「生きてることが辛いなら。」
森山直太朗のこの歌は少し前に知ってすごく感動した。
実は私は今まで本当に真剣に死にたいと思ったことがなくて、友人たちの話を聞くとみんな死にたいと思ったことがあるというので、不思議に思っていた。
朝青空が見られる。美味しいコーヒーが朝食に飲める。たとえ人生が自分の思っていたようにならなくても、それだけで幸せだと思っていたからだ。
しかし、年を取ってくると、そうも言ってられない事態がいっぱい起こる。
親しかった友人たちがみんな逝ってしまって、去年の11月には母も逝ってしまった。
妹とは断絶状態でもう5カ月近く実家にも行ってない。
自分も年を取り、体が以前のようには動かない。痛みがあるのが当たり前という生活になってしまった。行きたいところにも行けない。
痛みがあるということはもう、生きているだけで辛いのだ。
歩くという基本的な動作が難しい。
階段を上がったり下りたりがもう大変だ。
近所のスーパーに買い物に行くだけでも大冒険なのだ。
公園などに行こうものなら、帰宅するとベッドに倒れこみ起き上がれない。30年もヨガを教えてきたのに何でこうなったのか?わからない。
親しかった友人たちとも距離ができてしまった。私が活動できないからだ。
電車に乗って遠いところに行けない。毎年行っていた信州も行けない。
東京なんて夢の夢である。この調子ではスコットランドにもう一度行くという私の夢もかなわないかもしれない。
どんどんネガティブになっていってしまう。
まあ、ポジティブに考えると、座っているだけなら痛みはないし、パソコン仕事やzoom meetingなら大丈夫だ。それは感謝している。
でもほんとは外に出たい。春を感じたい。
ひとりで考えていると、どうしてこうなっちゃったのだろうと悲観的になる。そうしてこんな調子で生きているくらいなら死んだほうがましだと思ってしまう。
表面的に見ると、私は結構活動的にみえるかもしれない。色んな活動に参加したり、セミナーを受けたり。でも何も残らない気がする。
まあ、こんな状態でもかなり落ち着いて生きていられるのはなぜなのか考えてみた。
大事なものがあるから。やるべきことがあるからだ。
心の奥にしまっておきたいものがあるから。そして世界の誰かにそれを伝えていきたいから。
「生きてる事が辛いなら」のなかに、小さく死ねばいいという言葉があるが、それが必要な気がする。小さく死んでまた生き返るのだ。
人生なんてその繰り返しなのだ。
初めてこの歌を知ったときと今とでは受け取り方、感じ方が違う。
本当によい歌とはそういうものなのかもしれない。
この歌はコンビニで放送禁止になったり、論議を呼んだものらしいが、とても深い意味があり、素晴らしい歌だと思う。
聞くたびに、もうちょっと生きてみよう、もう少しがんばろうと思える。
そしてくたばる楽しみを後に取っておこうと思える。
生きてることが辛いなら
生きてることが辛いなら
いっそ小さく死ねばいい
恋人と親は悲しむが
3日とたてば元通り
気が付きゃみんな年取って
同じとこにいくのだから
生きてることが辛いなら
わめき散らして泣けばいい。
そのうち夜は明けちゃって
疲れて眠りにつくだろう
夜に泣くのは赤ん坊だけって
きまりはないんだし
生きてることが辛いなら
悲しみをとくとみるがいい
悲しみはいつか一片のお花みたいに咲くという
そっと伸ばした両の手で
摘み取るんじゃなく守るといい
何もないとこから
何もないとこへと
何もなかったかのように
巡る人生だから
生きてることが辛いなら
嫌になるまで生きるがいい
歴史は小さなブランコで
宇宙は小さな水飲み場
生きてることが辛いなら
くたばる喜び取っておけ