あばよ左派の俺、よろしく保守の俺~俺の自虐史観脱出記~

自虐史観からの脱却と日本人として生きる決意の回顧録。にわか保守からの「日本人の魂を取りもどそう」とのメッセージ発信のブログ。

にわか保守からの「日本人の魂を取りもどそう」とのメッセージ発信のブログです。
自虐史観からの脱却と日本人として生きる決意の回顧録は、読めば自然に保守に目覚める?かも。

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皆様、ここしばらく更新が滞っておりました。申し訳ありません。
アンケートの方で私の体調不良をご心配くださった方がおりましたので、その釈明と近況報告などさせていただきます。

まず私、榊真守は身体的には元気です。
停滞期間中、一日二日ほどは発熱に悩まされたことはあったものの基本無事です。

更新が止まっていた理由は正月明け以降から公私共にトラブルが相次ぎ、その対処に忙殺されたことと、生じた遅れの回復のために本業が過剰労働化して余裕がなくなっていたことにあります。
私的にかなりダメージを伴うトラブルでありまして、時間的なことよりも、思索する余裕、長文をまとめる精神的余裕が殆どなくなっていたのです。

ようやくその状態を脱し、ぼちぼち精神的にも回復してきたので、そろそろペースを取り戻してブログ記事執筆を再開しようと準備を始めたところです。
以前より更新頻度は下がるかもしれませんが、また新たに自分のペースを掴みなおして継続してゆきたい所存です。

新規記事を心待ちにしてくださってる皆様におかれましては、見捨てずにお待ちいただくよう伏してお願い申し上げます。

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えー、ご意見に関しては、まま従うのでも反発するでもなく咀嚼して生かさせてもらう的な事は言いはしました、確かに。
なので、自分は全く結び付けて考えませんが、人によってはプロフィールアイコンでイメージが左右される場合もあるのだろうと、ならばそんなちょっとしたことで印象が良くなるのならば 工夫の一つもしようではないか。そのような咀嚼をいたしましてプロフィールアイコンの変更をしてみました。
コンセプトとしては、アーティスティックとスタイリッシュ+自分らしさ。これならば当ブログの内容を落とさず印象を良くできるだろう。そういう狙いで加工したその写真、その反応は……

恐い。
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……えーと、どゆこと?(汗) カッコいいでしょ、このアイコン。恐いって何?
言っとくけど、加工したりグラサンかけない素顔のご面相の方が俺、よっぽど人相悪いのよ?
職場で初対面の人に紹介された際に「今にも人殺しに行きそうな見た目ですがいたって善人です」などとゆーこわもていじりをされてしまうほどに。
だけどねえ、こーゆーこわもてのおじさんはね、大抵いい人なのよ?悪役商会の人とかみんなあんな顔して善人でしょうに。八名信夫とか丹古母鬼馬二とか山本昌平とか……敬称略。
それに、こわもての人は大概身内や味方には優しいのだからして。

というわけで、本人的には気に入ってるしとゆーことで、コロコロ変えるのもなんだしで、しばらくこのまんま行きます。
アレですよ、だからこのこわもてと論理でサヨク陣営を脅し、逆にもっぱら保守陣営にはやさしい榊真守さんと、そーゆー人物コンセプトを体現したアイコンとゆーことでね。どっとはらい。

いや無論、ちょっと長い記事まとめる時間が取れないゆえの、場つなぎみたいなものではあるんですけど。

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最近のこのブログの記事はどっちへ行こうとしてるんだ、とタイトルを見て思われた方もいるとは思いますが、榊的にはブレてないんですよ。
これまでも時折、フィクションから自らが受けた影響、受け取ったメッセージを自らの思想変遷に絡めて語ってきたように、歌もまた同様に私の頭脳に、心に何がしかのインスピレーションや学びを与えてくれるものです。

レベッカの『MOON』。
今何故この曲なのかというと、最近思い出した様に歌う機会があったからです。
カラオケが趣味の私は実際にリアルで歌いに行くだけで飽き足らず、ネットカラオケでも遊んでるのですが、そのバーチャルなデュエットの相手がレベッカのNOKKO氏に特別な思い入れがあり、いろいろ話してくれました。私にというより聴いているみんなに向かって。
曰く、歌手でありながら歌えなくなってしまったNOKKO氏が、結婚、出産を経てまた歌に向き合い、今度はソロアーチストとしてかつてボーカルを務めたレベッカの楽曲の言わばセミセルフカバーアルバムを出したという経緯があること。その前と後では歌が優しくなったこと、などでした。

私個人はベストアルバムを持っている程度でしたから初めて聞く話だったのですが、その人間一人が天職の様に打ち込んでいた対象に向き合えなくなること、そしてそこからもう一度歩き出すという事に対する共感は大きなものでした。ジャンルは違えど、似たような経験が自分にもあったからです。
語ってくれた彼女にもまた同様の体験があり、歌を通じて彼女ともまた同じ思いの共有が出来たと思えるひとときでした。

そして、そのとき歌ったこの『MOON』という曲について、私は少し思いを馳せました。
JAS○ACが面倒臭いので歌詞全文の引用はやめておきますが。
グレて家を出て行った娘とそれを嘆いた母親がいて、その幸せなときも悲しいときも夜空の月は見守っていた、そんな概要の歌詞です。
私はこの曲に限らず、いわゆる「お月様が見ている」というシチュエーションが昔から好きでした。作品タイトルは忘れましたが、ある少女マンガでも恋人達の初めての同衾の際に窓から空を見上げたヒロインが「あなたカーテンを引き忘れちゃったわね。きっと月が見ているってこんな感覚をいうのね」と思うシーンがありました。それを同時に思い出します。

何故それに心惹かれるのか。
ロマンチックであるとか、第三者視点の比喩だとか、いろいろ理由はあるのでしょう。ですがその大げさに言ってしまうと根源的な理由はなんなのか。私はつらつらと考えるうち、それは私が日本人だからなのではないかと思い当たりました。
すなわち「お天道さんがご覧になってる」という感覚と同根だと思ったんですね。

特にキリスト教圏の欧米人からよく日本人には信仰心が無いというようなことを言われますし、日本人自身も無神論者だと思っている人が多いのですが、端的に言ってどちらも間違っています。この事についてはまたいずれ深く掘り下げたいと思っていますが、個人が唯物論者的自認で、あるいは神の否定から無神論者だと認ずるのは勝手ですが、日本人全体として語るのならばそれは否という事になります。
一神教の理屈で切り取るなら信仰心の無い、あるいは足りない民族と映るだけです。特定の名前のある全能の神を信じることのみが信仰と考える、狭量な精神観の異民族の観点に過ぎません。
アニミズムの世界観からすれば、日本人ほど万物に神が宿っていることを知り、身近に感じ、畏れ敬い生きている民族もないのですよ。
八百万の神として奉る名を知らずとも本尊御神体が何か知らなくとも神社仏閣に足を運び、お米に煩悩の数と同じ数の神がおわすとしつけられ、感謝の念を忘れれば罰が当たるとなんとなく思い、路傍の献花があれば手を合わせてしまう。
これが日本人の一般的感覚です。こういったことを一切しないという人は余程頑迷な無神論者の親に育てられたのか知りませんが、むしろ少数派でしょう。

そしてその、いつ何をどこでどうしていても、お天道様は知っていなさる、見ておられる、という感覚。この言葉を口にするのはもうお年寄りか生粋の江戸っ子かというレベルではあるんですが、その感覚自体は廃れてはいないだろうと思います。
これは太陽信仰かというとそうではありません。大国主命だの帝釈天だのお不動様だのといった身近に感じる神仏、あるいは名を持たぬ神の、それぞれでもあり全てでもある「見守る神の視点」を日中であれば常に天にあり続ける太陽に仮託したものなのですね。そして見られているという感覚そのものでもある。

歌の話に戻りましょう。
ではなぜこの歌で見守るのは太陽ではなく月なのか。
それはこの歌の物語が夜の世界だからです。

もちろん、歌の劇中人物だとて昼間も生きている筈ですが、物語を象徴する場面が夜に絞られている。誰もが安らかな眠りにつくとき。覚えた悪い遊びが行われるとき。娘が人目を偲んで恋人に逢いに行くとき。そして母を置いて家を出て行くとき。
全ては夜の出来事。だからその全てを見守っているのが、常に夜の空におわす月なのである。
レベッカの楽曲においてはそれはこの曲に限らず、例えば『RASPBERRY DREAM』は「今夜も月が見てるわ」の一節で始まる共通の世界観を持っています。

実はこの歌『MOON』の魅力の一つでもあるのですが、視点構造が多重かつ予告なく切り替わるという、実に複雑な人称が用いられた特殊な歌詞が綴られています。
「あたし」の一人称で自己を語る娘。
それが第三者視点で「この娘」「娘」と語られる。
「あたし」には「ママ」と呼ばれた母親は、娘の出奔を嘆く際には「彼女」と呼ばれる。
そして月。見守る月の視点においては、逆に見られる側の人の目線から月は「あなた」と呼ばれる。
この人称が入れ替わり立ち代わり歌われることによって、聴く者は自然と歌われている物語と共に、全体を包む世界と動き生きる個とが、繋がり合って切り離せない不可分のものであるということまで無意識下に刷り込まれてしまう。

