Zen禅

心理学に基づく坐禅の研究-心の風景を眺め、流れていく気持ちの音を静かに聴く(英訳)

常に在るもの無いものThings that always IS or IS-not

2021-03-16 | 坐禅

若かった頃、私の心に常に流れていた言葉があった。

There was a word that always in my mind when I was young.

それは『純粋』との言葉だった。

It was the word “Purity.”

 

その言葉を常に思って、考えていたから、

それが何を意味するのかもできる限り調べようともした。

As I was always thinking of the word,

so I tried to figure the meaning out as much as possible.

 

私なりの純粋に対する言葉の定義は、

①キレイに澄んでいる 

②偽りや紛れが無い 

③異物が入っていない 

④自然のまま 

⑤分子や原子のような結晶体の状態などであった。

In my ways of defining Purity was,

1. clear as crystal

2. neither fabricated nor fluke

3. there is no odd

4.natural

5. It is like the particle combine such as molecules and atoms.

 

その言葉を常に思っていたことで、

何が自分にとって大事なのかを

思い続けることができたかもしれない。

For the sake of thinking about it,

I might have been able to keep in mind what was important for me.

或いは、ストレスやトラブルなどに

流されずに済んだかもしれない。

Alternatively, it might help me not to be swept away

by stress or stay out of trouble.

 

だが、ある日ふっと、

私の心にその純粋の言葉が

既に去って消えたことに気がついた。

But one day, I suddenly realized that

the word of Purity was gone

and no longer have in my mind.

純粋について考えていないことに気がついた時、

驚きもあり、寂しさもあった。

At the moment when I realized that

I did not think it anymore,

it made me astonished and felt lonely.

 

今、私の心の中に流れている言葉は無い。

Currently, there is no running word in my mind.

特定な定まりを維持しようとする心の動きも無い。

Neither have the mental motion to maintain a specific regulation.

空気だけある心の状態なのかもしれない。

Maybe my mind is like air only.

 

人は何か持つべき大切な言葉を持つべきなのだろうか。

Should people have something important words in their minds?

 

何か、最も重要なことを放さず持ち続けるべきなのだろうか。

Should we keep holding on to

something important ever and never let it go?

 

自分はこうである、とのことを常に意識すべきなのだろうか。

Should I always aware that I must be like this and that?

或いは、他人はこうであるべきであることを期待していいのだろうか。

Or else, is it okay to have an expectation that

others must be like this and that?

 

この世は、こうであるべきだと主張することが正しいことなのだろうか。

Is it the righteous thing that arguing about

this world must be this and that?

 

善と悪を分離して対立させるべきなのだろうか。

should we be separating good and evil and confronted them?

 

それらのこうだとか、ああだとか、

どれだとかを考えることに私は疲れた。

I am tired of thinking about matters that

those are must be this way or must be that way.

 

Aは赤でBは青だ、それを混ぜるとCの色が出る、

これらの識別にも疲れた。

A is red and B is blue, and a C color will come out if mixed,

I am also tired of distinguishing those.

 

冬になると色は消える、

だが、消えたように見えても消滅してはいない。

Colors disappear in winter,

however, even though it looked like it has gone

but potentially it is not.

 

春になるとまた緑が出てきて、

色とりどりの花が咲く。

When spring comes green comes out again

and colorful flowers will bloom.

 

窓越しに雪しか見えなかった時期は長かったのに、

いつの間にか雪が溶けて、

緑の芝生はまだ残っていた。

From the window,

I saw filed snow from my yards for a long time,

but the snow was already melted,

and the lawn has still remained green.

 

もうすぐ、家の庭に野花が咲く。

Soon wildflowers will bloom in my garden.

 

枝しか残っていない木々にも緑の葉っぱが茂てくる。

On the trees with just branches,

green leaves will be luxurious too.

 

もしかしたら、私の心は

言葉の葉っぱが全て落ちた末の秋のようかもしれない。

Perhaps, my mind is like the end of autumn

when all the leaves of words have fallen.

