京都の紅葉は街中の建仁寺本坊の中庭、
潮音庭を残すのみでほぼほぼ終了している。

他府県ナンバーが慌ただしく往来していた千本通りも、
ようやく日常を取り戻したかと思っていたら、
年の瀬の師走が追いかけるようにやってきている。
昨晩、我が千本通りをふと見ると、
クリスマスのイルミネーションが飾り付けられていた。

少し前に泉涌寺の塔頭寺院の紅葉を紹介した。
あまり観光客が立ち寄らない善能寺は個人的に好きなお寺。
と言うよりは、好きな庭園が眠っている。



その時も実は撮影していたが、
もっと良い光景が撮れないかと再びやってきた。











12月に入っているのに山門前は未だに青葉が目立つ。











それでも境内に入ると紅葉は期待できないが、
今年特に際立っている黄葉景色。。。






本堂横の池泉式庭園は晩秋の景色に横たわっている。



前身は西八条猪熊二階堂町にあった二階観音堂で、
823年に空海がこの寺に稲荷大明神(荼枳尼天)を祀って、
寺の名称を善能寺に改めたと言われている。











その後、1555年に後奈良天皇の命で泉涌寺の塔頭となり、
今熊野観音寺の西北に移されたが、明治時代の廃仏毀釈で荒廃し、
1887年にこの地に移され現在に至っている。




現在の本堂は1971年のばんだい号墜落事故の遺族の寄進により、
航空殉難者の慰霊と事故の絶無を祈願して建立されたもので、
その時に作庭家の重森三玲によって池泉式庭園、遊仙苑が造られた。



昭和を代表とする庭園デザイナーだが
200近い作品の多くは枯山水で池泉式庭園は極めて少ない。
と言っても、私が知った当時から池の水は抜かれたままで、
この状態ではどう見ても枯山水( ´艸`)。


小さな善能寺は常駐の住職はおられず、
朝夕に泉涌寺の関係者がお勤めに来られているので、
池の水や手入れが行き届かないのが現状のようだ。
実際管理の行き届かない池は尽く澱み、悪臭を放つ、
それならば枯らして自然に晒される方が健康的で正解かも?



だから、手前の立石に無造作に巻かれた緑のホースは、
それを物語っているのだろう。

 

 

 



もっと言えば、
お寺の関係者この庭園が昭和に最も革新的に制作活動した、
一級の庭園デザイナーと言う認識がおそらく薄いのだろう。



重森三玲の名が轟くのは1939年作の東福寺方丈庭園。
ほぼ最後の1975年作の松尾大社庭園まで、
36年の間に約190もの庭園の造営を精力的に行った。

 



実に凄まじいが、それ故か、
私は知る限り好きな庭園とそうでない庭園がある。
それは元前衛華道家としての趣向が反映すのか、
とんでもない様式、びっくりする収め方をする事がある。



この遊仙苑は重森三玲の思いとは違った形で現存しているが、
私の中では彼の作品の中ではかなり好きな方である。

全てはアップしていないが、トータルで20回位は撮影している。






多く写真に撮り、記録に残したいと思っている。
出来れば春夏秋冬の変わりゆく雄姿を撮りたい。



その為にはいつでも自由に撮影されなくてはならない。
もしお寺関係者がこの存在価値が解り、整備して、
それこそ拝観料でも撮るようになれば、私の計画がダメになる。

 

 

 

 

 

 

 

 



だから立石に絡む緑のホースは、
昔の前衛作家がよく用いていた表現方法と思えば。。。






黄葉に眠る遊仙苑は曲がりながら捉える事が出来たか?



赤くならないモミジの問題は残るとしても、
一つ解決した想いを胸に善能寺の山門を出る。







その奥山肌の階段を上がると泉涌寺の圧倒的な仏殿が現れる。



頭上にはこの場に及んで、
未だに赤くなろうとしているモミジを発見!