そして、月以外に擬人化して語られるものが「工場」と「町」。
歌詞の中にはポイントとなる箇所がいくつかあるのですが、榊が気になったのはこれらが含まれるフレーズで、「工場は黒い煙をはきだして」と続く「町は激しくこの娘が大きくなるのを祈ってた」の二節。

天にある月との対照で語られる地にある工場と町。
そのうち工場は見守る神と人との間を遠ざける象徴物、それも人の営みによって生み出されたものと見ることが出来る。
娘の幼少期が高度経済成長期であることを想起させる歌詞であり、だから「月がもっと遠くにあった頃」と歌われる。天文学、地球物理学においては地球から徐々に遠ざかっている筈の月がなぜ昔はむしろ遠かったのか。それは、人と月との間を阻む工場の黒い煙があったからだ。時代が移り公害への対策が進んだ現在、はたして月は人の元に近づいたのか。

そして、町はなぜ娘の成長を祈るのか。これは歌の後半、グレて家を出るような娘であっても(世界に)祝福されて生まれてきたのだということの言い換えととる事も出来よう。だが、それならば「誕生」を祈るはずで何故「成長」を祈るかの答えにならない。つまり、成長することが望まれるというのは、いずれ「次代を担う」ことを期待されているということだ。

なのに、娘はそれを裏切るのである。
何故裏切るのか。「月曜日が嫌い」に象徴される学校生活ないし学校教育に傷つけられ、その道に沿っていけない自身を認めてくれる恋愛に身を投じたからだ。
娘が出奔することで裏切るのは、置いていく母親だけではない。娘がまっすぐ健全に育つことを願っていた世界そのものや、見守ってくれていた月をも裏切っているのだ。
「大切に生きて」と泣いた「彼女」はだから母親だけではなく、月そのものでもあるのである。

だけど、それでも月は見守り続けているのだった。
何もかも知っていて、何もかも見ている。盗みを覚えたことも、恋を知ったことも、嬉しかったことも悲しかったことも、何も知らぬ無垢な時代のことも。
そして未だ帰らぬ娘のその後をも見守り続けている。
そういう月の優しさの歌だ。

だが、やはりこれはその月が主体の歌ではない。多重構造の人称視点の中ではっきりしているのは、それはこの歌が娘視点の「あたし」で始まり、月を「あなた」と呼ぶ者の視点で終わっていることだ。誰が月をあなたと呼ぶのか、それは月に見守られていたことに気付いた娘自身なのであろう。
だから、この歌は一見、どんなに傷ついて人や世を裏切ってもそれでも月は見守っているよ、と訴えている詞の様でありながら、実はそのことに気付いて自らの過去を振り返った娘自身の歌なのである。

私は見守られているんだ。
私は生まれて来て良かったのだ。
私は望まれているんだ。
私は生きていって良いのだ。
それを知った人間の気づきの歌なのだ。

少々、うがった見方をするなら、例えば榊的というか当ブログ的にこれを戦後レジームと民俗学的な解釈で見ることも実は可能だ。
歌詞の中の娘の出奔を、単純にわかりやすい女性の軟派系不良化の間接表現と見ても良いのだが、これを性別によらない、生き方を間違った日本人のメタファーと捉えることもまた解釈として可能なのである。すなわち、戦後を象徴する高度経済成長の時代に、歪んだ戦後自虐教育によって世界=祖国を裏切るような国民に育ってしまった日本人が、そんな自分をも許し見守る神の目線を知り、本来望まれた日本人としての生き方に立ち返る。それを不良少女と月に象徴させたのではなかろうか、との解釈である。

無いな(笑)。
この『MOON』はボーカルであるNokko氏自身の作詞であるから、そういう思想背景に基づいて書かれた歌詞とは考えにくい。もっと等身大の自己投影からの脚色で書かれたとするのが真っ当な見方だろう。ただ、もっと大きな捉え方として、道を違えた者の立ち返りの歌として象徴されるイメージを受け取るのは自由であろうと思う。

少々脱線したが、ここまで掘り下げてみてちょっとした推測が出て来た。
はじめに書いた作詞者であるNokko氏が歌えなくなり、また歌うようになったという体験。もしかしたら、歌えなくなっていた時代はグレて帰らない娘への感情移入が難しくなっていた時代であり、自らが作った歌であるにもかかわらず自身の成長と変化によってそれを持て余していたということではないだろうか。
そして、これが現在進行形ではなく過去の振り返りと見守る月の目線への気付きの境地に、一回りして至ったからこそ現在は歌えるようになった。その視点で歌うから同じ歌が優しくなったのではないか。
人の心の本当は他人にはわからない。だから状況と断片的な事物で繋ぎ合わせるしかないが、そんな風に想像するのである。
もっとも、それは『MOON』一曲だけではなく歌うこと全般にだったのだから、実際にはもっと複雑な心境と事情があったのだろうと思う。おそらくライナーノートの類を読んでもやっぱり本当のところは我々にはわかるまい。

だが、この歌が好きで聴いていた、あるいは歌っていた我々には我々で出来ることがある。
それは月の思いを思うことだ。
月が見ていて、月が何もかも知っている。この歌にそれを教えられたのだから、月に恥じぬよう生きて行きたいとやはり思うではないか。
私にとって、それは日本人として恥じない生き方をするということだ。
道に迷ったら、この歌を思い出そうと思う。
 
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えー、先日の「支那と中華」のラーメン画像に続き、なんか俄かにここはラーメンブログにでもなってしまったのかみたいなタイトル画像ではありますが。

ということで、なりました替玉王
替王玉でも替玉玉でもありませんよ、替玉王
えー、拙ブログの本来のテーマとは全く関係無いのですが、行きつけの某ラーメン店にて行っているいわゆる大食いチャレンジに昨年末に挑戦してきたとゆーお話です。

替玉王」とは、とんこつ、醤油とんこつ、塩とんこつ、坦々麺の四種にて、最初の一杯を除き6玉以上の替玉を平らげるといただけるとゆー称号であり、副賞は千円分のお食事券であります。替玉が1個百円なので、成功しても副賞的にはプラス4百円ですが、なんの、大事なのは成功者であるという栄誉です。
私はこれを大好物の坦々麺にて行い、見事に成功。なんでも麺に絡むひき肉とか辛さが邪魔になる坦々麺を選んでの挑戦者は少ないらしいのですが、ワタクシ的には好きな坦々麺だからこそ平らげられたんですけどね。それでも最後のひと玉は殆ど味を感じませんでしたが。5玉目まではいつも通りの美味しい坦々麺でありました。
個人特定を避けるためにお店の名前は伏せます。宣伝にならなくてごめんなさい。どこか見当のついてしまった方は内緒でお願いします。

一応ですね、ワタクシこの挑戦にあたってひそかに願掛けをしました。
このチャレンジを成功させれば「来年中にブログ活動に一つの社会的影響、もしくはなんらかの成果が出る」という願掛けです。うーん、漠然としてますね。後づけで何が該当するかこじつけられる余地を最初から用意してます。さすが榊真守きたない。姑息な男です。
いやいいんですよ。こういうのはもうただただ気分の問題なので、普段の活動に弾みがつくとかそういう効果があればね、それでいいんです。

kaedamaouとゆーまあ、その願掛けの一点だけでこのブログのネタにしているわけですが、ブログのネタにすべく最初からそれを行った証拠の写真がこれです。
ブログに載せられる様に本名ではなくこの榊真守名義で挑戦し、お店の壁に同じ替玉王の方々と並べて貼り出してもらったと、こういうわけです。

普段、日常の食事にては糖質を制限する生活の私、俄かに上がった血糖値をさて如何に下げましょうや。この後、おせちに餅たっぷりの雑煮に七草粥に鏡開きのお汁粉にと糖質たっぷりの年始の食事がたて続くのは周知の事実であったにもかかわらず行ってしまった替玉王への挑戦。
成功者の栄誉についてきたのは、正月明けの厳しい食餌制限という坦々とした日々の努力でございました。坦々麺だけに。

ちなみに、この替玉王、実は十玉王という説明不要な更なる上位のチャレンジメニューがあるのですが、未だ成し得た人はその店舗にはまだいないようです。
果たしていつの日か、健康を度外視しても何かの達成の願掛けにその十玉王に挑戦することはあるのか、榊真守よ。あるとすれば、何のための願掛けならそれをするのか?
……いや、今はまだ全く考えてませんよ、全くね。

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(画像は抽象的イメージです)
現在、華流についての記事をまとめてる最中なのですが、まとめ切らないその間にも世の動きが活発すぎる模様。ですので、少しだけそちらの方についても触れておこうかと思います。

基本、時事問題に張り付いてレポート的に記事を連発するというのは自分に向いてないし、拙ブログのスタイルにも本来そぐいません。むしろある程度事態の推移を見守った上で考察するであるとか、その根本的課題についての言及が、使命的にもやるべきことであるとは思います。
なので、逐次報告的な役割は他の向いている方々にお任せして、と普段はしているのですが、それでも今どうしても言いたいのは、事態はここに来てもうかつてのレベルではなかろう、という怒りの注目度とでも言うべき事柄です。