 

 

 


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26 Comments

コメント日が  古い順  |   新しい順
純粋 (月の笹舟)
2021-03-16 10:33:49
清らかに
想うが如く
異なれど
得てして濁る
異なるも良し
・・・・・・・・・・・・・・・・・
若くも 老いるも・男女差も
疚しくもあり 鬱陶しくも在りとも
其れは
己に純粋なればこそ
純粋とは
人が思うに在らず
清らかとは 限らず
かくゆう
清らかさも 混じり気を伴い

神 隔てなく ひとつの神存在せず
神は 己の心に在りて
信仰に 在らず

己 想うに
己を否定することなく

・・・其れが・ということに限らす
万人 全て 純粋なんだと思いますが
・個人的には

分け隔てを考えることも・全てに置いて
躊躇うことも 躊躇なき
正否成こと 想うも虚し気
Unknown (桂蓮)
2021-03-16 10:57:09
月の笹舟さん

巨視的な視点、ちっと感嘆しながら読みました。
そうですね、清潔感の度合いは人によって
異なりますよね。
純粋の度合いも測量の仕方によって
異質なものになりますし。

今回の記事を書いた理由は
ただ、人間関係から隔てていく自分に鬱屈みたいな、
それでもって
坐禅の思想を語るフェスブック友人達に
疲れたみたいな、
そうでも愚痴ることもできないみたいな、
無常がああだとか
いや、こうだとか
悟りがあるね、無いねなど

坐象が正しいね、正しくないねも
鬱陶しくなって
何となく気晴らしに書いたまでですが、

月の笹舟さんからコメントもらうとは
想定外でしたね。
頑張ってください! (keelongkeelong)
2021-03-16 20:56:20
なんだか随分Pessimistic言葉が並んでいて、
桂蓮さんらしくないね~ 頑張ってください!
Bassically 皆が視点は多少違うでも、
同じ原点に 立っているのですから。。
今は休む時。そしてそれは正しい事だと思います。 (人生の素人:折師)
2021-03-16 21:57:45
 (…前回の記事のコメントを見ていました。…私は見ているだけ。…何もしませんでしたが…)

私が感じた事は、

 最初は
「何が正しいのか?」を考える事だった…
(At first, a purpose is What is correct?)



それがいつからか
「私は正しい。なぜなら、他の人が間違っているから」
(I’m correct, because the others are wrong…)


……お互いを高め合うキャッチボールが、グローブ無しのボクシングになってしまった…
 私にはそんな風に見えました。

 ボクシングはもう終わり。今は休むべき時、そういう事だと。
 The hard time was finished, now is a time to take a rest.

 秋に葉を落とすのは、木そのものが枯れない為なのですから。 考えれば疲れ果ててしまうから、休むのです。
 Fallen leaves are necessity for the tree to survive in winter.
No thinking time is necessity for a health not to being tired.

 英語が間違っていたら、すいません…。

桂連様へ、私なりに伝えたかった事です。…前回の記事で、見ているだけでしたが…
 今回の記事を見てコメントをさせていただきました。 
 
※訂正 (人生の素人:折師)
2021-03-16 22:09:28
最後のtired ⇒exhausted へ。…「(空になるほど)疲れ果てる」の単語はこちらでした。
Unknown (桂蓮)
2021-03-17 00:52:05
折り士さん
グローブナシのボクシング
痛そうですね。
けれど、もしボクシングの戦いなら(リアルで)
私はグローブ無しのほうを選ぶかな。
そっちのほうが時可で痛みを感じるでしょうね。

まあ、正しい或いは正しくないとの闘い編は
トランプ関連のコメントだったと思います。
トランプは『悪へ覚醒させる人』かなと思えますね。
私はもうアクセントだけ聞いても
その人がトランプ人間だとわかるようになりました。
言い方や言っていることだけでも
トランプ人間だと当てられるほどです。
でも、それももう過ぎていくさまですから、
気をもめることは無くなりました。

だけど、トランプ本人よりはトランプ人間達が
言っていることに
失望して、人間もその関係にも
疲れてきますね。

今、ふっと思ったことは
そんなトランプ人間達とリアルで戦うことになったら
私は即負けかな、と。
彼らは人を非難することに長けていますしね。
私が負けて血を流すほどなら
その場で、負け犬とかあざ笑うのでしょうね。

