【2022年1月】石川県加賀市 獅子舞取材 七日市町(追加)

2022年1月22日

10:00~ 七日市町

庄地区区長会長・七日市町区長の塩崎健さん、庄地区を語る会の宝谷(ほうや)奨さんにお話を伺った。同行は吉野裕之さんと山口美幸さん。

 

「お座敷獅子の系譜を今に伝える獅子」

七日市町の獅子舞は、農業用水の繋がりで伝えられた農業地の獅子舞である。元をたどると、加賀市最古の獅子舞の一形態であるお座敷の獅子に繋がる。その名残として、白足袋を履き、ゴザを敷いてその上で足さばきが美しい所作が洗練られた獅子舞を実施してきた。徐々にアレンジされていったことがわかるが、その舞い方を見ると源流の獅子舞の動きが垣間見え、農業の獅子舞の伝来経路を辿るのに重要な手がかりを今に伝える。

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由来

大聖寺の何町(おそらく敷地)かはわからないが、そこから習った弓波町が、七日市町に伝えたと言われる。弓波町と七日市町には市之瀬用水が通っていて、農民同士の繋がりがあったからである。七日市町には当時、西井茂一(市?)さんという人がいて、この人が20歳前後の時に弓波町から獅子舞を習ってきた。七日市町の獅子舞はお座敷に使うような白足袋をつけて外で舞うのがユニークな点で、獅子舞を舞う時に路肩(車道と歩道の間)で習ったのではないかとも考えられる。庄町など周辺地域は白足袋ではなく地下足袋を履くのが一般的である。西井さんは小松の「はさだに」の辺りで温泉宿をのちに始めた方だ。これはおそらく、大正10年ごろの話と思われる。その後、戦争中も楽しみを残しておくということもあり、獅子舞を継続してきた。2014年を最後に獅子舞は途絶えてしまっている。獅子舞の動画はyoutubeに残しているので、再開するとなった時に見れるようになっている状況だ。

 

獅子舞が流行した時代

大正10年ごろには、獅子舞が七日市町だけでなく、その周辺地域でもかなり流行したような時代だった。このころには、国鉄の工事があった関係で、富山の人夫が庄町に獅子舞を教えたと言われている。またこの頃、本川弘一さんという東北大学の学長をした人物が、松山町から獅子舞を習って、桑原町に獅子舞を伝えた。この人物は20歳頃に農業をしながら地域で獅子舞をしていた経験があり、その時に習ったとも言われる。文部科学省から役人が来た時に、一緒に料亭でお酒を飲んで獅子を舞って歓迎したということもあった。学長さんが獅子を舞うなんて珍しいことで、役人の方もびっくりしたそうだ。

 

舞い方

大聖寺のお座敷獅子に近い形態であり、太鼓も舞い方も似ている。マイとマクリという舞い方がある。七日市町では空を向いたまま上から下に獅子頭を下げ、下の方で獅子をくるりと返す動作があるが、弓波町では上のところで獅子をくるりと回す動作がある。つまり、弓波町から伝わった獅子舞が少しアレンジされた形で伝わっているのだ。時代が立つと舞い方も変わるという面白さとも言えるかもしれない。最初はマイで、寝た状態からスタートして、奉納の「奉」の字を書くように舞う。中心の軸をぶらさずに左右に触れるけど向いている方向は正面という感じの舞い方をする。家の中まで入っていくような舞い方をする場合もあり、その時は家の内と外の境界部分にゴザを敷いて、その上で舞う。ゴザも白足袋もツルツルしているので、足元が多少滑る。獅子舞の構成は獅子3人・太鼓2人で、合計5人が最低人数である。

 

祭りの様子

獅子舞の祭りの日は、お盆の日と同じ方が合理的だということで、8月14日と決まっている。昔、庄地区に大火があって8月27日が祭りの日だったこともある。秋祭りの位置付けで、春祭りでは獅子舞を実施しない。収穫前に獅子舞をするというイメージだ。午後から神社に始まり、町内40軒周り、夕方ごろに神社に戻ってくるというような獅子舞だった。昔は20軒ほどしかないような時代もあったし、午前中から舞い始めた時代もあった。まず獅子舞を始める時は、神社の神主さんが祭りの時にお祓いをなさって、神社の横の公民館で休んでいる時にその前で舞い始めた。ただし、それよりも昔の時代は公民館がなかった時もあり、地域の区長さんの家に神主を迎え入れ、そこから獅子舞を舞い始めて町内を回るということもあった。青年団は祭りの日の獅子舞のご祝儀のみが収入源だったので、とても貴重だった。

 

獅子舞の練習

公民館ができたのが昭和50年代で、それまでは青年クラブという建物があり、青年団用の建物があった。今では農機具置き場になっているが、ここで獅子舞の練習をしていた。公民館ができて以降は、公民館で練習をおこなった。青年クラブで獅子舞の練習をしていた時、横には大きな石が置いてあって、それを持ち上げて力くらべをしたり、体を鍛えたりすることもあった。

 

公民館30周年の獅子舞

何年か前に、公民館の30周年記念行事ということで、庄地区の庄町、七日市町、西島町、加茂町、桑原町の獅子舞が集まって、獅子舞をしたことがあった。他の町の獅子舞を見る貴重な機会だった。

 

大聖寺の神社で奉納

今から60年前ごろに、大聖寺のどこかの神社で七日市町の獅子舞を奉納したことがあった。白足袋を履いた獅子舞がとても珍しかったからか、若い3人の獅子の担い手に対して観客が「3人とも足に毛が生えとらん」と言って笑っておられたことを覚えている。

 

担い手

青年団が獅子舞を運営してきた。中学3年から30歳くらいまで所属していた。子供がもっと獅子舞に関わっていたら、継続もしやすかったかもしれないという印象がある。中学3年生の人は現在、何人かはいるが、その前後に人がいないので、教えられたり教えたりという関係が作りずらいのが現状だ。

 

獅子頭

現在残っている昭和28年に富山の井波で新調した獅子舞は、一刀彫りで作られたものだ。新調をした1年目は白木の状態で舞った。2年目に漆が間に合って、漆塗りの獅子で舞うようになった。このタイミングで蚊帳も古い模様を踏襲する形で新調した。

 

地域の歴史

500年前くらいに七日市町は室谷と言い、その名字を持つ人が多かった。ただ明治時代に、役場の表記が間違って、宝谷という人が増えてしまったという言い伝えがある。しかし、北海道の開拓に行った室谷という名字の人は、宝谷になる前だったので、室谷のままで住み続けている。庄地区は全体として米作りが盛んで、恵まれた地形と言われていた。七日市町は荒地だったのが、徐々に家の軒数が増えていった。庄地区は関西圏との繋がりが深く、住吉神社が多いという特徴がある。昔は60年前ごろ青年学級というのが地域にあって、夜汽車に乗り小豆島に行って、宝塚に行って帰ってくるということもした。七日市町では幕を張り、提灯を下げ、しめ縄を垂らすというのは青年団がたくさんいたため、全て青年団が担っていた。青年団の役割がとても大きかったことが伺える。