偶々というか、ここ数日が正月明けで公私共に俄かに忙しくなって、時事問題については目の端で追うぐらいのレベルになっていました。
そんな折り、私の反応が鈍くなっていたのか、普段は私より政治的ニュースには特に熱心ではない妻が、妻の方からいくつかの事件についての話題で話しかけてきました。

まずは例の講談社編集次長の殺人事件。
概要については詳述しません。妻を殺害したとして逮捕された朴鐘顕容疑者が講談社編集次長であり進撃の巨人担当でもあったということで話題になっています。ただもう容疑者が在日朝鮮人であることと、出版社内である程度以上の位置にいること、ヒット作話題作に関わりがあった事等でセンセーショナルな報道となっています。

実は「進撃の巨人」という作品に戦後レジームのメタファーが込められている事についていずれ拙ブログでは言及の予定でした。内容は2016/11/18のツイキャスのテスト放送で話した内容のボアアップのつもりでした。
そうした内容の作品に在日朝鮮人であった朴担当がどのように関わっていたかは興味の尽きないところではありますが、情報の少ない現段階で言及することでもないでしょう。連載立ち上げには関わったものの、担当とまで言うのは誤報の域というご意見も目にします。

殺人事件そのものも、現時点ではワイドショーのコメンテーターレベルの知った風な能書きを垂れる段階に無いと判断します。
しかし、ここで言い置きたいのは、殺人事件あるいはそれに準ずる凶悪犯罪の報道があるたびに視聴者読者である一般市民の脳裏で「また在日の仕業か」という予想が高いパーセンテージでよぎるという事実であり、実際にそうであった場合に湧き上がるのが「やっぱり」という思いであるということ。

かつてはそれ自体がタブー視され、公けの場で何かの事件について在日朝鮮人犯罪の可能性を口にすることはしにくい世の中でした。しかし現在、そこらの居酒屋店内のテレビの事件報道に向かってさえ客が普通に「また朝鮮人の仕業かよ」と声を潜めることもなく一人ごちる。それぐらい世の中は変わってきたのです。

これについて、そう世の中を変える潮流を作ったのは自分達だと現日本第一党党首桜井誠氏は自負しまた主張しており、その功績については氏のブログなりで直接ごらんになるのが良いでしょう。活動家時代の実態を情報でしか知りえない榊が代弁すべきことではありません。

ただ取り上げたいのは、もはやその様に変化した世の中だ、ということであり、未だ朝鮮人問題をタブー視すべきとしているのは既存メディアばかりということです。
今回はさすがにNHK、朝日、毎日といったところでも実名報道がされている様ですが、それは容疑者が通名を使用していない人物であったためであって、見出しでは肩書きの表記で済ますというもはやけなげな手段も見て取れます。

そしてこの事件に際して我が妻の殆ど第一声が「通名報道は禁止して欲しいよね」というものでした。身内の例でなんですが、今回は実名報道されているのにもかかわらず、そこから過去の在日朝鮮人犯罪への連想にいたってその通名報道への批判が口に上る、そういう現状がいかに異常かということです。

繰り返しますが、我が家で通名報道がどうとかいう事に憤りの言を発するのは私の役回りです、本来。常日頃は、そうした社会問題、政治問題の話題に対して日常の楽しい雰囲気が壊れると眉をしかめるのが妻の方なのです。それが逆転している。私はむしろ憤りが常態化しているのでいちいち騒ぎ立てないよう振舞うようにさえなっていて、逆に妻の方が憤りを隠さない。
これが現在の世論をいわば象徴しているでしょう。すなわち私のような社会問題に対して普段から過敏になっている筈の人間はむしろ麻痺していて、普段はあまり興味を持たない一般市民こそこれらの偏向報道に対しての違和感がピークに達している。
誰もが事件のことを口にしてもおかしくないという今だからこそ、どこにでもいる普通の人が、在日朝鮮人犯罪を、その報道姿勢への疑義を普通に口にするという現象が表出しているのです。

同様のことが、別のニュースにおいても露わになっています。
連日の日韓合意反故に対する安倍自民の強硬姿勢に関する報道についてです。

朴槿惠が退陣したことにより、建前的には履行されるはずだった(十億だけもらってする気などハナから無かったと思いますが)慰安婦像撤去が、韓国国内市民団体の反対によって履行されない問題。それに対する安倍自民の強硬姿勢について、今更ながら韓国政府が板ばさみになっているという件ですね。
これについてはその強硬姿勢に同調する形で、今多くの国民が怒っています。

電車で移動中も、車内でこの問題に関する会話を小耳に挟みました。内容的には約束を反故する事に関する憤りでした。当該問題についてかねてから懸念している私からすれば何を今更というところではありますが、そうしたことが一般に話題に上るというのは歓迎すべきです。
同様に我が妻も、外食先の某ラーメン店でのテレビ報道を見ながら口に出して怒っていました。
「そもそも何年も前に解決済みの問題なんじゃないの」
「ていうか、元々嘘なんでしょ」
「ついた嘘でお金もらっておいて」
「そもそもそのお金誰が作ったお金だと思ってるの。私達の血税でしょ?」
などと散々です。
普段は食事中に私が何かで怒っていると良い顔をしない妻なのです。食事は楽しく、と窘められます。
普段は外出先の公共の場で何かに対して私が悪口を並べると、それが社会悪やマナー違反についてであっても心穏やかではない妻です。「人前でそういうこと言わないで」とか「声が大きい」とか言われます。
それがむしろ逆で、妻の方が聞こえよがしといっていいほど声量を落とすことなく、かの国の異常性に疑義を呈します。
対する私は、そもそも遡及法がある国だからとか、だから日韓断交をするべきだとか、次期大統領候補の三人が三人とも合意破棄だと言ってるとか、こうなることは判っていたんだから安倍が悪い等の主張や情報を与えますが、それによって怒りを鎮めるどころか更にヒートアップする我が妻でした。

これがつまりは一般国民の声なのです。
真っ当な常識が通用しない異常な国の勝手な都合に日本が付き合わされるのはもうたくさんだと、ただの市井の人々が怒っているのです。
それが解らず、未だに韓国の立場を考慮した報道をやめない既存マスメディア、ポピュリズム以前に国民の声に耳を傾けすらしない安倍内閣。
これは庶民感覚が抜けているとか、ズレであるというレベルではなく、政府やメディアは一体どこを向いて政治や報道を行っているのかという、根本姿勢を疑うべきレベルでしょう。

相手がこんな国だと判っているのに、そもそも日韓合意などという愚かな失策をした安倍自民も。
感謝も約束もその概念からが元々存在しない半島の下劣国も。
その韓国側の立場に立って未だに「板ばさみ状態なのでしょう」などと慮った報道をする反日マスメディアも。
どれももう我が国には要らないんです。
この全てをいっぺんに捨てられる巨大なゴミ箱を日本国民は欲しています。

追記:こういう内容で記事にあなたのことを書くよと、許可を得に行った際の我が妻の言い分。
「……いいけど。私、政治にちゃんと関心あるもん!」だとの事です(汗)。
我が妻の名誉のために言っておきますと、榊との関心レベルの温度差による定義であって、あえて一般国民の代表の位置に立って欲しかっただけなのですけどね。
 
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タイトルでそう言っておいて、この画像はなんだとお思いでしょうが(笑)。
さて、韓流を考えた後は(初詣を挟んでるけど)、華流で支那人について学びましょう。

まずはじめに言葉の用い方ですが、王朝が断絶しているのに現在の中華人民共和国を起点として遡り「中国四千年」だのと言わせてしまうのがそもそも間違いです。
古語としての「中国(チュンコック=中つ国と同義)」を別にして、現在「中国」と言った場合、「中華民国」と「中華人民共和国」この二国の国号でありますから、混同を避けるにもこの呼称の使用は控えた方がいいでしょう。それぞれ単独の政府国家を指す場合には正式名称で呼ぶべきです。
ですから、歴史的意味合いで現在の中華人民共和国がある場所に存在した国は基本的にはそれぞれの王朝名で呼ぶべきであり、全般を総称して呼ぶ場合には古式ゆかしい地域名である「支那」を使うべきである。
また、同様に本来その地域に存在した人については、民族ごとに漢民族なら漢人と呼ぶべきであるが、特定が難しい場合やもっと大くくりで漠然と支那地方に住んでいる人というならやはり「支那人」と呼称すべきでしょう。

というのが概ね、中国、中国人ではなく、支那、支那人と呼び倣わすべきとする人々の主張です。これについては榊も異論はないので基本はそれに従います。ですが、既に一般流布され定着しているジャンル名であるとか、言い換えるとかえって混乱するものなどについては便宜上そのまま用いる場合もあります。
これを当記事及び当ブログにおける「支那」呼称の基本スタンスとさせていただきます。

