↑ 「御救いの喜びを再びわたしに味わわせ、自由の霊によって支えてください。」(51編14節)
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日本福音教団 富 谷 教 会 週 報
降誕前第6主日 2021年11月14日(日) 午後5時~5時50分
年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を 成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」(エフェソ4・16)
聖 句「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、 あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)
礼 拝 順 序
司会 水田 淳子姉
前 奏 奏楽 辺見トモ子姉
讃美歌(21) 492(み神をたたえる心こそは)
交読詩編 51(神よ、わたしを憐れんでください)
主の祈り 93-5、A
使徒信条 93-4、A
司会者の祈り
聖 書(新共同訳)詩篇51編12-21節(旧p.885)
説 教 「清い心を創造してください」辺見宗邦牧師
祈 祷
讃美歌(21) 481(救いの主イェスの)
献 金
感謝祈祷
頌 栄(21) 27(父・子・聖霊の)
祝 祷
後 奏
〇 オンラインで礼拝に参加できます。設定担当は、斎藤美保姉です。
次週礼拝 11月21日(日)午後5時~5時50分
聖 書 詩編130編1-8節
説教題 「わが魂は主を待ち望む」
讃美歌(21) 506 474 27 交読詩編 130
本日の聖書 詩篇51編12-21節
12神よ、わたしの内に清い心を創造し
新しく確かな霊を授けてください。
13御前からわたしを退けず
あなたの聖なる霊を取り上げないでください。
14御救いの喜びを再びわたしに味わわせ
自由の霊によって支えてください。
15わたしはあなたの道を教えます。
あなたに背いている者に、罪人が御もとに立ち帰るように。
16神よ、わたしの救いの神よ、流血の災いからわたしを救い出してください。 恵みの御業をこの舌は喜び歌います。
17主よ、わたしの唇を開いてください
この口はあなたの賛美を歌います。
18もしいけにえがあなたに喜ばれ、焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら、 わたしはそれをささげます。
19しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、 神よ、あなたは侮られません。
20御旨のままにシオンを恵みエルサレムの城壁を築いてください。
21そのときには、正しいいけにえも、焼き尽くす完全な献げ物も、 あなたに喜ばれ、そのときには、あなたの祭壇に雄牛がささげられるでしょう。
本日の説教
詩編51編は、七つの悔い改めの詩篇(6、32、38、51、102、130、143編)のうちで 一番重要です。それは真の悔い改めの本質を示しているからです。ここでは自分の罪に悩み苦しむ心の状態が記され、 赦しと真の神との交わりに至る道が示されています。この詩は願いで始まり、願い続け、そして願いで終わっています。
1-2節の表題は、この詩をバト・シェバとの不倫の罪(サムエル記下11章~12章)を問う預言者ナタンに会った後のダビデによって祈られたものとしています。詩には、これが捕囚期、あるいは捕囚後に作られ、イスラエルで一般的な悔い改めの祈りとして用いられたことを示唆するいくつもの特徴があります。18-19節と20-21節が、「救いを求める個人の祈り」の拡張部分と考えられます。
51編を、次のような段落に分けて読むことができます。
第一(3-5節)罪の赦しを神に呼び求める。
第二(6-8節)罪の告白。
第三(9-11節)赦しの願い。
第四(12-15節)霊による再創造を求める祈り。
第五(16-19節)霊的礼拝への誓い。
第六(20-21節)加筆。祭儀批判とまことの礼拝への招き。
それでは、今日の聖句である第四編からみことばをいただきましょう。
「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。」(12節)
罪が人間の「本性」になっているとすれば神が新しい「本性」を造って下さるときだけ、人間はその罪を克服することが出来ます。それは到底人間の力で、できることではなく、神から賜るたしかな霊の力によってのみなされるのです。
人間が道徳的な正しい行為を行えるのは、最終的には人間のわざではなく、神からの恩恵による聖霊の力によるものです。神の霊を与えられて、人はふたたび神の子とされ、もはや罪を犯すことのない、正しく生きることができる者とされるのです。
「御前からわたしを退けず、あなたの聖なる霊を取り上げないでください。」(13節)
