疑問がさらなる疑問を沸かせることになった。
特に、これは幼少期に始まり、小学生にも続き…
大人になってからも、そして、今も…。今は疑問は解決して、腹立ちすら覚える。
それは、宗教界全てにおいて。
神道は根拠となる教えが無いので、宗教の括りに入るのか微妙であるので、また、
日蓮の両親が神社の食べ物をお供えする仕事についていたし、
御本尊の中に、「天照大神」と添えられている。
だから、決して日蓮自身は神道を否定はしていなかったと思うし、
神社とお寺を分けたのは、明治政府によって機能を分けられたというのも調べて分かった。

だから、宗派問わずお寺の近くに神社があるのも納得が付いた。
だから、「神社参拝」=「謗法」では無いと自分の中で結論付けた。

まぁ、戦時中は国が神社信仰を利用して、戦争を突き進めた過去がある。
だから、国は信仰には口出しをしないとして、
政教分離という概念が出来たようだ。

話は戻り、
疑問が疑問を沸かせたのは、自分は創価学会で生まれたから、そこにいる。
と思っていたが、濃淡があるかもしれないが、
葬式仏教の宗派・考えの根付きは思ったよりもあった。

これが原因で悩む人が多いはず。ましてや、先祖供養観の強い両親の元に生まれたら…。

宗教は特に仏教、本来生きる苦しみ「生・老・病・死」から解き放つために説いたのだが。

説いたと言っても、お釈迦様自身は自ら書き残した訳では無く、「こういう風に聞いた…」という風にまとめられている。まとめられている言葉こそがお経なのだ。

だから、葬式の時に、お経を読んでいることが当たり前だが、生き方を説いたり、ストーリー性のものがあったりする。

だから、葬式の時にお経を読むことと、全く繋がらないのだ。
死者を悼む気持ちを ありがたいお経にすり替えることで何となくお寺は凄い。みたいな感じですり替えられていることがもの凄く腹立たしい。

ましてや、先祖供養て思想も儒教のもので、仏教のものでは無い。

だから、ますます腹立たしいのだ。

お釈迦様が説いたことは、普段生きていることの苦悩を説いてくれる。
今すぐに思い付くことと言えば、

「諸行無常」世の中は、移り変わっていく。
「色即是空」世の中は、空(くう)=(からっぽ)である。

が思い浮かぶ。

これは、本当に自分は救われた。
例えば、「人の死」「物が壊れる」「今の悩み」

諸行無常で物ごとを捉えられるようになった時、
救われた。

人の死、物の死(物が壊れる)は必ず来る。
来るはずのものなのに、「人は死なない」「物は壊れない」加えて ”悲しいものだ” 
って根っこにある人からすると、悲しいってわけだ。

いずれ人の死や物の死が来ることを根っこで「仕方ない」って考え方があれば
同じ出来事があっても、あまり苦しまなくて済む。

お金のこともそう。

「お金が無いから不幸せ」と感じている人に いくらお金を積んでも不安が払拭出来なければいつまでも不幸のままでしょう。
そもそも「お金が無いから不幸せ という考え方を持っているから 不幸せ。お金の有無と幸・不幸は一致しない。」という捉え方が出来れば どうだろう。

少しお金の執着は消えそうだ。

この執着、こだわり って言葉も仏教用語らしい…。

勝手にこだわって怒ってる って事でしょう。

だから、腹立たしいことがあっても、「今だけ」かもしれない。
なぜなら、世の中は移り変わっていくからだ。

まさに、この物事の捉え方一つで 苦しかったり、楽しかったりするわけだ。

今の時代にとっては、情報社会ですぐに検索すれば出てくるが、
紀元前のお釈迦様が言っていたとされるのだから、凄い。
悟っている、だから、仏様という言われなんだと思う。

だから、せっかく仏道の道を進んだお寺の住職こそ
先祖供養だけでなく、お経の現代語訳を元に悩める今に説いて欲しい。



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