平城京でみつかった人面墨書土器

 

 

■人面墨書土器

 

疫病が流行った時、その時代を生きた人たちは、できる限りのことをして禍(わざわい)から逃れようとしました。後世からみれば、随分見当違いなこともありますが、当時の人たちは、家族や社会を守るため、疫病のもとを退治するにはどうしたらいいのか、疫病が入ってこないようにするにはどうしたらいいのかを必死に考えました。これは今のコロナ禍と同じですね。

 

 

平城京跡の道路の側溝や川から人の顔を描いた土器が大量に出土しています。これを「人面墨書土器」といい、祓いの儀式で使われました。祓おうとしたのは、疫病をもたらすと考えられていた鬼です。その顔を墨で描いて水に流し、「退治」しました。

 

 

奈良時代は疫病の多い時代でした。最も大きな被害をもたらしたのが、聖武天皇の時代、天平7年(735)に第1波、同9年に第2波のあった天然痘です。特に第2波は深刻でした。当時の税制報告書である諸国正税帳によると、和泉国では実に45%の人が亡くなっています。他の地域でも猖獗を極め、当時の全国の人口450万人のうち、100万から150万人が死亡したとの推定があります。3~5人に1人が亡くなったのですから、今の新型コロナとは比較にならないほどの災禍です。

 

 

■あるいは呪文

 

二条大路の呪符木簡

 

 

疫病の終息を祈る呪符木簡も見つかっています。場所は左京二条二坊、昔の「奈良そごう」、今の「ミ・ナーラ」があるあたりです。二条大路の路肩部分には濠状のゴミ捨て場があり、天然痘が流行した頃の遺物が大量に残されていました。奈良時代、二条大路の北側には天然痘で亡くなった藤原4兄弟の一人、藤原麻呂の邸がありました。呪符は麻呂家の関係者が残したのかもしれません。また、南側には4兄弟によって死に追いやられた長屋王の邸がありました。天然痘の流行は「長屋王の祟り」とも考えられており、そのことが呪符に関係している可能性もあります。

 

 

木簡に書かれているのは次のような文言です。

「南山之下有不流水其中有 一大蛇九頭一尾不食余物但 食唐鬼朝食三千暮食 八百 急々如律令」(意味:南山のふもとに流れない川があり、その中に一匹の大蛇いる。九つの頭を持ち、尾は一つで、朝に3000、暮れに800の唐鬼を食べている。願いが即刻かないますように)

 

 

川のなかに「唐鬼」を食べるヤマタノオロチのような恐ろしい大蛇がいて、一日に3800もの「唐鬼」を食べる、というのです。「唐鬼」とはなんでしょう。当時、天然痘をもたらすのは「瘧鬼(ぎゃくき)」という鬼だと考えられていました。「瘧鬼」を「唐鬼」と書き間違えたか、天然痘が唐から来たことを意識してあえてこう書いたのか、どちらかではないかと見られています。これと同じような文言が唐代の医学書「千金翼方」に記載されていて、一種の「まじない」として平城京の人たちにも知られていたようです。海外の知見にすがり、九頭の大蛇よ、天然痘をもたらす鬼を食べて退治してくださいと、祈ったのですね。

 

 

また、「九頭竜」は、古代人が信じていた水による「清め」の力の表象なのでしょう。人面墨書土器を側溝や河の水に流したのも、水による「清め」を求めたからです。土器には、罹患者の息を吹き込んで流したのではないかという説があります。鬼のいる息を入れ、鬼の顔を描いた土器を鬼そのものとして、九頭竜に捧げたのです。

 

 

 

呪符にある「南山」は、中国・長安近くにあって後漢時代から鬼を食べる神のいる山とされてきました。では、日本の「南山」とはどこなのでしょうか。どうやら聖武天皇はそれを奈良県南部の吉野に求めたようです。天然痘第1波の後の天平8年、聖武天皇は吉野に行幸しました。呪符が含まれる二条大路の木簡群には、この吉野行幸に関する記述が多いのです。

 

 

■天災責任

 

当時の天皇には宗教権力者としての「天災責任」とでもいうものがありました。疫病や地震が起こる責任は天皇にあったのです。「続日本紀」を読むと、聖武天皇が再三「朕の不徳」と懺悔しています。そして、天然痘対策として、患者らに米や薬を支給する賑恤(しんじゅつ)、大赦や免税、宮中での大般若経や金光明最勝王経の読経、神社での祈祷を行いました。

 

 

道饗(みちあえ)という祭祀もありました。これは、八衢比古神(やちまたひこのかみ)、八衢比売神(やちまたひめのかみ)、来名戸之祖神(くなどのさえのかみ)まつって疫病が入ってくるのを防ぐ祭りです。今でいう水際対策ですね。天然痘は最初、太宰府で流行しましたので、聖武天皇は、太宰府と奈良の間にある山陽道の諸国に道饗を命じたのです。「やちまた」の「ちまた」は「道(ち)股(また)」、つまり道路の分岐のことであって、そこには神がいって、やっかいものが入ってこないように守ってくれると思われていました。道饗には、疫病をもたらす鬼を接待してお引き取り願ったのではないか、との説もあります。道饗を行った場所では、皿などの食器が見つかります。

 

 

山陽道といえば、これも二条大路の木簡のひとつに、「此物能量者患道者吾成明公莫憑必退山陽道」(此の物能く量る者 道を患う者 吾れ明公と成る 憑くこと莫かれ 必ず山陽道に退け)というのがあります。意味はよくわかりませんが、疫病は平城京に入ってこずに、山陽道に退けと言っているのでしょう。海外交流の拠点である太宰府と平城京を結ぶ街道は疫病を運ぶ鬼の通り道と思われていたようです。