次に、後からの口頭の証言があります。

3) それらを書き留める段階が来ます。霊的指導司祭に対して提出されたシスター・ルシアの書いたものは数多くあります。しかもそれらは長い間出版されませんでした。

4) 最後に、出版の段階が来ます。この出版はファチマの場合はしばしば非常に遅く為されています。ルシアが望んでいたにもかかわらず、教会当局の意向によって引き延ばされました。秘密やメッセージの本質的部分は1940年まで出版されませんでした。

ダニス神父はこの四つの段階のうち最初と最後だけを問題にし、真ん中の二つの段階を無視しま した。ファチマの全体をファチマ1とファチマ2に分けて、前者の真正性を認めるが、後者をでっち上げとする考え方はこの連続する四つの段階を分断し、真ん 中の二つの段階を無視することによって初めて維持できます。しかし、第二の段階と第三の段階を無視することはできません。それらは歴史的な証拠によって保 証されているからです。

事実はむしろこうではないでしょうか?3人の子どもたちは1917年に秘密を受け取り、それ を注意深く保ち、摂理の導きに従って少しずつ明らかにしていったのです。ですから、1942年に明らかにされた秘密も1917年に子どもたちには明らかに されていた、と考えるほうが自然ではないでしょうか?

フレール・ミッシェルは1942年から1917年までを遡ってファチマの出来事とメッセージの全体が徐々に明らかにされて行く様子を以下のように辿っています。

1942年 教会当局がファチマの秘密の出版を許可したのはこの年です。しかし、1927年にはすでにシスター・ルシアは天から秘密を明らかにする許しを得ていたので、そのうちの一つあるいは他の秘密を霊的指導司祭、司教あるいは教皇に明らかにしています。

1941年 シスター・ルシアはファチマ2の全体をなす第三手記と第四手記を書きました。

1940年 シスター・ルシアは教皇ピオ十二世に手紙を書き、その中で秘密を教皇に伝えました。そして1925年のトゥイ、1927年のポンテ・ヴェドラでの御出現で何があったかを語っています。

1938-39年 シスター・ルシアは司教に数通の手紙を書いています。その中で彼女は秘密の中で予告されていた戦争が間近に迫っていると述べています。そして、ポルトガルがその戦争に巻き込まれないこともすでに予言されています。

1937年 シスター・ルシアのために、レイリアの司教が教皇ピオ十一世に宛てて、マリアの汚れなき御心にロシアを奉献するように手紙を書いています。また、シスター・ルシアはこの年、第二手記を書いて、天使の出現とマリアの汚れなき御心について語っています。

1935年 シスター・ルシアは第一手記を書き、その中ですでにマリアの汚れなき御心に関する秘密をほのめかしています。

1929-1936年 数多くの文書がトゥイとポンテ・ヴェドラの御出現を語っていますが、それらは秘密と密接に関連したファチマ2の本質的な全体を成しています。

1927年 シ スター・ルシアは秘密の最初の二つの部分を明らかにする許しを天から得ています。彼女はそれを霊的指導司祭の命令で2回書き下ろしました。この年にすでに 秘密が書き下ろされていたということは重要な事実です。シスター・ルシアは霊的指導司祭の命令でその文書を焼き捨てなければなりませんでしたが、秘密を書 いたという事実は確かです。シスター・ルシアの指導司祭であった二人のイエズス会士、ホセ・ダ・シルヴァ・アパリシオ神父とホセ・ベルナルド・ゴンサル ヴェス神父がそれらを読んだことは確かです。その彼らに、同じ修道会士であるダニス神父は確かめることができたはずなのに、そうしませんでした。シス ター・ルシアはその他にもレイリアの司教、カノン・ガランバ神父などにも秘密を明らかにしています。

1925-26年 シスター・ルシアの霊的指導司祭宛のいくつかの手紙はポンテ・ヴェドラでのマリアの汚れなき御心の御出現を語っています。この中で初土曜日の償いのための聖体拝領の要求が語られていますが、これはすでに秘密の一つの本質的な部分です。
このように多くの文書が少なくとも1925年から1929年の間にシスター・ルシアがファチマ2の全体を既に 持っていたということを明らかにしています。事実と秘密が1942年まで明らかにされなかったのは教会当局の許可がなかったからであり、従順の誓願をたて ている修道者であるシスター・ルシアの責任にすることはできません。

1917年から1926年にかけては、天はそのメッセージを全体にわたって明らかにすること を許していませんでしたから、三人の幻視者たちは秘密に関して沈黙を固く守っていました。しかし、秘密が明らかにされた時点でこの時期のことを考え合わせ てみるならば、わたしたちは三人の幻視者たちがすでにメッセージを受け、それを知っていたと考えることができるでしょう。

1924年 ル シアは教会当局の調査尋問で明らかにできない秘密があることを述べています。天使の出現はこの年にはまだ秘密でした。ルシアは尋問の時に秘密以外はすべて を述べると誓ったのに、自発的に「ある種のことがら」を述べなかったたために、不安な気持ちに苦しめられましたが、これは、ルシアがそのことを1937年 に想像したのだとすれば、起こり得ないことでした。

1921-1922年 カ ノン・ドス・レイス神父の尋問はルシアがすでに天使から教わった祈りをアシロ・デ・ヴィラルの彼女の友人の一人に教えていたことを明らかにしています。同 じことをアロンゾ神父もその友人に確かめて、確証しています。ルシアがダ・シルヴァ司教に天使の出現について語ったのもこの時期です。

1920年 ジャシンタは病気の間にマザー・ゴディーニョに秘密のうちのいくつかを打ち明けています。戦争と懲罰の預言や、地獄のこと、償いの必要性などです。

1917年 9 月あるいは10月にルシアはカノン・フォルミガオに天使の出現について言及しています。彼はそのことをカノン・バルタスに語りました。さらに、小さな幻視 者たちの両親は、子どもたちが「天使の祈り」と呼んでいた祈りを唱えていることを知っていました。しかし両親たちは彼らがそれを誰から教わったかを知りま せんでした。

1915年 この年の天使の最初の出現は直ちに知られました。この話は直ぐに村人たちに知れ渡りました。1917年にカノン・フォルミガオはそのことについて知っていました。

以上見て来ましたように、1915年から1942年までの時間経過を逆に辿っても、ダニス神 父の言うファチマ1とファチマ2の間にギャップとか、矛盾を見ることはむしろ困難であると思われます。秘密の内容は明かされなかったとしても、秘密の存在 はすでに1917年の7月の時点で明らかにされていました。ですから、後に1942年にその内容が明かされたとしても、シスター・ルシアがそれを全部でっ ちあげたなどということはあり得ないことではないでしょうか?第1部でも見ましたように、人々は子どもたちから秘密を聞き出そうとして、誘惑したり、脅迫 したりしたわけですから。当時、7歳、9歳、10歳であった彼らが聖母との約束を破るよりは死んだほうがよいと思うくらい、固く沈黙を守ったことはまさに それらがでっちあげでないことの何よりの証拠だと思われるのですが.....



ファチマ1とファチマ2の完全な一致

ファチマ1は1917年の時点ですでにファ チマ2を明白な形ではないにしても、ヴェールをかけたような仕方で告知していました。1917年と1942年の間完全な沈黙が支配していたわけではなく て、上に見ましたように、時間経過の中で徐々にファチマの出来事とメッセージがシスター・ルシアによって大勢の人々を介して明らかにされてきたのでした。 1917年と1942年の間事態が完全に空白となっていて、シスター・ルシアがその間にありもしない出来事やメッセージを捏造したということは経過を見て もあり得ないことです。さらに、たとえば、1917年7月13日の御出現のときに、子どもたちは地獄の幻視を経験しました。しかし、これが文書で明らかに されたのは1941年でした。聖母は地獄に落ちる危険を警告されるために「おお、私のイエズスよ、わたしたちを救い、わたしたちを地獄の火から救ってくだ さい....」という祈りを子どもたちに教えられましたが、当時巡礼者たちはこの祈りの意味を十分に理解せず、煉獄にいる霊魂のための祈りだと誤解してい ました。その祈りの真の意味は地獄の幻視が明らかにされたことによって明らかとなりました。7月13日のこの日に子どもたちが恐怖に襲われた表情をし、ル シアが「おお、聖母よ、おお、聖母よ」と叫び声を挙げたことを周りにいた人々が目撃していますが、当時はだれもその理由を知りませんでした。これは 1941年のシスター・ルシアの手記によって明らかにされて初めて理解できることです。そのような関連を持つ出来事をシスター・ルシアの想像上のでっち上 げとか、後から付けられた尾鰭だと考えることはできません。ファチマ2がファチマ1を解明する手がかりとなるほどに、両者は完全に一致している、とフレー ル・ミッシェルは言います。ファチマ2が後年の作り事の結果であるというダニス神父の主張は無理があります。むしろ、事実は1917年に与えられた秘密が 正確に記憶されて、時が来たときに明らかにされたということです。シスター・ルシア自身、1946年にヨンゲン神父のインタビューに対して次のように述べ ています。「御出現について話すとき、わたしは自分が聞いた言葉の意味を伝えることに限定します。他方、書くときには、その言葉を文字通り引用するように 苦心します。このようにわたしは一語ずつ秘密を書き下ろすようにしました。」ちゃんと記憶できたという確信があるかどうかを尋ねられて、彼女はそうできた と思うと答えています。シスター・ルシアは彼女が文書として引用した聖母のメッセージは彼女に伝えられた通りの順序で一語一語綴られたということを確証し ています。



メッセージの本質

シスター・ルシアは1941年に書いた第三 の手記の中でこう言っています。「秘密は三つの異なった部分から成っています。そしてわたしはそのうちの二つを明かすでしょう。第一の秘密は地獄の幻視で す。....第二はマリアの汚れなき御心に関するものです。」シスター・ルシアは第二の秘密を1942年に明らかにしました。そして第三の秘密と普通言わ れている第三の部分は未だに明らかにされていないことは前にも触れました。そこで、まず第一の部分から見て行くことにしましょう。



霊魂の救い

ファチマの秘密は恐ろしい地獄の幻視から始 まります。この幻視を通して聖母はわたしたちに直ちに重要で本質的なたった一つのこと、すなわちわたしたちの永遠の生命のことを思い出させられます。です から、秘密の第一の部分は非常に大切な部分です。飢饉、戦争、迫害の予告以上に、わたしたちを脅かす永遠の生命のことを思い起こさせるこの地獄の幻視は聖 母のメッセージの本質的な点の一つです。聖母は現代のこの世的、自然主義的、唯物論的な時代に伝統的なカトリック信仰を思い起こさせようと望まれました。 長くなったとはいえ、わたしたちのこの世の生命は100年も続きません。わたしたちはその後永遠の救いか永遠の滅びかのどちらかに入らなければなりませ ん。わたしたちの永遠の運命が決定されるということをわたしたちは忘れているのではないでしょうか。天国と地獄の存在は聖書に書かれている真理です。マタ イによる福音書にはこうあります。「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい....呪 われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。」現代の人々はこれを文字通りに受け取ることを嫌います。

ダニス神父はシスター・ルシアが後に報告した、1917年7月13日に聖母マリアに見せられ た地獄の幻視を子どもっぽい想像の産物であって、教養のある知的な成人にはとても受け入れられるものではないと考えます。有名な神学者のセルティヤンジュ 神父もこのような地獄のイメージはダンテの『神曲』から霊感を受けて描かれた多くの絵画の中に表現されている、いわば「中世的な」イメージであって、もは や現代には時代遅れの「象徴的な表象」であると主張しています。しかし、事実はそうではありません。地獄のイメージを産み出したのはダンテの『神曲』では なく(もちろんダンテはそれらのイメージの最も雄弁なそして最後の代弁者ですが)、それより遙か以前の大聖堂の彫刻、あるいはもっと遡って聖アウグスティ ヌスや他の教父たちの記述であり、なによりもまず聖書の中でのイエズス・キリスト御自身の言葉です。シスター・ルシアが見せられた幻視はまさに聖書的なイ メージです。地獄に関する聖書の表現を文字通りに、たとえば火、ウジ虫、暗闇、呪われた者どもの叫びや呻きとして理解するのではなく、神からの分離である というふうに抽象的に理解する傾向は近代的、現代的とされてわたしたちの心を平静にするのですが、ひとたびこのような「非神話化」の原理が認められると、 もうとどまるところを知らず、やがては地獄そのものの否定へと行き着きます。ドイツの神学者ハンス・キュンク神父は地獄や永遠の苦痛というのはわたしたち がそこから解放されなければならない神話であると主張しています。これはマタイによる福音書にあるキリストの言葉の否定ではないでしょうか?わたしたちの 最大関心事であるはずの霊魂の救いとは、そのとき、何を意味するのでしょうか?聖母はこのような神学者たちが現れ、人々を霊魂の救いの問題に直面させない ようになることを予見されて、ファチマで三人の子どもたちに地獄の幻視を経験させ、現代世界に警告を発せられたのではないでしょうか?

近代主義者、合理主義者がどう主張しようと、イエズス・キリストが教えられ、聖母が子どもたちを通じてわたしたちに示された地獄のイメージをわたしたちは見失わないようにしなければなりません。フレール・ミッシェルは次の2点を強調しています。

1)イエズス・キリストはわたしたちを地獄から救うために苦しみを受け十字架上で亡くなられました。

ファチマのすべての幻視はイエズス・キリスト御自身の教えの純粋な反響であり、最も忠実な表現です。シスター・ルシアによって語られた地獄の幻視はまさに福音書に基づいたものです。イエズスは繰り返し地獄についての教えを述べ、説教されたからです。

2)イエズス・キリストはわたしたちに真理の言葉を語られました。

イエズスの教えは漠然とした抽象的な表現でではなく、具体的に現実を示す最も正確な表現で宣 べ伝えられました。そして、聖母は子どもたちに地獄の幻視を経験させられた後にこう言われませんでした。「あなたがたは永遠の破滅の一つのシンボル、一つ のイメージを見ました。永遠の破滅はもちろんそのシンボルとは全く違います。永遠の破滅は純粋に霊的な秩序に属するからです」と。いいえ、そうではありま せん。聖母はこう言われたのです。「あなたがたは地獄を見ました。そこへは哀れな罪人たちの霊魂が行くのです」と。地獄はわたしたちを脅かす一つの現実的 な危険なのです!それは恐るべきものであり、具体的なものです。

シスター・ルシアは1957年12月26日にフエンテス神父にこう語っています。「わたしの 使命は、もし世界が祈らず償いをしないならば確実に来る物質的な懲罰を世界に告知することではありません。そうではありません。わたしの使命は、もしわた したちが頑固に罪のうちにとどまるならば、永遠にわたしたちの魂を失うというわたしたちが直面している差し迫った危険をすべての人に知らせることです。」

1977年7月11日、コインブラのカルメル修道院にいるシスター・ルシアを訪問した後に、後年ヨハネ・パウロ1世になるルシアーニ枢機卿はファチマの秘密の第一の部分を次のように要約しています。 「地獄は存在します。そしてわたしたちはそこへ行く可能性があります。ファチマにおいて聖母はわたしたちに次の祈りをお教えになりました。 『おお、わたしのイエズスよ、わたしたちの罪を赦し、わたしたちを地獄の火から護ってください。すべての人々、ことに御憐れみを最も必要としている人々を 天国へ導いてください。』この世界には重要な事柄があります。しかし、よく生きることによって天国を得るに値すること以上に重要なことは何もありません。そのように言っているのは単にファチマだけではなくて、福音書です。『人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか』(マタイ、16,26)」



世界の救い-聖マリアの汚れなき御心に対する信心-

1917年7月13日、第3回目の聖母の御出現の際に地獄の幻視を経験したとき、ルシアは救いを求めて聖 母の方を見つめます。そのとき、聖母は親切に、しかし悲しそうにこう言われました。「あなたがたは哀れな罪人たちが行く地獄を見ました。そこへは哀れな罪 人たちの霊魂が行くのです。彼らを救うために、神は世界の中に私の汚れなき御心に対する信心を打ち立てることを望んでおられます。」

聖母のこの言葉を注意深く正確に読むと、マリアの汚れなき御心に対する信心は決して信者がそ の内的好みに応じて選択できるオプションでないことが分かります。それは聖母自身のお望みですらありません。マリアの汚れなき御心に対する信心は神御自身 が望まれたことであるということが聖母の言葉から理解できます。それは条件つきのお望みではなく、絶対的、無条件的な神の御意志であることが分かります。 普通、信心というのは、ある特定の地域や国から始まり、多かれ少なかれ徐々に広がってゆきます。しかし、聖マリアの汚れなき御心に対する信心は事情が異な ります。それは神御自身がそれが全世界に拡げられることを望んでおられるのです。神はその信心を打ち立てることを望まれました。フレール・ミッシェルは、 これは私的な信心の問題ではなくて、堅固な基礎の上に確立されるべき荘厳な公的礼拝である、と言っています。ですから、それは教会当局によって認められ、 保護され、広められた典礼的な礼拝です。

神は世界を救うために別の方法を選ばれることももちろん可能でした。しかし、神が選ばれた方 法は聖母マリアの汚れなき御心に対する信心を通して、イエズスの聖心の限りなき愛をお示しになることでした。このイエズスの聖心に最も近い、最も親しい御 母の汚れなき御心を世界中の人々に愛させることが神の御意図でした。イエズス以上に御母マリアを愛する者がいるでしょうか?そのマリアの御心がすべての 人々によって栄光を帰せられ、名誉を与えられ、愛され、奉仕されることを神はファチマにおいて望まれたのです。聖母マリアはその意味で全人類の神への仲介 者(Universal Mediatrix)であり、わたしたちの霊魂を救うための神の貴重な「道具」(Instrument of Salvation)なのです。聖母マリアがルシアに言われた「彼らを救うために、神は世界の中に私の汚れなき御心に対する信心を打ち立てることを望んでおられます」 という言葉は以上のようなことをわたしたちに理解させます。フレール・ミッシェルは、ファチマの啓示はパレ・ル・モニアルの啓示の完成であり、マリアの汚 れなき御心に対する信心はイエズスの聖心に対する信心と結びつけられていて、両者を切り離すことは不可能である、と言っています。

神は愛です。そして神の知恵は御母マリアの汚れなき御心に対する限りない愛とわたしたち哀れ な罪人に対する限りない憐れみとを結びつけられました。どのように結びつけられたのかと言えば、神はマリアを通して、ただマリアを通してだけわたしたちを 救うことに決められたのです。そのことによって聖母に対する栄誉と栄光が達せられ、同時に罪人の救いが実現するからです。1917年6月13日のメッセー ジの中で、すでに聖母はルシアにこう言っておられます。「イエズスは人々に私を知らせ、愛させるためにあなたを使うことを望んでおられます。イエズスはこ の世界に私の汚れなき御心への信心を打ち立てることを望んでおられます。この信心を実行する人に私は救いを約束します。これらの人々の霊魂は神の玉座を飾 るために私によっておかれた花のように、神にとって大切なものです。....私は決してあなたを見放しません。私の汚れなき御心はあなたの避難所であり、 あなたを神へと導く道であるでしょう。」聖母マリアはルシアだけにでなく、この信心を実行するすべての人に救いを約束されました。これは弱くて卑怯なわた したち罪人にとって何と確実・安全で容易な救いへの道であることでしょうか!

このようにいわば天国への道が聖母マリアの汚れなき御心を通してであることが神によって決定 されたのですから、これ以外の道を取ることがどんなに無益で危険であるかということをわたしたちは考えなければなりません。そのことについてシスター・ル シアはフエンテス神父にこう言っています。 「聖なるロザリオとマリアの汚れなき御心に対する信心は私たちの最後の二つの頼みの綱です。ですから、このことは他のよりどころはないということを意味しています。...神はある種の恐れをもって救いの最後の手段・神のいと聖なる御母を私たちに提供しておられるのです。なぜなら、もし私たちがこの最後の手段を 軽蔑し、拒絶するならば、もはや天の赦しを得ることはないからです。というのは、私たちは福音書が聖霊に反する罪と呼ぶ罪を犯したことになるからです。そ の罪は私たちに提供される救いを、完全に知りながら、同意して公然と拒絶することにあります。イエズス・キリストが善い神であるということ、そしてご自分 のいと聖なる御母に背き、軽蔑することを私たちにお許しにならないということを忘れないようにしましょう。」

世界の救いのためにロシアが聖母の汚れなき御心に捧げられなければならないという点については、後に触れることにしたいと思います。



三人の幻視者たち

さて、ファチマのメッセージについて述べて来ましたが、1917年以後三人の子どもたちはどのような道を歩んだのでしょうか。まず、フランシスコから見て行きましょう。

フランシスコ(1917年10月-1919年4月4日)

フランシスコは瞑想的で優しい心の持ち主でした。彼は御出現を受けて聖母と神御自身が無限に悲しそうであ ると感じ、この御二人を慰めたいといつも考えていました。エフェソの信徒への手紙の中で聖パウロが「神の聖霊を悲しませてはいけません」(4,30)と 言っているように、神は私たちの罪のために悲しまれるのです。イエズスはゲッセマネで祈られたときに「わたしは死ぬばかりに悲しい」(マルコ、 14,34)と言われました。イエズスの御受難を預言していると言われる詩編69ではこう言われています。「わたしが受けている嘲りを、恥を、屈辱をあな たはよくご存じです。わたしを苦しめる者は、すべて御前にいます。嘲りに心を打ち砕かれ、わたしは無力になりました。望んでいた同情は得られず、慰めてくれる人も見だせません。 人はわたしに苦いものを食べさせようとし、渇くわたしに酢を飲ませようとします」(20-22)。イエズスはパレ・ル・モニアルで聖マルガリタ・マリアに 御出現になったとき、詩編のこの言葉と同じ嘆きを、棘に取り巻かれた御自分の聖心をお示しになりながら洩らされました。フランシスコはこの神の悲しみを慰 めたいと心底から思っていました。彼は妹のジャシンタといとこのルシアにかつてこう言っています。「ぼくは神様をとても愛している。だけど罪があまりにも 多いので、神様はたいへん悲しんでいらっしゃる。ぼくたちはもう二度と罪を犯してはいけないんだ。」

すでに1916年にカベソにおいて天使が3人の子どもたちに御聖体のうちにおられるイエズス に対する侮辱の償いをし、イエズスを慰めるように招きました。御聖体と御血を与える前に天使は彼らにこう言いました。「恩知らずの人々によって恐ろしく侮 辱されたイエズス・キリストの御身体を受け、御血を飲みなさい。彼らの罪のために償いをし、あなたがたの神を慰めなさい。」フランシスコはこの償いと慰め が祈りと犠牲によって行われることをよく理解していました。フランシスコは一人でいることを好み、神を慰めるためによく祈りました。彼はまた食事や水を自 らに制限して犠牲を捧げ、神を慰めていました。

フランシスコは神の「悲しみ」に対する感受性を持っていましたが、同時にまた病人や苦しんでいる人々に対して同情する優しい心を持っていました。彼は人から祈りを頼まれると必ず約束を守り、また彼の祈りはよく聞き入れられました。

1917年6月13日の御出現のとき、ルシアは聖母に天国に連れて行ってもらえるかどうかを 訊ねていますが、聖母はそれに対して「ええ、フランシスコとジャシンタをまもなく連れて行きます」と答えておられます。このときからフランシスコとジャシ ンタは自分たちの生命がそれほど長くないことを知っていました。フランシスコは最後の御出現から1年半後に天国に召されるのです。聖母から天国へ連れて いってもらえるという確信と神の「悲しみ」に対する特別の感受性はフランシスコの行いをよく説明します。彼は短期間に驚くほど進歩しました。彼はある婦人 から将来何になりたいか、いろいろの職業を挙げて質問されますが、そのどれをも否定してこう言っています。「そのどれにもなりたくありません。ぼくは死ん で天国に行きたいのです」と。彼は「隠れたイエズス」すなわち、御聖体をしばしば訪問します。

最後の御出現からわずか1年後の1918年10月終わりにスペインに端を発したインフルエン ザがヨーロッパに猛威を振るい、ポルトガルにも大流行します。8歳だったジャシンタと10歳だったフランシスコもこのインフルエンザにかかります。フラン シスコもジャシンタもいったんはよくなるのですが、12月23日に再び悪化します。このとき特にフランシスコは半月も高熱が続き、動くこともできないほど になりました。そのような病状にもかかわらず、フランシスコはいつも明るく振る舞い、主イエズスを慰めるために自分の苦しみを捧げていました。ジャシンタ がルシアに語ったところによると、聖母がフランシスコとジャシンタに再び御出現になり、フランシスコをまもなく天国に連れて行くと言われたそうです。おそ らく1918年のクリスマスの頃だったようです。翌1919年1月の半ば頃には2度目の回復の兆しがあり、起きあがれるほどでした。家族は喜んだのです が、フランシスコは自分の運命をすでに知っていて、「聖母がまもなく迎えにこられます」と繰り返していました。1月の終わりか2月の初めにフランシスコは 懐かしいコヴァ・ダ・イリアへ行くことができました。彼はそれがこの祝福された土地への最後の訪問であることを知っていました。

フランシスコは自分の役割がイエズスの聖心と聖母マリアの汚れなき御心を慰めることであるということをよく知っていました。彼が病床に臥していちばん残念だったことは、教会に行って御聖体の前で長い時間を過ごすことができなくなったことでした。

4月2日水曜日、フランシスコは御聖体をうけるために告解をしたいと望み、父のティ・マルト は教区司祭フェレイラ師に家に来てくれるように司祭館まで頼みに行きます。フランシスコは告解のための入念な準備をします。告解の後、遂に念願の聖体拝領 をします。1919年4月4日金曜日フランシスコは最後の日を迎えます。彼は母親を側に呼び、こう言います。「お母さん、ドアの側にあの美しい光を見て よ!」しばらくして、「もう見えないよ」。夜10時頃、彼の顔は天使のほほえみで輝き、苦しむことなく静かに息を引き取ります。4月5日土曜日小さな葬列 がフランシスコの遺体をファチマの墓地へ運びました。ルシアは涙ながらに葬列に加わりましたが、ジャシンタは病床にとどまらなければなりませんでした。こ のようにして、聖母の預言は成就し、ファチマの幻視者の一人が天国へ旅立ちました。フレール・ミッシェルは聖ルイ・ド・モンフォールの次の言葉がフランシ スコに適用できると言っています。「人は自分自身の意志に長年従い、自分自身に頼ることによってよりも、短い時間にマリアに従い、より頼むことによってよ り多く進歩する」。



ジャシンタ(1917年10月-1920年2月20日)

ジャシンタは兄のフランシスコとはかなり違った性格と気質を持っていました。兄と妹はファチマの聖母の メッセージの二つの面をそれぞれ生きる相補的な使命を摂理によって与えられたかのようでした。フレール・ミッシェルはそのことについて次のようなことを 言っています。瞑想的な魂を持っていたフランシスコはとりわけ神と聖母の悲しさに惹かれ、イエズスとマリアの苦しみに同情し、祈りによってイエズスとマリ アの御心を慰めることを強く望んでいました。ジャシンタもまた優しい、愛情に溢れた心の持ち主でしたが、彼女は多くの霊魂が地獄の火の中に陥るのを見て心 を痛め、できるかぎり彼らの罪の償いをし、マリアの汚れなき御心から彼らの回心の恵みを得たいと思いました。聖母が1917年8月13日に告げられたメッ セージの「祈りなさい。たくさん祈りなさい。そして罪人たちのために犠牲を捧げなさい。多くの魂が、彼らのために犠牲を捧げたり、祈ったりしてくれる人を 持っていないからです」という言葉は彼女の心を捉え、彼女は聖母のこのメッセージを身をもって生きます。 彼女の望みはできるかぎり多くの霊魂の救いであり、罪人の回心でした。そしてその罪人の回心のために祈りと犠牲を捧げました。

ジャシンタは6回の聖母御出現が終わった後にも、1920年2月に亡くなるまでの間、絶えず 聖母の御出現を受ける恵みを神から戴いていました。1917年10月13日以降、ファチマの教区司祭フェレイラ師がその手記を完成させた1918年8月6 日までのわずか10ヶ月くらいの間にも、聖母が少なくともジャシンタに3回御出現になった、とフェレイラ師はその手記の中に書いています。シスター・ルシ アの手記にはこれらのジャシンタへの聖母の御出現については何も述べていません。ルシアはその手記の中で、ジャシンタには独特の預言的な幻視があったこと に触れています。それは1917年7月13日の秘密のなかで告知された出来事に関する幻視です。おそらく1917年7月13日からジャシンタがインフルエ ンザで病床につくまでの1918年10月の間のいつかにあった出来事です。三人でシエスタを終えた後、ジャシンタがルシアを呼んで次のような光景が見えな いかどうか訊ねます。ルシアには見えませんでした。教皇が大きな家にいて、手で顔を覆い、テーブルのところに跪いています。教皇は泣いていました。家の外 には多くの人がおり、ある人々は石を投げ、他の人々は教皇を呪い、きたない言葉を使っていました。ジャシンタはこう言います。可哀想な教皇、わたしたちは 教皇のためにたくさん祈らなければなりません、と。別の日に彼らがラパ・ド・カベソという洞窟に行ったとき、ジャシンタは次のような幻視を経験していま す。道に人々が溢れ、彼らは食べ物がなくて飢えて泣き叫んでいます。教皇がある教会の中で聖母マリアの汚れなき御心の前で祈っています。多くの人々が教皇 と一緒に祈っています。これらの幻視は7月13日の聖母の預言、教皇の迫害や戦争の勃発に関係しています。これらのジャシンタの幻視は聖母がこの純真で感 受性の鋭い小さな魂に聖母の御心を打ち明けられたものだ、とルシアは思いました。聖母のメッセージは私的・個人的性格のものではなく、全世界に向けられた 公的な性格のものでした。聖母はジャシンタに未来を明らかにされ、教皇が迫害され、嘲けられ、見捨てられる様を見せられました。ジャシンタは教皇のために どれほど祈らなければならないかを理解しました。

1918年10月の終わりにジャシンタがインフルエンザにかかったとき彼女はそれが苦しみの 始まりであることを自覚していました。彼女はすでに「十字架を通して光へ、死を通して生へ」(Per crucem ad lucem. Per mortem ad vitam)至るべきことを天使からそして聖母から教えられていました。1916年夏にアルネイロの井戸のそばで三人の子どもたちは天使から「主が与え給 う苦しみを従順に受け入れ、堪え忍びなさい」と言われていました。また1917年5月13日には聖母から「あなたがたは、神に背く罪の償いと罪人たちの回 心への嘆願の行いとして、喜んであなたがた自身を神に捧げ、神があなたがたにお与えになるすべての苦しみを耐えますか」と訊かれて、ルシアは皆を代表し て、「はい、喜んで」と答えています。聖母はそのときこう言われました。「それでは、あなたがたは多く苦しむことになるでしょう。しかし、神の恩寵があな たがたの慰めとなるでしょう。」この時以来、ジャシンタはどれほど多くの祈りと犠牲をアルネイロの井戸のそばで捧げたことでしょう!

