艦これ御朱印帳

艦内神社の御朱印を集める

休艦日その316 海軍特攻隊影山隊震洋隊記念碑(佐賀県東松浦郡) / 軍艦海門端艇遭難者記念碑(教法寺) & 海軍兵学校針尾分校之碑(長崎県佐世保市)———— 2022年 5月22日

震洋

震洋は、日本海軍が太平洋戦争中盤以降に開発・実戦投入した特攻兵器。小型のベニヤ板モーターボートの船内艇首部に炸薬を搭載し、搭乗員が乗り込んで操縦して目標艦艇に体当たり攻撃を敢行する。「震洋」の名称は、特攻部長大森仙太郎少将が明治維新の船名を取って命名したもの。秘匿名称は特攻兵器として四番目であるため㊃金物」(マルヨンかなもの)、㊃艇(マルヨンてい)。(wikipediaより)

海門 

日清戦争後、日本政府は台湾総督府を設け、統治・開発に乗り出した。明治30年(1897)、住民の抵抗運動が起こり、佐世保鎮守府所属の海防艦海門が出動した。荒天を突いて陸戦隊の上陸を試みたが端艇が転覆し、8名が命を落とした。この石碑はその慰霊のため有志の寄付によって建立された。台座には寄付者の一覧が刻まれていたが、剥落してしまいほとんど読むことはできない。

この石碑は近代日本が西欧列強に倣い帝国主義へと突き進んでいった時代の一端を物語るものである。

(説明板より)

海軍兵学校  針尾分校

昭和20年3月 この地に海軍兵学校針尾分校が開設された

全国から選ばれた少年4000余名が 第78期生徒として 潮騒と緑の地針尾に集い 日夜学業と訓練に励んだ

同年7月防府分校へ移転した後 同年8月太平洋戦争の終結により海軍兵学校は閉校となった

この心の故郷針尾に 全国の期友有志相図り 先輩 教官 遺族その他多くの方々のご支援を得て この碑を建立し後世にその名を刻むものである

平成 4年 9月  海軍兵学校第78期会

(碑文より)

 

 

5月も終わりに差し掛かろうとしている時分、皆様いかがお過ごしでしょうか。

本日は超良い天気の予報・・・これを逃すと梅雨入りしてバイクじゃ出られないんじゃないかなーという予感がありましたので(言い訳)今日はのんびり長崎へショートツーリングしてきました。

 

 

 

なんかもう初夏というより普通に夏なんですが、それは兎も角今日も相棒と一緒に玄海町「海軍特攻隊影山隊震洋隊記念碑」へ向かいます。こんなとこにも震洋の基地があったんですね orz

事前情報で詳しい場所がわからなかったのですが「写真で大きな橋が見える」「ゲートボール場内にある」という情報を元に、Googleマップにて当たりをつけての出発です。

 

 

そして無事発見。 

 

 

記録によると幸いにも出撃命令は出ずに済んだらしいのですが、それにしても出撃待機命令を受けた方々の心中はどれほどだったのか想像もつきません。誰もいないグラウンドで一人手を合わせ、平和への念を新たにしました。

 

 

 

 

しかしここは人どころか車一台通りませんが、休憩所に薪ストーブがあったりグラウンド周囲に椅子が並べてあったりと超居心地良さそうです。自分も年取ったらこういうとこで過ごしたいなぁ。

 

 

ここから有田・伊万里の超気持ち良い山道を抜けて見覚えのありまくる佐世保へ。

目的地の教法寺は…ちょうどセイルタワーの隣か( ゚Д゚)

 

 

本殿ではちょうど法事が行われてたようなので外から手を合わせてご挨拶。

目的地は入口すぐにありました。

 

 

 

こちらが「軍艦海門端艇遭難者記念碑」です。

邪魔にならぬよう手を合わせて慰霊の念を送り、すぐに退散します。どうか安らかにお眠りください。

 

 

ここで大きく昼を過ぎてかなりのハラペリに。久しぶりに四カ町アーケードにあります白十字パーラー(ぽると総本店)」に寄って何かいただきます。そう、ここに来るということは・・・!

 

そう、チャレンジパフェ!!

以前「ベリー」「和風」「チョコバナナ」と全種目制覇した筈なんですがまさかの再戦(今回はベリー)。うむ、これはもう一度挑戦すべき美味しさですな(=゚ω゚)

 

 

甘味(のみ)で腹を満たした後は、ここから20分ほど走ってハウステンボスへ向かいます。途中の道は以前行った「釜墓地」と同じっス。

 

 

 

 

無事到着。ここが海軍兵学校針尾分校之碑」です。

以前はハウステンボス駐車場内にあったらしいのですが、今はJRハウステンボス駅から渡る歩道橋の下に移設してあります。針尾は送信所があって何度も来ているのですが、こういう施設があったこと自体知りませんでした。今回来れて良かったっス。

 

 

こんな感じで梅雨前のショートツーリングを満喫しました。

そろそろ夏の旅行計画を立てなければ…