ここアメリカは
トランプが消えてから、普通のニュース、
普通の生活に戻れました。



詳しく言うと
この精神的な疲れは
人との争いからでなく
私の勝手な人への期待感に自ら失望した、自演自得のようなものです。


コメントの返信を書きながら
頭の整理ができたので、
ありがたいです。
Unknown (桂蓮)
2021-03-17 01:02:42
keelongkeelongさん
まあ、悲観も楽観もどーでもいいのかな、と
なりやげですが、
実は自分のブログ自体に疲れがきたかもしれませんね。
ブログを書くと、どうしても
アクセスとかが気になって
確認してしまうから
その過程で、嫌気がさす場合が多いです。
この頃は、それも鬱陶しくなりました。
アクセスとか、人気とかに関係なく投稿している人たちはエライですよね。


コメントの励まし、ありがたく受け取りました。
idea 「考える」日常 (榮久)
2021-03-17 01:15:43
思えば 幼き日より
自分を見つめる 自分が居て
浮遊感を持つ自分がいて
 
俯瞰して観る夢も良く見ました
「空に浮かんでいる私」
「飛行する私を観る私」とか

何時も空想の中に住んでいたのだろうか
「考え」の中で遊んでいた
今も その延長線上に 
生きているのかも知れません

さて『純粋』とか『一途』とも
言える方は
独り「多変数複素関数論」の研究者
岡潔さんが思い浮かびます

ご存知かも知れませんが
芭蕉の生き方 「種子」と「数学」
純粋、一途な想いが
その暮らしに現れていた方のようです
数学界でも稀有な存在感を今も・・・

改めて「日常」に気づかされました
ありがとう
石風 (桂蓮)
2021-03-17 06:53:24
>春なれや石の上にも春の風     石風<

>岡潔は創造の三要素は,想像力,連想力,構想力であると言った。<

榮久さんへ
おかげさまで岡潔さんについて
初めて検索してみました。
恐らく、ポワンカレーに関わる数論を調べていた時に
彼の名前が上がった覚えがあります。

私は数学理論自体を理解する頭脳は無いのですが、
数学者がどのように
数論を研究、または理論を追求したのかをわかることは非常に惹かれるものがあります。
その面から考えて
岡潔さんのいきざまは興味深いですね。

数学の理論を知ったからと言って
私の生き方にはなんの変わりがないと思いますが、
数学者の生き方や研究姿勢を知ることは
非常に直結するものがあります。

一時期、素数に惹かれた時に
解析関数について
理解できなくても知ろうとした時があって
その過程で『多変数』の用語も知りました。
まあ、知ったからといって
何も変わらないのですが、
何がともあれ
数学者の生き方には透明さがあって
好きです。

そういえば、榮久さんの生き方にも
透明さを感じる時が結構あります。

透明に生きる、これは単純ですが
難しいですね。
Unknown (光子の裁判(榮久さんへ))
2021-03-17 07:25:37
>朝永振一郎の作品に「光子の裁判」というのがある


▼ある家に部屋AとBがあり、Aで事件が起こる。その時光子がAにいたという守衛の証言により光子は裁判にかけられる。ところが弁護士は、その時光子はBにいたという確かな証拠を提出、アリバイを主張する。検事と弁護士の議論は延々と続くことになる




▼ところが、裁判は光子の夢の中のことで、目が覚めると、光子の胸にはディラックの書いた『量子力学』の本があった。そこには、光は粒子と波動の二重性を持つと書かれている。不可分の粒子なら、BにあればAにはいないというアリバイが成立する。しかし、波動であればA、B両方のスリットを同時に通り抜けることができる、というわけである。ちなみに、光の二重性はアインシュタインが「光電効果」で示し、ノーベル賞に輝いた理論である<

以上は岡潔さんの数論を検索した時に
リンクしてわかった面白そうなエッセイまとめがあって、
参考までにコピペしておきます。

検索しながら、ファインマン物理学を読んだ時に
岡潔さんの名が挙がっていたことも
今になって思い出せました。

純粋に一途をつなげてもらって
本当に嬉しいです。
ファインマン物理学の本を図書館から借りて
読んでいた時期のことを思い出しました。
10年以上の前のことですが、

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