ここで面倒だからとか「えー、もう世の中普通に中国と呼んでるんだから中国でいいじゃん」などと軽々に言うなかれ。こう規定しておくことは存外大事なことなのです。
これは「中華」という呼称がむしろ周辺諸国を差別しているいわゆる逆差別語だからという論に乗っかった話とはまた違います。いや、その主張は主張で良いんですが、私は別記事でも言った様に言葉自体に禁忌を設けるべきではないという立場をとっているので、差別語も逆差別語も禁句として扱わないのです。である以上、それを論拠には出来ないわけで。
私が言うのは、この王朝断絶による過去からの国家の命脈が永続していないという一点についてですね。現在の中華人民共和国の国民(というより人民?)や政府共産党がその事実を無視して、断絶している過去の別国家のことまでを自らの歴史資産的に扱い、それを基準にする主張の全てを認知看過するわけにはいかないというこの一点においてなのです。殷は殷、秦は秦、宋は宋であって当時には「中国」が中心の国という一般名詞の意味しかなかった以上、支那地域の過去歴史を「中国」の名で扱わせてはいけないのです。

判りやすい例で言えば、自称中国人たちは例えば遣隋使、遣唐使を論拠に日本は過去において自分達の恩恵に与かったという主張をします。これは過去歴史をつながりのある自分達の過去資産としているからこその主張ですが、この事実は王朝断絶によって否定されるのです。
つまり、王朝の入れ替わりが国家の連続性を断っている事を論拠にすれば「俺達の先祖が恩恵を受けたのは隋や唐にであって、お前らなんかの世話にはなってねーよ」とその主張を突っぱねられるのです。
同様に彼らが歴史書を持ち出して(その歴史書自体も捏造だったりするわけだが)例えば尖閣諸島の領有を主張したとして、その歴史は別王朝別国家の歴史であって彼らのものではないのですから論拠自体が成り立たないことになるのです。

あってはならないことですが、例えば彼らは日本を侵略征服したとして、征服のその後にそれまでの日本の歴史を自分達の歴史だと平気で主張できる心性の持ち主だということです。自ら滅ぼした国の過去を自己のものだと主張する厚顔無恥さというのはそういうことであり認めてはいけないことなんです。滅ぼされた側の立場に立てばそれが如何に許せないものであるか実感できるでしょう。ですが、新たに成立した王朝が前王朝を滅ぼすということを延々繰り返し行ってきた地域の人間には、それが通常営業だということです。恐ろしいですね。

では一方の、中国、中華という言葉についても一考してみましょう。

少々触れましたが、そもそも「中国」という言葉は漢字文化圏の古語において中心の国という意味の一般名詞です。支那地域ではチュンコック、大和言葉では「なかつくに」で漢字流入時に「中つ国」と当てられています。同様の概念の言葉は世界に点在しており、英語で言えばミッドランド、そうあのロード・オブ・ザ・リングのミッドランドです。北欧ではミドガルドあるいはミズガルズとなります。
日本においては、この言葉は現在の山陰山陽地域を総称する中国地方として残りました。

問題の支那においては、実は国家の概念が希薄で中心の国というよりむしろ中心地域という様なニュアンスの言葉だったそうです。王朝あって国家無し、そう言われるほどであり、同地域において国家という概念が成立したのは随分と後代になってかららしいです。

これは大陸性の気質ゆえと考えることも出来ますが、同じ大陸でもヨーロッパでは早期に国家の概念がちゃんと成立していたことを考えれば、むしろ騎馬民族だったからと考える方が辻褄が合うでしょう。
よくよく考えるとこれは根幹に関わる厄介な気質と言えそうです。通常、範囲を確定して領土を規定し、それを支配地域としての国家、支配者としての王朝という枠組みになります。それを規定事項とした上で国境の外へ進出を行う場合、国内的にはそれは領土拡大であり、他国にとっては侵略となる。
ところが、騎馬民族にとっては居留する中心地さえ確定していればそれでよく、後はそこを中心として行動力の及ぶ範囲全てが支配地域という事になります。領土の中に向かう征服欲支配欲ではなく、手の届く範囲全て俺の物という感覚です。

もちろん、始皇帝の時代には律令制による領土支配がされ、周辺遊牧民を統治していたわけですから、あくまで根幹の気質ということではあるのでしょうが、中華思想自体がこの気質から生まれていることは疑うべくもないでしょう。
それが現在のウィグル、チベットでの残虐行為や、尖閣諸島及び排他的経済水域への侵犯にまでつながっているとなれば軽んじられません。

ここで中華思想についても説明しておきましょう。
みなさんは「中華」と聞いて何を思い浮かべますか。大抵の人はやはり中華料理をぱっと連想しますよね。我が妻にしてからが、前後の文脈で批判対象としてそれを持ち出したことなど判るはずなのに、私が中華思想という言葉を口にすると、
「何それ、美味しいの?」
という懐かしい2ちゃん語のような反応を示す有様です。
というように「中華」という言葉は一般日本人的には「中国の~」「中国に付随する~」「中国に帰属する~」程度の意味合いでしか捉えられていないのが実情でしょう。

しかし、実は「中華」というのはもっと恐ろしい意味の言葉であるのです。
「華(はなやか)」で「夏(盛んである意)」として漢民族が自らを誇った呼称「華夏(かか)」(華夏族とも称する)がその言葉の由来であり、「中華」とはすなわち「漢民族中心」を意味します。そして更に自民族を中心として、周辺地域を東夷、西戎、北狄、南蛮の合わせて四夷と呼んで蔑み、文化的劣等人種・禽獣として卑しむという思想を「中華思想」あるいは「華夷思想」というのです。

中国大陸すなわち支那地域は単一民族が統治し続けたのではなく、多民族が奪い合い殺し合い入れ替わりを繰り返してきた歴史を持っています。もっと突っ込んで言えば、漢民族とそれ以外の民族が奪い合いを繰り返してきたという構造であり、漢民族の王朝支配の時代は周辺民族にとって苛烈を極めたといいます。中華思想があるからです。偉大な漢民族は他の卑しい民族の生殺与奪を好きにしていいと、彼らは考えるからです。
近代の判りやすい例では、満州族の王朝である「清」を滅ぼすために散り散りになっていた漢民族の結集にこの中華思想が謳われました。そして支配を取り戻した彼らはその思想のままに建国した国を「中華民国」と称したわけです。

現在は国民党の中華民国を追いやる形で中国共産党の国「中華人民共和国」となっているわけですが、これは双方が漢民族です。漢民族同士の争いの結果、漢民族の共産主義国家が生まれたという顛末なのです。
これは対外的にはどちらがどちらでもさして変わりはないでしょう。台湾島へと亡命した中華民国が現在親日的だからといって、それは現在の境遇ゆえであるという観点もまた否定できず、基本的には同根であるということは忘れてはいけません(とはいえあからさまに反日でない限り特に敵対する必要もないのですが)。

「中国」という言葉ですが、一般名詞であったそれが段階を経て漢民族中心の国という意味で用いられるように変遷して行ったらしい事が、断片的に記録に表れる様子から見て取れるそうです。そうして中華民国建国の頃にはほぼ「中華」と「中国」は同義の言葉として扱われるようになり、後者は国号となったのでした。

ここで前述の騎馬民族であるがゆえの根本性質と国策化した中華思想とを併せて考えてみましょう。
かつては国の概念が曖昧で、中心地域である中原(ちゅうげん)とその周辺といった規模レベルだったものが、どんどん拡大して行ってることは想像できると思います。その方法は虐殺と同化政策です。
漢民族は実は単一民族ではなく、中原とその周辺民族との混交が繰り返された混血であると民俗学的、遺伝学的に言われてるそうです。ここで矛盾を感じるあなたは感覚が純日本人的なのです。単一民族が自分達だけを尊び他を差別するならしっくり来るが、そもそも混血で交じり合った人種がなぜ他民族を蔑むのか。一見矛盾してそうなこの要素を成立させるのが「同化」という概念です。
漢民族の男との交わりによって他民族の女が産んだ子は漢民族と見做す、これが同化です。
この同化を、正当化というよりは基準として考えれば、漢民族の混血も否定されないし、周辺民族の漢民族化も当然の行為という事になるのでしょう。
同化政策とはそれを積極推進した対外政策であり、実態は虐殺とレイプです。邪魔になる男は排除しそのY遺伝子を断ち、強姦によって生まれた次代の子は漢民族に列を連ねる一員となる。こうして他民族の血統を漢民族の血統に置き換えてゆくのです。その行為を正当化というよりむしろそうすべしと推し進める思想が中華思想です。
彼らにしてみれば、卑しい四夷から優れた華夏(漢民族)への昇格を促しているのだからと、その悪逆行為を善行とすら思っているのかもしれません。そしてこの同化政策は現在進行形、でウィグルやチベットに対し今も行われ続けているのです。

中華と聞いて美味しそうと思ってしまったあなた、今でもそう思いますか。中華料理店がひしめく街だと思っていた中華街(いや実際ひしめいてますが)、こういう情報が入ると俄かに「漢民族中心街」といった響きに変わったんじゃありませんか。

