円空仏の微笑み

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最近は京都の写真撮影より、
以前から申しているように過去の音楽、映画の再考、
それと気になっていたが見過ごしてきた人物、事柄を探るべく、
時間の許す限り資料を漁っている。

その一人が江戸時代前期の円空(えんくう、1632年-1695年)。
各地に「円空仏」と呼ばれる木彫りの仏像を残した事で知られる。
円空の事を語る時に忘れてはならない人物に長谷川公茂氏がおられる。
「円空仏」の研究、紹介に生涯を捧げた人で、
残念ながら一昨年の2023年8月30日に亡くなれている、享年91年。
若かりし日は版画家を目指していた長谷川氏は、
美術家としての表現に日々苦悩していた時に、
たまたま訪れた愛知県江南市の音楽寺で偶然目にした、
護法神の微笑みに救われ、それ以降半世紀以上も尽力なさった。

それに関する書籍は数多く出版されているが、
円空初心者の手引書となった、
「円空 微笑みの謎」「円空仏」「円空の和歌」から紐解く。
長谷川氏が語る円空仏の魅力は「微笑み」に尽きる。

 



これがファーストコンタクトの護法神像である。
円空は仏師のように紹介されているが、
仏像以外の神像も多く彫られている。
この時代自体が神仏習合の時代で
厳密に神と仏の境界は曖昧なモノだった。

円空自身もどこかの仏教宗派には属さず、
日本古来の山岳信仰、白山信仰の修験者として、
日本各地を放浪しながら、神のありがたみと仏の尊さ伝導し、
その証として仏像と神像を彫り刻み奉納し、
最終的にはお釈迦様の入滅五十六億七千万年後に衆生救済の為、
弥勒菩薩が世に現れるまで護持させたいと祈願、
五十六億七千万年とは何と途方も無い年月。

それ故におびただしい数の「円空仏」、その数十二万体、
創作活動期間から換算して一日10体、
現在までに約5300体余りの像が発見されている。
長谷川氏はその「円空仏」全てに対面し、
最高レベルの鑑識眼をお持ちで、当然鑑定を依頼する方も多く、
しかし俗に言う鑑定家のような鑑定料は受け取らず、
更にその権威とならば自ずと「円空仏」を所有したくなるものだが、
所有すれば欲が生じ仏の教えに背く事になり、頑なに拒んでいたと、
京都馴染みの哲学者の梅原猛さんが述べられている。
長谷川氏は「円空仏」そのものかも知れない。

そんな長谷川氏の「円空 微笑みの謎」で紹介されている、
円空仏スマイルベスト30。その中から私の独断で選んだ11点。

圧倒される力強い線刻


音楽寺蔵 十二神将像(申)




木肌に火の神が宿る


秋葉社蔵 秋葉権現像


大きくうねった木の節にも仏に変身

 


観音寺蔵 護法神像



白洲正子が愛した観音様


観音寺蔵 十一面観音像



このダイナミックな造形と迷いのない刻印はどこから?



中山寺蔵 護法神像



円空さんの手によってこんな木っ端にも仏が宿る


観音寺蔵 千面菩薩像中の観音像



珍しい閻魔王だが、
そこにも微笑みを見出している、長谷川氏の凄さ



野口薬師堂蔵  閻魔王像



3メートル超える桜の枯れ木に彫った善女竜王
今では裂けてひび割れ、朽ちてる箇所も見受けられるが、
それでもより一層その木から仏が現れる



小林寺蔵 善女竜王像


みうらじゅんと言う京都市出身の漫画家がおられるが、
マイブーム、ゆるキャラの名付け親で、
イラストレータ、小説家、エッセイスト、はたまたミュージシャン、
京都人特有のねじれた性格の故、型にはまらない才能を発揮し、
独自の世界観で一部のマニアに絶大なる支持を得ている。
この方が幼少期の頃に仏像に興味を持ち、
マルチタレントとして成功し、
時折仏像の魅力を紹介なさっていたが、
私は信心不足なのか、彼の語る仏像の魅力が理解できないでいた。
実際、運慶、快慶、湛慶の彫った仏像は精緻で迫力あるのは判る。
しかし魅力となると、……唯一好きと断言できる仏像は、
京都太秦・広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像くらい。
彫刻で日本初の国宝第一号になったこの仏像は、
制作は朝鮮の仏師が手掛けたと言われている。


一人の人物がこれだけ多く、たいした材料でも無い、
捨てるような粗雑な木であっても、
一瞬にして様々の表情、様々の表現、様々の構成力、
一刀両断で刻み付けるのは神仏の力失くして可能であろうか?
どれも個性的で表情豊かで、観ていて飽きない、
それ以上に愛着が湧いてくる仏像の数々、何よりオモシロイ!