ジャシンタが病状がすこしよくなったときにルシアに次のように打ち明けたことがあります。彼 女と兄のフランシスコに聖母が御出現になり、「フランシスコをまもなく天国に連れてゆきます」と言われましたが、ジャシンタに「罪人をもっとたくさん回心 させることを望んでいますか」と訊ねられました。ジャシンタがはいと答えると、聖母はたくさん苦しむために病院に行くことになる、癒されるためにではな く、主の愛のため、また罪人のためにもっと苦しむために二つの病院に行くことになる、とジャシンタに告げられました。ジャシンタは苦しむことが多ければ多 いほど、それだけ多くの霊魂を地獄の火から救うことができるということを理解していました。このようにして、ジャシンタは家族やルシアから遠く離れた病院 で孤独のうちにその短い生涯を終えることになります。

ジャシンタは1918年10月の終わり以降、気分のいい数日間を除いてベッドから離れること ができませんでした。気管支肺炎の後に肋膜炎が彼女に大きな苦しみを与えました。彼女は自分の苦しみについて決して愚痴を言わないようにしていました。そ れは一つには母親であるオリンピアに対する繊細な配慮からであり、一つにはこのおまけの犠牲を捧げるためでした。ジャシンタは母親に言わない苦しみをルシ アには告げていますが、こうつけ加えています。「わたしはわが主のため、マリアの汚れなき御心に対して犯された罪の償いのため、教皇のためそして罪人の回 心のために苦しみたいの」。

ジャシンタは誰の目から見ても愛すべき、感受性に富んだ、愛情深い心の持ち主でした。天使と 聖母の御出現以来、ルシアやフランシスコとは特別な霊的関係で結ばれ、彼らとの友情は病気になって以来の彼女の最も甘美な慰めでした。ジャシンタはこの幸 せの最後の源をも犠牲として捧げるために断念しようと努めていました。1919年4月4日にフランシスコが亡くなる少し前に、ジャシンタはルシアのいる前 でフランシスコにこう頼んでいます。「わたしの愛のすべてを主と聖母に捧げます。罪人の回心とマリアの汚れなき御心に対する償いのために主と聖母がお望み になるだけ、わたしは苦しみます、とお二人に伝えてちょうだい。」フランシスコとの別れはジャシンタの心を引き裂きましたが、その悲しみ、苦しみを犠牲と して捧げました。前にも述べましたように、病床に釘付けにされて、彼女は愛する兄の葬儀にも参加できませんでした。

1919年7月に医師の勧めで、ジャシンタはヴィラ・ノヴァ・デ・オウレムの聖アウグスティ ヌス病院に入院することになりました。このようにして聖母の預言は実現されるのです。ジャシンタは自分が癒されるためでなく、苦しむために入院するのだと いうことを知っていました。7月1日から8月31日までの2ヶ月間の入院生活はジャシンタには大きな苦しみを与えましたが、とりわけ彼女の苦しみを大きく したのは孤独でした。フランシスコを失って、残るルシアにジャシンタは会いたくてたまりませんでした。アルジュストレルの村からヴィラ・ノヴァ・デ・オウ レムまでは15キロメールほどの距離があり、行くのは大変でした。それでも、母親のオリンピアはルシアを連れて2度ジャシンタの見舞いに行っています。こ のときにも、ジャシンタはルシアに大きな苦しみを罪人の回心とマリアの汚れなき御心に対する償いのために捧げると伝えています。8月末に治療の結果もはか ばかしくなく、またマルト家の家計も許さなくなったので、ジャシンタは退院して家に帰ります。ジャシンタは横腹の傷が化膿し、傷口がふさがりませんでし た。彼女はいつも熱があり、身体は骸骨のように痩せていました。ルシアは2年前に3人で訪れたカベソの丘へ行って、アイリスやシャクナゲの花を摘んでジャ シンタの病床に持って行きます。ジャシンタは「わたしはもう二度とあそこに、そしてヴァリニョスやコヴァ・ダ・イリアにも行けないわ」と言って涙を流しま す。ルシアは「それが何よ。あなたは天国に行って主イエズスや聖母に会えるじゃないの」と言ってジャシンタを慰めます。ジャシンタにはもう残された時間は あまりありません。そのわずかの期間にはもっと辛い日々が待っていました。

ジャシンタがルシアに語ったところによれば、1919年12月に聖母がジャシンタに御出現に なり次のように言われたとのことです。ジャシンタはリスボンの病院にもう一度入院することになる、ルシアとはもう会えない、両親や兄弟とも会えない、たっ た一人病院で死ぬと。しかし、聖母はそのとき、御自分がジャシンタを天国に連れにくるから、怖がらなくてもよいとジャシンタに言われました。 この聖母の預言は思いがけない仕方で実現されます。ジャシンタの両親はヴィラ・ノヴァの病院での治療が思わしくなかったので、娘を別の病院に入院させるこ とは無益だと考えていました。1920年1月半ば頃にリスボンの有名な医師であるリスボア博士がファチマを訪れ、フォルミガオ神父とサンタレムの神学校教 授に会い、ジャシンタの治療について協力を求めました。この医師と教授の説得を受け、両親はフォルミガオ神父にも相談して、ジャシンタを首都リスボンの病 院に送る決心をしました。

ファチマを永遠に去ることが決まって、ジャシンタは母親に願って最後の機会にコヴァ・ダ・イ リアへ連れて行って貰いました。もちろんジャシンタは自分で歩けませんので、ロバの背に乗せられてそこへ行きました。カレイラ池についたとき、ジャシンタ はロバから下りて、一人でロザリオの祈りを唱えました。彼女はチャペルに供えるために花を摘みました。チャペルでは跪いて祈りました。そして母親のオリン ピアに聖母が御出現になったときの様子を語って聞かせるのでした。

ついにファチマを去る日が来ました。ジャシンタはルシアと抱き合って最後のお別れをしまし た。「わたしのためにたくさん祈ってね。わたしが天国に行ったらあなたのためにたくさん祈るわ。秘密を絶対漏らさないでね。イエズス様とマリアの汚れなき 御心をたくさん愛してくださいね。そして罪人たちのためにたくさん犠牲を捧げてくださいね」そう言って彼女は泣きました。母親と長兄のアントニオが付き 添って行くことになりました。リスボンまで汽車に乗っての旅でした。

リスボンで彼女たちを病院に入るまでの間引き受けてくれるはずであった人が、ジャシンタのあ まりにも惨めな状態を見て、引き受けることを拒みました。ジャシンタは傷口が化膿していて、いやなにおいを発していたこともありました。何軒も家を廻って 断られたあげく、最後に一軒の家に受け入れて貰い、一週間ほどそこにいて、オリンピアとアントニオはファチマへ帰りました。ジャシンタは最終的に「奇蹟の 聖母」と呼ばれる孤児院に受け入れられました。その施設の創設者マザー・ゴディーニョは最年少の幻視者の一人を自分のところに受け入れられたことをたいへ ん喜び、自分に与えられた名誉を誇らしく思いました。ジャシンタはその施設でミサに与り、御聖体を拝領するという思いがけない恵みを受けたことを喜びまし た。

リスボア博士はジャシンタを入院させて、手術をしようと思っていましたが、思いがけず母親の オリンピアの強い反対に出会いました。しかし、オリンピアも最終的には同意して、1920年2月2日にジャシンタは「奇蹟の聖母」孤児院を出て、ドナ・エ ステファニア病院小児病棟に入院します。彼女は自分の最期が近いことを知っていましたが、それとは関係なしに事は進みます。彼女は孤児院にいたときのよう な、御聖体を礼拝したり、拝領したりできなくなりました。そのことはまさに彼女にとって一つの大きな犠牲でした。マルト家では他の子どもたちが病気にかか り、オリンピアはジャシンタを置いて帰郷しなければならなくなりました。2月5日、ジャシンタは一人きりになりました。マザー・ゴディーニョや他の女性た ちが毎日、見舞いには来てくれましたが、母親に代わることはできませんでした。このようにして、聖母の預言は実現されました。ジャシンタはこの大病院の中 でたった一人で死んで行かなければなりません。

ジャシンタの手術を担当したのはカストロ・フェレイレ博士でした。「化膿した肋膜炎。左第7 および第8肋骨骨炎」という診断でした。手術は2月10日に行われました。2本の肋骨が切除されました。毎日の傷の手当は耐えられないほどの苦痛を与えま した。ジャシンタは聖母の御名を繰り返していました。父親が一度見舞いに来ましたが、長く滞在できず、苦痛と孤独に悩まされているジャシンタを残して直ぐ に帰りました。死の3日前、ジャシンタはマザー・ゴディーニョにこう打ち明けています。「マザー、わたしはもう痛みがありません。聖母がまた御出現になっ て、もうすぐわたしを連れていく、わたしはもう苦しまないでしょう、とおっしゃいました」。

リスボア博士が術後の経過のよいことを父親のマルト氏とアルヴェアゼレ男爵に手紙を書きまし たが、ジャシンタは彼女の死の日時を知っていました。リスボア博士の報告によれば、2月20日金曜日の夕方6時頃、ジャシンタは気分が悪くなったから終油 の秘蹟を受けたいと言いましたので、教区司祭のペレイラ・ドス・レイス博士が呼ばれました。夜8時頃に彼はジャシンタの告悔を聞きました。ジャシンタは臨 終の聖体拝領をさせてほしいと頼みましたが、レイス神父は彼女が元気そうに見えたので、その願いに同意せず、明朝御聖体を持って来てあげると言いました。 ジャシンタは繰り返し、まもなく死ぬから臨終の聖体拝領をさせてほしいと願いました。結局その夜彼女は亡くなり、御聖体は拝領しないままでした。このよう にして、聖母の預言がすべて実現しました。ジャシンタはその最期に両親や友人も誰一人そばに付き添わずにたった一人で亡くなりました。彼女があれほどに望 んでいたホスチアの中に現存されるイエズスをいただくという至高の慰めからも遠ざけられて最大の犠牲を捧げたのでした。



ルシア(1917年-1925年)

「私はジャシンタとフランシスコをまもなく連れて行くでしょう。しかし、あなたはそれよりも少し長く地上にとどまらなければなりません。イエズスは人々に私を知らせ、愛させるためにあなたを使うことを望んでおられます。 イエズスはこの世界に私の汚れなき御心への信心を打ち立てることを望んでおられます」1917年6月13日の御出現のときに、聖母はルシアにこう言われま した。定められたときにマリアの汚れなき御心と教会と世界に関するマリアのお望みのメッセンジャーとなる前にルシアが果たしておかなければならなかった仕 事が二つありました。一つは彼女が見そして聞いたすべてのことについて絶え間ない証言をすること、明瞭で説得力のある証言をすることでした。その次ぎに、 そのことを実現できるための力をつけること、-これも同じ日に聖母がルシアに望まれたことですが-「読み書きの勉強をすること」でした。聖母はルシアが天 のメッセージを教会と世界に伝達することができるようになるために、勉強を望まれたのでした。「イエズスは人々に私を知らせ、愛させるためにあなたを使う ことを望んでおられます」と聖母は言われたからです。

1917年10月の御出現以後、ルシアの身に起こったことを簡単に見ておこうと思います。 10月の大奇蹟以後、人々は三人の幻視者たちを追いかけては質問を試みました。彼らはそういう人々から身を隠すのに大変な労力を使っています。彼らは皆非 常に謙遜でしたから、人々から褒められたり、聖人扱いされることを用心していました。ルシアは司祭たちから何度も厳しい尋問を受けています。聖母のメッ セージの中でまだ明かしてはならない秘密の部分がありましたから、ルシアが尋問に対して答えられない場面が何度もありました。ルシアは司祭たちの尋問の厳 しさをいつも経験し、神と聖母にどうしたらよいか何度も祈って訴えています。司祭の中には脅迫や嘘や侮辱によってルシアから秘密を聞き出そうとする人もい ました。ルシアにとって司祭と話をすることが神に捧げる最も大きな犠牲の一つであることもたびたびでした。もちろん、例外もありました。カノン・フォルミ ガオ神父やファウスティノ・ヤチント・フェレイラ神父などがそうです。フェレイラ神父は賢明で親切な助言者、真の霊的指導者でした。

1919年4月フランシスコの死が訪れ、ルシアは非常に悲しみ、寂しさを感じます。この悲し さはこれ以後の長い年月の間ルシアの心を貫く茨の冠であったと彼女は述べています。ジャシンタの項でものべましたが、フランシスコの死の3ヶ月後に今度は ジャシンタがヴィラ・ノヴァ・デ・オウレムの病院に入院することになり、ルシアはまた辛い別れを経験します。ジャシンタが入院していたこの3ヶ月の間に たったの2度短い訪問をしただけでした。ルシアには不幸が積み重なってきます。1919年7月31日に頑健であった父アントニオが肺炎で急死します。いつ もルシアを理解し、ルシアの味方になってくれていた父を失ってルシアは死んだ方がよいと思うほどに悲しみました。聖母にたくさん苦しまなければならないと 言われていたものの、このような悲しみが襲うとは思いもよらないことでした。しかし、ルシアはこの苦しみをマリアの汚れなき御心に対して犯された罪の償い として、また教皇のため、罪人たちの回心のために捧げます。アントニオはあまり熱心な信者ではありませんでしたが、亡くなる前に神との和解である告解の秘 蹟を受けていたことがせめてもの慰めでした。1919年にはルシアの悲しみはまだ続きます。冬に母マリア・ロサが病に倒れます。心臓疾患によるひどい咳で 死にそうになります。子どもたちが母の周りに集まって彼女から最後の祝福を受けました。皆泣きました。姉の一人がルシアに「あなたが巻き起こしたごたごた で母さんは悲しんで死んで行くのだわ」と言って責めます。ルシアは悲しくなって跪いて祈り、その苦しみを主に捧げました。別の二人の姉がルシアのところに 来て、母の状態が絶望的だと考え、ルシアにこう頼みます。「ルシア、あなたがもし本当に聖母を見たのならば、いますぐコヴァ・ダ・イリアまで行ってお母さ んを癒してくださるようマリア様にお願いして来て。」ルシアは直ぐに出かけ、道々ロザリオを唱えながら、抜け道を通り野原を横切ってコヴァ・ダ・イリアま で急ぎました。そこで、聖母に涙ながらに母の癒しを願いました。聖母はきっと自分の祈りを聞き入れて母の健康を回復してくださるという希望に慰められてル シアは帰途につきました。帰宅すると、母の気分は幾分よくなっていました。ルシアは聖母に願いを聞き入れてくださったら、姉たちと一緒に9日間コヴァ・ ダ・イリアに行き、ロザリオを唱え、道路からウバメガシのところまで膝で歩いて行く苦行をし、9日目に9人の貧しい子どもたちを家に招いて食事を出す約束 をしました。ルシアがしたこの苦行は今日でもファチマの巡礼者たちの間に見られるものです。

1920年2月20日にはリスボンの病院で聖母の預言どおりにジャシンタが一人ぽっちで亡く なりました。ルシアはリスボンへは一度も見舞いに行けませんでした。ジャシンタの遺体はヴィラ・ノヴァ・デ・オウレムに葬られました。オリンピアに連れら れてお墓参りに行きましたが、ルシアの悲しみはいやましに深くなりました。

フォルミガオ神父は1917年10月13日以来、子どもたちをファチマから離した方がよいと 考えていました。今やルシアは13歳の思春期の少女です。神父は彼女が寄宿舎のある学校に入ることをマリア・ロサに勧めます。最初、渋っていた母も神父の 説得によって承諾し、リスボンに行く決心をします。フォルミガオ神父の紹介で親切な婦人-ドーニャ・アスンサオ・アヴェラル-がルシアを経済的に援助して くれることになりました。このようにして1920年7月7日にルシアは母と一緒にリスボンに行きました。母のマリア・ロサは悪かった腎臓の手術を医師に相 談しますが、彼女には余病もあったので医師は責任を持てないと言い、結局手術をせずに、ルシアをアヴェラル女史に委ねてファチマに帰りました。ルシアはし ばらくこの婦人の家にいましたが、行政当局がルシアの居所を探していることがわかり、8月6日にサンタレムのフォルミガオ神父のところにかくまわれます。 1920年7月25日にレイリア教区に新たにダ・シルヴァ司教が叙階されました。フォルミガオ神父と相談してダ・シルヴァ司教自身がポルトの近くのヴィラ ルにあるドロテア姉妹会の学院をルシアのために選びました。1921年6月13日、ルシアはある婦人に連れられて司教館に行き、初めてダ・シルヴァ司教に 会います。司教はルシアに対してとても親切で、彼女を正当に遇してくれました。マリア・ロサとの相談もなされて、ルシアの出発は6月16日と決まりまし た。ルシアは大急ぎでファチマに帰って身の回りのものを整え、懐かしい場所に別れを告げなければなりませんでした。しかし、司教との約束で、ファチマの親 しい人々と別れの挨拶をすることは許されませんでした。ですから、ルシアは友人や親戚の者に一言も彼女の落ち着き先について語ることができませんでした。 彼女は出発の前に、懐かしい場所、カベソ、ヴァリニョス、井戸、教区の聖堂などに別れを告げ、もう来ることはないだろうと思って胸が締め付けられました。 このようにして、ルシアは1921年6月15日にひっそりとファチマに別れを告げたのでした。翌6月16日、ルシアは朝2時に起き、母マリア・ロサとレイ リアまで出かける労働者のマヌエル・コレイラと一緒に、誰にも別れを告げずに、家を出ました。彼らはコヴァ・ダ・イリアを通って行きましたので、ルシアは 最後の別れをこの尊い場所に告げることができました。シスター・ルシアの手記には書いてありませんが、彼女が後に1946年5月にファチマに巡礼したとき にガランバ神父に語ったところによれば、このとき、聖母が無言のままルシアに御出現になったそうです。朝9時頃レイリアに着いたルシアと母親はレイリアの 司教館に行きます。そのときに、ダ・シルヴァ司教はルシアにもう一度、これからは自分が何者であるかを人に告げてはならない、ファチマの御出現に関しても いっさい他言してはならない、という勧告をしました。ルシアはパトロンとなるドーニャ・フィロメナ・ミランダ-この人はルシアの堅信の秘蹟の代母となった 人です-とレイリアの駅からポルトの近くのヴィラルに行く汽車に乗ります。駅で母と涙の別れをしました。6月17日朝早く、ドーニャ・フィロメナはルシア をアシロ・デ・ヴィラルのドロテア会の学院へ連れて行きます。ミサに与り、聖体拝領をした後で、院長のマザー・マリア・ダス・ドーレス・マガリャエスに紹 介されます。彼女はルシアに司教と同じように、身元を明かさないようにという強い勧告をします。ルシアはこれからはマリア・ダス・ドーレスと名乗り、リス ボンの近くの出身であると他人に言わなければなりません。14歳のルシアはこのようにして、世間から隠れて学院の寄宿生として勉学に励むことになりまし た。

1923年から1924年にかけてルシアはカルメル会入会を強く望んでいました。幼きイエズ スのテレジアが列聖されたばかりのことで、多くの女性がカルメル会に惹きつけられていたときで、ルシアもそうした女性の一人でした。しかし、1917年 10月13日の聖母の御出現のときに、ルシアがカルメル会の修道服を着、スカプラリオを手にした聖母を見たことも関係があるのかも知れません。ルシアはお そるおそる院長にこの希望を打ち明けますが、一言のもとに退けられます。院長の意見ではカルメル会はルシアには会則が厳格すぎる、もっと単純な会則のとこ ろを選んだ方がよいというものでした。 その後ルシアはドロテア会のシスターになる望みをマザー・マガリャエスに申し出ます。院長はまだ17歳で若すぎる、もう少し待ちなさいと言います。ルシア は沈黙と従順のうちに1年以上待ちます。18歳になったとき、院長がまだ修道女になることを考えているかと聞いたとき、ルシアはずっとそのことを考えてき た、修道女になりたいと言いました。このようにしてルシアは1925年8月24日堅信の秘蹟を受けました。そしてドロテア会入会志願者となりました。ダ・ シルヴァ司教は修道会の修練院のあるトゥイへ出発する許可を喜んでルシアに与えました。

10月24日学院でのお別れの会が開かれました。このとき身元を隠していたルシアの素性が明 かされました。学院の少女たちは感動と涙でルシアにさようならを言いました。ルシアは管区長のマザー・モンファリムに伴われて、国境の近くのスペインの古 い町トゥイへ向かう汽車に乗りました。このようにして少女ルシアはシスター・マリア・ルシア・デ・ヘスス・サントスになったのです。ルシアの喜びはどんな に大きかったことでしょう!



ファチマに関して日本語で読める書物を数点紹介します。

*矢代静一(文)・菅井日人(写真):奇蹟の聖地ファチマ、講談社
*菅井日人:聖母マリアの奇蹟 -メジュゴリエ/ファチマ/ルルド-、グラフィック社
*ヴィットリオ・ガバッソ、志村辰弥(共訳編):現代の危機を告げるファチマの聖母の啓示、ドン・ボスコ社
*渡辺吉徳(編訳):ファチマのロザリオの聖母、ドン・ボスコ社
*アントニオ・アウグスト・ボレッリ・マシャド著、特別寄稿 プリニオ・コヘイア・オリヴェイラ、成相明人訳:ファチマの聖母 そのメッセージは希望の預言か? 悲劇の預言か? 『フマネ・ヴィテ』研究会

ファチマの聖母 3 三上茂

2017-09-27 11:56:19 | ファチマの聖母(紹介)
今から82年前1915年以来、ポルトガルのファチマで起こった歴史的事実についてFrere Michel de la Sainte TriniteのThe Whole Truth about Fatima(tr.from French into English by John Collorafi)を参考にして若干のことを述べ,いくらかの私見も加えてみたいと思います。



マリアの汚れなき御心と霊魂の救い

ポンテヴェドラ:1925年12月10日(木曜日)-5ヶ月の初土曜日の信心-

ルシアはポンテヴェドラのドロテア会修道院に志願者とし て1925年10月25日から1926年7月20日までいました。1925年12月10日木曜日の夕方、18歳の志願者ルシアに聖母マリアと幼子イエズス が御出現になりました。そのときの様子はルシアの証言によれば、次の通りです。聖母が御出現になり、彼女の横に輝く雲の上に高められて幼子イエズスがい らっしゃいました。聖母はルシアの肩の上に手を置かれ、棘によって取り巻かれた彼女の御心を片方の手に持たれて、それをルシアに示されました。そのとき、 幼子イエズスがこう言われました。

「あなたのいと聖なる御母の御心に同情しなさい。それは棘で覆われています。恩知らずの人々はその棘で御心をいつも突き刺しています。そしてそれらの棘を取り除くために誰一人償いの業をしません。」

次ぎに聖母がこう言われました。

「私の娘よ、私の御心を見なさい。それは棘で取り巻かれています。その棘で恩知らずの人々は冒涜と 忘恩によって絶えず私の御心を突き刺しています。少なくともあなたは私を慰めるよう努めてください。そして私の名において次のことを告げ知らせてくださ い。私は、償いをするという意向をもって引き続き5ヶ月の間初土曜日に告悔をし、御聖体を受け、ロザリオ5連を唱え、ロザリオの15の玄義を黙想しながら 15分間私と共にいるすべての人に、救いのために必要なすべての恵みをもって臨終のときに助けることを約束します。」

ルシアはこの御出現とメッセージを直ぐに院長のマザー・マガリャエスに告げ、またポンテヴェドラ修道院の 霊的指導司祭ドン・リノ・ガルシア神父にも報告しました。彼はルシアに後で必要になるかもしれないから、すべて書き留めておくように命じました。ルシアは この出来事の詳細な説明をアシロ・デ・ヴィラルから来ている霊的指導司祭、ペレイラ・ロペス師のために書きました。12月29日に院長のマザー・マガリャ エスはダ・シルヴァ司教に御出現の件を報告していますが、あまり正確ではなかったようです。ペレイラ・ロペス師はルシアに返事の手紙を出しました。その中 で彼は留保を表明し、質問をし、待つように勧めました。2月15日にルシアは質問に答え、出来事の詳細な説明をする手紙をロペス師に送りました。

この手紙の中でルシアはロペス師に、聖体拝領の際にイエズスに対してロペス師の手紙を読んであげ、こう申 し上げた、と書いています。「おお、私のイエズスよ、あなたの恵みによって、祈り、苦行、信頼をもって私は従順が私に許し、そしてあなたが私に霊感をお与 えになるすべてのことをなそうと思います。そのほかのことはあなたが御自身でなさらなければなりません」と。数ヶ月前に一人の子どもに出会った同じ場所 で、ルシアはゴミを捨てに行った際に、またその子どもに出会います。以前に会ったときにルシアはその子に「めでたし」を一緒に唱え、「おお、天にいます私 の御母よ、私にあなたの御子イエズスを与えて下さい」という祈りを教えたのでした。そしてこの日またその子どもに会ったので、「あなたは天の御母に御子イ エズスを求めましたか?」と訊ねますと、その子どもは「あなたは、天の御母があなたに求められたことを世界に明らかにしましたか?」と言いながら、光輝く 子どもに変りました。それで、ルシアはその子どもがイエズスであることが分かりこう言いました。「私のイエズス!あなたは読んでさしあげた手紙の中で私の 霊的指導司祭が言われたことをご存じです。彼はこの幻視は繰り返されなければならない、私たちにそれを信じさせる事実がなければならない、そして院長様だ けではこの信心を広めることはできない、と言われました。」それに対してイエズスはこう答えられました。

「院長一人だけでは何もすることができないことは確かです。しかし、私の恵みがあれば、彼女は何で もできます。あなたの霊的指導司祭があなたに許可を与えること、あなたの上長がそのことのためにこれを告知することが必要です。それが誰に明らかにされた かを人々が知らなくても、人々によって信じられるようになるためです。」

「しかし、私の霊的指導司祭はその手紙の中で、この信心はすでに世間に存在すると言われました。と申しますのは、多くの霊魂は聖母の栄光のために毎月初めの土曜日に御聖体を受け、ロザリオの15玄義を唱えていますから。」

「私の娘よ、多くの霊魂が始めていることは確かです。しかしほとんどの人は最後までやり通しませ ん。そしてやり通す人は約束された恵みを受けるためにやり通すのです。熱心に5ヶ月の初土曜日の信心をする霊魂、あなたがたの天の御母の御心に対する償い をする霊魂は15連のロザリオを唱えるが、しかし生ぬるい、どうでもよい仕方でそうする霊魂よりもずっと私を喜ばせます。」

「私のイエズス!多くの霊魂は土曜日に告悔するのを難しいと感じています。8日以内にする告悔を有効だと認めてくださいますか?」

「初土曜日に御聖体を拝領するときに恩寵の状態にあり、そしてマリアの汚れなき御心に対する償いをする意向を持っているならば、それ以後でも告悔の秘蹟を受けることができます。」

「私のイエズス!ではこの意向を入れることを忘れた人はどうでしょうか?」

「告悔に行く最初の機会を利用して次の告悔のときにその意向を入れることができます。」

イエズスとルシアの会話はこれで終わり、イエズスはルシアの前から姿を消されました。

大いなる約束と6つの条件

聖母マリアの汚れなき御心に対する信心は人間にとって最も大切な永遠の救いが成就されるか否かを決定する臨終に際しての決定的な援助を約束しています。これには5つの条件とこの5つの条件を満たす際に必要な一般的意向が要求されます。

1)5ヶ月続けて初土曜日にミサに与ること

初土曜日の信心はそれ以前からも行われていましたが、初めのうちは15ヶ月続けて行うことが一般的でし た。1889年には教皇レオ13世はこの信心を実行する人に全贖宥という特権を与えました。聖ピオ10世は12ヶ月の初土曜日の信心を公式に認め、それを 実行する人に全贖宥を与えています。条件は告悔、聖体拝領、教皇の意向のための祈り、でした。1912年6月13日に同じピオ10世はポンテヴェドラを予 告するかのように、「神の御母、汚れなきマリアに対する信者の信心を促進し、不敬虔な人々によってマリアの御名と特権に対して犯された侮辱に対する償いを するために、初土曜日の信心に対して全贖宥を認め、これを煉獄の霊魂にも適用できるとされました。条件は告悔、聖体拝領、教皇の意向のための祈り、汚れな きおとめを称えて償いの精神で敬虔に信心を行うことでした。」1920年11月13日教皇ベネディクト15世は8ヶ月の初土曜日信心に対して新しい贖宥を 与えることを認めました。 このような伝統を持つマリア信心を私たち弱い人間にもっと容易なものとすることをポンテヴェドラで聖母は約束なさったのです。

2)その間毎月一度告悔の秘蹟を受けること

イエズスがルシアにお答えになったように、告悔は初土曜日当日にしなければならないわけではありません。もちろん、初土曜日になるべく近い日にすることが勧められますが、毎月1回告悔の秘蹟を受ければよいのです。

3)償いの聖体拝領をすること

償いの聖体拝領は償いの信心の中で最も重要なものです。フレール・ミッシェルはその意味と重大さを理解す るためには1916年秋の天使による三人の子どもたちの聖体拝領を考えるべきだと言っています。また、パレ・ル・モニアルでの聖心によって要求された9ヶ 月の初金曜日での聖体拝領との関連も考えられます。土曜日にミサに与り、聖体拝領ができない場合には、司祭の許可を得るという条件で(個人が勝手に決めて はならない)、日曜日に代えることができます。

4)毎日ロザリオの祈りを唱えること

1917年の御出現では毎回聖母は毎日ロザリオを唱えることを人々にお求めになりました。これはマリアの汚れなき御心に対して犯される侮辱に対する償いのためです。

5)ロザリオの15玄義を15分間黙想すること

ロザリオを唱えることに加えて、聖母はロザリオの15の玄義を15分間黙想することを求めておられます。これは1玄義を15分間ずつというのではなく、全部で15分間ということですから、簡単にできることです。

6)マリアの汚れなき御心の侮辱に対する償いという意向を入れること

この一般的な意向がないならば、上に挙げた5つの行いは無意味になります。聖母が示された棘に取り巻かれ た汚れなき御心は罪人たちの冒涜と忘恩が棘のように聖母の御心を苦しめていることを示しています。聖母の御心を慰めるということは私たちの愛と償いの行為 によって聖母の御心からそれらの棘を取る去ることを意味しています。

トゥイ:1930年5月29日-30日の啓示

シスター・ルシアはこのときトゥイの修道院にいました。 彼女の霊的指導司祭ゴンサルヴェス神父は書面でいくつかの質問を彼女にしましたが、その四つ目の質問は次のようなものでした。「聖母の悲しみを称えるため に、なぜ5回の初土曜日なのですか、なぜ9回あるいは7回ではないのですか?」その同じ夜、シスター・ルシアは主に、この質問に対する答えを願いました。 この日の夜、いつものように聖時間の祈りをしているときに、この点に関して主から次の啓示を受けました。

「わが娘よ、その答えは簡単です。マリアの汚れなき御心に対して犯される5種類の罪と冒涜があります。

1.汚れなき御孕りを否定する冒涜。

2.聖母の処女性を否定する冒涜。

3.聖母が神の御母であることを否定する冒涜。

同時に聖母が人々の御母であることを拒否する冒涜。

4.子どもたちの心の中にこの汚れなき御母に対する無関心あるいは軽蔑、あるいは憎しみをさえ植えつけることをねらう人々の冒涜。

5.聖母の御像や御絵において聖母を直接侮辱する人々の罪。

ここに、わが娘よ、マリアの汚れなき御心がこの小さな償いの業を私に思いつかせた理由があります。」

マリアの汚れなき御心と世界の救い

第二の秘密

1917年7月13日金曜日に三人の子どもたちに地獄を見せた後聖母は次のように言われました。

-あなたがたは哀れな罪人たちが行く地獄を見ました。彼らを救うために、神は世界の中に私の汚れなき御心に対する信心を打ち立てることを望んでおられます。-

これは第一の秘密の結論に相当する部分です。聖母は続いて第二の秘密を明らかにされました。第一の秘密が 個人の救いに焦点を当てているのに対して、この第二の秘密は民族と教会の運命に関わって語られています。現代世界の平和が問題とされています。平和は人間 が神に背くとき人間に与えられないということを聖母は告げておられます。

-私があなたがたに言っていることがなされるならば、多くの霊魂が救われ、平和が来るでしょう。戦 争は終わるでしょう。しかし、人々が神に背くことを止めないならば、ピオ十一世の御代の間にもっとひどい戦争が起こるでしょう。未知の光によって照らされ る夜を見るとき、これが神によってあなたがたに与えられる大きなしるしであるということを知りなさい。神は戦争、飢饉、教会と教皇の迫害によって世界をそ の罪のために罰しようとしておられるのです。-

-このことを避けるために、私は私の汚れなき御心へのロシアの奉献と、初土曜日の償いの聖体拝領を 求めるために来るでしょう。もし私の要求が顧みられるならば、ロシアは回心し、平和が来るでしょう。もしそうでないならば、ロシアは戦争と教会の迫害を引 き起こしながら、その誤謬を世界中に広めるでしょう。善い人々は殉教し、教皇は多く苦しみを受け、さまざまの民族が絶滅させられるでしょう。-........