更に中華の「華」という一字はそれ単独でも漢民族のことを指す文字です。成立自体は漢民族という呼称よりも遙か前です。というより華夏族が漢王朝の成立以降に漢民族と名乗るようになったので本当の順序は逆ですね。さてその「華」の一字、耳にした事のある用いられ方では華僑、華人などのように使用されています。
この華僑と華人、共に国外に移住した漢民族として混同されがちですが、華人は居住地である外国の国籍に帰化した者、華僑は二重国籍などの状態によって中国籍(台湾籍含む)を保持した状態の者を指します。
世界中に散らばっている華僑。それと行動の及ぶ範囲は全て自分達のものという漢民族の思考を併せ考えるならば、彼ら漢民族は既に世界は自分達のものと思っていてもおかしくないでしょう。

二重国籍といえばすぐ思い出す人といえば例の蓮舫ですが、同じ二重国籍でも朝鮮と外省人の台湾籍という日本要素が一切ない二重国籍だったらしいですが、すなわち彼女も華僑という事になります。支那文化の国外継承者という意味ではなく、世界は自分達のものだと思って国外活動をする華僑、その視点で見た時に彼女が漢民族のスパイであるという以外にどう見えるでしょうか。
そういう人を代表にいただく民進党とはどこの国の政党でしょうか。

おっといけない。当初予定ではこの記事は、華流武侠アクションを通じて支那人の心性を学ぼうというエントリーとして書き始めたんです。なのに既にこのボリューム。前提となる基本的用語をさらっと解説してさあ本文、のつもりだったんですが、本文の前に膨らみすぎました。
まあ、この用語の解説だけでも相当に支那人の思考というものが知らしめられた気がしないではないですが、いやいや、まだまだもっとこんなものではないのです。
ですが、さすがに長くなったので、その本題の方は次回以降に譲りましょう。

そうそう、さんざんに中華という言葉の本当の意味の恐ろしさは~、と語った私ですが中華料理は大好物ですよ。料理は中華から覚え始めましたし、青椒肉絲、回鍋肉、麻婆、酢豚、みんな得意料理です。支那竹、支那そば大好きです。元町中華街で食べ歩きもよくします。
むしろこの食欲で大陸を片っ端から平らげてやろうかというぐらい。

PM2.5でおなか壊すからやめとけ? おなか壊すぐらいですめばそれはむしろ平和というものです(笑)。

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1483618884193工夫のないタイトル。初日の出みたいな頭で何言ってやんでえ、ってなツッコミはやめたまえ(笑)。
いつまで現状の後頭部アイコン使ってるか判らないのだし。
日常の話なので、別に捻らなくて良いのです。

三が日はいろいろバタバタしていたので、昨日ようやく初詣に参りました。我が家から一番近い、けれど由緒ある神社です。個人特定できる情報はダメと奥様からのお達しが出たのでどこの神社かは内緒。御神木の写真のみですみません(これで特定できる人がいたら、ほんとに近所の人ですね。内緒でお願いします)。

五日ぐらいのタイミングだと然程混まず、でも閑散ともせず適度な賑わいで良いですね。三が日より屋台の数が減って買い食いできる種類のバリエーションが少ない事ぐらいが難点でしょうか。

神社仏閣好きな榊夫婦が、初詣に限らずほぼ月一ぐらいでお参りに行く馴染みの場所なので、いつもと違うお正月ならではの雰囲気を味わうのが主たる愉しみ。
本殿脇の稲荷の祠もいつもより綺麗にされていて、数体のお狐様も嬉しげに見えます。

さて、メインのお参りですが、実は普段は手を合わせてもそう多くの事は願わない私。神社は好きなのに神頼みはあまりしようとしない質というか、ぱっとその場で願い事を思いつかないのです。結局はいつも同行してる奥様の健康を願うぐらい。
なので、二礼二拍手一礼をして拝んで顔を上げると、いつも自分より長く祈願をする奥様の垂れた頭を見るのです。
そんな私ですが、この度はなんだか欲が出たのか、当ブログや関係各所のあらゆる方面のことをざっと二十項目ぐらいお願いしてしまいました。そして今日ばかりは自分の方が長く拝んでいるだろうと思いながら顔を上げると、まだまだ長く拝んでいる我が妻。

奥よ、お前様ったらどんだけ願い事があったんだい、とは聞かず、社務所に御神酒を奉納し、古札と昨年の縁起物をお焚き上げに預け、新しい御札と御守りをいただき、御神籤を引きました。

実は大吉率の非常に高い榊真守。五回に三回は大吉を引き当てますが、今回は末吉。
なんだか厳しい文言が書いてあります。
「他人と心通ぜずあらそいが起ります なるべく自分の心をやわらかにして交際なさい 次第次第に運がひらけて幸が増します あせってはいけません」
これから闘おうとする自分にはもっと勢いのつく、目の前の障害をばったばったと薙ぎ倒していく様な文言が欲しかったと言うと我が妻、
「何言ってるの。今のあなたにすごく相応しい忠告じゃないの」
神は見てらっしゃいますな。自然に折に触れという事をなさってくださるようです。

さて、そんな風に戒められた榊の願いは今年叶うのでしょうか。
叶ってもらわねば実はこの国の未来にとって困ることばかりお願いしたのですけどね。
それを叶える為にはまず己自身の精進が肝心と気を引き締めねばなりません。

そうそう、その折ついでにお願いした「鼻水が垂れてきて辛いので、ただちにこの寒暖差アレルギーを治してください」という甚だ不躾なお願いは、ちょっと変化球的な叶い方をしましたよ。
お参りの後、上着の普段あまり使わない内ポケットに何気に手を入れると、そこには持参するのを忘れたとばかり思っていたポケットティッシュが。
やっぱり神はおわします。

え?いつお参りから政治の話になるのかって?
なりませんて。そうそういつもそんな超展開の記事になりませんてば。
今回は思いのほか信心深かかったらしい榊の純粋な新春祈願のご報告でした。

では、また次回の記事にて、なるかどうかわからない超展開にご期待くださいませ。
 
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私が元旦記事に気合を入れ過ぎたり、その反動で寝過ごしたり、二律背反的問題をいろいろ考察するのにかまけていた間、なにやら巷間騒がしかったようで。

ダメだなー、ツイッターについてどうこうと言ってる間に、そのツイッター上で起きてる事件に殆ど乗り遅れているという本末転倒さ加減。でもまあ、タイムライン追いかけてるとそれだけで一日暮れてしまうので、元々気が向いたときにつらつら斜め読みするぐらいなんですが、今回はタイミング外して出遅れもいいところ。

ともあれ、桜井誠氏界隈で起きたそのポコペン事件とやらの概要は、弩マイナーな韓流タレントグループがレコ大新人賞を取るという不可思議現象をそのまんま不思議だとツイしたら火病を起こした朝鮮サヨク陣営が一斉にキレたメンションの十字砲火の上に殺害予告までしたと、ざっくり言うとそういうことですな。

えー、それではリアルタイムでの事件を追う事に遅れた私は、私に今出来ることを行うとしましょう。
ということで、時事問題なので割と駆け足にですが、この機に韓流というものを考察しておこうかと思います。

そも韓流は何であるのか、その問いに一言で答えるなら「作られたブーム」でしょう。
より正確には「一時は作れたがその後潰えたブーム」となりますか。
ごく偶然の要素が重なった自然発生的なブームを除けば、元々どんなブームも意図して仕掛けて作られるのは大原則。それは毎年ごと今年の流行を作って商売を成り立たせてるファッション業界を見れば一目瞭然。ただし、仕掛けられた流行がその後に本当に流行らなければブームは真の意味でブーム足り得ない。
その点を見誤ると需要と供給が崩れ、いわゆるゴリ押しというものになる。

あまり芸能界に興味のない自分でも、タレントで言うなら一時の剛力彩芽やら武井咲やら佐野ひな子やらといった名前がすぐ浮かぶわけだが。つまり売ろうとする側がニーズも無いのに強引に売らせようとするそのズレにこそ問題があり、その強引さが余計に嫌われるという悪循環に陥るのがゴリ押しである。売り手側の思惑が透けて見える無理が視聴者消費者からそっぽを向かれるのだ。
そして行き過ぎれば、そっぽを向かれるどころか明確な嫌悪を持って排除対象とさえなる。フジテレビデモが記憶に新しいところだろう。

ではゴリ押ししたい側は何を欲していたのか。
一つには外貨。斜陽の本邦音楽業界ではあるが、韓国と比べれば約十倍のCD売り上げのシェアを持つことが理由。つまり出稼ぎ。
そしてプロパガンダ。韓国文化に傾倒する日本人を増やし、言うなれば自らは攻撃するが相手からは攻撃してこないターゲットを増やしていくという反日活動の一環。
日本側の音楽産業、映像産業としては、韓流コンテンツの確立による新たな購買シェアの開拓。
更に反日日本人の反日活動として上記三者と連動しての文化的外患観誘致活動。
このような目的性が列挙できるだろう。

