映像の世紀 バタフライエフェクト「宇宙への挑戦」5/16「ヒトラーVSチャップリン」6/6 | 私の備忘録(映画・TV・小説等のレビュー)

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日々接した情報の保管場所として・・・・基本ネタバレです(陳謝)

一応毎回録画して観ているが、全てのレビューには手が回らないので興味の赴くまま・・・

「宇宙への挑戦 夢と悪夢 天才たちの頭脳戦」

5/16放送

感想
フォン・ブラウンはおぼろげに知っていたが、コリョロフは全く知らなかった。ガガーリンがあんなに危ない目に遭った事も。
少年ブラウンの心に火を点けた月旅行映画。手段はともかくその夢を全う出来たのは幸せだった。
悲惨なのはコリョロフ。もし自由な環境で開発を任されていたら、もっと技術は進んだだろうに。

内容
フォン・ブラウンとセルゲイ・コロリョフ。この二人の執念が宇宙開発を進歩させた。
1900年代にフランスで作られた世界初SF「月世界旅行

観客を熱狂させた。原作はジュール・ヴェルヌ
ドイツで1920年代にロケットブーム到来。宇宙旅行協会設立。
18歳の大学生だったフォン・ブラウンは協会に入る。

幼い頃から宇宙旅行を夢見たブラウン

ナチスの勢力拡大。国家の野望に巻き込まれる。
ロケットとミサイルは同じ→軍が協会に援助。協会は拒否。
だがブラウンだけが受け入れた。液体燃料研究推進。
1939年第二次世界大戦勃発。ドイツのポーランド侵攻。
ミサイル開発は失敗続き。資金削減の声の中、ブラウンは成功した実験のみをヒトラーに見せ計画続行を認められた。
兵器完成(V2ロケット)高度100キロ以上。

イギリス、フランスを空爆。9千人が犠牲に。

宇宙に到達した初の人工物。
「月に行くためなら悪魔に魂を売ってもいい」
1945年 第二次世界大戦終結。米英による技術者の争奪戦。
フォン・ブラウンはアメリカに渡った。

セルゲイ・コロリョフ。スターリンによる粛清により6年間収容所で暮らした。

獄中で描いたメモ

V2分析のため研究に復帰。

資料を集めて僅か3年後にR-1ロケットを打ち上げる。


朝鮮戦争が追い風となりミサイル開発へのイメージ向上。
ブラウンは1955年米市民権を得る。

1956年、核弾頭搭載ミサイルR3M発射成功。

コリョロフの夢は宇宙への挑戦。
だがロケットには核弾頭が積まれた。ICBMの開発。
人工衛星を打ち上げたい願望が募る→許可された。
1957年 スプートニク1号打上げ成功。ソ連の名声は高まるがコリョロフの名は暗殺防止のため秘匿された(同志チーフデザイナーの扱い)

アメリカは動揺(スプートニクショック)
1958年NASA設立。有人宇宙飛行を目指す。
ソ連も準備。宇宙船を開発するコリョロフは自動化を進める。
1961年 ボストーク1号をガガーリンに託す(生還確率50%)
打上げは成功。108分で地球を一周。
だが帰還でガガーリンは危機に直面。制御不能、異常高温。
コリョロフ開発の自動脱出装置で助かった→ソ連は事実を隠蔽。

ガガーリンは英雄となった(コリョロフの姿なし)


ニュース映像で苦々しい思いのケネディはブラウンを訪ねた。

「月に人間を着陸させましょう(ブラウン)」
他を全てあと回しにして1960年代に月へ人を送り込む「アポロ計画」が発動。月着陸船にはコンピューターを導入。
米国内で知名度を上げて行くブラウン


ソ連からのニュース発信。ある人物の死。
セルゲイ・コロリョフ。1966年1月14日。59歳。
明らかにされた、たった一人での開発牽引。死因は心不全。
国葬が行われる。国民は初めて彼を知った。遺骨はクレムリンの壁に納められた(生前には立ち入れず)

1969年7月16日。アポロ11号打上げ。着陸船に深刻なトラブル発生(CPUのフリーズ) だが女性プログラマー マーガレット・ハミルトンが再起動プログラムを組み込んでおり危機回避。

そして7月21日にアームストロングが月面に降り立った。

息子と祝賀パレードに参加するブラウン

 