ここで問題になっていることは、個人の霊魂の救いではなくて、民族の戦争あるいは平和、教会の自由あるいは平和です。聖母のこの第二の秘密の主題はキリスト教世界の救いだと言えるでしょう。 第二の秘密を正確に理解するためには、私たちは聖母の「神は世界の中に私の汚れなき御心に対する信心を打ち立てることを望んでおられます」 という言葉に常に立ち帰らなければなりません。神の大いなる御計画はすべての霊魂によってばかりでなく、すべての民族によって聖母の汚れなき御心が愛さ れ、称賛され、栄光を帰されることです。神はこの聖母の汚れなき御心にキリスト教世界の上に比類のない恵みの宝を注ぐことをお委ねになりました。神が望ま れたことはキリスト教世界が聖母を単に私的にだけでなく、公的に荘厳に崇敬することでした。「世界の中に聖母の汚れなき御心の信心を打ち立てること」は個 人の心の中の問題にとどまるのではなくて、公的な教会の、世界の問題です。 ジャシンタが入院するためにリスボンに行く前にルシアに語った次の言葉はこのことを非常によく説明しています。 「....私が天国へ行くのはそれほど先のことではないでしょう。あなたは神が聖母マリアの汚れなき御心に対する世界の信心を確立することを望んでおられ るということを人々に知らせるために地上に残るでしょう。このことをあなたが言わなければならないとき、隠してはいけません。神は聖母マリアの汚れなき御 心を通じて恵みを私たちにお与えになりますから、彼らがその恵みを聖母にお願いしなければならないということをすべての人に告げてください。そしてイエズ スの聖心は聖母マリアの汚れなき御心がイエズスの側で崇敬されることを望んでおられるということを知らせてください。そして人々にまた平和のために聖母マリアの汚れなき御心に祈るように告げてください。なぜなら、神は平和を聖母に委ねられたからです。」

世界平和のための条件

1917年7月13日に、聖母は3人の子どもたちに平和 の条件についてこう述べられました。「世界のために平和を得、戦争を終わらせるために、ロザリオの聖母をたたえて毎日ロザリオの祈りを続けることを私は望 んでいます。なぜなら、ただロザリオの聖母だけがあなたがたを助けることができるからです。」ロザリオを毎日祈るようにという招きを聖母は御出現の度に繰 り返されました。世の人々は行動しなければお祈りしても無駄である、と言いますが、聖母はまずロザリオを祈りなさいとわたしたちに勧めておられます。現在 もこの聖母の招きは真実だと思います。シスター・ルシアはこのことの緊急性を絶えず強調しています。

聖母はロザリオの祈りの他に、すでに述べた「5ヶ月の初土曜日の信心」を1925年にポンテ・ヴェドラ で、そして1929年に後に述べる「聖母マリアの汚れなき御心へのロシアの奉献」をトゥイで、シスター・ルシアに要求されました。この三つの条件が神がマ リアを通して世界に示された平和の条件です。「私があなたがたに言っていることがなされるならば、多くの霊魂が救われ、平和が来るでしょう。戦争は終わるでしょう。」 1917年7月の時点で言われたこの預言は、第一次世界大戦の終結を予告したものです。すでに1914年7月に始まっていたこの戦争(オーストリア・ドイ ツ・トルコ・ブルガリアの同盟国側2400万とセルビア・イギリス・フランス・ロシア・イタリア・ベルギー・日本・アメリカ・中国・ルーマニアなど連合国 側4300万が戦ったヨーロッパを中心とした大戦争)は丸3年経ってもまだいつ終わるかその行方がわからなかったときに、聖母はその終結を予告されたので す。

聖母がおっしゃっている平和は聖母が「平和の元后(女王)」(Regina Pacis)として世界にお与えになる「キリスト教的平和」(Pax Christiana)であって、「世が与えることが出来ない平和」(illam,quam mundus dare non potest, pacem)です。しかし、第一次世界大戦の終結(1918年11月)の後、世界の平和は長続きしませんでした。すでに第一次大戦の最中、1917年11 月7日(ロシア暦10月25日)にロシアではレーニンの率いるボルシェヴィキがケレンスキー臨時政府を倒してソヴィエト政府を樹立する共産主義の支配を始 めていました。しかし、共産主義の悪が世界に拡がる前に、世界は第一次世界大戦をはるかに上回る恐るべき第二次世界大戦を経験しなければなりませんでし た。ドイツのナチズム、イタリアのファシズム、日本のウルトラ・ナショナリズムという全体主義的・無神論的国家主義による世界再分割の要求貫徹のための侵 略戦争という形を取ったと思います。世界の人々は聖母の忠告を無視して神に背くことを止めなかったわけです。神との平和のないところに人間の平和はあり得 ないということは、現在もいっこうに変わっていないのではないでしょうか。

神の懲罰としての戦争

現代の人々は、神を信じる人も含めて、神の懲罰というこ とを信じたがりません。ですから、ファチマの聖母が次のように言われるとき、反発したり無視したりします。何度も引用していますが、聖母は1917年7月 13日ルシアにはっきりとこう言われたのです。そしてこの預言通りのことが起こりました。

「しかし、人々が神に背くことを止めないならば、ピオ十一世の御代の間にもっとひどい戦争が起こる でしょう。未知の光によって照らされる夜を見るとき、これが神によってあなたがたに与えられる大きなしるしであるということを知りなさい。神は戦争、飢 饉、教会と教皇の迫害によって世界をその罪のために罰しようとしておられるのです」

ピオ十一世の教皇在任期間は1922年から1939年です。1931年日本は中国侵略を開始し、日華事変 を引き起こし、1933年にはヒットラーが再軍備に着手、イタリアは1935年エチオピアを侵略、1938年3月ドイツがオーストリアを併合、39年8月 にポーランドに要求提出、聖母の預言通りに実質的に第二次世界大戦が開始されていました。

聖母が預言された「未知の光によって照らされる夜」は1938年1月25日の夜から26日の朝がたにかけ てヨーロッパ・北アフリカの空に展開されました。それは専門家が「北極光」(aurora borealis)と呼んだ異常な輝きのことです。1938年1月26日のリヨンの新聞Nouvelliste de Lyonはそれを次のように報じています。

「昨夜、西ヨーロッパの空を異常な大きさの北極光が波打った。それは多くの部局で大騒動を引き起こした が、最初はそれが大火事だと信じた。.....アルプス地方全域において、多くの人々はこの不思議な光景に非常な興味をそそられた。空は非常に強烈な鮮血 色の輝きを発しながら移動する一つの巨大な炉のように燃え立たせられていた。炉の縁はあたかも太陽がまさに昇ろうとしているかのように、白色であった。そ れは明らかに北極光であったが、しかし、グルノーブル大学理学部のペルス教授によれば、一つの例外的に巨大な北極光であった。」

『フランス天文学協会ブレティン、天文学、気象学、地球物理学月刊誌』は50ページにわたる特集でこの現象を次のように報告しています。

「例外的な美しさをもった北極光が1938年1月25日火曜日の夕方から26日水曜日の朝にかけてフラン ス、そしてヨーロッパのほとんどすべての国々において見ることが出来た。スイス、イギリスそして同様に西部、南西部、プロヴァンスに至る南東部地域、そし てさらに南部、イタリアやポルトガル、シシリー、ジブラルタル、そして北アフリカにおいてさえ、この現象はこれらの地域の緯度にしては例外的な強度を示し た。....

天気は曇りだった。そして夕暮れ頃にはすこし霧雨になった。太陽は一日中見ることができなかった。しかし 今、日没後2時間以上たって、雲がなくなり晴れた。北東、北、そして北西の地平線は、夜明けが再び一面に始まるかのように、明るくなった。実用的な目的か らはそれは夜明けであった。....しかし、不思議な光をもった夜の曙である。それは北極光である。

青白い、美しい、青緑の光が北東から北西の空に展開している。徐々に上方へと空が深紅色に変わり、そして 不規則的な赤い弧が現れる。紫色に染められた雲の一種が北東に圧縮し、それからあたかも一つの神秘的な息によって吹き払われたかのように、北西の方向へと 移動して行く。それは積み重なり、波のようにうねり、消え、そしてまた現れる。一方、その色が真っ赤な色からだいだい色にそして黄色に変わって行く巨大な 光線は星を覆いながら、天頂にまで登って行く。その光景は、消えたり現れたりしながら、光の振動で変化し、生き物のようで、心を奪うものである。....

通りではパニックが起こっている。『パリが火事だ!』地方のいくつもの村では消防隊が動員されている。....巨大な深紅の光が空いっぱいに拡がっていた。」

同じ雑誌はフランスと外国の特派員からの多くの報告を載せています。

アルプス・ピック・デュ・ミディの観測所で:
「この珍しいオーロラはピック・デュ・ミディ観測所で観測された最初のものであった。それはこの緯度としては非常に稀な現象である。....最初の印象は一つの巨大な火災のそれであった。....」

メーヌ・エ・ロワールのラ・シャペル・サン・ローで、10歳になる生徒の記録:
「昨晩は一つの大きな雲があった。それは血で染めた紙のようだった。それからその雲は大きくなった。それは大きな赤い糸の列になり、上の方へ上がって行った。その下にチョークの線のような白い糸の列が現れた。」

オワーズで、アンリ・ブラン氏:
「最初、それは巨大な地獄の気味の悪い反射だと思われた。....この現象の変則と強度に打たれて村人たちの多 くは彼らの家の窓枠から幾分神経質になって観察した。....これらの赤い色の輝きが見られ、また消えた。そして後でかなり長い時間が経って再び現れ た。....これらの光り輝く現象はときどき非常に空高く上がり、そして色、輝きにおいてそれらは一つの猛烈な近くの地獄の非常に生々しい反射に まったく比較され得るものであった。....この例外的な天空の光景の強烈さ、その素晴らしい輝き、その巨大な範囲、特にわれわれの地域におけるこの強度 で[見られることが]非常に稀であること、一年のうちでこの季節に見られることはさらにもっと稀であることなどは、直ちに社会に教えるべき価値があるとわ れわれには思われる。....」

ピカルディーで:
「5時15分に私は北北西の方向に、私が最初遠くにある地獄の結果であると考えた一つの赤熱に気づいた。....10分後に大きな紫色の点がオリオンの方へまっすぐに私たちの頭上を越えて拡がって行った。次ぎに他のもっと小さい、もっと青白い点が現れ、そして消えて行った。しばらく後に、燃える空が私たちの顔に反射した。私の側でその現象に賛嘆していた妻が、私には非現実的に思われる赤い反射の中で私に現れた。7時45分に、赤い輝きはその最高の強度に達した。ほとんど空全体が火事になっているように見えた。 第二の[天にできた]ひだは素早く燃え上がった。その輝きは私が腕時計を見て時間を言うことができるほどの明るさだった。その光景は並外れていた。ニュー スを求めて私の側にやって来た一人の農夫は非常に真剣に、それは世の終わりを告げていると信じた。....明らかにこの常ならぬオーロラによって頭がおか しくなった雄鳥が日の出であるかのようにときをつくり始めた!」

カーンの小神学校で:
生徒たちは寄宿舎から「大きな赤いシーツ」を見た。「そのシーツを通していくつかの星を見ることができた。」

ヴォークリューズのある証人は同じ表現を使っている:
「空に非常に大きい赤いシーツを見て私は驚いた。しばらくの間それは周辺の地域のどこかでの火事であると私には思われた。その燃える光が雲に反射していた。....私はその現象が続いている間村と周辺の地域の犬どもが吠え始めたことに気がついた。彼らは10時半頃まで吠えるのをやめなかった。」

北アフリカからの証言:
「このオーロラはチュニジアのほとんどすべての場所から見ることができた。それは、同様なものが1891年以来 報告されたことがなかったから、一つの非常に稀な現象である。....一般に、それは巨大な赤い色あるいは桃色の光のように見え、多かれ少なかれ白い縞が 入っていた。....非常に驚いた土地の人々はその中に神の怒りの警告を見た。ヨーロッパ人たちはそれは一つの巨大な遠くの火事であると考えた。

この現象それ自体は超自然的な奇跡ではなく、単に「一つの例外的な自然現象」に過ぎませんが、しかし、そ れは前もって予告されたものであり、神が世界をその罪のために罰しようとしておられる「しるし」として神によって与えられたものだと理解されるのです。現 象自体が客観的に意味を持っているというのではなく、その現象に神は一つの意味をお与えになったと考えることができます。この現象の直後にシスター・ルシ アは司教、カノン・ガランバ、修道会の上長、聴罪司祭たちにこの現象の超自然的、預言的な意味を説明しました。しかし、教会の司牧者たちはシスター・ルシ アがこの自然現象における神の意志の意味を説明したことを無視して、信徒たちにそのことを明らかにしませんでした。「人々が神に背くことをやめ」て痛悔 し、回心するようにという天の要求は聞き入れられず、世界は戦争、それも史上最大、最悪の戦争になだれ込んで行きました。

1946年にジョンゲン神父がシスター・ルシアになぜ戦争前にこのことを公表しなかったのか?と問うた時、それに対して彼女は「誰もそのことを私に求めなかったからです」 と答えています。シスター・ルシアが預言者のように、完全に独立して行動することを意図して、彼女の上長の同意なしに、彼女自身の権威に基づいて秘密を明 らかにするということは神の御意志ではなかったのです。神の御意志はシスター・ルシアの上長、聴罪司祭や司教たちが協力することを通して聖母マリアの秘密 が世界に公表されることでした。ですから、戦争が終わってから公表された秘密の責任をシスター・ルシアに負わせることはできませんし、ましてシスター・ル シアが事が起こった後になってそれを秘密の内容としてでっちあげたというダニス神父の主張はとんでもない誤解です。

フレール・ミッシェルによれば、ファチマにおいて神が第一に目的とされたことは、人々に直接的に、そして 民主的に、彼らに回心するように警告を発することではありませんでした。シスター・ルシアが自分のイニシャティヴで秘密の預言を公表したのであれば、そう だったでしょう。そうではありませんでした。神の御計画はそれとはまったく異なっていました。神はマリアの汚れなき御心への信心を通じて世界を救うことを 望まれました。しかし、神はまたカトリック教会の司牧者たちがその神的な権威を用いてその信心を荘厳に確立することをも望まれたのです。シスター・ルシア が1917年に聖母から託された秘密を教会の上長たちに知らせて、彼らを通して時期が来れば世界へ、信徒たちへ公表されることを願って、自ら公表すること をしなかったのは、神の御意志に忠実であった証拠です。

1941年8月31日に書かれた第三の手記においてシスター・ルシアは懲罰を告知する大いなるしるしの後に彼女が経験した不安な期待の数ヶ月について彼女の司教に思い起こさせました。

「そうであると思いますが、(この天空の現象の正確な本性に関して)神は、その正義が罪ある国々をまさに 打とうとしているということを私に理解させるためにこのことを利用されました。この理由で、私は初土曜日の償いの聖体拝領とロシアの奉献をしつこく懇願し 始めました。私の意図は全世界のためばかりでなく、特にヨーロッパのために憐れみと赦しを得ることでした。....

神がその無限の御憐れみにおいて、恐るべき瞬間が近づいたということを私に感じさせられたとき、猊下は、機会が提供されるときにはいつでも、私がどのようにそれを指摘する機会を捉えたかを思い起こしてくださるでしょう。」 

ところで、1904年3月30日、ポルトガルのポルトの北にある小さな村バラザルに生まれたアレクサンド リナ・マリア・ダ・コスタは1955年10月13日に亡くなるまで多くのカリスマや神秘的な恵みを受けて聖なる生活を送り、1967年1月14日ブラガで 列聖調査が行われ、1973年4月14日にはその調査が成功裡に終わりました。このアレクサンドリナに、1935年8月1日、主が御出現になって、教皇に 手紙を書いて、世界をマリアの汚れなき御心に奉献するように求めなさいと次のようにおっしゃいました。「かつて私は私の聖心に人類を奉献するように求め た。今、私は私のいとも聖なる御母の汚れなき御心に人類を奉献するように求める。」彼女の聴罪司祭のイエズス会士ピニョ神父は1936年9月11日にパ チェッリ枢機卿に手紙を出しました。枢機卿は聖座にアレクサンドリナの調査を命じ、1937年にブラガの大司教にさらに彼女についての情報を提供するよう 求めました。1938年6月にファチマに黙想のために集まった(この時司教たちに説教したのはピニョ神父でした)司教たちは、ダ・シルヴァ司教が教皇に聖 母マリアの汚れなき御心へのロシアの奉献の願いを出してすでに1年を経過しても何の返事も貰えなかったので、今度はポルトガルの司教たちの連名で、聖マリアの汚れなき御心への世界の奉献の要求を教皇に対して送りました。ポルトガルにおけるマリアの汚れなき御心によって働かれたきわだった平和の奇跡に教皇の注意を喚起しようとしてのことでした。

教皇ピオ十一世はこのポルトガルの司教団の要求に沈黙を守りました。カレイェイラ枢機卿が1967年に証 言したところによれば、レイリアの司教には戦争の7ヶ月前に戦争が切迫していること、その暴力と範囲が伝えられていました。1939年2月6日付けのシス ター・ルシアの手紙には、「聖母によって予告された戦争」が切迫していること、「ポルトガル司教団によってなされたマリアの汚れなき御心への奉献のおかげ で」ポルトガルには聖母の御保護が約束されていることが述べられていたようです。また、次のように書かれていたと言われています。

「主たる懲罰は霊魂たちにおける神の国を破壊しようとした国々に対する懲罰でしょう。ポルトガルも同様に 罪があり、懲罰のあるものを受けるでしょう。しかし、マリアの汚れなき御心がポルトガルを護るでしょう。よき主はポルトガルが償いをなし、自らと他の国々 のために祈ることを求めておられます。スペインは罰せられるべき最初の国でした。スペインはまだ終わっていないその懲罰を受けました。そして他の国々に対 する懲罰の時が迫っています。神は霊魂たちにおける神の国を破壊しようと欲するすべての国々をその血において純化することを決断なさいました。にもかかわ らず、神は、もし人々が祈りそして痛悔するならば、怒りを和らげ、赦しを与えると約束なさいました。」

この手紙が書かれて数日後、1939年2月10日教皇ピオ十一世は亡くなられました。

シスター・ルシアは1939年3月(あるいは5月)に、主から次のメッセージを受け取りました。
「初土曜日にマリアの汚れなき御心を讃えて償いの聖体拝領が広められらることを願い、しつこく願いなさい。私の 正義の厳正さがさまざまの国々の罪を罰する時が来ている。それらのうちのあるものは絶滅させられるであろう。遂に霊魂たちにおける私の支配を破壊しようと する者たちの上に私の正義の厳格さが厳しく降るであろう。」

1939年3月19日アパリシオ神父に宛てた手紙の中でシスター・ルシアはこう述べています。「世界の平 和かそれとも世界の戦争かということは、マリアの汚れなき御心への奉献と共にこの信心の実行にかかっています。これが私がそのように大いにそして特別にそ れが広められることを望んだ理由です。なぜなら、それは私たちのよき主と私たちの愛する天の御母の御意志だからです。」

それから3ヶ月後、6月20日シスター・ルシアはアパリシオ神父に次のような手紙を送りました。「聖母 は、もしこの信心が広められ、実行されるならば、戦争の懲罰を遅らせると約束なさいました。私たちはその信心を広めるために努力がなされる程度に応じて彼 女が懲罰をそらされるのを見ます。しかし、私は私たちが今している以上にはすることができないということ、そして神がその怒りにおいてその憐れみの手を挙 げられ、世界をこの懲罰によって荒らされるにまかせられるということを恐れています。それは以前には決してなかったそのように恐ろしい、恐ろしい懲罰でしょう。」 シスター・ルシアが以前の聴罪司祭であるアパリシオ神父に説明した同じことを、彼女はきっと司教や修道会の上長にも説明したことは疑いのないところでしょう。

しかし、時はもう遅すぎました。1939年8月22日、独ソ不可侵条約が締結され、9月1日ヒットラーは ポーランドを侵略し、その2日後イギリスはフランスを誘ってドイツに宣戦布告しました。たびたびの天の警告は顧みられませんでした。ヨーロッパはこの戦争 の中に自らを盲目的に投げ込みました。これは聖母が忠告なさった人類の懲罰だったのです。 もう一度1917年7月13日の聖母の預言をまとめて聞きましょう。

「戦争は終わるでしょう。しかし、人々が神に背くことを止めないならば、ピオ十一世の御代の間に もっとひどい戦争が起こるでしょう。未知の光によって照らされる夜を見るとき、これが神によってあなたがたに与えられる大きなしるしであるということを知 りなさい。神は戦争、飢饉、教会と教皇の迫害によって世界をその罪のために罰しようとしておられるのです。....このことを避けるために、私は私の汚れ なき御心へのロシアの奉献と、初土曜日の償いの聖体拝領を求めるために来るでしょう。もし私の要求が顧みられるならば、ロシアは回心し、平和が来るでしょ う。もしそうでないならば、ロシアは戦争と教会の迫害を引き起こしながら、その誤謬を世界中に広めるでしょう。善い人々は殉教し、教皇は多く苦しみを受 け、さまざまの民族が絶滅させられるでしょう。」

実にこの戦争で4000万人以上の人が死にました。                                     

マリアの汚れなき御心へのロシアの奉献

ロシアの誤謬と共産主義の悪

私は1939年まで先回りしましたが、もう一度1917 年まで戻る必要があります。1929年まで明らかにされませんでしたが、すでに何度も見たように、この1917年の、特に7月13日の聖母の預言は世界史 に深く関わっています。聖母はロシアの誤謬ということをはっきりと述べられました。聖母マリアが1917年7月13日の預言でロシアについて述べられたこ とは、世界平和がロシアの奉献とそれに伴うロシアの回心にかかっているということでした。ロシアの回心がなければ、世界には第一次世界大戦よりもはるかに 恐ろしい戦争が起こるという預言は実現しました。戦争だけではなく、教会の迫害、教皇の苦しみ、民族の絶滅が預言されました。

第一次世界大戦がまだ終わっていない1917年、聖母の御出現が始まる3ヶ月ほど前の2月にロシアのペト ログラードで反乱が起こり、皇帝ニコラス2世は3月15日退位を迫られました。4月レーニンが密かにスイスからドイツ政府の保護の下に鉛で封印された列車 に隠れてロシアに戻りました。ニューヨークのユダヤ人銀行家たちの財政援助を受けたボルシェヴィキは合計すれば32万部にもなる17の日刊紙を発行してプ ロパガンダを強めていました。7月にフリーメーソンで民主主義者のケレンスキーが政権を握りますが、9月に起こった軍のコルニロフ将軍の反乱に対して、政 権を渡すことを拒否してボルシェヴィキに援助を要請したことが彼の命取りになりました。ボルシェヴィキがコルニロフの軍隊に対するレジスタンスの指導権を 握り、軍隊の大多数がコルニロフに従わないのを見て、コルニロフ将軍はボルシェヴィキの側につきます。ケレンスキーは9月14日共和国樹立を宣言します が、時すでに遅しで、セント・ベテルスブルグそしてモスクワのソヴィエトがボルシェヴィキにはせ参じます。10月25日ボルシェヴィキは冬宮を攻撃して占 領し革命は勝利しました。

この後に起こったことはまさに聖母の預言だった教会の迫害でした。1918年1月20日、教会と国家の分 離、教会財産の没収、その法的諸権利の抑圧を布告する法令が出されました。ボルシェヴィキの戦闘的無神論はまず第一の敵であるキリスト教の撲滅に乗り出し たわけです。ボルシェヴィキの憎しみはしかし宗教の枠を越えて、ボルシェヴィキでないすべての者に向けられました。教会に忠実な信徒であったロマノフ王朝 の最後の人々は1918年7月16日から17日にかけて、エカテリンブルグで側近の人々と共に暗殺されました。襲ったのはドイツの囚人たちだと言われてい ますが、実際はモスクワから送られたユダヤ人の暗殺者たちでした。ボルシェヴィキが取ったやり方は、ソルジェニーツィンの言い方を借りれば、「ジャコバ ン・テロリズム」でした。フランス革命でもそうでしたが、自由、平等、友愛をスローガンにしながら、実行したのは組織的、制度的な恐怖による自由と平等の 抑圧、いな圧殺でした。

1917年10月、農民たちは富裕な土地所有者から没収した土地を与えられましたが、その土地の収穫を全 部供出させられたので、至る所で反乱を試みました。8月9日にレーニンは「容赦ない大衆恐怖の効果をあげる」ことに決め、この時に強制収容所を作っていま す。この強制収容所では秘密警察がまだ射殺していなかった政権の敵たち、すなわち、ボルシェヴィズムに反対する、あるいは反対しそうなインテリ、農民、軍 人などあらゆる人たちが容赦なく消されました。

1919年11月にモスクワの総主教ティホン師はヨーロッパに向けて悲痛な訴えを出しました。「司教、司 祭、修道者、修道女たちが『反革命』という曖昧な口実のもとに<ひとまとめにして>銃殺されています。残酷さに磨きをかけて彼らには秘蹟という至高の慰め が拒絶され、一方彼らの親族は彼らの遺体をキリスト教の儀式に従って埋葬することができないのです。」

1922年にメルシエ枢機卿が最初の数字を公にしました。「迫害の犠牲者の統計は恐るべきものである。 1917年11月以来、兵卒26万人、将校5万4千人、土地所有者1万8千人、労働者19万2千人、農民81万5千人、司教28人、司祭1,215人が死 刑にされた。....司教,司祭たちの数には、聖なる器物の没収を命じる法令に協力することを拒否したことでこの数ヶ月間に判決を受け、処刑されたまだ知 られていない数の正教およびカトリックの両方の司祭たちの数をつけ加えなければならない。」

実際、1922年2月26日の法令は、聖別されたものを含む教会のすべての財産を没収しました。信徒たち はそれに反対することを試みました。次のように言われています。「3ヶ月の間に、信徒たちと軍隊の間に1,414件の流血事件が報告された。」レーニンは 政治局員全員を教育するためにこのことを利用しました。彼はこう言います。「今は数年の間彼らがどんな種類の抵抗も考えないために教訓を与える、まさに最 もよい機会だ。....われわれは反動的なブルジョワと反動的な聖職者たちの代表を出来る限り多く逮捕しなければならない。....1922年には全部で 8,100人の司祭、修道者、修道女が銃殺された。」

革命はいたるところに荒廃をもたらしました。飢饉がロシアに襲いかかりました。無数の農民が革命以来殺さ れ、移住させられて減った上に、1918,1919,1920年の3年間全収穫物を強制的に供出させられて、農民たちは赤軍と共産党員のためにだけ種を蒔 き、働くことに意気阻喪しました。労働者もサボタージュを繰り返し、工場や輸送機関は散発的にしか機能しなくなりました。1921年には事態は恐るべきも のとなりました。食糧、衣料、燃料がなく、病院には医薬品がなくなり医師、看護婦がいなくなりました。セント・ペテルスブルグでは多くの人々によって木造 家屋が燃やされたりしました。レーニンと共にロシアに戻ったジノヴィエフは、1918年9月にこう述べたと言われています。「われわれは勝つであろう。ロ シア人のうち、9千万人はソビエトの権力下に置かれる。残りの人間?われわれは彼らを絶滅するつもりである。」ツァー(ロシア皇帝)の帝国は1億8千万人 を擁していました。戦争と革命が人口を約1億3千万人に減らしました。それでも、ジノヴィエフの計算によればまだ4千万人多いということになります。 1918年ペトログラードのソビエト公式機関には次の言葉が掲げられていました。「われわれはわれわれの心を残酷に、過酷に、容赦のないものにするであろ う。われわれはこの血の海のダムを開くであろう。同情や憐れみを持つことなく、われわれはわれわれの敵を無数に殺すであろう。われわれは彼らを彼ら自身の 血の中に沈めるであろう。」しかし、機関銃を用いるよりももっとすばやく、もっと静かに、手続きも要せずに、飢饉が彼らの意図を実行しました。

1924年レーニンが死んだ後、ライバルたちを倒したスターリンは1929年に決定的な権力を確立しま す。 1925年には「戦闘的無神論者連盟」が作られ、その機関誌「ベズボジニク」は講演会を開催し、涜神的なデモをやったりしました。この連盟は特に青少年の 間に無神論を広め、またより効果的に宗教に対する闘争をするために映画を見せ、博物館を作りました。1929年4月9日の法律は迫害をさらに強める口実を 与えました。これによって歴史的建造物を含む多くの教会が取り壊されました。8月27日には「連続した週」の制度が導入されましたが、これは日曜日(主 日)を停止するためでした。秘密警察(KGB)は数年の間にウクライナのカトリック聖職者を全滅させました。1929年11月スターリンはコルホーズ(集 団農場)制度を実施し、富農(クーラーク)の追放(dekulakization)を実行しました。富農たちは家族もろとも暖房のない貨車で数千マイルを 僻遠の地であるウラル、シベリア、カザフスタンなどに送られ、多くの者が途中で死ぬか、あるいは到着すると死にました。これら追放された人々は人気のない 場所すなわち森林地帯、山岳地帯、草原地帯に置き去りにされました。富農追放による農村の荒廃は1932-33年に飢饉を招き、それはその範囲とその犠牲 者の数において1921-22年の飢饉よりもひどいものでした。国家は飢饉を農民に対する市民戦争の武器として利用し、飢饉の度を強めることに貢献しさえ していました。農民たちが飢餓で死んでいるときに、政府は小麦の輸出をし続けていたのですから。犠牲者の数を正確に知ることはできません。確実に言えるこ とは秘密警察がスターリンに350万人のクーラークの抑圧について報告したということです。スターリン自身がチャーチルに「集団農場化の期間に1千万の クーラークに対して正義が行われた。彼らの大部分は絶滅させられ、他の者はシベリアに送られた」と得意げに語りました。まじめな人口統計学者たちは 1929-1933年の飢饉の犠牲者の数を少なくとも1千500万人と見積もっています。すぐに絶滅させられずに生き残った人々が送られたのはグーラーグ (収容所)でした。彼らは1928年の工業化5カ年計画のための無限に供給可能な原料として奴隷労働に従事させられました。以後ソビエト連邦共和国は「収 容所群島」と化しました。

私たちはマルクスやレーニンの著作を研究するよりも、ボルシェヴィキ・ロシアの歴史の中に共産主義の真実 の姿を見なければなりません。「木はその実によって知られる」からです。ボルシェヴィキ革命は常にどこででも非人間性の深みに落ち込みました。そして誤謬 と悪魔的な支配を拡大し、虚偽、暴力、殺人を制度的、法的に拡大しながら、真実と正義と平和の名を騙りました。私たちはソビエト連邦の崩壊を目の当たりに してもまだ共産主義の真の姿に幻想を抱いているところがあるかも知れません。ソビエト連邦の崩壊を単なる経済システムの破綻として理解するのは間違いで す。自由経済に移行すれば、「ロシアの誤謬」が終わりを告げたと考えるのは誤解です。共産主義は単なる経済のシステムではありません。聖母マリアが預言さ れた戦争、飢饉、教会の迫害は「ロシアの誤謬」の具体的な現れとして、第二次世界大戦が始まるずっと以前、1917年以来ロシアの地で実現されていたので す。しかも、この共産主義の悪はロシアの地にとどまらずに、その後全世界へと拡大されて行ったことは歴史が証明しています。

ロシアの奉献-1929年6月13日(火)トゥイの啓示-

私は5ヶ月の初土曜日の信心に関して、シスター・ルシアがトゥイの修道院で1930年5月29-30日にイエズスから受けた啓示について話しましたが、実 はその1年くらい前、1929年6月13日に彼女は同じ修道院で幻視を経験していました。それは汚れなき御心の聖母マリアを伴った聖三位一体御出現とロシ アの奉献に関するイエズスの啓示でした。1936年5月に彼女の霊的指導司祭であったゴンサルヴェス師がシスター・ルシアに自伝を書くように求めて、書か れた[オリジナルのものはルシアによって破棄されましたが、1941年4月にゴンサルヴェス師がルシアに会って再現しました]記録から、そのときの様子を 知ることができます。

「ゴンサルヴェス神父様はときどき私たちの聖堂に告解を聞きにお見えになりました。私は神父様に告解をしていました。神父様に対しては落ち着きを感じることができましたので、ここに上長として3年間いらっしゃった間ずっと神父様に告解をしていました。

「この度、私たちの主はロシアの奉献のお望みとロシアを回心させる御約束とを聖なる教会に知らせるように私にお望みになる時が来たことを私にお知らせになりました。....そのお知らせは次のようにして起こりました。」

「(1929年6月13日)私は木曜日から金曜日にかけて午後11時から真夜中までの聖時間をしたいと私の上長と聴罪司祭に求めて許しを得ました。」

「夜独りで聖堂の真ん中の聖体拝領台の前で跪き、天使の祈りをひれ伏して唱えました。疲れを感じて、立ち上がり、跪きました。そして腕を十字架の形に伸ばして祈りを続けました。唯一の光は聖櫃からの光でした。」

「突然ある超自然的な光が聖堂全体を照らしました。そして祭壇の上に天井まで届く一つの光の十字架が現れました。」

「十字架の上の部分、いっそう明るい部分に一人の人のお顔と胸から上のお身体を見ることができました。」

「その方の胸の上には同じように光り輝く一羽の鳩がいました。」

「そして十字架に釘づけにされて、他のお方の身体がありました。」

「その少し下に、空中にカリスと大きなホスチアがかかっており、それらの上には十字架に付けられたお方の顔とそのお胸の傷から数滴の血が滴り落ちていました。これらの血の滴はホスチアの上を流れくだり、カリスの中へ落ちていました。」