これが純粋な文化輸出であるなら別に責められる話ではない。自国の文化を他国で広めたいと欲すること自体に罪は無かろう。日本だとてクールジャパンとか言っている。いやそんな国策連動をする以前から、産業界からの働きかけで日本文化の輸出は関連業界それぞれ自発的な海外進出が行われており、その代表格と言えるアニメ産業で最大級の成果を既に成し遂げている。
日本のアニメを見てまずそれを好きになるという入り口から日本文化を愛し、ひいては日本を愛するという経緯を辿った国外の親日家には枚挙に暇が無い。
であるから、韓国という国家がその模倣を行って、結果世界及び日本に愛されようとするのであれば、それは別に悪いことではない。実際、韓流ブームの一側面としてはそうした他意の無い文化の周知活動として行った者もいるだろうしその効果もあったのだ。
例の解散間近のタレントグループの一メンバーなど、いわゆる親韓大使を公然と表明していたタレント、文化人とて数多存在したし、その成果として韓国への観光も興盛したのだから。

かの国の場合、それとは裏腹の反日行為の方にこそ本来の目的がむしろあるという、歪な文化活動、経済活動であるから問題なのである。つまり、相手に惚れさせようとするだけなら罪は無いが、そうやって自分を愛してくれた者が惚れた弱みで無抵抗なのをいいことにその頬を殴るという、まるでドメスティックバイオンレンスの様な行動に走るという異常さである。更にそれが結果としてではなく、はじめから殴る方に目的があるのだ。

どうですか。こう噛み砕いてみると、韓流ブームに乗っかるという事が如何に軽挙妄動だったかその愚かさにぞっとしませんか。
ヨン様だとか言って来日時に空港に殺到したり、KARAダンスだとか文化祭で披露したりしてる場合じゃなかったんだよ、当時のおばちゃんや女子中高生達。
じゃあ、お前はどうなのかって?そうですね、辛うじて現在の妻に薦められた韓流(捏造)歴史ドラマ「善徳女王」は観てましたね。ただ、行動原理行動心理があまりにも日本人とかけ離れている点に端を発するドラマツルギー、ドラマイデオロギーの可笑しさにツッコミを入れながら観るというむしろ嘲笑の対象でしたけど。当時から「損毒女王」の当て字をネタにしてましたし。
あと、『グエムル-漢江の怪物-』とかは日本ともハリウッドとも違う切り口の怪獣映画で面白かったかな。ただやっぱり何でむやみに映像が汚らしいのか当時から疑問でした。今はなんとなく想像つくけど。

しかし、その韓流ブーム、実際どの程度のヒットだったのか、もう真相は闇の中、霧の中のような気がします。というのはそのブームが疑われていない最盛期の頃のものでさえ最早どれだけ数字が盛られているか判然としないからです。
はたして、本当にヨン様に心酔してた生粋の日本人のおば様方がどれほどいたのでしょう。中心は在日韓国人の女性達で、踊らされた日本人女性は実はそう多くなかったと思いたいですね。K-POPもテレビ出演の露出外多かったから流行っているような気がしただけで、実際のファン層はどれほどいたんですか?当時を記憶してる人達、まさか学校あげて全校生徒でK-POP大流行なんて事ではなかったでしょう。ファンを公言してる生徒は意外に少数ではありませんでしたか?
これについては今更証言を取ったところで既にどうでもいいことでもありますけどね、正確な数字なんてどうせ出ないし。

ただ、一方で踊らされた人達の中には明らかな被害を被った人も大勢いたわけです。そもそもがハニートラップだったかもしれない韓国人女性と結婚して挙句離婚で揉めた某有名俳優ですとか、俳優やタレントへの傾倒から韓国男性に憧れ、結果ソウルへの観光旅行にて集団レイプ被害に遭った女性達とか。自業自得と嗤って済ませられるレベルなんですかね、これ。
また個人被害だけでなく、どこまでが虚構かわからない韓流ブームを信じてそのシェアを当て込み韓国企業と提携して、いわゆる法則発動した企業も多かった。まだその法則が一般認知されていない時期に被害に遭ったHONDAの本田宗一郎らが警告を発していたにも関わらず、その罠に落ちる勉強不足の企業は少なくなかったわけです。例の農心と提携を発表しただけで大炎上し不買運動が起きた亀田製菓など、記憶に新しいところですね。
自分もそれ以来、別メーカーのものに乗り換えて久しく食べてないなあ、亀田の柿の種。

話をブームの盛衰についてに戻しましょう。
実際本当にブームだったのかさえ怪しい韓流ブームですが、その仕掛け方自体は、流行に弱い日本人の特性を利用したかつての旧来型の商業戦略でした。

すなわち売りたい商品がメディアで紹介がされ、あたかも流行っているかのような誘導がされ、やがてそれが実際の流行に移るというフォーマットです。しかしながら、この同じ方式であっても昭和40、50年代と平成のそれとはシェアとキャパシティに相当な開きがあるということを考慮しなければならないでしょう。
ちょっと年配の方は思い返してみてください。例えばかつての日本公演をピークとしたビートルズ旋風。あるいは劇中ライバルキャラ力石徹の葬式が実際に行われてしまったほどのあしたのジョーブーム。ダッコちゃん、おしんの国民的大ヒットなどなど、ピンとこない若い世代にちょっと当時の活況を教えてあげてください。
要するに昭和のブームは全国民一斉型のブームでした。しかし時代が移るとそれは多様化してゆき、ひとつのブームは一部の層による熱狂というどんどんニッチなものになってゆきます。
範囲も狭い上に息も長続きしなくなっていきます。かつてのブランドブームはどこへやら、ブーム最盛の折にファミリー層向け店舗から女性向けブランドテナント誘致型に移行した百貨店は、飽きられて閑古鳥が鳴き現在生き残りに必死です。現代の子供は次々とイベントが起こらないと子供番組にすぐ飽きてしまうといった様なところに表れてもいる、現代人の性急さも関係してるでしょう。

層が狭く熱しやすく冷めやすいのが昨今のブームです。ところが、仕掛ける側はまだ全国民一斉型のビジョンを描き続けている。動機的にはおかしくありません。より多くの人に売れるように、より長くの間売れ続けるように、そう望むのは発展を目指す経済活動としては自然なことです。ですが、限界点の見極めが甘くニーズに沿った戦略が取れないならそれはただの願望です。

おそらくテレビメディア、それを裏で牛耳る広告会社(位置付けからしたら代理店という呼称のままでよかったと思いますが)はその旧来型の商業戦略から脱却できていないんです。テレビでの露出を増やせばその商品が売れるとまだ思い込んでいる。しかし現実はそうではなく、だからゴリ押しというものが表出してしまっている。
そして、韓国系コンテンツが最もその乖離した現実を認めたがらない。当たり前です、元々最初からが強引なゴリ押しでしかなかったんですから。その強引さは現在において、嫌韓というカウンターのブームさえなかったことにしたがる有様です。その結果、売れ残った商品在庫を捌くために、その商品が売れていますという虚偽の装いをし続ける。既に廃れているのにまだ流行ってますと嘘をつく。しかし、ネット社会になってこんな嘘はすぐ発覚するようになりました。

実際は観客ガラガラのK-POPタレントのドーム公演を超満員と捏造報道をしても、観客席を映した映像がネットに晒され暴露されるのが現代です。
たとえ実際に日本で人気を博した韓国人タレントでさえ、本国に帰れば反日言動をする。それも今や公然の事実として知られている。お前どこの国で稼いだんだ、と真っ当な日本人ならみんな怒っている。こんなものが流行り続けるわけが無い。
それでも旧来型の戦略を捨てられないから、全く流行っていないK-POPグループがレコ大新人賞をとるという無理矢理な出来レースが今日白々と行われたわけです。

流行語大賞の「日本死ね」受賞と構造はそっくりです。全く流行っていないものを流行らせたい人達が流行ってます、流行りましたと大嘘を叫んでるんです。

韓流ブームのクライアントは韓国、小売店は在日韓国人や反日日本人などの左翼関係者です。やり口が共通するのは当たり前。だが、ここで考えてみましょう。日本のブームが全国一斉型からニッチ化して行ったのは何故か。

様々な要因があるでしょうが、戦後の趣向変化の根っこはやはり教育の変化にあるでしょう。それは個人主義の伝播浸透と社会認知が根本にあり、多様化グローバル化の推進という後押しがあって、どんどん全体主義的な嗜好傾向から個人個人がバラバラのものへと変化して行ったんです。
では、それを行ってきたのは誰か。教育現場での個人主義の植え付けは日教組ら左翼教育者の手によるもの、報道その他で「これからの社会は多様化グローバル化」と叫び続けてきたのは左翼メディアと、全部連中の仕業です。

韓流ブームが長続きせず終息に向かう現代人の嗜好傾向を戦後ずっと育ててきたのは、他ならぬ左翼主義者達です。つまり、韓流ブームとは左翼が仕掛け、知らず左翼が終わらせてしまったのに、終わってないよといまだ左翼が吠えているといういみじくもみっともない現象なのですね。
そして、今回の事件。それをみっともないからみっともないと当たり前に指摘した人物に「みっともないと言うお前なんか殺してやる」と噛み付いたわけですから、ただの火病です。

