羅漢像

 

■全山曼荼羅

 

今回もソーシャル・ディスタンス100m保証の「奈良の穴場」石造物の御案内です。高松塚古墳で有名な明日香村の隣、高取町に「五百羅漢岩」があります。高取山(標高583.9m)に築かれ日本三大山城の一つに数えられる高取城は、最近はテレビでもよく取り上げられるのでご存知の方も多いでしょう。「眼病封じの寺」として信仰を集め、人形浄瑠璃「壺坂霊験記」にも描かれた壷阪寺(南法華寺)も有名です。この壷阪寺から高取城までは心地よいハイキングコースになっていて、その途中にあるのが「香高山五百羅漢岩」で、壷阪寺の奥の院として位置づけられています。

 

 

 壺阪寺の後方から奈良盆地を望む

 

 

「五百羅漢」と呼ばれていますが、羅漢(修行者)だけではありません。山腹に露出したそこかしこの岩に、鈴なりの果実のように如来や菩薩、天など夥しい数の像が刻まれているのです。その有様は、「全山これ曼荼羅」といってもいいほど。このような山を私は知りません。諸像は50センチほど。釈迦仏、阿弥陀仏、二十五菩薩、十王、地蔵、十一面観音、五社明神、両界曼荼羅、大黒天、そして五百羅漢。山の中に諸仏、諸神の声が満ちているかのようです。「奈良県史7 石像美術」には「実に壮観な摩崖仏群である」と記しています。

 

 

これは「香高山異石霊像之図」という古地図です。ぎっしりと諸像が書き込まれていますね。

 

 

二十五菩薩といえば、臨終の時に阿弥陀如来といっしょに迎えに来てくれる菩薩たち。十王は閻魔王ら地獄において死者の行先を判じる審判者で、これらは浄土信仰に基づいたものです。両界曼荼羅は密教系。五社明神、大黒天は日本古来の神々につながります。五百羅漢は釈迦の教えを経典にまとめたいわば「編集委員」たちですが、禅宗では修行の高いレベルに達した聖者として崇められています。一般的な地蔵や十一面観音も含め、さまざまな信仰がこの山に混在している。ですから「五百羅漢」と呼ぶより「千体仏」などと呼んだ方がよいかもしれません。

 

 

「五百羅漢」に向かう参道には、目標までの距離を示す「町石」(高さ160センチ、花崗岩製)があり、そこに「香高山二町辰甲月日」と刻まれています。この「辰甲」は、石造様式から慶長9年(1604)と考えられています。また、羅漢岩の前の石灯籠(高さ168、花崗岩製)には、「蓮華院殿慶長12年」と記されており、慶長12年(1607)の製作とわかります。このため、石仏群も慶長年間の製作が始まったと推定されています。400年の風雨にさらされた尊顔は、あるものは欠け、あるのもは削られ、目鼻が定かでなくなってもなお、対面する者を慰撫する力を持っています。

 

 

■関ヶ原の時代

 

ところで、慶長年間、高取山では何があったのでしょう。この石造群は誰が作ったのでしょう。高取城が近世的な城として本格的に整備されたのは、豊臣秀長の重臣だった本多家が入城してからで、天守閣が整備されたのは慶長年間とみられています。諸像が造られたのは山城の整備の時期と重なるのです。

 

 

この時期には城を巡る凄惨ないくさもありました。慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いで本多家は東軍・徳川家康方につき、高取城は西軍・石田三成方の攻撃を受けました。「三河後風土記」によると、攻防は次のようなものです。

 

 

月18日、毛利輝元の指示で西軍方2000余騎が押し寄せてきました。城主の本多正俊は家康に帯同していたので城を守っていたのは甥の正広や家老ら数少ない軍勢でした。西軍方は、峻険は山城を力攻めで落とすわけにはいかず、甲賀者を忍び込ませて焼き討ちにしようとしました。事前にこれを予想していた守備隊は、山鳥の羽音で侵入を察知して全員を捉え、一人の鼻と耳をそいで陣営に戻しました。これに憤慨した西軍方は一気に山城に迫りましたが、弓や鉄砲の玉を浴びせられ、大木、大石を転がされて多数の死者を出し大阪に引き返しました。

 

 

石造群が作られたのは、世の中が緊迫していた関ヶ原の時代。石工がどのような気持ちで玄能をふるったのかは推して知るべしです。

 

 

■羅漢信仰の展開 

 

曹洞宗では、羅漢を供養する「応供諷経」(おうぐふぎん)という朝のおつとめがあります。「応供」とは羅漢のことです。般若心経を回向する願文では、末法を正法に戻し、国土に災難が起こらないよう祈ります。羅漢は、釈迦の教えの廃れた末法の時代を、教えが実践される正法の時代に戻して、除災してくれる存在と信じられているのです。 

 

 

大黒天

 

江戸時代の中期以降、羅漢信仰は民衆化します。様々な表情をもった羅漢像に故人の面影を重ねるようになり、羅漢像は「死んだ人に会える場所」に変貌しました。高取の地元でも、この石造物群の中には、必ず亡き人に似た像があると言われています。しかし、どうでしょう、羅漢ですから男の人しか探せません。母にも会いたいと思うのが人情でしょう。香高山では、女性的な顔の菩薩や神々もおられるので、亡き母、妻もしのぶことができるのです。幼顔の像には早世した子の姿を見たのかもしれません。

 

 

 

写真を見ていただくとわかりますが、像によって風化の度合いが違います。羅漢信仰の展開も考え合わせると、釈迦や羅漢岩などが本多氏によって慶長期につくられ、その後、江戸時代を通じて菩薩や神々が刻まれ、全山が死者と邂逅するための「会所」のような場所になっていったのではないでしょうか。