「十字架の右側下方に、汚れなき御心をその手にされた聖母がいらっしゃいました。....[それは汚れな き御心を....その手にされたファチマの聖母でした。....その御心は剣の突き刺さった、あるいはバラに取り囲まれた御心ではなく、茨に取り囲まれ炎 の冠のついた御心でした。....]」

「(十字架の)左側には何か大きな文字があり、あたかも祭壇の上に流れ落ちる水晶のきれいな水のようでしたが、『恩寵と憐れみ』という言葉を形作っていました。」

「私はそれが、私に示された至聖三位一体の神秘であるということ、そして私が明かすことを許されていないこの神秘についての光を受けたということを理解しました。」

「それから、聖母が私にこうおっしゃいました。『神が教皇に、この手段によって救うことを約束なさりながら、世界の全司教と一致して、私の汚れなき御心へのロシアの奉献をするようにお求めになる時が来ました。』」

「『私に対して犯される罪のために神の正義が断罪する霊魂たちがあまりにも多いので、私は償いを求めるために来ます。この意向のためにあなた自身を犠牲にし、祈りなさい。』

「私はこのことについて私の聴罪司祭に説明しました。彼は私たちの主が為すように望んでおられることを書くように私に命じました。」

「しばらく後に、私たちの主は、内的語らいという手段によって、不満を表明されながら、次のように私におっしゃいました。『彼 らは私の要求を顧みることを望まなかった!....フランスの王のように彼らは後悔し、私の要求を顧みるであろう。しかしもう遅いであろう。ロシアは戦争 と教会の迫害を引き起こしながら、すでにその誤謬を世界中に広めてしまっているであろう。教皇は多く苦しまなければならないであろう。』」

シスター・ルシアは1930年に同じくゴンサルヴェス師に書いた手紙の中で、少し言い回しを変えて天の要求を次のように述べています。

「よき主は、もし教皇様が御自身、同じことをするようにカトリック世界のすべての司教様に同様に命 じて、イエズスとマリアの聖なる御心に対して償いとロシアの奉献の荘厳な行為をなさるならば、ロシアにおける迫害を終わらせることを約束なさっています。 教皇様はそのとき、この迫害が終わるときには、すでに述べました償いの信心の実行を認め、勧めると約束なさらなければなりません。」

1917年7月13日にルシアたちが見せられた地獄は哀れな罪人たちの霊魂がが行く地獄でしたが、 1929年6月13日に聖母がルシアにおっしゃりたかったことはこうではないでしょうか?「あなたは真の共産主義グーラーグの生ける地獄に見捨てられた哀 れな人々を圧倒する飢饉、戦争、迫害を見ました。」彼らを救うために聖母は執拗にこう言われたのでしょう。「神は世界の中に私の汚れなき御心に対する信心を打ち立てることを望んでおられます。」 1929年はすでにスターリンがグーラーグの血に染まった恐怖を最高度にまき散らしていた時期ですが、そのときに、神はルシアに教会がロシアを聖母マリア の汚れなき御心に奉献すれば、ロシアの回心を約束することを、教会に知らせるように望まれたのでした。神の御約束は「ロシアの迫害を終わらせること」であ り、「ロシアを救うこと」でした。残虐な殺戮、冷酷に計画された飢饉、諸々の迫害、秘密警察の襲撃、愚かで非人間的な集団化、これらすべてのことは神の御 母、すなわちロシアの人々がそのイコンを密かに崇敬し続けたテオトコス(神の御母)、の強力な仲介によって終わらせられるべきものでした。

ソルジェニーツィンはその著『西欧の誤り』(1980年)の中で、ソビエトのイデオロギー的、軍事的膨張 主義についてこう言っています。「共産主義は、公然たる戦争によってであれ、政府転覆的ないしテロリスト的な活動によってであれ、あるいは社会構造の安定 をなくさせることによってであれ、世界征服の野望を自ら断念することはできない。....共産主義それ自身からは何一つ希望され得ない。共産主義の教義と は何一つ妥協は不可能である。われわれは、全世界における共産主義の全体的な勝利か、それとも至る所でのその完全な消滅かのいずれかを予見すること ができる。ロシアにとって、中国にとって、そして全世界にとって唯一の救いは共産主義を拒否することのうちに存する。さもなければ、世界は破滅させられ、 絶滅させられる危険を冒すのである。」

これはまさに、1917年7月13日ファチマにおける聖母の預言を思い起こさせる発言です。「もし私の要求が顧みられるならば、ロシアは回心し、平和が来るでしょう。もしそうでないならば、ロシアは戦争と教会の迫害を引き起こしながら、その誤謬を世界中に広めるでしょう。善い人々は殉教し、教皇は多く苦しみを受け、さまざまの民族が絶滅させられるでしょう。」 ロシアにとって、そして全世界にとっての唯一可能な救いはロシアの回心です。そしてこのロシアの回心の方法は、1929年6月13日トゥイにおいて、神の 恩寵と憐れみのうちにシスター・ルシアに示されたのです。つまり、世界の全司教たちと一致した、教皇による聖母マリアの汚れなき御心へのロシアの奉献を神 はお望みになりました。ロシアの奉献による神の平和の実現はこのようにして教皇様の決断にかかることになりました。

彼らは私の要求を顧みることを望まなかった!

ピオ十一世の教皇在位中にロシアはマリアの汚れなき御心に奉献されませんでした。また、5ヶ月の初土曜日の信心もローマによって公式に承認されませんでした。

ポンテヴェドラおよびトゥイでの御出現でルシアに明らかにされた神の御意志、すなわち5回の初土曜日の信 心は修道会上長のマザー・マガリャエスや聴罪司祭のイエズス会神父ジョゼ・アパリシオ師の努力によってドロテア会の学校の生徒たちおよび父兄たちの間に急 速に広まりました。1927年12月17日シスター・ルシアは聖櫃の側でイエズスのお声を聞きます。聖母から初土曜日の信心に関してルシアが聞いたことを 書きとめなさい、ということでした。1928年9月9日に彼女はカノン・フォルミガオに会い、初土曜日の信心について話します。カノン・フォルミガオはポ ンテヴェドラの御出現の最初の使徒となるべき人でした。1929年6月1日教皇使節ジョヴァンニ・ベダ・カルディナーレがトゥイの修道院にルシアに会いに 行きました。ルシアはこのとき教皇の代理者であるこの人に勇気を出して初土曜日の信心について教会の承認を求め、そのことを翌日ダ・シルヴァ司教に手紙で 報告しています。司教の反応はルシアをがっかりさせるものだったようです。アパリシオ神父は1929年8月16日にトゥイにルシアを訪ねた後、ダ・シル ヴァ司教にルシアが聖母のために初土曜日の信心が広められることを切に望んでいる旨手紙を書いています。ルシアは2度目の手紙をダ・シルヴァ司教に書きま すが、司教からは返事を得ることはできませんでした。司教は9月29日にアパリシオ神父に手紙を書き、こう言っています。「初土曜日の信心はよいもので す。しかし、その時はまだ来ていません。このことはそれが修道院や学院内で広められるべきでないということを意味するものではありません。」アパリシオ神 父はそのことをルシアに知らせ、12月15日ルシアはアパリシオ神父に返事を書き、その中でこの時点でもまだダ・シルヴァ司教からの返事を貰っていないこ とを明かしています。

1930年5月の終わり頃ルシアはゴンサルヴェス神父の命令によって次のような手紙を書きました。

「これはマリアの汚れなき御心への償いの信心およびロシアにおける迫害に関して神と私の霊魂との間に起こったと思われることです。」

「私たちのよき主は私の心の奥深くで、1925年に神御自身と祝せられたおとめが、この小さな信心を通じて、マリアの汚れなき御心に背いた霊魂たちに許しをお与えになるためにお求めになったマリアの汚れなき御心に対する信心を教皇様が承認なさるように願うことを私に強く要求なさっていると 思われます。祝せられたおとめ御自身はこの信心を実行する霊魂を、その死の時にその救いに必要なすべての恩寵でもって助けることを約束なさいました。この 信心は次のことから成っています。引き続く5ヶ月の初土曜日に御聖体を拝領すること、ロザリオの祈りをすること、ロザリオの玄義を黙想しながら聖母を訪問 すること、同じ目的をもって告解に行くこと。告解の秘蹟は他の日に受けることができます。」

「もし私が誤っていないならば、よき主は、もし教皇様御自身がイエズスとマリアの聖なる御心へのロシアの償いと奉献という荘厳で公的な行為をしてくださるならば、同様にまたカトリック世界のすべての司教様たちに同じことをするようにお命じになるならば、そしてもし教皇さまがこの迫害が終わったときにすでに述べました償いの信心の実行を承認し、推奨なさるならばロシアの迫害を終わらせることを約束なさいました。」

「私は思い違いをしているのではないかと大変恐れているということを申し上げます。そしてこの恐れの原因は私が主を親しく見ていなくて、ただ主の神的現存を感じたにすぎないという事実です。」

「修道院長様にこのことを申し上げることについて私が抱きました躊躇の気持ちはどこから来るのか、正確に は分かりません。恐らく一部は院長様がこのすべてのことをお認めにならないかもしれない、あるいはそれは妄想、あるいは悪魔の暗示や何かそのようなことだ とおっしゃるかもしれないという恐れかもしれません。」

「私はうやうやしく閣下の御手に接吻いたします。」

ゴンサルヴェス神父はルシアのこの手紙を5月29日に受け取り、それを読んでその日のうちにルシアに対して次の質問状を出しました。彼は司教や教皇に伝達するための完全に明白な文書を欲したのです。

「どうか出来る限り便箋で次の質問に答えてください。
1.土曜日の信心があなたに啓示されたのはいつ、どのように、どこでか。換言すれば、その日付(もしあなたが知っているならば)、機会、そして様式。
2.要求される条件。すなわち、この信心の成就に際して要求されることは何か。
3.利益。すくなくとも一度それを実行する人々にどのような恵みが約束されるのか。
4.聖母の悲しみのために9回あるいは7回ではなくて、なぜ5回の土曜日なのか。
5.土曜日に条件をすべて満たすことができない場合それは日曜日に満たすことができるか。例えば、 田舎に住んでいる人々は遠く離れて住んでいるから、(土曜日に)そうすることができないことが非常に多い。
6.可哀想なロシアの救いに関して、あなたは何を望みまた欲するか。

このゴンサルヴェス神父の質問に対してルシアは同じ日の5月29日の夜、礼拝と償いの聖時間の時に問われ た質問に答えるために必要な内的照らしを願ってそれを受けました。数日のうちにルシアは返事を書き、ゴンサルヴェス師はそれを1930年6月12日に受け 取りました。問いに対する返事についてはすでに触れた通りです。1から3についてはルシアが1925年12月10日ポンテヴェドラで、4から6については 1930年5月29日トゥイで受けた啓示です。

ゴンサルヴェス師はルシアから返事を受けた翌日6月13日にルシアのこの手紙のコピーをレイリアのダ・シ ルヴァ司教に送りましたが、司教はこの問題についてすでに知っており、それについて考えようとしている旨7月1日にゴンサルヴェス師に答えています。ダ・ シルヴァ司教は8月28日初めてトゥイに来て、ルシアと会って話をしています。

ダ・シルヴァ司教の返事に失望したゴンサルヴェス師は別のルートで教皇ピオ十一世にルシアの手紙の内容を伝えた模様です。その時期は1930年7月から1931年8月の間だと、フレール・ミッシェルは考えています。

1929年6月13日トゥイに御出現になったときのことをルシアはこう述べています。「聖母が私にこうおっしゃいました。『神が教皇に....世界の全司教と一致して、私の汚れなき御心へのロシアの奉献をするようにお求めになる時が来ました。』ルシアはその前にこうも述べています。「私たちの主はロシアの奉献のお望みとロシアを回心させる御約束とを聖なる教会に知らせるように私にお望みになる時が来たことを私にお知らせになりました。」 神は不可能なことを決して要求なさいませんから、1929年-1931年は神の御計画を実現するに最も好都合な時期だったはずです。最も好都合であるとい う理由の第一は、この時期ファチマ御出現の調査記録が教皇の下に届き、太陽のダンスや奇跡的な癒しや無数の回心によってレイリアの司教によるファチマ御出 現の公式承認が為された時期であり、聖母のメッセージの重大性を教皇は知っておられたからです。

次ぎに聖心へのロシアの奉献についても、歴史的に先例がありました。1899年6月11日教皇レオ十三世 はイエズスの聖心に全世界を奉献されましたし、聖ピオ十世は毎年それを更新することを命じられました。そしてピオ十一世自身1925年にこの奉献を王たる キリストの祝日に更新すべきことを命じられました。カトリックから分離した正教の、そしてボルシェヴィキのロシアを、ロシアの政府や正教指導者が参加する ことなしにローマカトリックの教皇と全司教が奉献することに神学的な困難があったのでしょうか?レオ十三世は1989年5月25日回勅『聖なる年』 (Annum Sacrum)の中で、全世界および全民族は異端的、分派的あるいは異教的であるとしても、イエズスの聖心に奉献されることができると説明しました。「キリストの力は同様にまたキリスト教信仰の外部に生きているすべての人々にも及ぶ」からです。

第三に、聖マリアの汚れなき御心がイエズスの聖心と密接に結びつけられることが天の意志でした。ロシアの 奉献は「イエズスとマリアのいと聖なる御心に対して」なされなければなりませんでした。 この奉献を可能とし、かつ容易にする素晴らしい、摂理的な準備がすでにできていました。かなり前から聖マリアの汚れなき御心への奉献の請願が聖座には来て いました。例えば、1900年にリヨン・フルヴィエール国民マリア会議が請願を行い、また同年デシャン師によってトゥールーズにマリア十字軍が設立されま したが、その目的はマリアの汚れなき御心への個人、家庭、小教区、司教区そして全人類の奉献を促進することでした。聖ピオ十世教皇の在位期間にはこの請願 は非常に多くなりました。 1917年7月13日に聖母マリアは「私は私の汚れなき御心へのロシアの奉献と、初土曜日の償いの聖体拝領を求めるために[後に]来るでしょう。もし私の要求が顧みられるならば、ロシアは回心し、平和が来るでしょう」 と預言され、世界の奉献ではなくて、ただボルシェヴィキ・ロシアだけの奉献をお求めになりました。1929年6月13日に預言通り聖母はその時が来たこと をルシアにお知らせになり、それを教皇に知らせ、教皇がそれを実行することを望まれたわけです。もし教皇が聖母の要求をキリスト教世界に知らせ、実行され ていたならば、全キリスト教世界の間にマリア信心の熱狂と巨大な運動が起こっていたでしょう。

最後に、ロシアの誤謬の広まりはどうだったのでしょうか。ピオ十一世が教皇座についた1922年以来、ロ シアは教皇の最大関心事でした。教皇はロシア人の悲惨を少なくし、血生臭い迫害を終わらせるためにあらゆることを試みました。1922年、教皇は「世界の 救世主、ロシアを救い給え!」という射祷に贖宥を与えました。しかし、1924年にはボルシェヴィキ革命がキリスト教世界の一部であるメキシコで猛威を奮 い始めました。1928年ヴァチカンとソビエト政府とのすべての関係が断絶し、スターリンは以前よりもっと冷酷に迫害と虐殺を再開しました。1929年8 月19日教皇はロシア人民を幼き聖テレジアの保護に委ね、贖宥のついた祈りを出しました。1929年11月、ローマ、パリ、ロンドン、プラハ、ジュネーブ 等の都市でロシアが経験している迫害について人々に知らせるための会議が開かれました。

ピオ十一世はそれ以上のことを何かしなければならないということを理解されました。彼は1930年2月2日ポンピリ枢機卿に宛てて公開書簡を書かれ、次のように述べておられます。

「ロシアの無数の人々の間で毎日繰り返され、ますます悪化している神と霊魂に対する恐るべき罪と冒涜を考えるとき私たちは深い悲しみを感じます。この聖な る普遍的、使徒的なローマ教会の多くの信徒、修道者そして寛大な聖職者たちがこれらのロシアの人々に属しています。彼らは壮烈なまでに、そして殉教するま でに信仰が深く、寛大でした。

 非常に多くの冒涜と不敬の行為が新たになされ、当局によって公的に為されていることはより普遍的で荘厳な償いを要求します。今年クリスマスの聖なる日々 の間に単に数百の教会が閉鎖され、多くのイコンが燃やされ、すべての労働者や学校の子どもたちが労働を強制され、日曜日が廃止されただけでなく、工場労働 者は男も女も公式の棄教と神に対する憎しみの宣言に署名することを強制されました。さもないと、彼らはパンの配給切符、衣料、宿泊を取り上げらるのです。 それらのものなしには、この哀れな国のすべての住民は飢えと悲惨と寒さで死ななければならないのです。他のこともいろいろありますが、昨年クリスマスの聖 なる日々に、全ての都市と多くの村々で、恥ずべきカーニヴァルの見せ物が組織されました。外国の外交官たちが自らの目で見たように、首都モスクワの中心で もそうでした。彼らは聖なる祭服を着て、嘲笑しながら十字架を担い、十字架に唾を吐きながら、多くの無頼漢を乗せた戦車の行進を目撃しました。一方他の装 甲車群は巨大なクリスマス・ツリーを運んでいましたが、ツリーにはカトリックとオーソドックスの司教たちを表す人形が首吊りにされていました。町の中心に は他の若者たちの愚連隊が十字架に対するあらゆる種類の涜神行為を犯していました。

 ですから、私たちはできる限り努力してこれらすべての涜聖行為に対する償いの行為をし、また全世界の信徒を償いをするように招きたいと思っています。そ れで私たちは、猊下よ、1930年3月19日、聖ヨゼフの祝日に聖ペトロ大聖堂に来て、そこで使徒の頭の墓の上で、この苦しい試練がついに終わり、人々が 私たちの唯一の救い主にして解放者である主イエズス・キリストの唯一の群へできるだけ早く立ち返るように、そのように困難で苦しみに満ちた試練に会ってい る多くの霊魂の救いのために、また愛するロシアの人々の救済のために、イエズスの神的な聖心への犯罪的な攻撃に対する償いのミサを捧げることに決めまし た。聖心に赦しを願い、犠牲者たちと殺人者たちにも御憐れみを求めた後に、私たちは神の御母、聖なる汚れなきおとめマリア、その浄配、普遍教会の守護者、 ロシアの特別の保護者である聖ヨゼフ、聖なる天使たち、洗礼者聖ヨハネ、聖クリゾストモス、聖キリルと聖メトディウスおよび他の多くの聖人たち、そして特 に、私たちが特別にこれらの霊魂の未来を委ねた幼きイエズスの聖テレジアに嘆願します。」

ファチマに関して日本語で読める書物を数点紹介します。

*矢代静一(文)・菅井日人(写真):奇蹟の聖地ファチマ、講談社
*菅井日人:聖母マリアの奇蹟 -メジュゴリエ/ファチマ/ルルド-、グラフィック社
*ヴィットリオ・ガバッソ、志村辰弥(共訳編):現代の危機を告げるファチマの聖母の啓示、ドン・ボスコ社
*渡辺吉徳(編訳):ファチマのロザリオの聖母、ドン・ボスコ社
*アントニオ・アウグスト・ボレッリ・マシャド著、特別寄稿:プリニオ・コヘイア・デ・オリヴェイラ、成相明人訳:ファチマの聖母 そのメッセージは希望の預言か?悲劇の預言か?『フマネ・ヴィテ』研究会
  

ファチマの聖母マリア 2-4

2016-09-28 22:17:33 | ファチマの聖母(考察)
われわれは教会における悪魔の徒党に対して抵抗しなければならない

おとめマリアに信頼する者にとって、悪は「堕落のうちにある」、「不道徳と驕りの誤謬の闇の中に沈んでいる」われわれの世界の中だけにあるのではない。悪はまた教会それ自身の中にも存在する。そこでは、悪魔は、常に「大胆な厚かましさで先頭を切っている」彼の「追従者たち」と彼の「徒党」を持っているのである。彼らに直面して、抵抗する勇気を持たない非常に多くの「臆病な人々」が存在する。そして、シスター・ルシアは多くの司教たちが彼らの中に数えられる、と述べることを恐れない。さらに、それは単に生ぬるさあるいは司牧的な怠慢の問題ばかりではなくて、攻撃されているのは信仰それ自身であるということをシスター・ルシアは明らかに理解させようとしている。彼女は「誤った教義」そして「悪魔的な混乱」「盲目」について語っており、そしてこのことは教会においてまさに「大きな責任を持っている」人々の間に見られるのである。彼女は非常に多くの司牧者たちが「世界に吹き荒れている悪魔的な波によって支配されるままにわが身を委せている」という事実を深く悲しんでいるのである。誰が、サタンがその主人公である世界....へと自らを明け渡した教会の危機をこれ以上によく記述することができるであろうか?

しかし、シスター・ルシアは「聖母は悪魔的な方向逸脱のこれらの時代が来なければならなかったことを知っておられた」と強調している。幻視者のこれらすべての言葉は、そしてわれわれが引用することができる非常に多くの他の人々の言葉は、1917年7月13日にその第三の秘密において聖母が、もし聖母の要求が従われないならば、教会を突然襲うであろうこの「悪魔的な方向逸脱」を特別に予言しておられたとすれば、完全に説明されるのであり、そして非常にはっきりと目立つのである。

聖書によって告知されている「時の終わり」の大棄教

第三の秘密の内容に関して彼女に質問したある人に対して、シスター・ルシアはある日次のように答えた。「それは福音書の中に、そして黙示録の中にあります。それらを読みなさい」と。彼女は同様にまたフエンテス神父に、聖母が「私たちが世の最後の時代にいる」ということを明瞭に彼女にお見せになったということを打ち明けた。このことは、世の終わりの時、そして最後の審判の時を意味するのではないということを、われわれは強調しなければならない。というのは、マリアの汚れなき御心の勝利が最初に来なければならないからである。第三の秘密の内容を慎重にほのめかしているラッツィンガー枢機卿自身次の三つの重要な要素に言及した。すなわち、「信仰を脅かす諸々の危険」、「最後の時代の重要性」そして「この第三の秘密に含まれている」預言は「聖書に告知されてきたものと一致している」という事実である。われわれは、ある日ルシアが黙示録の第8章と第13章を指摘したということさえ知っている。

それが、私が今日そのように無視されたわが主の、聖パウロの、そして聖ヨハネの偉大な教えを、私の書物の最後の二つの章で取り上げる理由である! すなわち、諸困難の告知、異端、そして最後に「最後の時代」に教会の中で起こるであろう大棄教である。そして聖書の、−特に黙示録の−諸預言と、二十世紀の初頭のファチマの聖母の偉大な預言との客観的な比較は実際非常に多くのそしてまったく驚くべき平行を示している。

III. 最終的にファチマの聖母に聴き従うことが緊急である

われわれは教会のすべての信徒たちにマリアの秘密の完全なそして全部のテキストを、その明快な真理性、その預言的な豊かさそしてその神的な透明性において、遅滞することなく知らせることよりも重要で必要でそして緊急なことはないということを理解するために十分に述べた。ここで、この公開の緊急性の基礎となっている多くのそして堅固な諸理由を引用することが適切であろう。

第三の秘密はなぜ明らかにされるべきであるか

1. 「聖母がそれを望まれているからである。」実際、われわれは聖母の意志は、聖母がそれを三人の羊飼いたちに明らかにされた1917年7月13日の恩恵の瞬間以来少しも変化していないし、また聖母がトィイの修道院においてシスター・ルシアに御出現になり、彼女にそれのテキストを書き下ろすように求められた1944年1月2日以来変化しなかったということを知っている。聖母はこの預言的な神命が明らかにされること、それが知られることを望んでおられるのである。そして聖母のメッセージを伝える者であるシスター・ルシアはこの公開を望み続けたし、彼女が許された限り、彼女は権威のうちにある人々からそれを緊急に要求した、ということをわれわれは知っている。

2. 諸々の霊魂の善のためである。なぜなら、非常にしばしば繰り返された誤りとは反対に、秘密はもっぱら教皇にだけ向けられたものではないからである。二人の先行者たちと同様に、それはすべての信徒にむけられたものである。教会の子として、われわれはすべてマリアの子どもである。われわれはすべてわれわれの天の御母がこの非常に危険な時期に、われわれ−われわれ自身とわれわれの子どもたち、われわれにとって大切であるすべての人々−を救うために、われわれの祖先から受け取った真のカトリックの信仰をわれわれの心のうちに損なわずに生き生きと保つために、われわれに宛てられた救いの警告を知る権利を持っている。

3. この秘密が明らかにされない限り、世界の平和は悲劇的に脅威にさらされたままであり続けるであろう!私はそのことをこう解釈する。われわれは、神がそうであるようにとそれを要求されたように、ロシアがマリアの汚れなき御心に奉献されない限り、ロシアは回心させられないであろうと固く信じる。そしてロシアが回心させられない限り、その無神論的そして迫害的なボルシェヴィズムからそしてロシアを奴隷化している悪魔的な諸力の支配から解放されない限り、核の黙示録の危険は世界に対する一つの恐るべき脅威として残るであろう。

神は世界の平和がわれわれの世紀においては、ファチマに御出現になった神のいと聖なる御母の命令に対する教皇および司教たちの熱心な子としての従順に依存しているということを望まれた。ところで、無原罪の仲介者に対する信仰の、信頼する従順のこの行為−それを通じてわれわれの司牧者たちはロシアの奉献を遂行するであろう−は同様にまた、−私はとりわけ、とさえ言いたいが−秘密の受容と公開を前提とする。それは一つの歴史の教訓である:1960年以来、聖母の秘密の意図的な、無礼な秘匿は聖母の他の諸要求をまさに正確に遂行することの拒否と手に手を携えてきた。他方において、第三の秘密の公開は教会がファチマ・メッセージの神的な確実性と重要性を公式に承認したという明白なしるしであろう。ロシアの奉献に対する主要な障碍の一つはその場合には取り除かれるであろう!

4. 最後にそして特に、教会の善のためである。疑いもなく、教会がその歴史において最も重大な危機を経つつある間に、あらゆる種類の異端が教えられ、広められ、神の民を至る所で毒しつつある間に、1960年以来、パウロ六世の表現を用いるならば、教会の「自己破壊」が続いている間に、そして「悪魔の煙」(注20)が聖なる場所の中に浸透したときに、われわれが経験しつつあるまさにこの「信仰の危機」に関して−おとめマリアの救いに役立つ言葉を無視し、軽視し、軽蔑し続けることは非常に残念なことであり、そして確かに犯罪的でさえあろう。天の元后が1917年という早い時期にその危険を予言されたのであるから、そして聖母が確かにそれの真の原因を指摘されたのであるから、そしてさらに、聖母が効果的な救済策を提示されたのであるから、1960年に公に知らされるように意図されたこれらの救済策がなおわれわれに明らかにされなければならないということは一つの恐るべき恥ではないだろうか?25年間にわたって数百万の霊魂がこの「悪魔的な方向逸脱」において苦しみ、そして天が彼らに提供している例外的な援助をかたじけなく受けようとする教会の司牧者なしに永遠に失われるという危険に曝されてきたということはけしからぬことではないだろうか?

われわれは繰り返し教皇に願わなければならない

今やファチマの秘密の公開のためにわれわれの繰り返しの嘆願を教皇に提出し続けることをわれわれに義務づける非常に多くの理由が存在する。それは聖母の名誉のためであり、われわれの兄弟たちの救いのためであり、世界の平和のため、教会の刷新のためである。最近の偽りの報告がわれわれに信じさせようとしているように、ファチマの秘密は「それが誤解される恐れがある」から公開されることはできないと告げられることがないようにしよう。1917年に、われわれがそれ以来目撃してきた当時予見できなかった非常に多くの出来事を予見し、告知された預言者たちの元后が、聖母の秘密を教会にとって完全に役立たないものとする点まで、この危険を予見することに失敗されたというようなことが可能であろうか?これは考えられ得ないことである!そうではない。聖母の秘密は解釈において少しも曖昧さや困難を持たない明らかなものである、ということについてわれわれは確信を持つことができる。次のように言うことさえ敢えてしようではないか!すなわち、むしろわれわれの司牧者を不安にさせているのはそのあまりにも大きな明瞭性のゆえではないだろうか?それゆえに、教皇が神からすべての障碍を最終的に克服することを彼に許す光と強さを受けることができるようにたゆまずに祈ろうではないか。すでに遅いのであるが、しかし、イエズスはシスター・ルシアを通して「イエズスとマリアに依り頼むのに決して遅すぎるということはないであろう」と告げておられる。

最後に、そして次のことで私は結論を出そうと思う。もし教皇がまだその個人的な権威を行使することによって聖母の最後の秘密を公開する決断をすることがおできにならないならば、彼は秘密は信徒に知らされるべきであるという聖母のはっきりした命令に従うために、少なくとも教皇庁の長官、あるいはレイリアの司教、あるいは幻視者自身に、完全な自由を許されるべきではないだろうか?

第三の秘密は「禁書目録に載せられている」のか?

なぜなら、25年間以上にわたってファチマの秘密が、そしてそれだけがある仕方で禁書目録に載せられているということは一つの驚くべき事実だからである(注21)。シスター・ルシアが、そして彼女だけが沈黙を強いられている。1966年11月15日に教皇パウロ六世は教会によってまだ承認されていない新しい御出現、啓示、あるいは預言を認可なしに広める書物やパンフレットの公刊を禁じた教会法法典の第1399項と第2318項とを廃止された。そしてこの新しい廃止は今や新しい法典の中にあるのである(注22)。その結果、1966年以来この最もすばらしい啓示を誰でも公刊しキリスト者の間に広めることができる。いかなる欺瞞も、そして悪魔的な行為も、何一つもはや禁じられていない。あらゆる事柄は公刊することを認可されている。そして「虚偽の君」は世界中に偽の御出現といかさまのメッセージを増やすことによって巧みにこの認可を利用している。それらは至る所に自由に広まり、そして無数の信徒を迷わせている。最も確実にそして最も問題なしに神からのものであるファチマのメッセージ、秘密だけが公刊することを破廉恥にも禁じられている唯一のメッセージである。

結論は明らかである。ファチマの幻視者に語らせるべき時もまた到来しているのである。そして彼女を通して無原罪のおとめ、神の母でありわれわれの母、われわれすべての愛すべきそしてすべてのものが愛している仲介者そして共なる救済者も語られる時が来ているのである。聖母に聴くことは緊急のことである。というのは、聖母が1917年7月13日に御自身でわれわれに告げられたように、「聖母だけがわれわれを救うことができる」からである(注23)。

われわれの最後の希望−ファチマの聖母

聖母の三つの秘密は実際、神が聖母にゆだねられたその三重の力と三重の使命をわれわれに明らかにしている。神はわれわれの世紀に聖母のこの使命を最も人目をひく仕方で明らかにすることを望まれた。神が霊魂、すべての霊魂を回心させ、それらを救おうと望まれるのは聖母を通してであり、地獄の幻視と聖母の無原罪の御心の啓示、第一の恐るべきそして驚くべき秘密を通してである。なぜなら、聖母は「憐れみの御母」であり「天の門」だからである。神がキリスト教世界を救い、恐るべき諸戦争と共産主義の奴隷化からわれわれを救い出すために求めておられるのは聖母を通して−聖母の第二の秘密における命令、約束、脅威を通してである!なぜなら、神は聖母を「平和の元后」として立てられたからである。さらに、神が教会の上に押し寄せてきているあの「悪魔的な波」、聖所においてさえ支配権を持っている不信仰そして現代の棄教を広めそして助長しているあらゆる暗黒の諸力を今日克服するために望んでおられるのは聖母を通して、聖母の第三の秘密の預言を通してである。なぜなら、聖母は「真の信仰の擁護者」であり、そして聖母だけがその御子から全世界における諸々の異端のすべてを克服する力を受けられたからである。すなわち、'Cunctas haereses tu sola interemisti in universo mundo!'「あなただけが全世界において全異端を克服された!」

われわれの大きな希望!

そして聖母の偉大な秘密がわれわれに明らかにしている無原罪の仲介者のこの三重の使命は同様にまたわれわれのくじくことのできない希望のための揺るがすことのできない基盤である。確かに、聖母の秘密が最終的に完全に明らかにされ、そして真正のものとして認められるとき、ロシアが最終的に聖母に荘厳に奉献されるとき、そして初土曜日の償いの信心が公式に承認されるとき、忠実で力強いおとめ、「信じる者の童貞」、「力ある童貞」がそのすばらしい約束を果たされるということをわれわれは確信することができるのである。

喜びに満たされてわれわれはそのときイエズスの聖心の普遍的な支配を準備する聖母の汚れなき御心の勝利を目撃するであろう。めざましい回心の奇跡を通じてその悪魔たちから解放されたロシアはローマの統一の羊の群に戻るであろう。カトリック信仰がすべての諸民族に説かれるであろう。そして無数の霊魂は一人の牧者の導きの下にキリストの唯一の聖なるカトリックの使徒的ローマ教会における救いの泉へと喜びのうちに進むであろう!