そして、長い目で見れば、左翼主義というのは経済においても害悪だということです。一時的な発展をしてもそれ以上の衰退を招く破滅型経済を将来的にもたらします。百貨店の衰退がいい例です。
かつての日本の企業はより長く愛され続ける商品にこそ力を注いできました。あなたの家のキッチンにある昔からの定番商品に目を向けてみてください。そうしたものが一つ二つ必ずあるでしょう。
一時目先の売り上げだけを上げる商品の競争にばかり、現代の企業は目を向けすぎました。より長く愛され続ける商品にこそ力を注ぎ、より安定の幅を広げることが長いスパンでは発展に繋がるのだと私は思います。
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前記事の要請に早速応えていただき、アンケートコメントの回答者「こんにちは、40歳代です(笑) 」さんよりコメントをいただきました。
ところが、それへの私からの返事コメントがフォームから投稿すると何故か投稿NGになってしまいます。いろいろ原因を探ったのですが、現在のところ何が引っかかっているのか不明です。
ですので、暫定的措置として、新記事にてお返事の代わりにさせていただきます。

「こんにちは、40歳代です(笑) 」さんへ


まず、記事内での要請に応えてコメントを投稿していただいた事にお礼を述べさせてください。
こうしたやりとりは明日への糧として大変貴重なものになります。私は複数の記事で「闘い」と表現していますが、それは衝突を避けるばかりで真っ向から立ち向かえなくなっている多くの日本人への言わば鼓舞であって、つまりはまずもっと話し合えという意味です。
結論ありきで予定調和の話し合った振りではなく、相手の意見を受容してきちんと咀嚼あるいは反証して得られた結果を重視する。その上で自身の主義主張としてそれをどう取り入れていくか判断を行う。そういった真っ当な筋道から今多くの日本人が逃げています。
ですが、それはこの通り根気と労力のいる作業でもありますから、まず応じて下さった真摯な姿勢に感謝いたします。ありがとうございました。

いただいた四つのコメントについて、まずそのままの形で公開とさせていただきました。二番目のものも、これを外すと前後のコメントに第三者にとって通じにくい文言が残りますのでそのまま公開としました。

コメント四つをトータルして私なりに組み立て直して整理してお話します。恣意的な結びつけはなるべく排しているつもりですが、そのようになっている場合や他にお気づきの点があればご指摘ください。

さて、ご意見拝聴するに、まずご自身の経緯として民主党政権時代に強い危機感を持ったことを上げられていますね。細かい点で言えば、私は民主党及びその界隈の勢力をリベラルとは認めていませんしただの左翼の自称と扱っていますが、そうした解釈差はともかく同時代に抱いた社会不安などについては全く同感です。更に、その後に政権に返り咲いた第二次安倍内閣がその回復に尽力した成果も評価しています。
おそらくここからが私とあなたの、ひいては安倍政権支持者とそうではない保守派との分かれ道になろうかと思います。

まずはそこからの私の判断ですが、これは入党した日本第一党及び党首の見解とも共通しますが(私の意見が日本第一党を代表するものではありません、念のため。あくまで一個人あるいは党員個人の考えと党のそれとは別であり、一致する点においては共有するものであると述べておきます)、民主党政権時代からの回復には一定評価するもののそれを過大評価する事は危険視しています。
それは日韓合意以降の数々の失策が理由であり、その状況を見るに、このまま現政権には任せておけないという思いがふつふつと湧き出しました。私個人の立志もそれによるところが大きいし、日本第一党の立ち上げも同様でしょう。既存政党に任せられるのであれば、新党などは要らないからです。

ですが、一方のあなたの安倍政権支持は、その回復手腕によってそれまでの社会不安世情不安から救い上げられた体験的心情に立脚しているのですね。そのご自身が持った信頼感そのものを己自身が信用すべしという、言わば自己信頼と重なるものであるから、単純に論理的判断のみにおいてそれを軽々に覆すのは危険であると考えている。考えというより、胸に手を当ててみるといった実体感が報せているに近い感覚でしょうか。

その感覚は私も重要だと思っています。回顧録を読まれたあなたなら解るところでしょうが、私自身もこれまでの生活体験や経験則を正否の判断基準にしてますから。これは他人には説明しづらい上に覆すこともまた難しい。それが、
>>最後は殆ど無意識に近い本能的な心情の賛否で行動します。
ということになるのでしょう。

そして、その同じ心情がまた同様に、日本第一党への期待や私榊真守への応援にも根っこで繋がっているとおっしゃりたいのだと思います。

あなたの心情においては、それと安倍政権支持との並列はだから矛盾せず、それが故におそらく他の安倍政権支持者においても同様なのではないか考えておられるわけですね。あるいは実際にそういう声をお聞きになっていると。
実際に安倍政権と日本第一党を同時支持する人の根拠についてはデータが無いので言及はやめておきます。ですが、あなたの心情面においての私や日本第一党に対しての期待感に嘘偽りが無いという事については理解しました。また嬉しくも思います。

その上で申しますが、あなたの言う2つの円のお話は社会評論家的な観点では是とされるでしょうが、一つの円のどちらかに身を置いた場合、つまり政治の当事者であれば主眼には置けない観点となるでしょう。理解者ではなく事態の推進者であらねばならない場合、対立する他方との敵対姿勢を崩す危険を冒せないという縛りがあるからです。かといって異なる認めうる部分は認めるという姿勢も大切であり、それを本分を惑わすことなく視野の広さとして同居させるという事になりましょうか。独善性を避ける担保とはそういう姿勢のあり方だと思います。どちらもありとする横並びの並列とはそこが異なるのです。

私の場合で言えば、社会に対して目を向けた場合は評論をする立場でありますが、何かを推進する場合においてはその当事者となります。ですので、日本第一党を支持すべしと主張する論陣を張る以上は、それ以外の政党に対する支持は否定、批判する立場は崩せないという事になるのですね。ですが、それは他者への支持者を理解しないということではないわけです。

そして、敢えて言いましょう。
あなたの安倍政権支持のお気持ちは重々理解しますが、そのお気持ちに囚われる事からそろそろ脱却なさってはいかがでしょうか。一度切り離して、現状の安倍政権がなした国益を損なう数々の失策を冷静に精査されて、それでも安倍政権をこのまま支持すべきか熟慮すべきだと私は思います。
そうは言っても「本能的な心情の賛否」を仰る以上簡単なことではないのでしょう。
そうしたお立場を批判するというより、そうした方に安倍政権あるいはその後継の政府与党より頼るべき勢力があると安心して乗りかえれるよう、日本第一党が成長を遂げるべきなのでしょうね。
ただし、私は効果的手段としていわゆるパワートーク、アグレッシブトークも用いますから、今後も批判対象と己が見定めた相手には厳しい言動を取ることも多いでしょう。しかしそれも志ゆえのことだとご理解いただければ幸いです。

>>「政治的に政治を語るだけではない人」の登場を歓迎する心情がそこにはあり、その思いを込めてコメントにしたというのが突き詰めるところの結論になります。 

ありがとうございます。
専門家になってしまうと専門性が求められるため、その分野に特化せざるを得ないという縛りが現実的にあるのですよね。まあ、ただの専門 馬鹿という人もいますが、その縛りのマイナス面も大きいと思います。とはいえ、北斗の拳や功殻機動隊で政治経済を語る上念司さんのような人物もいますから、パーソンと切り口のセールスアピールで覆せるものでもあると思いますけど。

私はあくまでただの日本人です。ちょっとサブカル系ヲタクというだけのそこらにいる小市民です。その立場で己の見聞きしたものから併せて政治をも語るというのが私のスタンスであります。
だから、もう忘れてもいいはずの思春期の話からどこぞの国のミサイルからゲッターロボまで同列に語るんです。
これは、既存の政治家が政治家である前に一人の日本人だという事を忘れるから腐敗するということ、その反証としていつまでもまず一介の一国民としてがありきで政治を語り活動をしていくという根本姿勢とそのまま合致することです。
そして、それを当ブログの売りとして意識的に運営執筆をおこなっていますから、その点を評価していただけることが最大の喜びであります。
あらためまして、ありがとうございました。

おかげさまで多面的視野の補完ともなり、大変有意義な意見交換でした。
また何かありましたらご意見ください。
これからもブログの記事内容の充実に励んでまいりますので、よろしくお願いします。

以上がコメントへのお返事となります。

コメントが寄せられた記事「契機入党と相反する並列支持」の追記にしようかとも思ったのですが、閲覧環境によってはプルダウンの必要があり、訂正更新と同じ扱いで判りにくいため、あえて新記事の体裁をとりました。
この管理者からの返信不能トラブルは、単に私からの返信に支障があるだけでなく寄せられるコメントの入力送信にも支障をきたす可能性があるため、別途ライブドアブログに問い合わせをする予定です。

このような不具合のある現状ですが、寄せられたコメントにはきちんと目を通しますし、こうした記事化という方法をとっても 必用な返信は行います。
ですので、ご意見ご感想のある方はどうぞお気軽にコメントをご投稿くださいませ。

