日々是好舌

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茶畑に八十八夜きつね石

2024年03月22日 11時39分58秒 | 日記

静岡茶の祖・聖一国師(1202〜1280年)は、静岡市葵区足久保と釜石峠一つへだてた大川地区栃沢の生まれ。聖一国師という名は、死後、花園天皇から贈られた称号で、生前は円爾(えんに)と称した。
幼いころから利発であった聖一国師は、5歳で久能寺に入門、その後、各地で修行を積み、嘉禎元年(1235)に宋へ渡った。径山(きんざん)の無凖師範(ぶじゅんしばん)のもとで学び、仁治2年(1241)に帰国するが、その 際、経典をはじめ、様々な技術を持ち帰った。九州に博多織や饂飩を伝えたのも聖一国師の功績といわれる。帰国後、多くの貴族の尊敬を受け、九州の崇福寺や承天寺、京都の東福寺の開山として迎えられた。
寛元2年(1244)、聖一国師は入宋前に学んだ上野国(群馬県)の長楽寺に栄朝禅師を訪ね、その帰り、故郷栃沢の母のもとを訪れる。このとき、宋から持ち帰った茶の種を穴窪(足久保)に播いたことが『東福寺誌』に記されている。茶の栽培法や利用法も学んできた聖一国師は、この地が茶の栽培に適していることを見抜いていたのであろう。このことから足久保が、静岡茶の発祥地とされている。
足久保茶にとって重要な史跡に、「狐石」がある。大きな石の表面に、天明8年(1788)に駿府の茶商・山形屋庄八(初代竹茗)によって刻まれたと伝わる碑文があり、松尾芭蕉が元禄7年(1694)5月に読んだ「駿河路や はなたち花も 茶のにほひ」の句とともに自らの製茶技術復活の業績が記されている。
御用茶の献上停止から時を経て、足久保ではかつての青茶(高級煎茶)の製法が失われていた。それを復活させようと、竹茗は鮒沢(舟沢)の辺りに小屋を構えて茶を栽培し、古老から話を聞くなどして、十年に及ぶ苦心の末、復活に成功した。こうして再び足久保で高級煎茶の生産がはじまったことを伝えている。
この狐石は、地元茶農家の人たちによって大切に管理されている。その傍らには聖一国師の碑が建ち、毎年供養祭が行われる。
「狐石」の名の由来は、ここに狐が棲んでいたことから。また、容易に変化することからお茶の葉を「狐っ葉」と呼ぶこととも関係があるのだろう。画像出典:秋山白兎俳句館。
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