その通り、この時間は来るであろう。しかし、われわれ自身愛をもってこの瞬間以後聖母のすべての要求を遂行することによってそれを早めなければならない。

なぜなら、聖母はわれわれを必要としておられるからである。聖マキシミリアノ・コルベがいつも言っていたように、「現代は悪魔によって支配されており、そして悪魔は未来にはもっと多くさえなるであろう....無原罪の聖母だけが神からサタンに対する勝利の約束を受けられた。しかし、天の栄光のうちにおられる聖母は聖母と共に働くわれわれを今日必要としておられる。聖母は御自分に完全に奉献され、聖母の手の中でサタンを克服する一つの力となる、そして聖母の導きの下に神の国を確立するための効果的な手段となる霊魂を求めておられる。」

脚注

1. 付録を見よ。
2. フレール・ミッシェルの書物『第三の秘密』、33-56ページおよび467-478ページを見よ。
3. これは少なくともマザー・パスカリーナがジャーナリストのロベール・セルーに1957年5月14日にヴァティカンでの写真報告集会の機会に確証したことである(『第三の秘密』、484-486ページ)。[マザー・パスカリーナは教皇ピオ十二世の世話をした数人のシスターたちの監督をしていた]。
4. 『第三の秘密』、486-502ページ。
5. 巡礼の像の行列の間に、鳩が放された。ときどき鳩たちは飛び去るよりもむしろ像の足下に群をなした。(『第三の秘密』、99-103,251,533,534ページ)。
6. 『第三の秘密』、578-586ページ。
7. このつじつまの合わない主題は『科学と諸事実』、381-434および482-528ページにある。[ダニス神父は彼が最初に1944年にこの主題を公刊したとき、ルーヴァン大学の神学教授であった。基本的に、彼はシスター・ルチアの覚え書き(1935-1941年に書かれた)は信頼できないものであると主張した。]これは上に注記したように、フレール・ミッシェルによってその第1巻において完全に反駁されている。
8. 『第三の秘密』、721-734ページ。
9. 枢機卿の「ヴァリエーション」からわれわれが引き出すことができる結論については『第三の秘密』、818-840ページ。
10. この日に教皇ヨハネ・パウロ二世は世界をマリアの無原罪の御心に奉献したが、世界のすべての司教たちに彼らの関係する教区からこの行為に参加するように求めた後に、ロシアについては(名を挙げずに)間接的に言及した。
11. 『第三の秘密』、英語版642-663ページ。
12. 『チヴィルタ・カットリカ』の1960年6月の版。
13. フエンテス神父へのこの宣言は、アロンゾ神父と私もまた示しているように、確実に真正なものである。私はこのことを私の書物『第三の秘密』、503-510、549-554ページにおいて論証した。それについて私が、アロンゾ神父に従って、その議論の余地のない真正性を示している、1957年12月のフエンテス神父へのシスター・ルチアの宣言(『第三の秘密』、503-510、549-554ページ)はファティマのメッセージの一つの際だった綜合である。私の友人たちへの書簡において1962年に公刊され、そして再び1974年に『二十世紀におけるカトリック反宗教改革』(No.87,p.12,フランス語版)においても公刊された、このテキストは常に非常に時宜にかなっていたが、広まり続けるに値するものである(テキストについては『第三の秘密』、504-508ページを見よ)。
14. それによって世界平和がもたらされるであろう主たる超自然的な手段は、1925年12月10日と1929年6月13日に聖母によって要求された、教皇と世界の全司教とによるマリアの無原罪の御心へのロシアの奉献と初土曜日の償いの聖体拝領(付録を見よ)である。
15. 地獄の永遠の火から救われるためには各々のカトリック者はその信仰を失ってはならないということはカトリック教会の教義であるから、司教はそのように強い声明を出すことができた。明らかに身体的な絶滅は永遠にわたっての地獄への霊魂の喪失ほどには悪いものではない。それが第三の秘密において宣言されたこの懲罰が戦争や死よりも悪い理由である。
16. 『第三の秘密』、683-693ページ。
17. われわれの知識によれば、ただアントニオ・マリア・マルティンス神父とゲラルデス・フレイレ神父だけが他の仮説を主張し続けている。それによれば第三の秘密はポルトガル、その海外植民地そして全世界への共産主義の拡大に関わっているとされる(『第三の秘密』、735-744ページ)。
18. 『第三の秘密』、694-720ページ。
19. 『第三の秘密』、745-762ページ。
20. 教皇パウロ六世は1968年12月7日に行った教会の「自己破壊」を嘆いた。1972年6月29日のある説教において教会に入り込んだ「サタンの煙」に言及した。『第三の秘密』、849ページ、注1および2を見よ。
22. 新教会法法典は1983年1月25日に公布された。
23. 一つのファティマの秘密の三つの部分はこの日付で与えられた。われわれはそれらを(一つの話し方において)三つの秘密と呼ぶことができるであろう。

終わり
96/11/27 三上 茂 試訳

ファチマの聖母マリア 2-3

2016-09-28 22:16:22 | ファチマの聖母(考察)
誤った秘密と誤った仮説

この信頼できるデータに基づくならば、われわれは25年間にわたって次々と公刊されてきた誤った秘密の全系列を捨てることができる。私はそれらのすべてを私の著作において引用している。そして私は例えば、それらのうちの最も有名なもの、ドイツの雑誌「ノイエス・オイローパ」によって1963年に普及された、そして無数の雑誌において絶えずリプリントされている「秘密」がいんちきであるということを論証した。このテキストの中にはこのことを十分に証明するいくつかの恐るべき誤謬がある。さらに、それは真の秘密の単なる「抜粋」の問題であるけれども、とわれわれは告げられるのであるが、これらの「抜粋」はすでにルシアが第三の秘密の全体を書き下ろした紙片の少なくとも四倍の長さのものになってしまうのである(注11)。

われわれは同様にまた、多くの誤った仮説を捨てることができる。確かに、カプリーレ神父が敢えて主張するように、われわれは単なる「祈りと償いへの招き」に関わっているのではない(注12)。おとめマリアは1917年10月13日の公的なメッセージを一語づつ繰り返させた一つのメッセージを打ち明けるために1944年あるいは1960年まで待つようにルシアに求められたのではない!

[(フランス語から英語への)翻訳者の注:それは25行の秘密を書き下ろす際に、1943年10月から1944年1月までに経験した極端な困難を説明しないであろう。もしそれが単なる祈りと償いへの呼びかけであったならば、そのような困難は存在しなかったであろう]。

それは幸福の問題でもない。ファチマの第三の秘密は、公会議は「一つの新しいペンテコステ」、「教会にとっての一つの新しい春の時期」であろうと宣言している教皇ヨハネ二十三世の楽観主義の見解とも一致しない。もしそうであったならば、彼自身が、あるいは彼の後継者たちがそれをわれわれに公表したであろう。カレイェイラ枢機卿はまさに正当にもこう言っている。「もしそれが楽しいものであったなら、われわれはそう告げられていたであろう。われわれは何事も告げられなかったのであるから、事実はそれが悲しいものであるということである。」その通りである。それは明らかに重大で悲劇的なものである。

それはまた世界の終わりの告知でもない。というのは、ファチマの預言は一つの驚くべきそして無条件の約束でもって終わっているからである。それは時を選ばずいつも説かれるべき約束である。というのは、それは揺るがすことのできない希望の源泉だからである。すなわち、「終わりに、私の汚れなき御心は勝利するでしょう。教皇はロシアを私に奉献し、ロシアは回心するでしょう。そして平和の時期が世界に与えられるでしょう。」

それは第三次世界大戦の告知であろうか?核戦争の告知であろうか?そう考えることは理に叶っているであろう。なぜなら、ここでは預言は最も明快な政治的分析を確証する以外のことを何もしないだろうからである。おとめマリアはわれわれをそのように悲劇的に脅かしているこの最も恐るべき未来の戦争を予言されたのであろうか?

アロンゾ神父と共に、私はこれは明らかに第三の秘密の本質的な部分ではないと考える。そして私はこのことを確実な理由で言うのである:すなわち、物質的懲罰の、新しい戦争の、そして教会に対する迫害のこの予言は第二の秘密の特別な内容を構成する。われわれはなおこれらの単純な言葉の恐るべき重要性について反省したであろうか?すなわち、「善人は殉教するでしょう、教皇は多く苦しむでしょう、様々の国民が絶滅させられるでしょう」。シスター・ルシアはフエンテス神父にこう打ち明けた。「祝せられたおとめは私たちに多くの諸国民が地の表から消えるでしょう、ロシアは、もしわれわれがあの不幸な国民の回心を前もって獲得していないならば、全世界を(その罪のゆえに)罰するために天によって選ばれた懲罰の道具となるでしょう」(注13)。それが、「絶滅させられる」という言葉がその明白な意味において:すなわち、絶滅させられる、完全に破滅させられる、と文字通り受け取られることが恐れられる理由である。1917年には起こりそうもないことであったが、この悲劇的な脅威は核時代における今日のわれわれにとってはもはやこじつけの議論ではない。

それゆえに、なおわれわれを脅かしているすべての物質的な罰は、核戦争のような、あるいは全地球への共産主義の拡大のような最も恐るべき罰でさえ、聖母によってその第二の秘密においてすでに予言されているということは明らかである。そしてわれわれは遅すぎるようになる前にそれらを回避するための超自然的な手段をも知っているのである(注14)。アロンゾ神父によれば、われわれは秘密の第三の部分においてはこれらの物質的な懲罰については何も繰り返されていないということを確実に知ることができる。あるいは、少なくともそれについて再び言及されているとしても(まったくあり得ることであるが)、このことは第三の秘密の本質的な部分ではないだろうと、私は付け加えるであろう。実際、秘密は三つの相互に関連した、しかし異なった部分から構成され、そして天によって確定されたその公開の日付が同じ日付ではないから、秘密の第三の部分が数行のスペースのうちに第二の部分と同じことを繰り返していない、と確実に言うことができる。

霊的な懲罰

疑いもなく、第三の秘密は一つの霊的な懲罰に主として言及しているのである。飢饉、戦争、迫害よりもそれはもっと悪く、もっと恐ろしいものである。なぜなら、それは霊魂、その救い、あるいはその永遠の破滅に関わっているからである。1966年にヴェナンシオ司教によってファチマの公式記録保管人として指名された故アロンゾ神父は、これが第三の秘密が含んでいるものである、ということを証明した。彼は、不幸なことに公刊することを禁止された14巻から成る彼の批判的な大著の巻の一つにおいてそれについて書いた。しかし、彼は1981年12月12日の彼の死の前に、彼の結論を様々のパンフレットそして神学雑誌の多くの論文においてわれわれに知らせることができた。

私の個人的な研究は新しい記録が確証させることになった彼のテーゼについて明らかにし、完成しそしてより特殊的であることを私に許しただけである。

ここに最も重要なことがある。1984年9月10日にレイリア・ファチマの現在の司教コスメ・ド・アマラル司教はウィーンの技術大学の大講堂(アウラ・マグナ)において、質疑の中で次のように述べた。「ファチマの第三の秘密は原爆や核弾頭あるいはSS20ミサイルについて語っているのではない。その内容はただわれわれの信仰にのみ関わるものである。この秘密を破局の告知あるいは核によるホロコーストと同一視することはこのメッセージの意味をゆがめるものである。ある大陸の信仰の喪失はある民族の絶滅よりも悪い。そして信仰がヨーロッパにおいて常に減退しつつあるということは真実である」(注15)。

十年間、このファチマの司教は第三の秘密の内容に関して完全な沈黙を守ってきた。彼がそのように断固として一つの公式的な陳述をするために口を開くとき、われわれは彼がこのことを前もってシスター・ルシアに相談せずに言ったのではないと、道徳的に確実に言うことができる。1981年に彼がすでに幻視者にその主題に関して質問したと言いながら、いくつかの誤った秘密を反駁していたから、われわれはこのことについていっそう確信を持つことができる。

このことは、アロンゾ神父のテーゼは今やファチマの司教によって公式に確証されたということを意味する。それは教会内における恐るべき危機である。それは、もし無原罪の聖母の要求が十分に遂行されないならば[起こる]、まさにわれわれの時代に対して聖母が予言した信仰の喪失であり、そしてわれわれが1960年以来目撃してきたのはこのドラマである。本質的なことが言われたので、私は今や第三の秘密の真の内容に関する私の証明の主要な段階に言及することに満足するであろう。

信仰の喪失

第一章において(注16)私は第三の秘密が特殊的に信仰の喪失を取り扱っているということを証明する諸理由を挙げた。それはわれわれがすでに知っている秘密の主要な要素である。実際、われわれはそれの内容だけ以上のことを知っている。シスター・ルシアはわれわれに対してそれの第一の文章を指摘しようと望んだ。「ポルトガルにおいては信仰の教義は常に保存されるでしょう....云々」幻視者が秘密の最初の二つの部分を書き下ろし、そして彼女の覚え書きにおいて第二番目に秘密の結論を書いたときに、確実にそして意図して付け加えたこの短い文章は決定的に重要である。それは非常に明確に第三の秘密への鍵をわれわれに提供する。

ここにアロンゾ神父の賢明な注解がある。「ポルトガルにおいては信仰の教義は常に保存されるでしょう」この文章はまったく明確に他の諸国民に降りかかるであろう信仰の危機的な状態を意味する。すなわち、ポルトガルがその信仰を守るであろうのに対して、信仰の危機が存在するであろうということを意味する。」アロンゾ神父はさらに次のように書く。「それゆえに、マリアの御心の偉大な勝利に先行する時期に秘密の第三の部分の対象である恐るべき事柄が起こるであろう。どのようなものか?『もしポルトガルにおいては信仰の教義は常に保存される』ならば、われわれはそのことから、完全に明瞭に、教会の他の諸部分においてはこれらの教義は曖昧なものとなるか、あるいはさもなければ失われさえするであろう、と推論することができる。」

専門家の大部分すなわちマルティン・ドス・レイス、ガランバ参事会員、ヴェナンシオ司教、ルイス・コンドル神父、メシアス・ディアス・コエルホ神父はこの解釈を採用した。先の11月18日、彼がパリで行ったコンフェランスの中でローランタン神父は彼自身もこの解決に賛成であると述べた(注17)。

ラッツィンガー枢機卿自身この意味において、第三の秘密は「信仰とキリスト者の生活を脅かす危険」に関わると言いながら、ヴィットリオ・メッソーリに対して語ったということを付け加えよう。最後に、われわれが言ったように、ファチマの現在の司教はそれ以上になお明白である。彼はそれが数カ国の国民と全大陸のスケールにおける信仰の危機であるということを理解させた。そのような喪失は聖書の中にその名前を持っている。すなわち、それは棄教である。この言葉は秘密のテキストのうちに見出される可能性がある。

司牧者のたじろぎと罰

他の章において(注18)、私はそれ以上のことがあるということを示している。すなわち、第三の秘密は確かに25年間教会に打撃を与えてきた前例のない信仰の危機における聖職に任じられた霊魂、司祭、そして司教自身でさえの重い責任を強調している。私はそれらのいくつかの証明、いくつかの非常に明瞭な指摘を提供する。私はここであなたたちにアロンゾ神父を引用することで満足しなければならない。「それゆえに、第三の秘密のテキストは教会内部の信仰の危機と司牧者自身の怠慢、そして高位聖職者による重大な司牧的怠慢を具体的に示しているということは完全にありそうなことである。」

これらの非常に重大な言葉を、アロンゾ神父は確かに書かなかったし、またそれらを全体的なインパクトを注意深く考えることなく非常に明瞭にそしてあからさまに公刊しなかった。ファチマの公式の記録保管者として、彼は労働とさまざまのインタビュー、シスター・ルシアとのさまざまの会話の10年の後に、少なくとも幻視者の暗黙の同意において確信させられることなしにそのように大胆なそしてそのように赤熱した立場を採用しなかっただろうか?その答えはまったくいかなる疑念をも許さないものである。

聖職階級の諸欠陥のこの宣言は三人の幻視者たちが教皇のために絶えず祈り、多く祈り、犠牲を捧げることへと自らを強いることになったつきまとって離れない関心、シスター・ルシアがこのテキストを思い切って書き下ろ前に直面しなければならなかった乗り越えることがでいないほどの不安の三ヶ月を説明する。それは最後に楽観論者のヨハネ二十三世以来の諸教皇があらゆる犠牲を払ってもそれを隠そうと努めながら、後のその公表まで躊躇し、遅らせ、絶えず延期したのはなぜかを説明する。

悪魔的な方向逸脱の波

第三章において(注19)、私はシスター・ルシアが明らかに、われわれの時代における悪魔の解放を強調している彼女の言葉や手紙のいくつかの中で第三の秘密の一つの主題を反響させているということを示している。すでに1957年に、彼女はフエンテス神父にこう打ち明けた。「いとも聖なるおとめは私に、聖母に対する一つの決定的な戦いにまさに参加しようとしている....そして悪魔は何が最も神に反することであるか、そして何が最も多くの霊魂を可能な限り最も短い時間で悪魔に獲得させるか、を知っている、言われました。悪魔は神へ聖別された霊魂を獲得するためにはあらゆることをします。なぜなら、このやり方で、悪魔はその指導者に見放された信者の霊魂を離れさせることに成功するでしょうし、そのことによってますます容易に悪魔は彼らを捉えるでしょうから。」

しかし、彼女が教会の現在の危機を記述するためにいくつかの際だった表現を用いているのは特に1969-1970年のほとんど知られていないがしかし非常に重要な一連の手紙の中でである。そして、非常に謙遜で、また権威を非常に尊敬している一つの霊魂の持ち主のペンを通じて、そのような強い表現は明らかに信仰の防御と教会の福祉に関するその最後のメッセージにおける汚れなきおとめのまさに口から聞いた言葉の反響である、ということをよく注意しよう。

彼女はある司祭に次のように書いている。「私はあなたの手紙によって、あなたがわれわれの時代の方向逸脱によって心を奪われているのが分かります。実際、非常に多くの人々が世界に吹き荒れている悪魔的な波によって支配されるままにわが身を委せているということ、そして彼らが誤りを見ることができない点まで盲目になっているということを悲しく思います!主たる誤りは彼らが祈りを放棄したということ、彼らがこのようにして神から疎遠になったということです。そして神なしにはすべては欠けたものです。」

「悪魔は非常に狡猾で、私たちを攻撃するために私たちの弱点を探しています。」

「もし私たちが神から強さを得るために勤勉で注意深くないならば、私たちは倒れるでしょう。なぜなら、私たちの時代は非常に邪悪であり、そして私たちは弱いからです。ただ神の強さだけが私たちをしっかりと立たせることができるのです。」

マリア信心の擁護に熱心に関わっているある友人への手紙の中で、シスター・ルシアは次のように書いている。

「人々に毎日ロザリオを唱えるようにさせてください。聖母は、私たちが誤った教義によって欺かれないように、悪魔的な方向逸脱のこれらの時代にわれわれを強めるかのように、御出現の度に必ずそのことを繰り返しておられます。....不幸にも、宗教的な事柄において人々はその大部分が無知であり、そして導かれるところへはどこへでも連れて行かれることを許しています。それゆえ、彼らを導く義務を持っている者の大きな責任は....」

「世界を襲い、霊魂を欺いているのは一つの悪魔的な方向逸脱です。『悪魔』に対して立ち上がることが必要です。」

1970年9月16日に、彼女はある宗教的な友人にこう書いています:「私たちのお可哀想な主よ、主はそのように大きな愛でもって私たちを救われました。そして主はそのようにわずかしか理解されていないのです!そのようにわずかしか愛されていないのです!そのように悪しくしか仕えられていないのです!そのように大きな混乱を見ること、そして責任ある地位を占めているそのように多くの人々のうちにそれを見ることは苦痛なものです!....私たちにとって、私たちにとって可能な限りたくさん、私たちは一つのなおより親密な主との一致を通じて償いをしなければなりません....あなたが言っていることがらを見ることは私を苦しめます。しかし今はそのことがここでもまた同じように起こっています!....事実は悪魔が善の見せかけの下に悪へ導くことに成功しているということ、そして盲目になった人々が他の人々を導き始めているということです....これは主が福音書において私たちに語られたことに似ています。そして多くの霊魂はその中へ連れて行かれることを自らに許しています。私は、神の教会における平和のために、司祭たちやすべての聖別された霊魂たちのために、特にそのように欺かれそして間違った方向へ導かれている人々のために、喜んで私自身を犠牲にし、私の命を神に捧げます!」

ファチマの聖母マリア 2-2

2016-09-28 22:15:50 | ファチマの聖母(考察)
一致した熱心な期待

歳を取った人々はそのことを記憶しているが、1960年が近づくにつれて、全キリスト教徒は約束された秘密の公開を信頼して待った。そしてあなた達イタリア人(ここにいる)、あなた達は1959年に全国でマリアの汚れなき御心に対する献身の大運動が起こったことを知っている。数カ月間にわたってファチマのおとめがその跡を熱狂的な群衆を引きつけながら、そしていたるところで聖母の恩寵の奇跡、けた外れの熱狂、回心の奇跡、鳩の奇跡(注5)を振りまきながら、[イタリア]半島を縦横に通った。1959年9月13日には全司教がマリアの汚れなき御心にイタリアを荘厳に奉献した。不幸なことに、その運動は教皇ヨハネ二十三世によって殆ど鼓舞されなかったので、彼の沈黙と留保は注意されないままで過ぎ去ることはできなかった。

教皇ヨハネ二十三世は秘密を読まれ、そしてそれを公表することを拒否される

われわれは教皇が1959年8月17日にカステルガンドルフォで第三の秘密の封筒を、当時聖座の公式官であったモンシニョル・フィリップによって、彼のもとに持って来させられたことを知っている。教皇への秘密のこの伝達がこのように一つの公式的な性格を持ち、そしてその周りにある種の荘厳さを集めているということに注意しよう。そのことはその当時ファチマが遇せられた尊敬を示している。教皇ヨハネ二十三世は封筒を直ちに開けられなかった。彼は「私は私の告解聴聞者と共にそれを読むことを待っている」と宣言することに満足された。モンシニョル・カポヴィッラは正確にこう述べている。「数日後に秘密は読まれた。」「しかし、[ポルトガル語という]言語に特有の表現によって起こる困難のゆえに国務省のポルトガル語の翻訳者、モンシニョル・パウロ・ホセ・タヴァレスの援助が要求された。」彼は後にマカオの司教となった。後に教皇ヨハネ二十三世はそれを聖座の長官、オッタヴィアーニ枢機卿に読ませられた。

ここで簡単な括弧書きを入れておこう。確かにわれわれは「私的な啓示」を判断することは当局に属しているということをよく知っている。1960年には、教会がすでに公式に、グルーナー神父がさっきわれわれに思い出させてくれたように、議論の余地のない預言と輝かしい奇跡によって他のいかなる御出現よりもさらにより堅固に証明されたファチマの御出現の神的な真性性を承認していたということは明らかであった。シスター・ルシアを通じて伝えられた、いと祝せられたおとめの命令に一致して責任を負わされた二人の高位聖職者、レイリアの司教とリスボンの大司教は遅くとも1960年までには完全な内容を公表するように公式的に努力した。15年間以上にわたって、いかなる権威のある宣言も枢機卿、司教そして聖堂参事会員のガランバ師やバルタス師あるいはメシアス・ディアス・コエルホ神父のような有名なファチマ専門家たちによって世界中にこだましたこれらの繰り返された約束を反駁することはできなかった。教皇ピオ十二世の同意によって1942年に最初の二つの秘密の公開はさらに一つの前例をなした。その結果、信者はこの約束された啓示を最高の権威から期待する権利を完全に持っていたのである。彼らは少なくとも教皇の側での一つの正確なそして率直な説明に対する権利を持っていた。

悲しいかな、1960年2月8日に突然、ファチマの第三の秘密は公表されないということが簡単な新聞発表を通じて知らされた。それはそのまさに本性によって完全に無責任である一つの無名の決定であった。それを動機づけた理由は何であったのか?ヴァチカン・コミュニケはただつじつまの合わない、そして矛盾さえしたいいわけを提供しただけである。この無名の新聞発表の終わりの部分は裏切りでさえある。「教会はファチマの御出現を承認しているけれども、三人の羊飼いの子どもたちがおとめマリアが彼らに告げられたと言ったそれらの言葉の真実性を保証する責任を取ることを望まない」(注6)。このように、明らかにヴァチカンはダニス神父の支持され得ない立場(このつじつまの合わない論調の詳細な説明と分析は第一巻にある)(注7)を自らのものとしたばかりでなく、このコミュニケはさらに問題を生み出すものであった。それはシスター・ルシアの信頼性とファチマ・メッセージ全体に最も恥ずべき疑惑を公的にそして何ら妥当な理由もなしに投げかけているのである。

モンシニョル・カポヴィッラによれば、数人のローマの高位聖職者たちが相談を受けたということである。しかし、確かなことは責任を負っているポルトガルの当局者が明らかに無視されたということである。ヴェナンシオ司教もカレイェイラ枢機卿もローマによって相談を受けなかった、あるいは知らされなかったのである。

1960年2月8日のこの悲しむべき新聞発表を再読し分析すると、あるいはさらに、「チヴィルタ・カットリカ」紙においてカプリーレ神父によって6月に発表された憐れむべき記事を研究することによってさえ、ファチマの主題の関してローマ自身における責任ある当局者たちによって発言されてきたつじつまの合わないこと、不正確なことそして誤りの多くの例によってわれわれは落胆させられる。このことはあなたたちに、1960年までにその秘密を明らかにしなさいと要求された無原罪のおとめ、使徒たちの元后の明白な意志に何の注意も払わないという決定がいかに正当化されないものであり、正当化され得ないものであるかを、告げている。それがファチマ論争に大きな害を与えたこともまた確かである。

われわれは、いと祝せられたおとめに対する信心がカトリック教会のまさにふところにおいて目に見える仕方で、そして次に驚くべき仕方で減退し始めたのは「マリアの秘密」に対するこの公式の無視以後のこの時期からであったと言うことができる。これまで以上にシスター・ルシアの次の言葉が当てはまる。「祝せられたおとめは非常に悲しんでおられます。なぜなら、誰も聖母のメッセージに注意を払わないからです」。そしてこの誤りは数え切れないほどの結果をもたらすことになった、とわれわれは敢えて言わなければならない。なぜなら、ファチマの諸々の預言や命令を無視することにおいて無視されてきたのは、世界を前にしてあざ笑われてきたのは、神御自身だったからである。無原罪のお方、母親としての警告を通じて告げられた条件的な罰はそのとき悲劇的、不可避的に下されることになったのである。

II. 第三の秘密は明かされていないか?

オッタヴィアーニ枢機卿は、教皇ヨハネ二十三世は秘密を「一つの非常に深い、暗い井戸のようである資料保管所の一つの中に置いたので、その底には紙が落ち、誰ももうそれを見ることができない」と語った。われわれはシスター・ルシアの手書き原稿がどうなったかを非常によく知っている。われわれはそれの本質的な内容を発見することさえできる。1917年7月13日にわれわれの時代のために聖母がお与えになったこの警告の中で聖母はわれわれに何を告げておられるのか?まず第一に、われわれはこの秘密に関して四つの確実なそして客観的な事実を確立することができる。そしてそれらは秘密の解明においてわれわれの歩みを大いに進歩させることができるものである。

1. 第一の主要な事実:われわれは第三の秘密の文脈を知っている。厳密に言えば、1917年7月13日に完全に啓示された実際にはたった一つの秘密がある。ところで、この複合的全体について現在のところわれわれは四つの部分のうちの三つの部分を知っている。われわれは秘密の始まりの部分、最初の二つの部分、そして聖母がわれわれに約束しておられる「最後に、私の汚れなき御心は勝利するでしょう。教皇はロシアを私に奉献するでしょう。そしてロシアは回心し、世界に平和の時期が与えられるでしょう」という結論によって確実に形成されている最後の部分を知っている。シスター・ルシア自身が秘密の第二の部分に関して、第三の秘密がたまたま挿入されることになると書いたのは、テキストにおいて「等々...」に続くこのすでによく知られた文脈においてである。そのようなことが最後の秘密の内容の発見において先へ進むことをわれわれに許すためにわれわれにとって一つの重要な道しるべである事実である。後者はその直接的な文脈と一致し、そしてファチマのメッセージの全体と調和的に一致しなければならない。

2. 第二の重要な事実:もしそれが啓示された状況がその基本的な統一性をわれわれに証明するならば、その書き下ろしのドラマティックな状況はそれ自身においてわれわれにその悲劇的な重大さを明らかにする。

3. 第三の非常に解明的な事実:1960年以来、諸教皇がそれを公表することを拒否してこられたのはその内容のせいであり、そしてただこの理由でだけである。

まず第一に、すでに見たように、教皇ヨハネ二十三世は全カトリック教会の熱狂的なそして切望的な期待にもかかわらず、それを公表することを拒否された。

パウロ六世はまっすぐに同じ態度を採用された。1963年6月21日に教皇に選出され、しばらく後に彼は秘密のテキストを要求された。このことはこの主題に関する彼の生き生きとして関心を証明している。誰も教皇ヨハネ二十三世がそれに関してしたことを知らなかったので、彼らはヨハネ二十三世の秘書であるモンシニョル・カポヴィッラに尋ねた。彼は手書き原稿がどこに置かれていたかを指摘した。教皇パウロ六世はその時点でそれを確かに読まれた。しかし彼はそれについて語られなかった。しかしながら、あなたたちも知っているように、1967年2月11日、ファチマ御出現の50周年が近づいたので、オッタヴィアーニ枢機卿は教皇の名において、ファチマの第三の秘密の主題に関して、それがまだ公表されないということを説明するために一つの長い宣言を作った。私の書物の中で、私はこのテキストを引用しそして分析した。ポルトガルの専門家たちに従って、私はどんな犠牲を払っても秘密を公表しないことを正当化するためにこの聖座の高位聖職者、教会における真理の至高の保証者がつじつまの合わないこと、そして明らかな虚偽を大量に集めることを強いられているということを検証せざるを得なかった(注8)。そして悲しいことには、われわれは1984年に彼の後継者であるラッツィンガー枢機卿によって述べられた理由はもはや首尾一貫していないということを見るであろう。

ヨハネ・パウロ一世はファチマの聖母に非常に献身しておられた方であった。彼は1977年にコヴァ・ダ・イリアへの巡礼に行かれた。そして非常に奇妙な事実であるが、シスター・ルシア自身が彼と会うことを要求した。それゆえにルチアーニ枢機卿はコインブラのカルメル修道院へ出かけ、この幻視者と長い間話をした。私はシスター・ルシアが彼と第三の秘密について語り、そして彼にその本質的な内容を明かしたということを検証する位置にいる。彼はその秘密によって非常な感銘を受けた。彼はイタリアに帰った時に周りの人々に、彼がどのように感動させられたか、そしてそのメッセージがどのように重大なものであるかを話した。彼はそれからファチマについて精力的な言葉で語りまた書いた。そして彼が明らかに聖人であると考えたシスター・ルシアへの感嘆と完全な信頼を表明した(私はこれらの未公刊の事実についてのすべての証明を第四巻において示すであろう)。教皇になる以前に、彼は明らかに何かあることをする前には世論を準備することを望まれた。不幸なことに、彼は何かあることを言うことができる前に悲劇的にわれわれから取り去られた。

ヨハネ・パウロ二世は1982年5月13日にファチマの巡礼に出かけられる前に、ポルトガル語に特有である、秘密のある表現を翻訳してもらうために教皇庁からポルトガル人の翻訳者の援助を求められた。それゆえに、彼もまた第三の秘密を読まれたのである。しかし彼もまた公表することを選ばれなかった。

最後に、われわれはラッツィンガー枢機卿がまた同様にそれを読まれたということを知っている。というのは、彼はイタリアのジャーナリスト、ヴィットリオ・メッソーリに、彼がそれを読んだということを語られたからである。ラッツィンガー枢機卿は、その内容を非常に異なった言葉でほのめかしながら、−それはわれわれにとって意味があるが−1984年11月と1985年6月の二度の機会に、それについて書いてさえおられる。私は自分の書物の中で、これら二つの続けて公刊された版の梗概について公刊し注解した(注9)。