神のみ前から追い出されず、つねに神のいますところにいて、たえず神と交わる関係に立って、「聖化」の力である神の霊に与ることが祈り手の願いです。彼は、つねにこの生きた交わりを続けなければ新しい生命はあり得ないことをわきまえています。
「御救いの喜びを再びわたしに味わわせ、自由の霊によって支えてください。」(14節)
詩人は新しい生活を行おうとして神の喜びと助けを求めてています。人は救われて、真の喜びを得ることが出来るのです。神の救いによって、自由に霊、善を意志する霊、喜んで善いことをしようとする霊が与えられ、喜びの生活を送ることが可能となるのです。
「わたしはあなたの道を教えます。あなたに背いている者に、罪人が御もとに立ち帰るように。」(15節)
詩人は、伝道により罪人を神に帰らせることを、自分の新生の使命とします。新生により、「わたしたちは見たり聞いたりしたことを、語らないでおこうとするわけにはいかない」(使徒言行録4:20)のです。
「神よ、わたしの救いの神よ、流血の災いからわたしを救い出してください。恵みの御業をこの舌は喜び歌います。」(16節)
「流血の災いからわたしを救い出してください」という願いは、一見したところ文脈から外れているように思われます。この「流血の災い」は詩人自ら犯した罪悪ではなく、詩人の生命を脅かす危険からの救助を指しています。死んでしまえば、信仰によって働き、神の義(神が贈られる救い)を讃える機会は永遠に失せてしまいます。それゆえ、詩人は神から贈られた新しい生命と使命を覚えた時、ただちにこの生命が保たれるようにと願ったのです。
「主よ、わたしの唇を開いてください。この口はあなたの賛美を歌います。」(17節)
詩人は自ら会衆の中での賛美を神の賜物として願い求めています。詩人の新しい生活は、賛美を歌う霊的礼拝を捧げるために与えられています。
「もしいけにえがあなたに喜ばれ、焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら、わたしはそれをささげます。」(18節)
犠牲と捧げ物をもって神に感謝することは、この詩の作者もよく知っているしきたりです。しかし、この祈り手のように、神の霊によって新生を経験したものは、表面的な捧げ物や行動で神の好意を自分に向けさせようとすることはできません。詩人は「神は霊である。神を拝する者は霊と真実をもって拝すべきである」(ヨハネ4:23-24)という言葉に従って歩んでいるのです。
「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません。」(19節)
神はへりくだる者を侮られません。神は単にとりつくろった献げ物や行動を望まず、むしろ人間の全部を求められます。神が喜ばれるのは、破れた霊であり砕かれた心です。神が求める犠牲は、人間が自分の意志や価値を認めてほしいという要求を犠牲にすることです。自分に対する要求はみな放棄して砕けた態度でみ前に立つ人々、ただ神の恵みだけに頼って、自己を全面的に明けわたして神に身を捧げる人々を、神は喜ばれるのです。
「御旨のままにシオンを恵み、エルサレムの城壁を築いてください。」(20節)
詩人は、神がエルサレム(とその神殿)を再建されることを願っています。これは後の祭儀をすることが出来なかった捕囚時代の状態を指していることから、加筆されたものです。
「そのときには、正しいいけにえも、焼き尽くす完全な献げ物も、あなたに喜ばれ、そのときには、あなたの祭壇に雄牛がささげられるでしょう。」(21節)
神殿が再建された時には、神は「正しい」犠牲を喜ばれるだろうとの希望と願いを述べています。
詩編51編12節の「わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください」という、聖霊によってなされる心の再生を求めた言葉は個人的な体験によるものですが、預言者たち、エレミヤやエゼキエルも将来民の上に確実に起こると告げています。
「来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主はいわれる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。」(エレミヤ書31:33)
「わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。わたしは彼らの肉から石の心を取り除き、肉の心を与える。」(エゼキエル書11:19)
12節の再生は、新約聖書でいう再生(テトス3:5-6)の、旧約聖書におけルーツ(起源)です。
「神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、聖霊によって新しく生れさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。」(テトスへの手紙3:5-6)
聖霊による心の再生は、主イエス・キリストによって成し遂げられたことを感謝いたしましょう。この恩恵によって、「御救いの喜びを味わわされ、自由の霊によって支えられる」(詩編51:14)という私たちの霊的な生活が守られるのです。