仏に祈りを捧げる髪を結った太子像



観音堂蔵 聖徳太子像

円空は鉈一本で彫っていたと伝わるが、
実際は数本のノミも所有していたと思われる。



五仏の宝冠をいただく美しき仏


法隆寺蔵 大日如来像



日本各地を放浪、修験者としての修行、
その上での祈願の12万体を彫るのに、
一体に対して費やされる時間は一瞬である。
円空が既存の仏教界に認められ、宗派に属した仏師ならば、
弥勒菩薩半跏思惟像と同レベルの仏像を彫刻できたと、
推測できる像も見受けられる。
粗削りで武骨な表現の円空仏と一般的に思われているが、
実際一点づつ観察していくと、
無限の表現力を宿している事が徐々に解って来る、恐ろしい。
定着して時間を掛けて彫刻していたら、
弥勒菩薩半跏思惟像クラスの仏像を多く残したのではないかと、


優しき微笑みの中に亡き母の面影を見る


観音堂蔵 十一面観音像



水鏡に自分の姿を映して彫ったと伝わる


洞泉時蔵 自刻像



江戸時代後期の文筆家の伴蒿蹊(ばんこうけい)が書いた、
『近世畸人伝』に円空の姿が描かれているが、
鉈で生木に仏を彫りこもうとするずんぐりむっくりの丸顔。

 



円空は幼くして洪水により母を失って孤児となり、
地元の寺に預けられ、伊吹山太平寺で修行を積んだとも言われる。
20代の頃に修験道の「白山信仰」に出会う。
修験道とは「山へ入って厳しい修行を行い、
悟りを得る事を目的とした山岳信仰が仏教と結びついた、
日本独特の宗教の形態である神仏習合のひとつ。
円空は32歳の時、神社の神官の家を訪ねて3体の仏像を彫り、
これが記録に残る初めての仏像となる。
その後「造仏聖(ぞうぶつひじり)」として、
北海道から畿内に渡る範囲を行脚した。
「造仏聖」とは寺を持たず放浪しながら仏像を作る遊行僧の事を云い、
幕府からは下賤とされ、乞食坊主と罵られる事もあったが、
子供達からはエンクさまと親しまれ、一般庶民にとっては、
ありがたい「今お釈迦様」として崇められていた。

 



円空仏の総数は2015年時点での集成で現存数が5298体、
所在不明・消失・盗難などの像が88体で、5298体+88体で確認数は5386体。
分布は愛知県の3241体が最多で岐阜県の1684体、
埼玉県の175体、北海道の51体と続く。
残念ながら京都で彫られた仏像は一体も存在しない。



秋葉権現の像も多く彫られているが、三体が寄り添う構成力。



鉈、ノミを入れる捌き方は超人的、神がかり的。



枯れ木、木っ端、人が無用と思う廃材であっても、
円空の手に掛かると忽ち神仏に変わる妙技、驚くべく。


円空は仏像以外に多少の書画、和歌も残していて
43歳の時『大般若経』の修復に携わり、
見返しに添絵を58枚描ている。
棟方志功を彷彿させるようなおおらかな筆致、

 



 

 

和歌も千六百余首も残されていて、これも長谷川氏の尽力により発見された。

その為か、柿本人麻呂の像も数点彫っている。

 



いとせめて 恋しき時ハ けさの夢 よるの衣を かえしてそきる

 

 

富士山を描いた富士図が4点残されているが、
井之丸良平氏蔵の「富士山之絵」を拝見すると、
仏像同様、名立たる画家が描く富士より、
円空の富士はえも言われぬ雄大で洒脱で味わい深い。
書籍からコピーなので見開き部分が残念ではあるが。


円空筆「富士山之絵」井之丸良平氏蔵-書籍「円空の和歌」より


足からや 富士の御山の 関まて(で)も 安くも越える 鳥(の)空かも


円空入定塚は岐阜県関市の長良川河畔にある。
長谷川氏によると、
円空の入定は出羽三山に現存する最古の即身仏、
本明海上人を習っていると云う。
一般に入定するのには千日必要とされ、
円空は穀断ち、水断ちなどの「千日行」を行い入定。
釈迦の入滅後56億7千万年後の世界に現われ悟りを開き、
多くの人々を救済するとされる弥勒菩薩。
その手助けをするが即身仏。円空は64歳で入定。


いくたびも 絶っても立つる 三会の寺 五十六億 末の世まで




令和5年10月1日に「円空学会だより」に掲載された、
長谷川公茂氏をご逝去を報ずる記事の写真を拝見すると、
円空仏を嬉しそうに抱いてにこやかな面立ちは、
円空が彫り続けたお釈迦様の慈悲の眼差しを彷彿されている、
そんな尊い気持ちになってしまうのは私だけ?