4. 第四の主要な事実:第三の秘密の預言は1960年以来、われわれの目の前に現在の時点においては公表されていない。実際、ファチマの預言の実現には一つの時間表、一つの年表がある。

一方において、秘密の結論によって告げられた時間にはわれわれはまだ到達していないということは実際確かである。なぜか?そうされなければならず、そしていつかそうされるであろうように、ロシアがまだマリアの汚れなき御心に奉献されなかったからである。シスター・ルシアは1984年3月25日の行為の後でさえこのことを明らかに知らせた。ロシアはまだ回心していないし、そして世界は平和ではない、それから遙かに遠い!それゆえに、われわれはまだ預言の終わりにはいないのである。

他方において、第三の秘密において告げられた諸々の出来事は単にわれわれの未来に関係があるだけではない。なぜなら、われわれはもう一つの導きのしるし、すなわち1960年という年を持っているからである。聖母は秘密は1960年には公表されるべきことを要求なさった。というのはルシアはオッタヴィアーニ枢機卿に「1960年にはメッセージはより明瞭に現れるでしょう」と語ったからである。ところで、一つの預言を何の疑いもなしにある特別の日付以後からより明らかにするようになる唯一の理由はその実現の始まりである。そしてわれわれは「第三の秘密において聖母によって予言された罰はすでに始まりました」と言っているルシアからのもう一つ別の言明を持っている。

預言の出発点と終局点がこのように決定されたので、われわれは確実に、現在われわれは聖母が言っておられる時期に生きている、と言うことができる。それゆえ、われわれは第三の秘密を生きているのである。われわれはそれが告げている諸々の出来事の証人である。

ファチマの聖母マリア 2

2016-09-28 22:12:49 | ファチマの聖母(考察)
ファチマの聖母マリア
明らかにされたファチマの秘密

The Fatima Crusader Issue より

序論

5月13日から10月13日の一連の御出現において一般公衆に対して聖母によって与えられたファチマのメッセージの他に、聖母は1917年7月13日にシスター・ルシアと教会当局によってすべての信者に後に与えられることになった一つの秘密を明かされた。

その秘密は三つの異なった部分に分けられる。そしてシスター・ルシアは彼女の司教の承認と共に1941年に最初の二つの部分を明らかにした。第三の部分は1944年1月2日から1月9日の間に書き止められた。それは彼女の司教への聖なる従順の下に、そしてファチマの聖母がシスター・ルシアに、実際神が秘密の第三の部分が今書かれるべきであると確証なさった後に書かれたのである。(秘密の第三の部分は通常第三の秘密として言及される)。教皇とレイリア司教はそれを直ちに読むことができた。

聖母は秘密のこの第三の部分は遅くとも1960年までには信者に知らされることを求められた。秘密の第一および第二の部分と同様に、それは明快で、容易に理解されるものである。秘密の第二の部分と同様にそれは預言的である。われわれは今第三の秘密を生き延びているのである。あなたは永遠の破滅からあなたの霊魂とあなたの愛する者の霊魂を救うためにその内容を知る必要があるだろう。

第三の秘密はフレール・ミッシェル によって明らかにされてきた。彼は4年間の研究の後にこの研究を書くのに最も資格のある人物である。彼の結論は16年間にわたってファチマの公式の記録保管人であったアロンゾ神父の結論と同じである。あなたはこの研究を読み終えるときには、あなたが実際第三の秘密の実体を知っているということを知るであろう。

これは一つの深い、読みやすいそしてにもかかわらず深く感動させられる研究である。というのは、それはヴァチカンが34年間にわたって葬ってきた秘密に確実に迫っているからである。この記事は教会に対して、数百万の霊魂の救いに対して、そして究極的に世界史に対して大きな衝撃を与えるはずである。

ファチマのメッセージは一つの天上の光、二十世紀に対する恩寵と救いの機会、教会史のなかで比べるもののない一つのメッセージそして一つの出来事、今日までなお明らかにされていないわれわれの時代の最も重大で重要な出来事である。それゆえ、またこの研究は、それが最終的に、それがひとたび広く知られるようになると教会と世界をアンティキリストの勢力から救うであろうショッキングな、しかし役に立つ秘密をあなたに告げるから、重大で重要である。

現在これらの悪魔的な勢力は数百万の霊魂を永遠の破滅へ、そして全世界をアンチキリストへの奴隷化へと陥れようとしている。一方で、多くの国が「絶滅させられ」、「地の表から拭い去られ」るであろう。

これらの言葉を読み、それらについて熟考し、そしてそれらを他の人々に分かちなさい。この研究の内容はファチマの第三の秘密を明らかにしているから、それが広く知られるということが最も重要であり最も緊急を要することである。

この知識はサタンがわれわれを繋ぎ止めている鎖から人類と教皇を救う力を最終的に解き放つであろう。この秘密は教皇ヨハネ・パウロ二世がファチマで「諸国および全人類の上に迫っている殆ど黙示録的な脅威」と呼ばれたものを避けるための鍵である。
「明らかにされたファチマの秘密」

聖三位一体のフレール・ミッシェル
ファチマの第三の秘密は公式にはまだ明らかにされていないので、一見するとわれわれはその内容について何も知り得ないということは明らかであるように思われる。しかしながら、これはただ見かけの上でだけそうである。なぜなら、この重要な秘密が、それが1917年に聖母によってアルジュストレルの三人の羊飼いの子どもたちに明らかにされたとき、あるいは1944年にシスター・ルシアによって書き留められたとき、あるいはなお再び1960年に教皇ヨハネ23世によって世界に公式に明らかにされるはずであったときには、絶対的に知り得ないものであったとしても、そのことは今日ではもはや通用しないのである。なぜなら、40年以上にわたって、それに関する多くの確実な事実が知られるようになったからである。

それらは今日、そこから歴史家がその全歴史を跡づけ、その本質的な内容をかなりの程度確実に明らかにすることができる確実な情報の一つの印象的な量を形成している。そのようなものは第三の秘密の神秘に完全に捧げられている『ファチマに関する全真実』という私の三巻の書物を書くことにおける私の二重の関心であった。

簡潔に纏めなければならなかったので、それを単純化し、そしてその多くの部分を要約したけれどもそうしながら、私があなたに提示しようとしているのはこの詳細な論証である。しかし、私は聖母のこの最後の秘密がどれほど重要であるかをあなたに示すためにそれについて十分に語るであろう。聖母の要求に従ってそれが世界に明らかにされるということが、いかにファチマのメッセージのまさに核心であるか、そして最後にそのことが教会の善のためになぜ緊急のことであるのかを示そうと思う。

I. 第三の秘密のドラマ

シスター・ルシアが最初にファチマの秘密の三つの異なった部分への区分について言及したのは1941年7月/8月の彼女の第三の覚え書きにおいてであった。「秘密は三つの異なった問題から構成されています」と彼女は書いている。「そして私はそれらのうちの二つを明らかにするでしょう」。第一は地獄の幻視と霊魂の救いのために神によって人類に提供された至高の救済策としてのマリアの汚れなき御心の指摘である。「霊魂を救うために神は私の汚れなき御心への奉献を世界の中に確立することを望んでおられます」。第二は、マリアの汚れなき御心へのロシアの奉献と月の第一土曜日の償いの聖体拝領の実践を通じて神が世界に与えようと望まれている奇跡的な平和に関する偉大な預言である(注1)。「もし人々が私の命令を守るならば、ロシアは回心し、世界は平和を保つでしょう」。そしてまた、もし人々が聖母の要求に従わないことに固執するならば、恐るべき罰が下されることの告知もある。秘密の第三の部分に関しては、1941年にシスター・ルシアは今のところ彼女はそれを明らかにすることを許されていないと述べている。

秘密の書き下ろしと伝達

この重要なメッセージの書き下ろしと伝達についてのドラマチックな説明は1943年に始まる。摂理の時刻がそのとき打ったのである。シスター・ルシアはそのとき、スペインのトゥイのドロテア会修道院で生活していた。1943年6月に彼女は突然重い病気にかかった。彼女の状態は非常に危険だったので、レイリアの司教、ダ・シルヴァ司教は心配になった。彼は彼女が聖母の第三の秘密を明らかにする前に死ぬのではないかと恐れ、それは教会に対する一つの例外的な恩寵の喪失であろうと考えた。司教の友人であり忠告者であった聖堂参事会員カランバはそのとき、彼に一つの非常に賢明な考えを示唆した。すなわち、司教は少なくともシスター・ルシアに直ちに第三の秘密のテキストを書き下ろすことを求め、そして次に彼女が後に開封されるように蝋で封印された封筒の中にそれを入れるということである。

それゆえに、1943年9月15日にダ・シルヴァ司教はトゥイに行き、シスター・ルシアに「もし彼女が本当にそう望むならば」秘密を書き下ろすように頼んだ。しかし、この幻視者は確かに聖霊に鼓舞されてこの曖昧な命令に満足しなかった。彼女は彼女の司教に一つの書かれた命令、形式的で完全に明確な命令を要求した−それは非常に重要なことである。ファチマの聖母の最後のメッセージは以前の聖母の他の要求と同じように、驚くべき約束と結びついていた。それはわれわれの二十世紀に、その最も緊急な必要に応じるために、神によって提供された一つの例外的な恩寵である。しかし再び、教会の司牧者たちが、神がその無原罪の聖母の甘美な黙想を通じて世界に与えることを欲しておられる恩寵のこの流出の道具となるために天の計画に対して十分な信仰と従順を持つ必要がある。1943年に神はそれがレイリアの司教であることを欲された。レイリアの司教はこのメッセンジャーが第三の秘密を書き下ろすことを要求した。

最後に、1943年10月半ばにダ・シルヴァ司教は決心した。彼はシスター・ルシアに、彼女に彼女が彼に嘆願した明白な命令を与えて、手紙を書いた。しかしながら、今や諸困難が起こった。シスター・ルシアはその当時殆ど3カ月の間ある不可思議なそして恐るべき不安を経験した。彼女は、彼女が仕事机の前に坐り、秘密を書き下ろすためにペンをとる度毎に、そうすることを邪魔されるのを感じたと語った。明らかに、われわれは無原罪の聖母のメッセンジャーに対するサタンの最後の攻撃をそこに見なければならない。

この偉大な預言がサタンの霊魂に対する支配と教会のまさに核心へと入り込もうとするサタンの計画に対するどのように恐るべき武器であるか、遂行されようとしていた壮大な出来事の大きさをこのように示した幻視者によって堪え忍ばれたそのような試練を考えるならば、秘密は紙の上に書き留められるべきである。

クリスマスイヴの日に、シスター・ルシアは彼女が与えられた命令にまだ従うことができないということを彼女の指導者に打ち明けた。

最後に、1944年の1月2日に(このことは殆ど知られていない)、祝福されたおとめマリア御自身が再びルシアに御出現になった。聖母はルシアにそのようなことは真に神の意志であるということ、そして聖母は彼女に命令されたことを書くことを完成するための光と力を与えるということを確約なさった。

シスター・ルシアがその受取人であるダ・シルヴァ司教に完全に確実にそれを伝えるために払った極端な配慮は彼女がこの記録に帰している例外的な重要性の一つの新しい証拠である。

彼女はそれを司教以外の他の誰にも委ねることを望まなかった。貴重な記録を入れた蝋で封印された封筒をシスター・ルシアの手から受け取ったのはグルザの大司教、フェレイラ司教であった。彼はそれを同じ日の夕方ダ・シルヴァ司教に手渡した。

秘密の教会当局への伝達に関しては最も重要な次の四つの事実を強調する必要がある。

事実#1. 秘密の直接の受取人はダ・シルヴァ司教であり、そして彼はそれを直ちに読むことができたはずであった。シスター・ルシアは聖母からそう言われたと司教に語った。しかし、引き受けなければならない責任によって恐れをなして、彼はそれについて知識を持つことを敢えてせず、欲しなかった。彼はそこでそれを聖座に委ねようと試みた。しかし、ローマはそれを受け取ることを拒否した。そこで、もしダ・シルヴァ司教が死ぬようなことがあれば、その封筒はリスボンの大司教、カレイェイラ枢機卿に委ねられることになった。それゆえに、1960年以後にしばしば繰り返して言われてきたように、第三の秘密が明白にそしてもっぱら教皇に向けられたものである、と言うことは誤りである。

事実#2. しかしながら、シスター・ルシアがピウス十二世がそれ以上遅れることなしに秘密を知ることを望んだということを、私は私の書物においてそれについてのいくつかの証拠を挙げている。不幸なことにそのことは起こらなかった。

事実#3. ダ・シルヴァ司教が封筒を開けることを望まないことに固執していることを確証して、シスター・ルシアは、ガランバ聖堂参事会員の言葉によれば、「第三の秘密は彼女が死ぬか、あるいは1960年には、どちらが最初に起こっても、開けられて世界に対して読まれるべきであるということを司教に約束させた」。シスター・ルシアの繰り返された陳述についての一つの説明がわれわれに与える一連の証言はこの事実が絶対的な確実さで確立されることを可能にした。

事実#4. 最後に、シスター・ルシアの死後直ちに、あるいはいずれにせよ遅くとも1960年には秘密を公開するというこの約束は聖母マリア御自身による一つの要求に確実に一致している。事実、1946年にバルタス聖堂参事会員が幻視者になぜ1960年まで待つ必要があるのかと尋ねたとき、シスター・ルシアは彼にダ・シルヴァ司教がいる前で、「聖母がそう望んでおられるからです」と答えた。

手短に述べたが、私はそのことを私の書物の中で堅固に確立した。そしてわれわれは聖母の最後の秘密が最終的に教会の司牧者たちによって信じられ、そして信者たちに公開されることを神が望まれたというすべての証拠を持っている。このことは最も早くて1944年の初めに、あるいは遅くとも1960年までにはなされていなければならなかった。というのはシスター・ルシアはさらにこう説明したからである。「それはそのときにはもっと明白になっていたでしょう」。(注2)

ローマへの移送

私はここで第三の秘密の歴史における一つのなお不可解なエピソードにとどまっていることはできない。1957年に聖座はそのときまでレイリア/ファチマの司教の宮殿に保管されていた第三の秘密のテキストを要求した。このイニシャティヴを取ったのは誰か?どのような意図で?諸事実の詳細な分析によって私はもっともらしい仮説を立てることはできたが、しかしいかなる確実さにも達しなかった。

1957年3月半ばに、ダ・シルヴァ司教は彼の副司教ヴェナンシオにその貴重な記録を当時のリスボンのローマ教皇大使チェント司教に渡す責任を委ねた。ヴェナンシオ司教は彼の司教に、最後に秘密を読み、そしてローマにマニュスクリプトを送る前にそのコピーを作るように懇願した。しかし老司教は彼の拒否に固執した。ヴェナンシオ司教−彼は1983年2月13日にファチマで私にこのことを語ったが−は封筒を光のほうへと持ち上げている間に、それを眺めることに満足しなければならなかった。彼はその正確な大きさを測った一枚の紙片が封筒の中にあるのを見ることができた。われわれはこのようにして第三の秘密がそれほど長いものではない、恐らく20行から25行くらいの長さのものであるということを知るのである。すなわち、それは第二の秘密と同じ位の長さである。このことはある捏造者たちがファチマの真の秘密であるとして公衆に対して押しつけている余りにも長いいくつかのテキストを確かに真正のものではないとして拒否することをわれわれに許すものである。

1957年4月16日に、封印された封筒がローマに到着した。それからどうなったであろうか?それは教皇ピオ十二世のオフィスの中の「聖座の秘密」と記された一つの小さな箱の中にに置かれた(注3)。このことをジャーナリストのロベール・セルーに打ち明けたのはマザー・パスカリーナであり、彼が近頃この事実を確証したのである。

教皇ピオ十二世は秘密を読まれたか?

驚くべきことだと思われるであろうが、その答えは殆ど確実にノーである。アロンゾ神父と同様に、私はこの結論に対していくつかの堅固な議論を与える。明らかに、オッタヴィアーニ枢機卿、そして教皇ヨハネ二十三世の秘書であったモンシニョル・カポヴィッラの証言がある。彼らはわれわれに教皇がそれを教皇ピオ十二世の死の1年後、1959年に開けたとき、封筒はなお封印されたままであったと語った。

それゆえに、シスター・ルシアが1957年12月26日に、当時ジャシンタとフランシスコの列聖訴訟のポストゥラトルであったフエンテス神父に宛てた荘厳な言葉をわれわれは理解するのである。彼女はこう言っている。「聖母は非常に悲しんでおられます。なぜなら、聖母のメッセージに対して誰も何の注意も払わないからです。...よい人たちも悪い人たちも...

よい人たちは彼らの道を続けています、しかしメッセージには注意を払わないで...私は詳細な点について何も別のことを言うことはできません。というのはそれはまだ秘密ですから...ただ教皇とファチマの司教だけが聖母の意志に従ってそれを知ることができるでしょう...しかし、彼らは影響されることを望まなかったのでそれを知ろうとはしませんでした。」

それゆえに、教皇ピオ十二世は明らかに1960年を待つことのほうを選ばれた。しかし彼はそれ以前に亡くなられた。教会にとって何という損失だろう!(注4)

ファチマの聖母マリア 1-3

2016-09-28 15:37:00 | ファチマの聖母(考察)
ロシアは回心しつつあるのではなくて堕落しつつある

ゴルバチョフ氏はこの国[アメリカ]から来た一人のカトリック司祭から、あなたの宗教的信条は何であるかと尋ねられた。そして彼はこう答えた。「私は自分が無神論者であることを一度も隠したことはない」。そして、ボリス・エリツィンは同じことを主張した。しかし、自分は少しばかり迷信家であるので、それでときどき教会に行くと言った。

迷信は信仰ではない。ロシアの回心は存在しない。キリスト者であるロシア人がいないとは言っていない。私はすべての男も女も最後のロシア人にいたるまで一人のよいカトリックのロシア人もいないということを示唆しているのではない。しかし、ロシアの国は回心していない。

さらに、われわれの「ファチマ・クルーセイダー」36においてわれわれが指摘したように、1989年以来起こってきた諸変化は堕落であって、回心ではない。ジョン・コッターは彼の論文の中で、「ニューヨーク・タイムズ」、「トロント・サン」、「ザ・グローブ・アンド・メイル」や他の信用のある新聞(世間によれば)から引用している。そしてロシアにおいて起こっていることはロシアの人々の道徳のより大きな堕落であると指摘している。

そして単にロシアにおいてばかりでなく、ポーランドにおいても、ハンガリーにおいても、その他の国々においても同じことである。

いわゆる小屋共産主義を持つこれらの国々は実際、それ以来プレイボーイ誌、セックス・ショップ等々の輸入を増やした。それゆえ、もしわれわれがただプロパガンダを単に聴いているならば、十分容易にそうなるように、われわれの精神において誤って解釈しないようにしよう。実際、ロシアにおける諸変化はロシア社会のある局面をより西欧社会に似たものとしている。すなわち、それらは西欧が世界中に促進した堕落と腐敗によりいっそう似ているのである。

私がジョンの論文から取り除かなければならなかった事柄がある。それはそれらが真実ではないからではなく、私の雑誌は成人によってばかりでなく、子どもたちによっても読まれているからであり、また私は彼の議論にすべて賛同することができなかったからである。しかし、それは圧倒的なものである。彼が提供している証拠はロシアにおける諸変化がそこの人々のより大きな堕落を生み出したということを証明している。

今日ロシアは戦争の準備を加速させている。

彼らが決して語らない、あるいはたとえそれについて彼らが語るとしても、あなたたちが実際に姿を得ることができないような奇妙な仕方においてである何かがあるということに注意することはあなたたちにとって興味のあることである。それは少なくとも彼らのある人にとって一つの真の試金石である。われわれがほとんど提供することができない穀物や食料(われわれの食料貯蔵水準はこの十数年最低の水準である)でロシアの人々を養うことに突進しているのに、ロシアの人々は、彼らの指導者たちを通じて、彼らの経済資源のますます多くのものを軍事支出に費やし続けている。

彼らは6週ごとに一隻の原子力潜水艦を建造した。そして彼らはその生産を今年、昨年そして一昨年と維持した。もし私の間違いでなければ、一隻の原潜は数百万ドルかかると思う。

彼らは合衆国が費やす2倍の金額を費やしている。そして彼らは軍事支出に彼らの国民総生産のほぼ40%近くを費やしている。われわれが軍縮をしている間に彼らは再軍備をし、そして彼らの軍事力を近代化している。

彼らは戦争の準備をしているのである。そしてすでに彼らは、メディアが言うのとは反対に、あなたたちが告げられているのとは反対に、6倍から8倍強力である。現在の合衆国よりも6倍から8倍強力である。そして彼らは彼らの支出を倍加し、そして再倍加している。

彼らは愚かにそうしているのではない。合衆国はその金のほとんどを開発に費やしている。合衆国は約30%を賃金に使っている(私は兵隊たちに対して文句を言っているのではない)。一方、ロシア人たちは彼らの給料がはるかに低いので賃金に約10%しか使っていない。

しかし、第二に、アメリカ合衆国は研究と開発に費やしている。そのほとんどは決して展開されなかった。

ロシア人たちは苦にしない。彼らが自分たち自身で開発しないものを、彼らは西側から盗む。あるいはわれわれが彼らに与える。そしてそのとき彼らは複製し、大量生産する。

ところで、あなたたちが質問したこれらの事実、明らかにあなたたちは多くの嘘を告げられてきたが、一人の人間があなたに反対のことを告げていると信じることは難しい。私は、われわれが数年前に「クルーセイダー」においてそれらを公にしたように、あなたたちに参考文献を示すことができる。私はもっと多くの資料をあなたたちに示すことができる。

しかし、あなたはすべてあなた自身で、ロシア人たちの経済的なバスケットケースについて語っているすべてのこれらの事柄のうちに一生懸命に見ることさえなしに注意することができる。そしてわれわれがいかに彼らを援助しなければならないか、あなたにほとんど何のデータも与えられていないということを見出すであろう。この知識はまったく公のものである。それは隠されてでもいるかのようなものではない。それはこれらの新聞に利用できないものではない。それはまったく利用可能である。そしてあなたはそれをまったく容易に得ることができる。しかし、それは一般公衆に公開されているのではない。そのことが欺瞞の一部である。

私は軍事科学はまったく魅力的なものであると思う。私は数年前にそれに関して読み始めた。というのは、人々が私にロシアは回心しつつある、事態は良好である、等々と告げようとしたからである。しかし、聖母の言葉を知って、私はこれはそうであることができないと言った。そしてそれゆえ、私が世間がわれわれに提供するいわゆる事実を掘り返し始めたとき、私がそれらは嘘であることがわかった。

例えば、彼らがわれわれに、ゴルバチョフ氏は平和の人であると告げていたとき、彼がニコライ・オガルコフという名によって一人の人物をソヴィエト連邦において可能な最高の官職へと昇進させたということを知ることは興味のあることである。ニコライ・オガルコフは1982年に「祖国の防衛」という婉曲的に表題をつけられた小さなパンフレットを著した人物である。そしてその中で、彼はわれわれに、世界を打倒するための「プランB」を持っていると語っている。

私はそのプランをあなたたちに非常に簡単に概略しよう。ある晴れた日、何の挑発もなしに、彼は全開核攻撃を、告知なし、挑発なしに、要求する。その中で彼は1億3500万人のアメリカ人が戦闘の最初の30分間で死ぬだろうと見積もっている。すなわち、それは何らかの報復のための機会がある以前にということである。

そしてそれが、ほかでもないミハイル・ゴルバチョフがソヴィエト連邦における可能な最高の地位へと昇進させた人物である。それゆえ、ゴルバチョフのわれわれとの平和なんてまあそのようなものなのである。

われわれがロシアについてのこれらの事実や姿を信じようが信じまいが、重要なことはファチマの聖母がわれわれに告げておられることである。聖母はわれわれに、ロシアはわれわれがそのかわいそうな民族の回心を手にすることができないならば、全世界を罰するために天によって選ばれた懲罰の道具であろうと告げられている。ところで、聖母はロシアの民主化を手にするとは言われなかった。聖母は回心について語られた。それは一つのこと、悪魔的な共産主義あるいは無神論からの回心、そしてカトリック信仰への回心を意味する。

教皇ヨハネ・パウロ二世は知っておられる

例えば、教皇ヨハネ・パウロ二世は、今年ファチマに来られたときに、他の形式の無神論によって取って代わられたマルキシズムの危険について語られた。彼はそのことを1991年5月13日にファチマで言われた。教皇はロシアの回心が起こらなかったということは知っているということを公に間接的に認められたのである。教皇は彼が実際に言っている事柄のメッセージを受け取るに十分鋭い人々に告げるためにやや隠された仕方でお話しされなければならなかった。明らかに彼は公然と話すほどに十分に自由であるとは感じておられない。

ロシアの回心は一つの事柄を意味する。すなわち、それは単にロシアにおける2億の人々ばかりでなく、また同様に社会的諸制度もまたカトリック信仰に回心するだろうということである。国家が、公的な諸当局が、彼らの法律と制度がキリストの律法を反映しているということはまだ起こっていない。

もしわれわれがロシアの回心を手にすることがないならば、そのときわれわれはなお、われわれの方へと向けられた彼らのミサイルによって(今日までわれわれがそうであるように)脅威を受けるのである。われわれがここ[アメリカ]に持っているあらゆるサイロに対して、彼らはその一つのサイロに向けられた3発のミサイルを持っている。

聖母はわれわれに解決を与えておられる。しかしわれわれはこの解決が一つであり、そしてたった一つであるということを理解しなければならない。第二の解決あるいは二者択一の解決は存在しない。 われわれはあのかわいそうな民族の回心を手にしなければならないのである。

他の選択は存在しない

われわれはどのようにしてロシアの回心を手にするのか?確かに、われわれは、少なくともミサの終わりのロシアの回心のための祈りがなお必要であるということを理解しているあの司祭たちによってわれわれがミサの終わりにそうするように、祈ることはよいことである。家庭での、教会での、等々でのわれわれ自身のロザリオにおいてロシアの回心のために祈りなさい。確かに、祈りは最も効果的である。しかし、究極的に、そして最終的にロシアの回心はただ一つの仕方でみ起こるだろう。それは聖母がわれわれに与えられた手段、道具によって起こるであろう。

あなたたち誰もがある人に手紙を書いたことがきっとあると思う。あなたは聡明であるかもしれない、あなたは非常に文才があるかもしれない、等々。しかしあなたたちのうちの誰一人、それがタイプライターであれ、あるいはコンピューターであれ、ペンであれ、鉛筆であれ、書く道具なしには書くことができない。まさにわれわれの本性によってわれわれは制限されており、われわれは書くための道具に依存しているのである。

ある道具なしにはわれわれは書くことができない。そして聖母がロシアの回心のためにわれわれに与えらえる道具なしには、われわれはロシアの回心を手にすることはできない。この道具は一つであり、そしてただ一つである。われわれは、聖母が検証された奇跡と預言によって言われることを聖母がわれわれに告げ、確証されるということを知っている。

そして、それなしにはわれわれがロシアの回心を手にすることができないその道具は何であるのか?その道具は神がモーセに与え給うた道具、彼の腕を紅海の上に伸べるという命令に似た何かあるものである。ロシアの回心の場合における道具は特殊化された事柄におけるロシアの奉献である。
 ある人々は、不幸なことに司祭たちすら、これはまじないあるいは魔術あるいは何かそのようなもののように響くと指摘した。そのように聖なる事柄についてそのように語ることは冒涜あるいはそれに近いことである。それは確かに魔術ではないしまじないでもない。

そう言うことについての神学的背景をあなたたちに示したいと思う。まず第一に、聖アウグスチヌスはわれわれに、神はわれわれがそれに値しないことを御存知であるとしても、神がわれわれに与えることを望み給うある種の特別な計らいがある、と説明している。神は、それにもかかわらず、われわれに対する大いなる愛とその憐れみにおいてわれわれにこれらの恵みを与えることを望まれる。しかし、神はわれわれが高慢になり、われわれが幾分それに値すると考えるであろうということを知っておられるがゆえに、これらの恵みを諸聖人の功績と取りなしに取って置かれる。

そしてそれゆえ、世界平和の恵み、ロシアの回心の恵みは祝福されたおとめマリアに、その取り次ぎに、その功績に取って置かれた。われわれはマリアの汚れなき御心を通じて以外にはロシアの回心を手にすることはないであろう。

真の平和はただ聖母を通じて

われわれはファチマのメッセージを通じて、世界の平和とロシアの回心はマリアの汚れなき御心に委ねられたということを告げられている。そのことはそれが他の誰にも委ねられなかったということを意味している。そのことは、神御自身はマリアの汚れなき御心を通じて以外にはロシアを回心させることを望まれない、世界の平和をもたらすことを望まれないということを意味する。

もちろん、このことは神がそれをお出来にならないということを示唆しない。神御自身は神の意志をこの仕方で宣言されたということであり、そして神はその決心を変えようとはなさらないということを示唆している。それが、聖母がご自分のことについて三人称で語られるときに、「ただロザリオの聖母だけがあなたたちを救うことができる」と言われる理由である。

聖母はファチマに御出現になった。そして三ヶ月後に御自身をロザリオの聖母と同一視された。そしてそれゆえ、神はこの恩寵がただ聖母を通じてのみわれわれに与えられることを望まれたのである。さらに、神は聖母が称賛を受けることを望まれる。神は聖母が御自身でそうなさることを望まれない。神はそれはただ聖母を通じてのみであるということを世界が認めることを望まれる。

ところで、なぜ神はそうされることを望まれるのであろうか?神はいくつかの理由でそうされることを望まれる。まず第一に、われわれはファチマのメッセージにおいて、7月13日に子どもたちに地獄の幻視を示された後に、聖母が「あなたたちはかわいそうな罪人たちが行く地獄を見ました。神が世界に私の汚れなき御心への奉献を確立しようと望まれるのは彼らを救うためです」と言われた、ということを告げられている。

そしてそれゆえ、神は聖母が称賛を受けることを望んでおられるのである。神は人々が、聖母の功績とその取り次ぎの力を認め、その結果われわれが聖母に献身するように、この時期にわれわれの最善の者でさえますますそうであるように、望んでおられるのである。

神はロシアの回心のこの劇的な瞬間、歴史のこの絶頂の瞬間を、マリアの汚れなき御心に属すべきものと見られるために、留保されたのである。それが、神がロシアの回心を従順のこの行為、教皇と司教たちによる奉献のこの行為に留保された理由である。それは一つの荘厳なそして公の行為でなければならない。

いかなる奉献がなされなければならないのか?

ある人は私に、教皇がある日、彼のチャペルの私室でそれをしたということを告げようとした。私は彼がそのチャペルの私室で何かあることをすることを非常に喜ぶが、しかし、それは確かにファチマの聖母が求められたことではない。それは一つの荘厳な公の行為でなければならない。それゆえに、それは聖なることで、またよいことであると私は確信しているけれども、そのチャペルにおけるどんな私的な行為もファチマの聖母の要求を満たすものではないのである。それはもっぱらロシアだけでなければならない。

さて、ある人々は再び、余りにも細かいくだらない区別だてあるいは律法尊重主義あるいは彼らがわれわれを告発したい何であれあるものという点でわれわれを非難するであろう。しかし、一般的な奉献と特殊的な奉献との間には非常に大きな相違がある。

まず第一に奉献とは何であるか?