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はい、本日も当初予定していたエントリーはおあずけにして、急に持ち上がった事柄について当記事にてアンサー、もしくは考察を行って行きたいと思います。

それは「回顧録読者向けアンケート」に寄せられたあるコメントについてです。

一応、このアンケートについても今までと同様、その結果についての考察をいずれは予定しておりました。しかし広く社会問題に向けてのアンケートと違い、あくまで当ブログの読者対象という狭い範囲のものですから、もう少しまとまった数のデータ集計が出来る時期、少なくとも半年から一年以上後にまとめを行うつもりでした。
ブログ記事内において関連する事柄によっては、アンケートのコメントに寄せられた中から一部のご意見をピックアップする場合もあります。ですが、基本的にはご意見拝聴しておりますとするのみで逐次レスポンスをすることは控えさせていただいているのです。
それは自然に回答者の間でそうなった場合を除いて、アンケート結果画面が本来はコメント同士がやりとりをする場ではないこと。
同一フィールドで設問者がリアクションを返すことがあると、回答自体にいらぬバイアスがかかってしまう惧れがあること、などが理由です。
ですので、昨年12月29日の記事「バックスウィング」で述べた通りのスタンスを通常は取らせていただいています。

しかしながら、少々誤解が生じているようなのでそれについての訂正と、私自身が抱いたコメントへの疑問があるので、この度その特定の一つについてのみ当記事内で取り上げさせていただきます。
それではまずその当該コメントを引用させていただきます。

選択項目:「何度かに分けて読んだが読破した」
コメント:
『日本第一党の党員だったんですね。私はどこにも所属していませんが、安倍総理支持です。安倍総理支持者は「日本第一党」を応援していますよ。主義・主張の違いはあっても、期待しているんです。桜井氏に設問主のようなブレインがいたとは、安心しました。』
投稿日時:2017/01/02/ 22:25 年代:40歳代

当該アンケートのコメント欄は基本的には選択理由の記述を求めていますが、現状、実質的に拙ブログの回想録及びブログ全体に対しての感想や意見を述べる場として機能しています。
当該コメントにおいては更にピンポイントで、1月2日付の記事「ツイッターと正月と私」を対象としツイッタープロフィールの表記と併せてのご意見と承りました。

まずはじめに誤解を解いておかなければなりませんが、私は桜井誠氏のブレインではありません。嬉しい誤解ではありますが、確かに日本第一党に入党しましたが一介の平党員に過ぎませんよ。
ちょうど良い機会なので、私の入党の経緯と党支持のスタンスをもう少し詳しく述べておきましょうか。

私が思想変遷の果てに政治的意見発信に至るその萌芽を迎えたその時に、ちょうど昨年夏の都知事選があり、桜井誠氏の選挙演説及び選挙活動のあり方に感銘を受けたのです。その経緯は回顧録ラストの「妻に誓う」にて詳述しています。
もう少し突っ込んで言うならば、その都知事選がなくとも私は現状の日本が抱える諸問題に対しての憂国の思いから、いずれ当ブログを開設していたと思います。思いますが、その最後の一押しと、それまで何もしてこなかった事への後悔と、もう一歩進んだ政治活動へと足を踏み入れる決意を促したのが桜井誠氏の存在なのです。

それがなければ私は一介の政治ブロガーとしてあるだけで、おそらく自己満足して終わっていたと思います。それを活動の全てと規定して「自分の出来る範囲」として済ませてしまったでしょう。
しかし、現状はまだその範囲を出てはいませんが、それだけでは不足と感じている自分が今はいます。このブログにての意見発信は出発点であり私の政治活動の一部にしか過ぎないと現在は考えています。その差を生んだのが日本第一党の結党と言っても良いです。

日本政治における日本第一党の位置づけそのものが、その支持理由と言ってもいいでしょう。これもやはり「素人が戦略的投票で陥る罠」にて詳述していますが、政府与党も含め左側にしかいない現状で唯一の保守政党と呼べるものが、一市民活動家を中心として生まれた、その誕生経緯こそが支持たりえる理由なのです。
既存政治にまみれない唯一の政党は、今の日本に日本第一党しかないのです。

この結党のタイミングも神の思し召しのようなものでした。
日本第一党がなければ、私はもっと地道な草の根運動から同志を募り、もっとずっと小規模な運動体から事上げする道を選ばざるを得なかったでしょう。ですが、ちょうど活動の皮切りに回顧録の書き溜めにいそしんでいる頃、日本第一党結党の一報を耳にしたのです。
そうして一般党員の募集がかかるや応募し、入党を果たしたという流れになります。

現在、日本第一党党内での私の役職はまだ具体的に決まっておりません。
党内の人員募集のルールに従って応募している段階です。それが確定した後は党規において守秘義務が課されるところを除いてお話できる範疇でまたご報告できると思います。

逸る気持ちを抑えているのは私自身こそなのですよ。
ですが、それが十年の差なのです。

桜井誠氏がよく彼のツイキャス放送オレンジラジオにて「それが十年やってきたということなんです」と口にします。無論、彼の市民活動家としての今日までの十年を指し、その年月のぶれない活動こそが都知事選における支持に繋がったという話です。
私にとっては、何もしてこなかった十年です。

当然、日本第一党ではその十年間の活動を通じて信頼を得た結党メンバーと、結党後に新規入党した党員との間には開きがあるわけです。当然です。私をはじめとする新党員はまだ何の実績も上げていない。どんな理想で気を吐こうが、どんな立派な理念を持とうが関係ないんです。
これは党内ヒエラルキーだとかそういうことではなく、スタートラインが違ったのだから致し方のないことです。ならば後発の者は追い上げ追い抜けるようピッチを上げるしかない。一刻も早く信頼を得ることが急務です。

もちろん、何かの間違いでこのアンケートコメントを真に受けて日本第一党幹部が榊真守をブレインとして迎えようと動くのであれば、それに応えるにやぶさかではありませんが(笑)。まあ、夢物語です。そんな漫画の様な抜擢劇はそうそうございません。

さて、あらぬ放言を飛ばした後は、私がこのコメントに感じた疑問についての言及に移りましょう。
おそらくは「ツイッターと正月と私」における『さて安倍信者といえば、もっと解らないのがプロフィールに「安倍政権支持」と「日本第一党(あるいは桜井誠)支持」とを併記しているユーザーである。』から続く、相反する両者の同時支持についての指摘への反論なのでしょう。
再度当該部分を引用します。
『私はどこにも所属していませんが、安倍総理支持です。安倍総理支持者は「日本第一党」を応援していますよ。主義・主張の違いはあっても、期待しているんです。』

額面通り受け取ると、やはり矛盾してしまいます。
私の感覚では、一方が一方を否定する要素を持つ場合は並立が出来ず二者択一になる、そう考えるからです。
日本人の慣習的なやりかたとして、厳密な言及をせずにやんわりと相反する二者を同時に扱うという呉越同舟的な方法論があるのは理解は出来ます。ですが政治の世界でそれが適用できるものとは正直思えないのです。

とはいえ、私には理解できないとただ突っぱねてしまうのでは、自身の理解力を侮ることにもなるのでもう少し考察してみましょう。

字間行間の省略された文意文脈をちょっと無理矢理想像して保管してみます。
「現状、致し方ないので安倍総理支持です。現実的選択として安倍政権を支持していますが、成長株として未来の日本第一党に期待しています」
主義・主張の差についてを汲み取れていないので不充分ですが、大意としてはこういう意味なのでしょうか。
ということであれば、考え方として理解は可能です。ですが、こういう姿勢は正直私は支持できません。
なぜなら、現政権支持勢力というものの存在が、それに成り代わっていこうとする勢力にとっては妨げとして働くからです。民主主義が投票というシステムに依拠していることを考えれば、そうやって将来的には期待しているけれど今は現政権を支持するという考えのもとに一票を投じるのはどちらの政党ですか?
この場合、心情的に将来は期待するが今は票を投じないというなら、それは支持とは言えないんですよ。だから政治の世界では適用できない考え方だと言ったわけです。

無論、現実問題として私の言うところの戦略的投票は今後も必要でしょう。それは安倍批判をしている私だとてそうです。日本第一党はこれからの政党ですから、候補者を擁立できる選挙区の方が圧倒的に少ないのです。ならば党内からの候補者のいない選挙区においては他よりマシという理由で自民党に入れるでしょう、今後も。
しかし、それはどこまで行っても消極的投票に過ぎず、積極的表明である支持という言葉には馴染まないのです。
であるなら、致し方なく票を入れるレベルなら支持者と名乗るべきではない。百歩譲ってもせいぜい「暫定的支持」ぐらいの表現を用いるべきだと私は思います。

どうでしょうか。上記引用コメントの回答者さん。もしご覧になられているなら、私の解釈で間違ってはいないのかどうか、そしてその上で安倍支持者を名乗るべきではないという私の意見をどう思うのか、それを教えてくださいませんか。
普段お使いのハンドルではなく「アンケート回答者」等のそれと判る一時的なお名前で結構です。よろしければ当記事のコメント欄に直接ご意見をいただけませんでしょうか。

このやりとりが実のある意見交換に発展することを私は期待しています。

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