隅田川花火大会

 

■五條から江戸へ

コロナ予防のため、今年の夏の花火大会は軒並み中止で、寂しい思いをした方も多かったのではないでしょうか。花火大会の嚆矢、「かぎやー」「たまやー」で知られる隅田川花火大会も中止になりました。この行事、コレラの疫病封じの神事がきっかけとなって、江戸時代の享保18年(1733)に始まったという説があります。

 


新町通り


さて、きょうはその「かぎやー」のお話です。奈良県南西部の五條市、伝統的建造物が並ぶ新町通りを歩いていて、意外なことを知りました。花火屋である「鍵屋」の初代鍵屋弥兵衛の出身地は、五條の南の山間地にある大塔町で、新町付近の火薬製造所で火薬の扱い方を学んだというのです。隅田川を彩った花火は、五條の技術が原点となっていたのです。

 

初代弥兵衛は、大塔町の木地師(木工職人)の集落である篠原に生まれ、三男坊だったため火薬製造所に奉公に出されました。新町は吉野川の林業水運で栄えた町です。アイデアマンだった彼は、川岸に生える葦に火薬をつめて、手花火を作ることを思いつきました。葦の茎の先に火花が咲きます。これが売れに売れて、一旗揚げようとしたのか、江戸に向かいます。

 

■両国に咲く

「鍵屋」を構えたのは日本橋横山町。万治2年(1659)のことです。初代弥兵衛の足跡は詳しくはわかりません。このころ江戸では花火を原因とする火事が多発していて、幕府から何度も「御法度」とのお達しが出ていましたから、苦労もあったことでしょう。そして、6代目の時に始まったとされるのが、両国川開きの花火です。

 

「かぎやー」と並んで有名な「たまやー」は、8代目の時の番頭が、のれん分けで両国吉川町に構えた花火屋「玉屋」のことです。両国花火は2店が競い合うようになってさらに人気を博します。鍵屋が両国橋の下流から、玉屋が上流から打ち上げると、見物客から掛け声が上がります。「かぎやー」「たまやー」。

 

 

両国花火=国立国会図書館蔵

 

 

江戸っ子には玉屋の花火の方がうけたようですが、天保14年(1843)の失火によって江戸所払いとなって途絶えてしまいました。一方の鍵屋は、その後も命脈を保ち、明治7年(1874)には、今日の花火大会の定番となっている丸く開く花火を開発しました。現在、鍵屋は「株式会社 宗家花火鍵屋」となっています。15代目の天野安喜子氏は、柔道家で花火研究家でもあり、「打揚花火の『印象』~実験的研究による考察~」で日本大学の博士号も取得しています。今年8月24には、江戸川河川敷で、コロナの終息を願って100発の花火を打ち上げました。

 

■大塔村

ところで、先祖供養を望んでいた12代目は、昭和14年(1939)、当時の大塔村役場に縁者探しを依頼し、五條にいた縁者が上京したことがありました。300年近くを経て鍵屋はルーツを忘れていませんでした。

 

大塔とはどんなところでしょう。御醍醐天皇の皇子、大塔宮護良親王がこの地で匿われたことから名前が付きました。もともとは大塔村でしたが、2005年に西吉野村と共に五條市に編入されています。廃止時の人口は700人余り。地域の96%は森林です。平均標高は583㍍で空気が澄んでいるので最近は星空のきれいな地として売り出しており、同町阪本にある「大塔コスミックパーク星のくに」には、天文台やプラネタリウムがあります。鍵屋とは夜空でつながっていますね。

 

 

時代劇などで「かぎやー」と聞いたら、奈良・大塔を思い出してください。

 

 

大塔コスミックパーク