何かあるものを奉献するということはそれを取って置くこと、それをもっぱら神への奉仕のために捧げることである。それは奉献されていないものから区別される。それゆえ、ある特別の国を奉献するためには、われわれはそれを名を挙げて奉献しなければならない。世界を神への奉仕のために取って置くことは特殊的な奉献の行為をすることではない。

特殊的な奉献の霊的な諸実例

おそらく私はこのことをいくつかの霊的な例によって示すことができる。預言者がイェッセの息子が王に塗油されるされるべきであると告げられたとき、彼はイェッセに彼の息子たちを連れて来るように求めた。イェッセは8人の息子を持っていた。彼はそのうちの7人を連れて来た。そして羊の世話をさせるために一番下の息子を家に残してきた。

さて、預言者は最初の息子を呼び出してそして言った。「いや、この子ではない」。2番目の息子にも、「いや、この子ではない」。3番目の息子にも「いや違う」、4番目にも「違う、違う、違う」。彼らのうちの7人とも神によって選ばれた特別の子ではないとして拒絶された。

それゆえ、預言者はイェッセにもう息子はいないのか?と尋ねた。イェッセは言った。「もう一人家にいます。」それから、王は言った。「彼をここへ連れて来い」。それでイェッセは人を送って彼を連れて来させた。そしてそれが、塗油されるべき特別の者、特殊的な仕方で神への奉仕のために取って置かれるべき者であったその息子であった。

その息子はダヴィデ王であった。

聖パウロが他の数人のキリスト者と共に祈っていて、聖霊が新約聖書の預言者たちの一人を通じて語られたとき、部屋には数人の人がいた。彼らのうちにサウロとバルナバと他の何人かがいた−他の人々は明確に特定されていなかった。そして聖霊は語られそして言われた。「私はあなたたち、サウロとバルナバをわたしのために取って置きたい」と。

さて、その部屋で祈っていた彼らのうちのすべての者がみな洗礼を受けていたということを思い出してほしい。彼らは皆、すでにその特殊的な洗礼によって神に奉献されていた。しかし、求められた奉献、取り分けは何かある別のことであった。そしてそれゆえ、彼らは祈り、断食し、そしてそれからサウロとバルナバ両者に按手した。

ところで、要求された一つの特別の奉献が存在した。それはサウロとバルナバを特定した。他の人々は特定されなかった。他の人々は按手を受けなかった。奉献され、取って置かれたのはただサウロとバルナバだけであった。

そしてそれゆえ、神がある特定の人物あるいは国を奉献されるべく特定されるとき、それが神が意味されるものである。

それは一つの国を他の国々から取って置かない一般的な奉献とはまったく異なる。
聖母はトィイでこう言われた。「神が教皇にロシアの奉献をするように世界の全司教に命令するように求められる時が来ました」。

聖母はロシアの特殊的な奉献を要求される

聖母は世界とロシアの間の区別をしておられる。聖母は世界のカトリック司教たちが特殊的にロシアを奉献することを欲しておられる。聖母はロシアが救われるのはこの手段によってであるということをどのように語るかを知っておられ、それが何を意味するかを知っておられ、そしてそう言われたのである。それはそれによってロシアが回心させられる道具である。この道具なしには、ロシアの回心は起こらないであろう。そしてそれゆえ、われわれはこの道具の独自性とこの道具の必然性を強調しなければならない。私は教皇ピオ十一世に反対ではない。私は教皇ピオ十二世に反対ではない。私は教皇ヨハネ二十三世に、あるいは教皇パウロ六世に、あるいは教皇ヨハネ・パウロ二世に反対ではない。しかし、もしこの真理が明白な仕方で知らされないならば、われわれはすべていっそう悪い方へ落ち込むであろう。

犯罪的なジャーナリズム

誰かある人が1951年、1952年にこのことを公に言っていてくれたらなあ、と考えてほしい。教皇ピオ十二世がロシアを奉献したときに真理がそのとき公に知らされていたらなあ、と。しかし、不幸にも、彼らは世界の全司教が彼に加わらなければならないということを彼に告げるのを忘れたのだ。カイヨン神父は、「犯罪的な」ジャーナリストとして、ファチマの聖母のメッセージを寸断して損なった人々に言及した。というのは、教皇にロシアの奉献をさせることにおいて道具的なものであったポストノフ夫人によってもし真理が明白に知られていたならば、彼女がそれが司教たちの奉献の行為を要求しているということを知ってさえいたならば、それは1952年になされたかもしれない。

しかし、カイヨン神父と同様に、ロシアの奉献を促進することに年月を費やしたフランスの教授はこう言った。「いかに犯罪的な手がそれらの言葉を取り去り、そして司教たちが奉献のこの行為に含まれていなければならなかったということをそれが特定した場所に置いたことか....」犯罪的という言葉を用いることはそれほど強い言葉ではない。

私が1985年にわれわれのシンポジウムで彼がそう言うのを最初に聴いたとき、私は彼が言ったことについて考え始めた。私は彼が犯罪的という言葉を用いることが正しいかどうか確信が持てなかった。しかしそれについて考えれば考えるほど、ますます私は彼が正しいということを理解した。

ファチマの敵どもはあなたたちに対して嘘を言うに違いない

  そしてそれゆえ、もしあなたたちにとって真理を知ることが重要でなかったならば、そのとき誤った情報操作を試み、そしてあなたたちを欺くそのように大きな努力は存在しなかったであろう。それが、1989年と1990年にシスター・ルシアの六通の偽の手紙が出回った理由である。今日、それらは完全に信用を落とした。それらはおそらくファチマ・メッセージに反対する教会内部の誤った情報操作の最も巧妙に仕組まれた努力であった。

われわれはシスター・ルシア自身の血に従った隠匿の年表Chronology of a Coverup after Sister Lucy's bloodと呼ばれる一つの小さなパンフレットを出版した。シスターは私に直接シスター・ルシアはタイプしていないと言った。出回っていたシスター・ルシアによるものだと言われている6通の偽りの手紙がある。−それらのうちの一通はマリア・ベレム宛、一通はポール・レオナード神父宛、一通はウォルター・クネルカー宛、等々である。すべて[の手紙]は同じことを主張している。すべて[の手紙]はそれらに付されたシスター・ルシアの見かけ上のサインをもったコンピューターによって作られたものである。それら6通は全部偽りの手紙である。

前表紙にシスター・ルシアの絵のついた「ファチマ・クルーセイダー」No.35号で、われわれは彼女が30年間にわたって沈黙させられてきたと指摘した。われわれはまたその中に隠匿の年表(ある教会当局者たちと幾人かの平信徒の人々による完全なファチマ・メッセージを抑圧する30年以上の努力に関する)を発表した。

マザー・プリオーレスはファチマ・クルーセイダーを擁護する

われわれは今年、1991年5月10日に、コインブラのカルメル会のマザー・プリオーレスによって擁護された。(彼女はわれわれ自身に何の欠点もなかったから、われわれの友人になったわけではない)。 彼女はリスボンで発刊されている「オ・ジュルナール」というポルトガルの週刊誌におけるインタビューの中である公式声明を出した。

彼女はシスター・ルシアと彼女の手紙を書くことについて尋ねられた際に、こう言っている。「シスター・ルシアは彼女がそうしようと望むままに、書き、返事を出し、あるいはそうしなかったりします。しかし、彼女が返事をするときには、彼女自身の自筆で返事を出します。」

彼女がポルトガル語で用いた表現、"de propria pugna"はイタリア語の表現、"propia pugna"と同じであり、それは字義通りには「自分自身の手で」という意味である。それは「あなた自身の手書きにおいて」という表現である。

そしてそれゆえ、2年間にわたって彼らはシスター・ルシアの50年間以上の証言の信用を落とそうと試みてきたのである。その証言の中で彼女は繰り返し、奉献は荘厳でなければらない、公のものでなければならない、ただロシアだけの奉献でなければならない、そして全司教がそれに加わらなければならない、そしてそれは同じ日に、同じ時間になされなければならない、と主張してきたのである。

彼女は尋ねられ、そして話すことを許されたときにはいつも、このことを繰り返してきた。過去2年間、これらの嘘つきたち、これらの偽作者たち、これらの犯罪的ジャーナリストたちは、奉献はなされた、シスター・ルシアがそう言ったという嘘を広げようと努めてきたのである。

次のことを理解することはわれわれにとって大切である。すなわち、あなたたちにとって知らされるということがもし重要でなかったならば、もしそれについてあなたたちが何もすることがなかったならば、なぜ彼らはあなたたちに嘘をつくことに手をわずらわしたのであろうか?なぜ彼らは一般公衆に対してこの誤った情報を広めたのであろうか?あなたたちが知らされることが重要であるということ以外にはそれの目的はないであろう。ファチマの敵どもにとってはあなたたちが真理を否定されることが重要なのである。

われわれの第一の忠誠−それはイエズスとマリアへの忠誠である

「みんな一緒に友人であろう、そうすればすべてすばらしく、申し分がない」と言うことは遙かに楽しいし、遙かに容易であろう。そしていつかわれわれは、聖母がわれわれに、「最後に、私の汚れなき御心は勝利するでしょう」と告げられるがゆえに、そう言うことができるであろう。

われわれの第一の忠誠を聖母に捧げよう。誤った忠誠をある役職者、ヴァチカンにいる役職者にさえ捧げないようにしよう。かれらはファチマの聖母の理解よりも何がなされるべきかについての彼らの理解を促進するのである。

私はある人の善意を問題にしようとは望まない。私はここで誰かを裁こうとしているのではない。神は人々の内面を知り給う。しかし、たとえわれわれがここで誰かある人の内面を裁こうとしているのではないとしても、聖書の次の言葉を理解することはわれわれにとって大切である。「悪いものを善いものと、そして善いものを悪いものと呼んではならない」。

教会の基本的な決断

あなたたちは教会が教会の最高のこと、同様に最低のことに触れる一つの基本的な決断に直面しているということを見ている。それは教皇からただの平信徒に至るまでそうである。

そして教会が直面しているその選択は何であるか。すなわち、共産主義、マルクス主義、戦闘的無神論はイエズス・キリストと教会に対する敵対を誓った。それは聖母が聖書において予言された(創世記3:15)創世記の時代へと実際に戻る大昔からの戦いである。そして神はアダムとイヴに話しかけられる一方で、悪魔サタンにこう言われた。「私はおまえ(すなわちサタン)と女(すなわち祝せられたおとめマリア)の間に、おまえの子孫(すなわち悪魔の追随者、地獄にいる悪魔ばかりでなく、またここ地上での彼の追随者)とマリアの子孫の間に、敵対を置く」。そのことは、もちろん、第一にイエズス・キリストに関わることであるが、しかしまた同様にその子らにも関わることである。「そしておまえはマリアを待ち伏せするであろう。そしてマリアはおまえの頭を砕くであろう」。そして蛇の頭を砕くその勝利はファチマにおいて予言された。「最後に私の汚れなき御心は勝利するでしょう」。

そしてそれゆえ、サタンの軍勢は歴史的に、教会と聖母の子ら、信徒たちに対する彼らの攻撃をますます強めるために結集した。そしてわれわれはこの戦闘における頂点の時代にいるのである。シスター・ルシアは、例えば、悪魔が聖母との最後の戦闘のためにむずむずしている、とわれわれに告げている。それから、彼女は続けてその最終戦争は一方が勝ち、他方が負ける戦闘であると言っている。そしてその時は今である。

われわれが見ることができるサタンの軍勢の一つ、サタンに従う人々は確かに世界的な共産主義であり、それは一つの悪魔的な教義である。カール・マルクス自身その詩のなかで自分自身のことについて書きながら、このことを認めている。私は私の書物『世界の奴隷化か、それとも平和か−それは教皇にまで至る−』をあなたたちに見なさいと言おう。その序文でポール・レオナード神父は、マルクスは無神論者ではなくて、悪魔主義者である、彼は自分の霊魂を悪魔に売った、そして彼は人類を破滅へ引きずり込もうとしたと指摘している。

そのような悪はわれわれにとって考えることが難しい。しかし、その承認は彼自身の自筆でなされている。それが彼が自分自身について言っていることである。ポール神父はマルクスの詩を分析し、そして共産主義は実際悪魔的であると指摘している。

そして設立される際のその目的はキリスト教、すなわちキリスト教諸国を破壊すること、そして教会それ自身を破壊することである。

教会はそこで、それがどんな色彩あるいは名称(今、その名称を変えつつあると思われる)をそれ自身に適用しようと、その真の目的は変えないそのような、この不倶戴天の敵に直面しているのである。教会はそのように強力なそして執念深い敵の前で一つの基本的な選択に直面している。教会は逃げようとすることができる。教会は戦おうとすることができる。あるいは教会は交渉しようとすることができる。

共産主義あるいはその後継者がキリスト教を破壊することを決定したかぎり、教会はただこの三つの選択、すなわち、逃げる、戦う、交渉する[という選択]しか持たない。

教会はどこにも逃げることができない。というのは、共産主義も教会も共に世界的な広がりを持つものだからである。もちろん、個々人は一つの都市から次の都市へと迫害を逃れることはできるけれども、しかし教会は逃げることができない。

それゆえに、二つの選択、交渉するかそれとも戦うかのいずれか、が残される。

ファチマの聖母は、この対決に勝利するただ一つの道しかない、とわれわれに告げておられる。それはこの戦闘を聖母の武器で戦うことである。「ただ私だけがあなたたちを助けることができます」。「ロシアが回心させられるのはこの手段によってです」。「私たちがあの可哀想な民族の回心を手にしないならば、ロシアは全世界を罰するために天によって選ばれた懲罰の道具です」。

それゆえ、ファチマの聖母はこの戦闘に勝利する唯一の道しか存在しない、そしてそれは霊的な手段、霊的な武器を使うことによってであり、そして勝利するためにこれらの霊的な武器でもって戦うようにとわれわれに告げておられる。もしわれわれがそれら[の武器]を用いないならば、われわれは確実に負けるであろう。そのことは純然たる現実である。それが事柄の真理である。簡潔に言えばそういうことである。

 
ヴァチカンの高官たちは誤った選択をしている

不幸にも、ヴァチカンの高官たちは交渉を始めた。1962年のヴァチカン−モスクワ協定は歴史的記録の問題である。しかしもしわれわれがそれをすこし詳細にさえ研究しようと欲するならば、ユリッシズ・フロリディ神父の『モスクワとヴァチカン』という書物を読むことができる。その中で彼は1917年から1979年までのヴァチカンとモスクワの間の外交関係を追跡している。

あなたたちはマラキ・マルタンの書物『イエズス会士たち』の85-88ページ(それをわれわれは彼の許可を得てファチマ・クルーセイダーにおいて公刊した)のうちにカッサロリ枢機卿および他の4人の枢機卿の教皇との会見について[の記事を]読むことができる。その[会見の]中で、カッサロリ枢機卿は1981年、教皇狙撃の約一ヶ月前に、もし教皇がイエズス会士たちを、彼らのマルキシズムのために圧迫するならば、報復でもって[何かをすると]教皇を脅した。

彼[カッサロリ枢機卿]は教皇、現在の教皇、に彼がヴァチカン−モスクワ協定を続けることを引き受けたということを思い起こさせた。

ヴァチカン−モスクワ協定とは何なのか?共産主義者たちは教皇ヨハネ二十三世と彼の後継者たちから共産主義の誤謬を非難しないように約束を取り付けた。自然的秩序における、すなわち恩寵の武器を考慮に入れない教会は一つの武器を持っている。そしてそれは真理である。しかし、もし真理が示されないならば、それはもはや一つの武器ではない。それは鞘に収まったままの剣のようなものである。

ヴァチカンの高官たちはモスクワとの彼らの交渉において共産主義の誤謬を非難しないことに同意した。そのような協定は、私が公に言い、そして公に書いたように、まず何よりも不道徳であり、一つの裏切りである。そして私はあなたたちに一瞬のうちに証明するであろう。共産主義の勢力に対するわれわれの敗北と教会の喪失を確実にする。

もしあなたたちが1960年という年を覚えているならば、同時に共産主義者でありそしてカトリック者である人物について考えることはカトリックの教えについて何かを知っているある人にとっては不可能であった。そのように考えることがなぜ普通の人にとって考えられないことであったのだろうか?それは教会が共産主義とカトリック信仰との間の和解不可能性を宣言しそして繰り返し宣言したからである。

ヴァチカンが繰り返し宣言しそして再宣言したから、それについてほんの一瞬の間でも考える人にとっては、誰も同時にカトリックであり、かつ共産主義者であることはできない、ということは明らかであったのである。しかし、今はヴァチカンの側での沈黙の30年間と共に−私はあらゆる点で犯罪的な沈黙を加えたいところであるが−われわれはいわゆる「解放神学」を持っている。その中ではひとは同時によいカトリックであり、かつマルクス主義者であり得るということがまじめに示唆され、あるいは主張されさえしている。

そのような示唆はまったくばかげている。しかし、それにもかかわらず、他の点では知性を持っているまじめな人や人々がそのような説を主張するのである。そのことはもしこれらの過去30年間ヴァチカンを沈黙させたヴァチカン−モスクワ協定がなかったならば、あり得なかったであろう。このヴァチカン−モスクワ協定は単にあなたたちのカトリック信仰に直接反するものであるだけでなく、またあなたたち自身の肉体的な福祉にも直接反するものである。われわれは、もしそれが早晩撤回されないならば、共産主義者たちによって葬られるであろう。

ヴァチカン−モスクワ協定は一つの裏切りである

なぜ私はこれを一つの裏切りと呼ぶことができるのか?私はジャン・ウーセによってこの協定が書かれている節を最初に読んだ。彼はそれについての彼の考えを公刊することにおいてばかりでなく、この協定の存在を実際にドキュメントすることにおいて道具的である。彼は一つの裏切りとしてそれに言及した。最初私は、ちょうど私がカイヨン神父は、彼が聖母の言葉を取り上げ、そしてそのメッセージを曲解したこれらの「犯罪的」ジャーナリストたちに言及したときに、少しばかり誇張していると考えたように、彼は行き過ぎたと考えた。

ジャン・ウーセはなぜヴァチカン−モスクワ協定にサインすることを一つの裏切りと呼んだのか?「司教」bishopという言葉はギリシャ語に由来する、と私は教えられた。そしてそれは「見張り番」を意味する。エゼキエルと呼ばれる旧約聖書の書物を読むと、エゼキエルは見張り番と比較されている。そしてエゼキエルは見張り番としての彼の義務を告げられる。彼は、こう告げられる。もし私がイスラエルを見張る壁の上に一人の見張り番を指名するならば、そして見張り番が誰も見張っていない真夜中に、敵のところに野原を横切って行き、敵が近づいているときに叫び声を上げないという協定を彼と結ぶならば、その見張り番は聖なる信任を裏切ったのである。そして神は、彼の聖なる義務を果たさなかったその見張り番の手で敵の攻撃のゆえに虐殺されて死んだ市民たちの各々の血を要求されるであろう。

それゆえ、神の敵ども、教会の敵どもと協定を結び、敵が近づくときに叫び声を上げないことは一つの裏切りである。それは他の何ものとしても言及され得ない。私はこれによって彼らがこのことを不誠実にしたとか、彼らがこれを悪意をもってしたとは言っていない。しかし、客観的に言えばそれは聖なる信任の裏切りである。

そしてそのような協定はまず何よりも神の前に正しくない。それはいかなる道徳的水準も持っていない。その上、数年前にわれわれがあるラジオ番組を作っていたときにミチェリ神父が指摘したように、ヴァチカン−モスクワ協定が働かないことを示す25年間の経験を持っていた。

それについての第一の事柄は、ロシア人たちは鉄のカーテンの背後のわれわれの兄弟たちの迫害を減らすという協定の彼らの側面を決して遵守しなかった。彼らはただ彼らの戦術を変えただけであった。私は私のテレビ・ショーでヨセフ・テレリャに会ったが、彼は一つの理由で、たった一つの理由で−彼がカトリックであったがゆえに−23年間を獄中に過ごした。そして彼は彼の刑期を、その協定が初めに締結されたあたり、あるいはその後の、1960年代に始めたのである。彼はわれわれが知っている一人の人である。しかし、他の数千人の人々がいる。

そしてそれゆえ、ヴァチカン−モスクワ協定は教皇がなぜ奉献をされないかの主要な政治的障碍である。というのは、奉献は共産主義の誤謬に対する一つの直接的な攻撃だろうからである。

なぜある人々がファチマを偽り伝えるか

あなたたちはファチマ・メッセージについてただその信心の局面(私は確かにそれに賛成し、それを支持する。私が以前に述べたように、ロザリオ、スカプラリオ、そして聖母の汚れなき御心への個人的な奉献は非常に大切である)においてだけ語るが、しかし、彼らが、ファチマのメッセージは同様にまたロシアの誤りについても語っており、そしてそれは同様にまたロシアの奉献の絶対的な必要性についても語っているということを指摘する点までなぜ先へ進まないのか、ということを知りたいだろう。

それは、教会の中にヴァチカン−モスクワ協定の無分別なそして裏切り的な政策に対して支持を与えなければならないと感じる人々、あるいはさもなければ、この裏切りの協定を支持するあれらの教会役職者に忠誠でなければならないと感じている人々がいるからである。

それが、われわれにとって教会の現代の状況の光に照らしてわれわれ自身の責任を理解することが大切である理由である。われわれは信仰を擁護するというわれわれの義務を負っている。われわれはファチマ・メッセージを知らせる義務を持っている。われわれはわれわれ自身がファチマ・メッセージを生きる義務を持っている。われわれは、われわれの祈りによって、そしてわれわれの犠牲によって、そして同様にまたわれわれの働きによって、聖母の汚れなき御心の勝利をもたらすためにわれわれができるすべてのことをする義務を持っている。

それゆえ、私はあなたたちができる限り多くのファチマ・クルーセイダーのコピーを取り、あなたたちの隣人たちや友人たちに配布し、このことについて語り、知らせ、毎日ロザリオを唱え、そして教皇、司教たちのために犠牲を捧げ、祈るように勧めたい。われわれは同様にまたそれは教皇に対する慈悲と忠誠の行為、実際彼に対する援助であるということを理解しなければならない。

> 彼が教皇になることによって引き受けたこの責任、ただ彼だけが遂行することができる一つの面倒な義務のゆえに、−それは彼自身の手段を越える−彼は神の恩寵を必要としている。たとえ私が教皇になるとしても−そして確かにそれは決して起こらないが−私もまた、私自身同じことを言ったであろう。

誰が彼自身の力によってファチマが命じたロシアの奉献をすることができようか。

このことは教皇ヨハネ・パウロ二世あるいは彼の先行者たちの誰かの批判を意味するものではない。彼が奉献のこの行為をしないことの結果は恐るべきものである。それらはわれわれ自身にとって、そしてわれわれの国にとって恐るべきものであるだけでなく、それらは特にそして個人的に教皇と司教たちにとって恐るべきものである。

いくつかのファチマ・グループはシスター・ルシアに対する聖母の言葉を無視している

我らの主御自身がシスター・ルシアに教えられたただ二つの祈りだけがファチマに関するほとんどどの書物あるいは雑誌にも公表されていないということは興味のあることである。

2日間で私はファチマとリアンジョへ巡礼に行くことにしている。リアンジョはサンチアゴ・コンポステラから遠くないスペインの小さな沿岸都市である。

我らの主がシスター・ルシアに二つの祈りを書き取らせたのはここ[リアンジョ]であった。宗教的なものに関心があるすべての人々にとって(そして彼らはファチマのメッセージの宗教的な面に関心があるはずである)我らの主御自身が書き取らせたこれら二つの祈りが他のグループによって英語で公表されないていないのはなぜなのか?それはそれら[二つの祈り]が、我らの主が同時に与え給うた一つのメッセージと関連しているからである。そしてそのメッセージは実際、難しい。しかし有益なものである。

私はそれがどのように起こったかをあなたたちに話したい。シスター・ルシアは病気だった。彼女は疲れていた。そして彼女は彼女にしきりに尋ねる人々から逃れる必要があった。それはちょうど御出現が教会によって承認された直後であった。それゆえ、1931年8月に、シスター・ルシアは彼女の上長によって、姓名を隠して小さな海辺の村に送られた。彼女が滞在していた家の人々でさえ彼女が誰であるか知らなかった。[そのことを知っているのは]その家の主人だけで、他の誰も知らなかった。そして彼女はそこ、リアンジョの聖堂、聖母に捧げられたチャペルにいた。そして彼女はスペイン、ポルトガル、ヨーロッパそして世界の回心のために祈っていた。

我らの主が彼女に語りかけ、そして「あなたはそれらの国々の回心のために祈ることによって私を非常に喜ばせる。この恵みをまた私の母にも願い求めなさい」と言われたのは、スペイン、ポルトガル、ヨーロッパ、ロシアそして世界の回心のためのこれらの祈りの間にであった。主はそのとき彼女に二つの祈りを書き取らせられた。

ひとつ[の祈り]は次のような祈りである。「マリアの甘美な御心よ、ロシア、スペイン、ポルトガル、ヨーロッパそして全世界の救いでありますように」。われわれが同様にまたファチマ・クルーセイダーにおいて公表したもう一つの祈りはこうである。「あなたの純なるそして無原罪の御孕りによって、おおマリアよ、私のためにロシア、スペイン、ポルトガル、ヨーロッパそして全世界の回心を手に入れてください」。

イエズスはそのファチマの命令を遅らせそして妨害する人々に警告される

そしてそのとき我らの主はシスター・ルシアの祈りをコメントしそしてそれを褒めた後に、続けてこう言われた。「彼らが私の命令の遂行を遅らせることにおいてフランスの王の例に従うならば、彼らは彼[フランス王]に従って不幸に陥るだろうということを私のしもべたちに知らせなさい」。
フランスの王への言及は何であろうか?フランスの王は聖心によってフランスを聖心に奉献するように命令された。そしてフランスの王たちは100年間にわたって、これ[奉献]をすることを拒絶してきた。その命令は聖心によって聖マルガリタ・マリア・アラコックに与えられ、そして王に伝えられた。

それは1689年6月17日に与えられた。その日まで100年間フランスの王たちは従うことを拒絶した。そして1789年6月17日、100年後のちょうどその日に、フランス王は第三階級によってその権力を奪われ、そして4年後に公衆の前でギロチンによって処刑された。

「私の命令の遂行を遅らせることにおいて彼らがフランス王の例に従うならば、彼らは彼のように、彼に従って不幸に陥るだろうということを私のしもべたちに知らせなさい」。これら[の言葉]は恐るべき言葉である。それは一つの脅威であり、そして一つの予言である。我らの主は、もしそれが重要な問題ではなかったならば、ファチマに献身していると主張している人々の間にさえ一般に広められている、彼らは従わなければならないことはないという嘘にもかかわらず、もし彼らが従う義務を負わせられていなかったならば、教皇や司教たちに対するそのように恐ろしい懲罰を予言されなかったであろう。

それが私が私の書物の全部の部分をこの主題に当て、そしてそれを世界のすべての司教に送った理由である。そこにおけるその論証のどれかを反駁する一つの解答もなかった。そしてわれわれはその全部分、恐らく50数ページをわれわれの唯一の希望であるイエズスとマリアのこの命令に従うべき教皇と司教たちの義務に関して捧げた。

我らの主はこの懲罰でもって彼らに脅威を与えられた。同時に主はここにいるわれわれすべての者に忠告を与えておられる。

主は遅延について不満を述べておられる一方で、続いて次のように言っておられる。「彼らはそれを為すであろう。しかし、それはもう遅いであろう」。それで言ってみれば、主はその注意をわれわれに、教皇や司教たちのように一つの国を奉献する力を明らかに持っていない信徒、そして司祭たちに、向けておられるのである。主はその注意をわれわれに向け、そしてこう言われる。「イエズスとマリアに依り頼むことには決して遅すぎるということはない」と。

われわれの個人的な義務はイエズスとマリアに依り頼むことである。そのことはわれわれに、天使が子どもたちに語ったときの次の言葉を思い出させる。「イエズスの聖心とマリアの御心はあなたたちの嘆願の声を注意して聴かれます」。ちょっと考えてみてほしい。イエズスの聖心とマリアの御心が待っておられる、ということを。われわれから聴くことを期待し、待っておられる、われわれの嘆願の声に注意しておられるということを。

「イエズスとマリアに依り頼むということには決して遅すぎるということはない」というこれらの言葉によって、我らの主はわれわれすべてをより大きな祈りへと招いておられる。祈りなさい、祈りなさい、特に今、あなたたちはロシアの奉献が為されなかったゆえに、あなたたちが極めて危険な状況に置かれているということを知るようになったのだから。

もしロシアの奉献がすぐに為されないならば、われわれはこの世において恐るべき苦しみを受ける危険にあり、そして多くの霊魂は永遠に地獄に堕ちる危険にある。あなたたちは今それが非常に遅いということを知っているから、今、イエズスと我らの天の御母に祈るためにイエズスの招きを聴き、それに従っていただきたい。

私はこの話の後では、われわれが最初に出発したときよりも、あなたたちが諸々の事実、危険、時の遅さ、そして解決についてより意識するようになったということを希望している。

しかし、気を落とさないで欲しい。希望を棄てないで頂きたい。イエズスとマリアに依り頼むことには決して遅すぎるということはないということを思い出して欲しい。それはわれわれが常に心に留めておかなければならないことである。イエズスとマリアへのわれわれの祈りを増すことによってそれを実践に移すことを忘れないで欲しい。

終わり
96/11/27 三上 茂訳

ファチマの聖母マリア 1-2

2016-09-28 15:36:23 | ファチマの聖母(考察)
平信徒でさえわれわれの祝せられた信仰を擁護しなければならない

われわれは429 A.D.に教会史におけるこのことのもう一つ別の例を持っている。エフェソにおける大主教であったネストリウスは満員の大聖堂の中で説教をしていた。その中で彼は祝せられたおとめマリアは神の母ではないと言った。

これは教会がその教義を決定する以前のことであったことを思い起こして頂きたい。大聖堂の中で立ち上がって、そしてネストリウス、会衆、そしてそこにいたすべての聖職者にこれは異端であると告げたのは大聖堂の中にいた司祭たちではなく、そこに居合わせた他の司教たちではなく、一人の平信徒であった。

その平信徒の主張が正当であると立証されたのはそれから2年後、431 A.D.年のことであった。彼の信仰の擁護はエフェソの公会議を開催する原因になった。その結果として、431 A.D.年10月11日に−それは1560年前のことであるが−聖母はエフェソ公会議の荘厳な決定によって真に神の母であると宣言されたのである。

そして聖ロベルト・ベラルミンについてもそうである。彼は単に聖人であるばかりでなく、教会博士でもある。彼はわれわれに、信仰が危機に瀕しているときには、一人の司教、あるいは一人の枢機卿、あるいは一人の教皇(彼は含めている)のうちからでさえ、その人は誰であろうと、公に非難されるとわれわれに告げている。

ところで、カトリック教会には列聖された数千人の聖人がいる。しかし、カトリック教会にはただ32人の博士しかいない。博士はまず第一に聖人である。しかし第二に彼はまた聖人たちの間で学問のある人でもある。そして彼の教説はそれが模範的であるということ、そして聖人たちの間においてさえ最も教訓的であるということを見るために二重に検討されてきたのである。

聖ロベルト・ベラルミンはそのような一人の人、そのような一人の聖人である。そして彼の特殊性は彼が教皇制の擁護者であり、教会が神によって建てられたものであることの彼の擁護のゆえに博士であるという点である。聖ベラルミンの例は、もしあなたたちのうちの誰かが「新たにされた」集会に出席したとすれば、今日教えられているものとは全く正反対のものである。「新たにされた」集会においては、例えば、あなたは、もし誰かある人が異端をとうとうと述べるならば、声をあげるべきではなく、彼を非難すべきではなく、親切な、友情にあふれた微笑みを維持することになっている、等々と告げられる。

これらの人々の多くは必ず善意をもって誤りに陥っている。われわれは彼らを敵あるいは悪意のある人と考えるべきではない。しかし、それにもかかわらず、特に、ファチマの第三の秘密が、信仰が内部から掘り崩されているがゆえに、われわれは危険な状態にあるということを告げているこの時期には真理は弁護され、そして信仰は擁護されなければならない。

第三の秘密は明かされなければならない

それが、聖母が第三の秘密が信徒たちに明かされるべきだと望まれた、そして今もなお望んでおられる理由である。あなたたちが多くの他の場所で告げられた嘘と違って、第三の秘密は教皇だけに宛てられたものではない。確かにそれは教皇に宛てられたものであるが、しかし彼だけに宛てられたのではない。それは全信徒に宛てられているのである。

私は、あなたたちのうちの多くの人々が1960年にはわれわれが第三の秘密の開示に対して持っていた期待を思い出すと確信している。その期待は、ファチマの司教が遅くとも1960年には、あるいはもしシスター・ルシアが死んだ場合にはそれ以前に明かすであろうとシスター・ルシアに荘厳に約束したがゆえに、根拠のないものではなかった。

そしてリスボンの総大司教・枢機卿は公式的に約束した。彼は、もしファチマの司教、ファチマの最初の司教ダ・シルヴァ司教が1960年以前に死んだら、彼が個人的にそれを見る、第三の秘密は信徒に明かされる、と公式に約束した。これは公式の記録に属する事柄である。それは歴史的事実の問題である。

ところで、フレール・ミッシェルはそのことを彼の書物の第3巻465-479ページに記録している。われわれが言っているほとんどすべてのことがわれわれの敵対者たちによって問題視されているので、あなたたちが参考文献を知ることは大切である。われわれはまたFatima Crusader Issue No. pages 18,19および39にこれらの多くの参考文献を挙げておいた。それゆえに、私はわれわれの信仰を擁護することの重要性のゆえに、第三の秘密の重要性を強調しなければならない。

われわれ各自は神がわれわれに与え給うた恩寵の程度に従って、われわれの能力、そしてわれわれの機会の程度に応じて、ファチマのメッセージによってばかりでなく、堅振におけるキリストの兵士としての、そして洗礼における神の子としてのまさにあなたの義務によって、カトリック信仰を擁護する荘厳な義務を持っている。

誰も同じ程度に信仰を理解するのではない。誰も同じ能力を持っているわけではないし、教えられる同じ機会を持っているわけではない。しかし、われわれすべてが知っている信仰についてのある基本的な事柄がある。

聖トマスはわれわれにこう告げている。使徒信条の条項はあからさまに信じられなければならない。もし誰かがそれらを否定するならば、たとえ彼が聖なる神学における博士であろうとも、使徒信条あるいはニケア信条において述べられたカトリック信仰のある条項を否定するならば、彼は非難されなければならない。そしてあなたは、彼がその誤りの中を歩み続けることに固執するならば彼と共に歩んではならない。

愛の使徒である聖ヨハネはローマの通りでマルキオンを悪魔の子として公に非難した人であった。それゆえ、もしあなたが神を愛し、そしてあなたがあなたの隣人を愛するならば、それはわれわれがつまらないものであるということを意味しない。それはわれわれが神を熱烈に愛し、そしてわれわれが神の意志に従ってわれわれの隣人を愛するということを意味する。

もしわれわれが善を愛するならば、そのときわれわれは悪を憎まなければならない。そのことは詩編44において我らの主について言われているように、善を愛することのまさに本性である。「あなたは正義を愛し、不正を憎まれました。神、あなたの神はあなたの同胞たちを越えて、あなたに塗油なさいました」。

そしてそれゆえ、悪を憎むことはキリスト者のしるしである。われわれは罪人を愛しなければならないが、しかしそれにもかかわらず罪を憎まなければならない。

信仰に反する異端と誤謬が撃退されなければならないのはなぜか?