月着陸後、国民の興味は急速に離れた。
フォン・ブラウンは1977年 65歳で死去。
子供の頃夢見たことを一生かけて実現できた。悔いはない。
現在、火星への人類送り込みで再び各国が競う。



「ヒトラーVSチャップリン 終わりなき闘い」

6/6放送


感想
両人の誕生日がたった四日違いだったとは・・・因縁を感じる。
お互いを相当意識していたという事が、残された資料からあぶり出される。
ヒトラーがいたからこその「独裁者」か・・・
中田敦彦がこのテーマで講座を開いている。けっこう面白い。

NHKはこれ見て作ったか・・・・
ヒトラーVSチャップリン   

内容
わずか四日違いで生まれた独裁者と喜劇俳優
チャールズ・チャップリン1889.4.16生まれ。家計を助けるため5歳から舞台に立つ。24歳で映画デビュー。
芸を磨きサイレント映画で爆発的人気を得る。
監督としても認められ、戦意高揚映画も作る(「公債」1918)

アドルフ・ヒトラー 1889.4.20生まれ。1918年ドイツ敗戦(WW1)時は兵士だった。巨額の賠償金。飢えたドイツを見る。

十代は画家を目指したが後に政治家を目指す。卓越した演説。
32歳でナチス党首。当時の米国記者は言う「チャップリンの様」

チャップリンはユダヤ人への偏見もあった。NGフィルムの中にその痕跡がある。ただ、偏見を笑いにする事をやめて行った。
そして「キッド(1921)」を作り喜劇映画を芸術に高めた。
映画界に革命が起こる(トーキー)だがパントマイムにこだわり「黄金狂時代」はサイレントで作った。

一方ヒトラーはトーキーに可能性を見出し、その主張とエネルギーをドイツ全土に届けた。1932年の選挙戦でナチスが第一党に。
発声のプロを雇い演説を学んだ(「我が教え子ヒトラー」2007)
緩急織り交ぜ盛り上げ、世界で最も早く政治に映像を利用した。


1931年、チャップリンはベルリンを訪問。大阪にも訪問。
日本の芸人がチャップリンのモノマネをした。第一回目の訪日が5.15事件、二回目で2.26事件が起きる。世相を肌で感じる。
1936年「モダン・タイムス」公開。機械批判、権力批判。
当時フォードはナチスを支援。

1936年。オリンピックベルリン大会の映画→ヒトラーのプロパガンダ映画。女性監督に莫大な資金を与えた。

1938年。オーストラリア、チェコスロバキア併合。野望露わに。
ヒトラーと直接対決する映画制作に着手(独裁者)
チャップリンはメッセージを伝えるため初めてトーキー化。
1939年。第二次世界大戦の開戦(ポーランド侵攻)
その8日後から撮影開始。独裁者と理髪師の二役を演じる。


ラストシーンはハッピーエンドの予定だったが納得いかず。
ドイツのパリ入城を受けてラストシーンを撮り直した(6分間のスピーチ)周囲の反対を押し切った。

「独裁者(1940)」映画は大ヒット。記録的売上げ。
公開5年後、ドイツに敗色。1945.3.20のニュースが最後の映像。
4/30 ヒトラー自殺。秘書が残した彼のことば

「百年後に新たなナチズムが生まれるだろう・・・」

戦いはヒトラー亡きあとも続く→赤狩り
「殺人狂時代(1947)」の核、赤狩りへの批判でバッシングを受け追放の声があがる。イギリス国籍だった事も不利に働く。
1952年、国外追放(海外旅行のあとの再入国不許可)
1960年「独裁者」日本公開。大ヒット。同年日米安保締結。

1972年のアカデミー賞で名誉が回復された。
セレモニーでの挨拶は「サンキュー」のみ。

1977/12/25 チャップリン死去。88歳。

2002年ベルリン国際映画祭で東西統一後初めて「独裁者」が上映された。その五ヶ月前同時多発テロ勃発(9.11)

ヒトラーが「百年後に新たなナチズムが誕生する」と予言してから77年目。世界は一変した(ウクライナ侵攻)
「独裁者」を撮った後彼の残した言葉。
全ての映画はプロパガンダです。
ボーイミーツガールの映画は愛のプロパガンダ。
「独裁者」は民主主義のプロパガンダなのです。