酒田市はなぜ獅子の町になったのか?疫病が発生しやすかった構造とは

酒田市は獅子舞の街だ。酒田まつりでは大獅子が練り歩き、神輿には行道の獅子がつき、ステージパフォーマンスでも獅子舞が登場する。何かと獅子舞が出現しがちなこの街において、獅子舞は街の特質とどのように結びついているのだろうか?そのようなことをふと思って色々と調べてみたところ、なんと「疫病が発生しやすい街だった(過去形)」という性質が浮かび上がってきた。2022年5月20日に酒田まつりの本祭を訪れて考えたことをここに記す。

酒田市の獅子舞

酒田市の民俗芸能に占める獅子舞率は特筆すべきである。なんとその割合が75%というのだ。全部で45件が伝来し、獅子舞の奉納が始まった時期としては江戸時代が22件、明治時代が20件、大正時代が3件ということで、江戸時代と明治時代が圧倒的に多い。

この内、明治時代の20件は全てコレラウイルスの悪疫を退治するために始まったということは特筆すべきである。酒田においてコレラウイルスが流行したのは、明治12年、15年、19年から21年だった。これらの年に村から村へと獅子舞が伝えられていったようである。なぜ酒田がコレラウイルスに対して敏感であったかといえば、当時は陸上交通が未発達なため、日本屈指の港町で人と物資の交流が盛んな土地であったからだ。海岸線に接する農村部も例外なく流行病を恐れたそうである。つまり、コレラウイルスという疫病が獅子舞の始まりになったというのは興味深い。現在、新型コロナウイルスが流行する中で、密になるからということで獅子舞は休止して廃れるばかりである。しかし、昔は逆に獅子舞をやることが疫病の退散に繋がると考えたわけだ。このような事例は、全国的にはやはり港町に多く見られ、2021年秋に取材した石川県加賀市橋立地区も明治時代のコレラウイルスの流行が元で白い獅子頭を使った獅子舞を開始したという話をされていた。

 

▼酒田まつりに登場した亀ヶ崎獅子舞

酒田まつりの大獅子の起源

現在の酒田まつりの拠点になっている日枝神社は、もともと明治の神仏分離後にこう呼ばれ始めた。その前までは山王権現と山王社だった。その山王社が起源の違いから上社と下社に分れており、1646年に上社の御神木を下社に移したことをきっかけに、2つの社の祭りを1つにまとめ、酒田の祭りとして始めたのが山王祭の始まりのようだ(酒田まつり公式ホームページなどに「山王祭の起源は1609年」と書かれている場合もあり真偽は定かでは無い)。酒田市で祭りに対する大きな転換点になったのが昭和51年の大火である。大風によって未曾有の被害が生じ、そこからの復興を祝す形で山王祭が行われた。その復興の象徴として大きな赤と黒獅子頭を祭りの中心に持ってきたのだ。この山王祭が今は酒田まつりとも呼ばれ、酒田の中心的な祭りになっている。

なぜ酒田の獅子舞は2頭1組?

また、酒田市の獅子舞の特徴として、2頭で1組という形で作られる場合が多い。これは大抵の場合、赤と黒で対になる。全国的にみればオスとメスだとか、親と子だとか、様々な言われ方がするが、酒田ほど2頭で1組が徹底している地域というのも珍しい気がする。

この理由として、まずオスとメスの意識があったからと言われている。酒田市では伝統的に、黒塗りで耳の立った雄獅子を陽、赤塗りで耳の垂れた雌獅子を陰と考え、雌雄揃うことで悪病災害厄除けの霊獣として信仰されてきた。酒田の飾り獅子の文化は約200年前からと言われており、意外と歴史がかなり古いわけではない。この考え方はおそらく、日本全国の黒い獅子と赤い獅子の信仰に概ねなぞらえて考えることができるものであろう。

それに加えて、「兄弟獅子」という考え方があったというのは重要な点かもしれない。明治初期に獅子舞が村から村に伝えられたとき、獅子頭を作る大木が必要とのことで1つの木から2つの獅子頭を作り、「兄弟獅子」と呼ぶ例があったようである。例えば中星川村が兄貴分、上安田村が弟分とされ、たまたま中星川村の方が根本に近い部分の木材を使ったため、上安田村より完成品が少し大きくなったという話まで残されている所もあるようだ。

 

▼酒田まつりの雌獅子

▼酒田まつりの雄獅子

実際に酒田まつりを訪れて感じたこと

とにかく4体の大獅子が巨大だった。あまりにも目立つものだから、やはり祭りの最大の見せ場にもなりうる。子どもが「お獅子きた!」などと喜んだり、逆に怖がったりする様は対照的に感じられた。そういえば、権現様の小さくて黒い獅子頭の方が怖がる子どもは多かったような気がする。酒田にいると獅子頭に見慣れるためか、道路を走る車さえも獅子頭のように思えてきてしまう。とりわけサイドミラーが酒田の獅子頭の耳に似ている気がする。あと、獅子頭を大きな団扇で仰ぐ役の人がいるのだが、あれは写真撮影の観点で非常に難しさを生み出している。どうしても獅子頭を撮ろうとしても大きな団扇で仰ぐ役の人が写ってしまって、ベストショットを撮るのに時間がかかってしまった。まあ、その難しさなんかも含めて獅子頭をずっと観察してついて歩くのはとても楽しかった。

酒田まつりが示す獅子舞の可能性

やはり酒田まつりが特筆すべきは、港町こそ厄の流入口であるということを示している。つまり開けた雑多な人間が入り乱れる街には何かしらの厄払い行動が生まれやすいということかも知れない。しかも人とモノの出入りにより儲かった貿易港である。祭りが生まれる必然性を感じるし、そこに獅子舞的精神の萌芽を感じるのだ。

 

参考文献

酒田民俗学会『酒田民俗4号』(平成9年11月)

五十嵐文蔵『庄内地方の祭と芸能』(平成10年3月)