異端は殺人よりも悪い。現在、われわれの時代にはそのことはいささか奇妙に、あるいは一つの誇張と響くかもしれない。しかし、それは完全に真である。そしてまさに正確に真である。というのは、殺人はただ身体を殺すだけである。それが悪いことは悪いのであり、私はそのことを全然軽視しようとは思わない。しかし、身体を殺すことは霊魂を殺すことあるいは霊魂を永遠にわたって地獄へと宣告することほどには悪くない。そしてそれが異端がすることである。

ひとたびある人が異端に陥るとき、もし彼がこのことを知りながらするならば、彼はすでに大罪を犯したということを、あなたは知っている。そしてたとえ彼がこのことを故意にしているのでないとしても、矯正されても、自らを正すことを拒むならば、そのとき彼は大罪に陥る。

ある人が信仰を失うとき、あなたは彼は無防備であると言ってもよい。というのは、罪人、大罪にある人(しかし、異端の罪に陥っていない人)は少なくとも自分自身のために祈る力を持っているからである。しかし、信仰を失う人は祈りをする信仰を欠いているゆえに自分自身のために祈ることができない。

そしてそれゆえ、聖母は彼らのために祈り、彼らのために犠牲をする人が誰もいないので、地獄に堕ちる多くの霊魂がいると言われるのである。彼らは彼らのために祈ってくれる人を持たない。そしてそれが、教皇ピオ十二世が指摘しているように(それは一つの大きな神秘である、しかしそれにもかかわらず真である)、救われる霊魂の数がカトリック者が神の恩寵とどのようによく協力するかということに依存している理由である。

それがファチマの聖母が罪人たちのために祈り、そして償いをするようにわれわれに願われた理由である。そして聖母がわれわれが重大な危険、われわれの信仰のこの危険に陥っているのをご覧になられるがゆえに、われわれに警告するために来られたのである。

われわれは今重大な危険に陥っている!

さて、私はこの危険は特に1960年に始まったということに言及することから話を始めた。われわれはどのようにしてこれがその年であるということを知ったのであろうか?よろしい、シスター・ルシアは「なぜ1960年にだけ秘密は明かされることになったのか?なぜそれを今明かさないのか?」と質問された。これはファチマ作家の一人、モンシニョル・バルタスが1946年にダ・シルヴァ司教のいる前で彼女にした質問であった。そして彼女は非常に興味のある答えをした。「そのときにはそれがいっそう明らかになっているでしょうから」。

1955年にオッタヴィアーニ枢機卿は第三の秘密についてシスター・ルシアに語った。そしてオッタヴィアーニ枢機卿は後で第三の秘密を読んだ。そして第三の秘密が一つの預言であるということを理解した。一つの預言がいっそう明らかになるということは、それが実現され始めるということ以外にはどう理解されるであろうか。そしてそれゆえ、第三の秘密は1960年に明かされ始めた一つの預言なのである。

われわれはまた同様に秘密のもう一方の別の終端を知っている。われわれがそれが止むということを知っている。それは聖母が「最後に私の汚れなき御心は勝利するでしょう。教皇はロシアを私に奉献するでしょう。ロシアは回心するでしょう。そして平和の一時期が人類に与えられるでしょう」と言われるときに、聖母の言葉が実現された時に終わるだろうということを知っている。そしてこのことはまだ起こっていないのである。われわれは1960年と聖母の勝利の時の間にいるのである。そしてそれゆえ、われわれの信仰が今掘り崩されているということを特に忠告されるということはわれわれにとってよいことである。

アロンゾ神父は沈黙した。その生涯の最後の16年間をファチマの公式記録保管者として過ごしたアロンゾ神父はシスター・ルシアと話す多くの機会を持った。彼の死の前に、彼はその著作のいくつかを公刊させることができた。しかし、彼の著作の大部分−それは14巻にもなるが−は今日まで公刊することを許されていない。しかし、フォックス神父のような異端者たちは異端的なことを書くことができ、それらを公刊することができる。そして誰もそれについて何もしないのである。

現在10年間にわたってアロンゾ神父の14巻の書物は葬られて来た。それらは教会当局によって公刊を許可されていない。われわれが繰り返し証明したように、シスター・ルシアが過去31年間にわたって沈黙させられてきたのと同じである。

アロンゾ神父は、彼が死ぬ前に、ある神学雑誌において一つの短い論文を発表した。その中で彼は、第三の秘密はわれわれの信仰に対する諸危険(ラッツィンガー枢機卿もまた完全に是認した一つの事実)に言及しているということを記録した。アロンゾ神父はさらに先へ進み、第三の秘密は今日の教会内部での背教の状態として高位聖職者の罪に言及していると言った。

ところでシスター・ルシアは過去に、彼女が別の時にいるときに、第三の秘密についての誤った理論を論駁するために呼び出された。シスター・ルシアは今日までいかなる仕方でも第三の秘密についてのアロンゾ神父の分析を決して否定したり、あるいは攻撃したことはなかったし、あるいは訂正しようとしたことはない。

実際、1970年代の彼女の手紙の中に書かれたものを読むならば(フレール・ミッシェルは彼の書物の中でさまざまの手紙を引用している)、われわれはアロンゾ神父がこの説をありもしないことからでっちあげたのではないということを見ることができる。シスター・ルシアは教会において大きな責任を持った人々でさえ感染している悪魔的な方向逸脱について語っている。彼女はこのことを一度ではなく、多くの異なった機会に言っている。

 
聖ヨハネ・グアルベルトは公表する

7月12日が祝日である聖ヨハネ・グアルベルトは当時の教皇にフィレンツェの大司教がその職を買うことによって、すなわち、聖職売買によって得たということを告げようと努力した。教皇は、その時代の他の聖人、聖ペトルス・ダミアヌスがそうしたように、彼の言うことを聴いた。しかし、彼らは確信するに至らなかった。

それゆえ、聖ヨハネ・グアルベルトはヴァロンブローザ(私はイタリアで勉強しているときにそこを訪ねた)へと戻り、彼が言っていることが真実であるということを証明するための一つの奇跡をはたらくという神からの一つの特別の霊感をそこで受けた。それはあなたがあなたの霊感に確信をもたない限り確かに企てるはずのない、最も劇的な奇跡であった。

聖ヨハネ・グアルベルトは一つの大きな火を起こさせた。彼は町の人々すべてに来て、そして神が彼とフィレンツェの大司教の間を証言なさるのを目撃し、そして誰が正しいかを見るようにと呼び集めた。彼は人間が注意を払わないので彼の証人として神を呼び求めたのである。

聖ヨハネ・グアルベルトはフィレンツェの大司教は彼が持っていた高い職務に値しないというすべての人々に対する積極的な公の証明を約束した。彼は彼と悪しき大司教との間を判断なさるように神に呼びかけた。彼は彼の修道士たちの一人を彼が正しいという証明として、さもなければ確実な死から守るという奇跡を働いてくださるよう神に願った。

そしてそのようにこの火が起こされ、準備ができ、そして町の人々が集められたとき、聖ヨハネ・グアルベルトは兄弟聖イグナティウスに聖なる従順の下に、火を通って歩くように命じた。

今や神は巨大な篝火を通り抜けるこの人に奇跡を働かれた。彼はもし神が彼を守られなかったならば、明らかに死んでいたであろう。彼は反対側に傷を負わず、焼かれもせずに出て来た。そして人々は神が彼らに与えられたこの証言の前に彼らの義務を理解した。彼らは疑いのどんな影をも越えて、大司教が司教に任命されるために賄賂を使った悪い人間であるということを知った。

今やその大司教を町から追放することが彼らの義務であった。それが彼らがその同じ日に行なったことであった。

そしてそれゆえ、あなたたちに第三の秘密は重要ではない、あるいはそれはあなたたちに知らせるように宛てられたものではない、あるいはそれらの事柄についてあなたが為し得ることは何もないと告げる人々のために、聖ヨハネ・グアルベルトの時代のフィレンツェの人々が一人の悪い羊飼いから教会とフィレンツェの教区を救うために呼び出されたということを理解してほしい。

今日の教会にとっての危険は約千年前のフィレンツェの教区に降りかかったことよりもはるかに劇的であり、はるかに悪い。それが、まず何よりも危険が存在するということを理解することがわれわれにとってなお重要である理由である。われわれが危険に気づかないならば、われわれは何もしないであろう。そして第二に、われわれがすることが何もないとわれわれが考えるならば、われわれは何もしないであろう。明らかに、もし聖母がわれわれにとってすることが何もないと考えられたのならば、聖母はわれわれの信仰が危険に陥っている、そしてその危険はカトリック教会の内部から来ているということをわれわれに告げようとなさらなかったであろう。

第三の秘密は聖職階級を非難している

もしあなたたちがなぜ第三の秘密が明かされないのか、なぜシスター・ルシアが31年間にわたって沈黙させられているのか、なぜアロンゾ神父の14巻の書物が公刊を禁じられているのか、を知りたいのならば、それは第三の秘密が今日の聖職階級の多くの者の現在の方向を非難しているからである。そしてもしあなたたちがファチマの聖母があなたたちがそうすることを望まれなかったということを知ったならば、聖職階級に同調しないからであろう。それがわれわれにとってまず何よりも祈りと犠牲において聖母と我らの主へと立ち戻ることがなぜ緊急であるかの理由である。

聖ペトロが牢獄にいたとき、あなたたちが使徒行伝のうちに読むように、全教会は日夜彼のために祈った。そしてそれゆえ、神は天使を送って彼の足かせから彼を救われた。彼は一日二十四時間二人あるいは四人の看守の間にはさまれて手錠をかけられ、また足かせをはめられていた。これは人間にとって逃亡不可能な状況である。にもかかわらず、神は聖ペトロを解放された。

教皇と教会は教会の初期の時代、ヘロデの時代における聖ペトロのように、言ってみれば足かせをはめられている。そして聖母がわれわれにするように求めておられることは教皇のために祈り、犠牲をすることである。

例えばフレール・ミッシェルの書物の中で、第三の秘密を読むと、彼は三人の子どもの大きな犠牲を指摘してる。ちょうど7歳であったジャシンタがそのいとこと兄弟と共に8月13日に誘拐され、死の脅しの下に一般の犯罪者と一緒に牢獄に閉じこめられたことを考えてみなさい。彼女は泣き始めた。彼女は、死にそうになったからではなく、母親をもう見ることができないだろうから、泣いたのである。

彼女を慰めるために、シスター・ルシアは彼女がジャシンタに大いに興味があることを知っていたあるものでもって気を紛らわせようと努めた。彼女はこう言った。「私たちはこのことを犠牲として捧げることができるでしょう。私たちはそれを罪人たちのための犠牲として捧げることができるでしょう。私たちはそれを聖母の汚れなき御心に対する償いにおいて捧げることができるでしょう。私たちはそれを教皇のために捧げることができるでしょう」。ジャシンタが彼女の犠牲をどの意向のために捧げるかを尋ねられて、彼女が「私はそれをそれらのすべてのために捧げます」と答えたということに注目することは興味のあることである。ジャシンタは教皇についての二つの幻視をした。彼女はこれら二つの幻視を見た唯一人の人間であった。

一つは「飢えのために泣いているそして食べるものを何も持っていない人々でいっぱいの道路と野原。そして無原罪の聖母の前で祈っている教会における教皇。そして彼と共に祈っている大勢の人々」の幻視であった(Frere Michel, The Whole Truth About Fatima, Vol.III, page 716を見よ)。

そして別の時にジャシンタはこう言った。「私は両手のなかに頭を埋め、テーブルの側に跪いて、泣いている、非常に大きな家にいる教皇を見ました。家の外には多くの人々がいました。彼らのうちのある者は石を投げ、他の者は彼を呪い、汚い言葉を使っていました。かわいそうな教皇、私たちは彼のために大いに祈らなければなりません」(Frere Michel, The Whole Truth About Fatima, Vol.III, page 715を見よ)。

教皇についてのこれらの幻視はジャシンタに永続的な印象を与えた。ジャシンタは繰り返し教皇のために祈る必要を強調し、そして繰り返し繰り返し彼女自身そうすることを約束した。彼女は教皇のために多くの祈り、苦しみ、犠牲を捧げた(Frere Michel, The Whole Truth About Fatima, Vol.III, page 717-720を見よ)。

教皇はファチマのメッセージにおいて初めから終わりまで、特に第二の秘密おいて、そして明らかに第三の秘密において、取り上げられていると言ってもよいだろう。最終的にはすべては教皇にかかっている。それは非常に大きな責任である。それはいかなる人の手段をも越えた一つの責任である。彼の名前が何であれ、彼が教皇ピオ十一世であれ、教皇ピオ十二世であれ、教皇パウロ六世であれ、教皇ヨハネ・パウロ二世であれ、そうである。

それにもかかわらず、神は彼にこの巨大な責任を果たすことを期待されるのである。

奉献は紅海の奇跡のようなものではない。旧約における神の民の偉大な指導者を考えてみよ。モーセのことを考えてみよ。彼はファラオに民を神を礼拝するために行かせるように確信させたがその後に、ファラオは心を変えて彼らに対して彼の軍隊を送った。そしてそれゆえ、彼らは砂漠を出て、逃れる場所がなかった。彼らの前には紅海が横たわり、そして背後には彼らを殺す準備を整えて彼らに襲いかかろうとするエジプト軍がいる。神の民は鎧甲もなく、武器も持たずに、行く所がない。

神は紅海がどこにあるかを忘れておられなかった。また神はファラオの気が変わり、彼らを攻撃するために出発したということを忘れ、あるいは理解されなかったのでもない。しかし、むしろ、神はそれからより大きな善を引き出すために、言ってみれば彼らの歴史のこの頂点へと彼らをもたらされたのである。単にモーセの権威を再び言明するためばかりでなく、洗礼のシンボルや他の多くの事柄をわれわれに与えるためにである。

神はモーセの側での従順と信仰の行為を求められた。そしてこの従順の行為は人間的な知恵の光に照らせば非常に賢明であるとは思われなかった。(結局、神がもし語られなかったならば、彼らにとって逃げる、あるいは隠れる、あるいは散り散りになることがより賢明であったろう)。彼らは彼らの生き残りをモーセを通しての解放に依存するように求められたのである。

そしてモーセは信仰と従順のこの行為を求められた。モーセは彼が告げられたことをした。彼は紅海の上に彼の腕を伸ばした。そうすると海が開け、彼らは救われた。そして、歴史において実際に起こったその光景はわれわれが今日がおかれている現実のシンボルである。

新約聖書における神の民は、彼らがそのことを理解していようといまいと、取り囲まれている。そして彼らは大虐殺へと定められている。そしてわれわれは、教皇が最終的にロシアを奉献するというこの命令に従うとき、神のより偉大でさえある行為によって救われるであろう。

シスター・ルシアが説明したように、「聖母は何度も私自身に、そしてジャシンタとフランシスコに、ロシアは、もしわれわれがその前にそのかわいそうな民の回心を獲得していないならば、全世界を罰するために天によって選ばれた懲罰の道具である、ということを告げられました。」

懲罰の道具を用いる神という観念に驚く人々のために、私はエレミヤの時代に言及しよう。エレミヤはエルサレムの聖なる都は捕囚において取り去られる、これら悪しき異教徒であるバビロニア人がエルサレムに対する戦闘において勝利するであろうと予言した。

ところで、その当時エルサレムに住んでいた人、ダヴィデとその子孫への約束を知っていた人にとって、預言者エレミヤによるそのような予言は異端と思われた。それはメシアの到来の約束、そしてエルサレムの都への約束と調和させることは不可能だと思われた。

ある人々は信仰を自分たちは知っていると考えるその無知において、エレミヤが言わなければならなかったことを拒否した。

彼らはそれを拒否し、その結果彼らは肉体的な危険に陥った。彼らは虐殺され、また補囚へと連れ去られた。神は預言者たちを通じて、神が神の民を彼らの罪のゆえに罰するためにバビロンを用いたと説明された。

ファチマはロシアが世界を再び奴隷化すると予言している。これは今日のカトリック教会の光景である。全世界が悪魔的な共産主義に従属するということは、我らの主が「世の終わりまでのすべての日を通じて」その教会と共にいる、と約束されたのだから、不可能であると考える考えるカトリック者がいる。

聖母は共産主義には言及されなかった。聖母はロシアの誤謬に言及された。そしてロシアは全世界の懲罰の道具であろうということに言及された。

1946年にアメリカの作家で歴史の教授であるウィリアム・トマス・ウォルシュはシスター・ルシアにインタビューした。そして彼は彼女にこう尋ねた。「われわれは今日預言のどの段階にいるのですか?」そして彼女はこう答えた。「私たちはロシアがその誤謬を全世界に広めつつある段階にいます」。彼は彼女に尋ねた。「それはロシアが世界中のあらゆる国を征服するという意味ですか?」そして彼女は言った。「そうです。」ウォルシュ教授は彼女がその質問を理解しなかったと考えたので、彼女に対する質問の言葉を換えて、今度はこう言った。「そしてそのことはアメリカ合衆国を含みますか?」そして彼女は言った。「そうです。」

それゆえ、われわれにとって、あなたたちが、テレビ・セットをつけ、あるいは新聞を読む時に得ているいわゆるニュース(もっと正確に言えば誤った情報)は常に真理であるのではないということを理解することはよいことである。まず何よりもわれわれにロシアは回心しつつあると告げる教会内部の人々に対して答えるために、われわれはゴルバチョフが全国的なテレビにおいて自分は無神論者であると語ったということを指摘する。彼はこのことを、私がもっと正確には「クークークー」と呼ぶであろういわゆる「クーデタ」の後で言った。

 

ファチマの聖母マリア 1-1

2016-09-28 15:34:38 | ファチマの聖母(考察)
ファチマの聖母マリア
「それが知られるようにしなさい」

The Fatima Crusader, Issue 39 Winter 1992より

ニコラウス・グルーナー神父


明らかにわれわれはこの仕事を、われわれの事務局並びにわれわれが国中から、そして世界中から得ている支持の両方で、多くの善良な人々の援助なしには為すことができないであろう。

そしてそれらの支持者の中に私はわれわれの立場を支持すると書いてくださり、そして教皇がファチマの聖母のまさに特殊的な要求に従ってロシアの奉献を為すために命令されるときはいつでも喜んで従うと指摘してくださった400人以上の司教に言及したいと思う。

われわれが勝利する側にいるということを理解することはわれわれにとって重要である。もちろん、勝利する側は「最後に私の汚れなき御心は勝利するでしょう」と言われるファチマの聖母をまず第一に含んでいる。そしてそれゆえに、気を落とさないことがわれわれにとって重要である。

同時にわれわれは盲目であってはならず、そしてわれわれの頭を砂の中につっこまないようにすべきである。不幸なことに、今日公的、私的の両面において、われわれを欺こうとする多くの努力が存在している。そしてこれらの努力は、我らの主が悪魔についてそう言及されたように、虚偽の父によって最終的には鼓舞されている。

真理なしにはわれわれは勝利することができないがゆえに、真理を広める必要性を理解することはわれわれにとって重要である。もしわれわれが何に反対しているかを理解しないならば、われわれはそれについて何をなすべきか、そして聖母をどのように助けるかを知らないであろう。

聖マキシミリアノ・コルベが指摘したように、これらの最後の時はサタンによってますます多く支配されるであろう。そして祝福されたおとめだけが蛇の頭を砕くことができるということが、祝福されたおとめに取って置かれたのである。

同時に、聖マキシミリアノは、聖母がこの勝利において、われわれが聖母を助けることを望んでおられ、そしてそのことを期待しておられる、と指摘している。聖母はそのすべてを御自身でおできになるが、しかし、聖母は多くの手を持つことを選ばれたのでありそして多くの手がすべて必要とされているのである。

 
聖母を助けるためにはわれわれはまず何よりも知らされる必要があるということを思い出そう

祝福されたおとめはわれわれの助けを必要としておられる。聖母を助けるためには、われわれは知らされることが必要である。そしてそれが聖母がファチマに来られた理由である。聖母はまず第一にわれわれの祈りを求めるために来られ、そしてロザリオを毎日祈ることを求めておられる。

というのは、私がそれを絶えず表明しない、あるいはそれについて語らないということは私がロザリオの重要性を最小限に見積もっているあるいは小さくしているということを意味しないからである。そして確かに聖母はまたわれわれにスカプラリオをまとい、そしてわれわれ自身を聖母の汚れなき御心に奉献することをも求められた。

あなたたちはファチマのメッセージを二つの部分:信心に関する事柄に言及する部分と彼らが「政治」と呼ぶものに関わる事柄に関する部分、に分ける人々がいるということを知っている。

しかし、聖母は一人であり、そして聖母のメッセージは一つである。聖母の全メッセージのすべての局面はわれわれの霊魂の救いと神のより大いなる栄光に関わるものである。メッセージの信心的な局面とファチマの誤った信奉者たちが「政治」として言及するものの間には一つの実在的な統一が存在する。

われわれの霊魂の創造者であられる神は同様にまた人間社会そしてそこにおけるわれわれの場所の創造者でもあられるがゆえに、それらすべては関係づけられているのである。聖母御自身が政治と経済に関心を持っておられるように、神はそれに非常に関心を持っておられる。しかし、政治や経済が最も重要な事柄であるからではない。それらは確実にそうではない。われわれの救い、われわれの永遠の救いが最も重要である。

しかし、明らかにもし政治的、経済的そして軍事的な状況が、カトリック者が神と彼らの同胞である人間との平和のうちに生活することができるようなものであったならば、われわれの霊魂を救うことは遙かに容易なものとなるであろう。例えば、教会への彼らの忠誠のゆえに捕虜収容所で今日故意に傷つけられ、苦しめられそして殺されているクロアチアの人々にとって、もし彼らの敵が彼らをこの極端な試練にさらさなかったならば、彼らの霊魂を救うことはより容易であったであろう。彼らの(そしてわれわれの)うちのあるものはそのような迫害の下では忠実であり続けないであろう。

同じように、世界中の人々にとって、毎年ここ(アメリカ)で2千500万、そして世界中で5千万にも及ぶ赤ん坊をその母親の胎内で殺すような法律ではまったくない法律を擁護する政体よりもむしろ王たるキリストの王たることを公に承認する政体においての方が、世界中の人々にとって彼ら自身を救うためには容易であろう。

世界は背教の状態にある。しかしもっと正確に言えば背教は教会に侵入したのである。それが第三の秘密が関わっていることである。一つの短い話の中でなぜわれわれは第三の秘密が教会における背教に言及していると言うことができるかに関して、あなたたちにその諸理由を説明し、与えることは私にとって難しいことである。しかし、私はあなたたちがあなたたち自身で見ることができるいくつかの事実に言及するように努めようと思う。

一つはもちろん教皇自身がファチマで言われたことである。「愛のすべての力でもって、聖霊において育まれ、そしてすべての人の救いを望んでおられる御母が、その子どもたちの救いのまさに基盤が掘り崩されるのをご覧になるときに、黙ったままでおられることがおできになるだろうか?」そして彼は彼自身の問いにこう答える。「いいえ、聖母はおできになりません!」。

ところで、聖アタナシウスはわれわれの救いのまさに基盤はわれわれのカトリック信仰であるとわれわれに告げている。もっと正確に言うならば、聖アタナシウスに帰せられているカトリック信条はわれわれにこう告げている。「救われることを望む者は全体的にすべてのカトリック信仰にすがりつかなければならない。」第一ヴァチカン公会議はカトリック者にとって信仰を離れることにはどんな言い訳もどんな正当化も存在しないということをわれわれに告げている。

信仰は、聖ヨハネが聖書の中でわれわれに告げているように、世界に打ち勝つものである。教皇が、われわれを非常に愛しておられる御母がわれわれの救いのまさに基盤が掘り崩されるのをご覧になるとき、沈黙したままでおられることはできないとわれわれに告げるとき、教皇と聖母はわれわれが現在その中をくぐり抜けているわれわれの信仰の危険に言及されているのである。

われわれの信仰は危険のまっただなかにある

  それが第三の秘密が関わっている事柄である。われわれはこのことを教皇のこのあまり明白でない指摘から知るばかりでなく、またヴィットリオ・メッソーリに対してあの有名なインタビューを許したラッツィンガー枢機卿からも知るのである。そのインタビューはイタリアの雑誌『イエズス』において公表された。そのうちの一語たりともラッツィンガー枢機卿がテキストを承認することなしには公表されなかった。ラッツィンガー枢機卿はこの中でこう尋ねられている。「あなたは第三の秘密を読みましたか?」「はい。」「それは何に言及しているのですか?」「第三の秘密はわれわれの信仰の危険に、そしてそれゆえにキリスト者の生命に、そしてそれゆえに世界の生命に言及しています。」ラッツィンガー枢機卿は第三の秘密を読んだ少数の人のうちの一人である。そして彼はそれはわれわれの信仰に対する危険に言及しているとわれわれに告げているのである。

さて、もしあなたが聖書を読むならば、そしてもしあなたが反キリストが来るという預言を読むならば、例えば聖パウロによる「テサロニケ人への手紙」のうちに、反キリストは大背教までは、すなわち、信仰と実践における[カトリック]信仰からの大離脱までは来ないであろうということを読む。ところで、聖母は第三の秘密においてこの背教に言及しておられるのである。もしそれが大背教でないならば、ファチマの聖母がわれわれの時代のためにわれわれに警告に来られたのはそれに似た背教である。

第三の秘密はわれわれがまさに現在生きているこの瞬間に言及している。それは1960年以前のある時期に言及しているのではない。そしてそれは教皇がロシアを奉献する、聖母の勝利の後の時期に言及しているのではない。

われわれはそのことを再び、シスター・ルシアが他の人々の間で、オッタヴィアーニ枢機卿によってわれわれに引用した言葉からも知る。私はフレール・ミッシェルの書物、『第三の秘密』において参照するように私が注意を促した詳細な記述と典拠をあなたたちに示す。その書物において彼はこのことを説明し、そしてあなたたちに、私が短い話のなかでそうすることができるよりももっとよく、証拠書類と出典を与えている。

この書物は第三の秘密を明らかにしている。私は、この書物を読んだ後には誰でも第三の秘密が何であるかを知っていると確信を持つに違いないと信じる。彼は言葉そのものを知っているわけではない。しかし、彼は確かに第三の秘密が何であるかの核心を知っている。それは、フレール・ミッシェルが再三にわたって指摘しているように、われわれの信仰に対する危険に言及している。それ以上に、それはアロンゾ神父が指摘したように、今日の教会内部の背教の状態に対する高位聖職者、すなわち、司教や枢機卿たち−彼らのすべてではなく、彼らのうちのある者であるが−の罪に言及している。

われわれの洗礼はわれわれが知らされることを要求する

それがわれわれにとって知らされることが非常に重要である理由である。というのは、ご存じのように、われわれは、われわれの洗礼によって、そしてわれわれの堅振[の秘跡]によってなおいっそう、信仰に関する一つの義務を持っているからである。われわれの信仰はわれわれの救いの基礎である。そして逆にわれわれ一人ひとりはわれわれが能力と機会を持っている程度に応じて、そしてわれわれができる程度に応じて信仰を擁護する義務を負っている。

聖トマスはわれわれにこう告げている。われわれの信仰を擁護する義務は、もし必要ならば司教や枢機卿を、教皇をすら、公に正すことをわれわれに要求するほどの負担の重いものである、と。これは反逆的な、あるいは無礼なことであろうか?そうではなく、反対に、われわれは聖書によってわれわれに与えられた規則を持っている。それは聖ペトロをその面前で非難した聖パウロについてわれわれに告げている。

それは何かさほど重要でない事柄に関することではなく、むしろまさに信仰の本質に関することであった。聖ペトロは何ら異端的なことを言ったのではなくて、一つの誤った印象を引き起こしながら、あたかも一つの異端が真であるかのように行為したのである。明らかに聖ペトロはこのことを善意をもってしていた。しかし、にもかかわらず、彼は誤っていた。そして聖パウロは聖ペトロを正さなければならなかった。そして公に彼はそうしなければならなかったのである。

聖パウロが聖書において書いている教訓をわれわれが学ぶことができるように、少しばかりそのことを説明しよう。私がこれを読み、そしてこれを研究した最初はそれは私にとって驚きであった。それゆえ明らかにあなたたちのうちのある人々は聖パウロと聖ペトロのこの例によって憤慨するだろう。

しかし、その教訓は聖パウロがわれわれに告げているように、聖書のすべてはわれわれの学習のために、われわれの教授のために、そしてわれわれの慰めのために、霊感を受けてそこにあるということである。神は聖ペトロがこの誤りを犯すことを許された。それは、私が言ったように、善意をもって為された。彼は教会における平和を欲したためにそれをした。しかし、それにもかかわらず、それは誤りであった。

そのことの背景は何であったか?聖ペトロはエルサレムからアンチオキアへ下って行った。そしてそこで彼は、救われるためにはあなたたちは洗礼を受けると同様に割礼を受けなければならないと主張するキリスト者であるユダヤ化するグループを非難しなかった。

ところで、エルサレムの最初の公会議はすでに割礼は救いのために必要ではないということを決定していた。聖トマス・アクィナスはその『神学大全』の中で割礼を主張することは一つの背教の行為、信仰の否定の行為であるということを証明している。というのは、旧約聖書のあの秘跡は未来におけるキリストの到来を証言していたからである。

ひとたびキリストが到来されたらそのとき割礼はもはや必要ではなくなったのであり、そしてそれに固執することはイエズスがキリストであることを否定することであった。聖パウロは本能的にその危険を理解した。聖ペトロはユダヤ化する人々が正しいとは言わなかった。彼がしたことのすべては単に割礼を受けていないキリスト者たちとは会食しなかっただけである。こうすることによって彼は、モーセの律法が言ったように、彼らが清くないがゆえに彼らと会食することを彼が拒否しているという印象を与えたのである。

それゆえに、割礼を受けていない人と会食しないことによって、ユダヤ化するグループは他の人々にこう言うことができたのである。「見よ、あなたたちは誤っていて、私たちは正しい。」「教皇はわれわれと一致している。彼はあなたたちが割礼を受けていないがゆえに、清くないと考えている。それが彼があなたたちと会食しない理由である」。

しかしながら、ペトロはそうは言わなかった。しかし、にもかかわらず、彼の行為によって彼は、彼らが正しく、そして彼らの教義を広めていると考える異端を引き起こしたのである。そしてそれゆえに、聖パウロは信仰に対する危険を理解して、そして教皇の威信に反してすら、信仰は擁護されなければならないという彼の義務を理解して、公に語り、そして彼を非難したのであった。彼は聖ペトロに言った。「あなたは真理のうちに立っていない。」

それが、彼が遠慮なく声を上げたのは聖パウロが使徒であったからだということばかりでなくて、実際それは洗礼を受けた、男であれ女であれすべての平信徒の義務であるということを理解することがわれわれに取って重要である理由である。