富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「正しい献金と神殿崩壊の預言」

2023-01-24 17:06:24 | キリスト教

  「貧しいやもめの献金」William Artaud (ウィリアム アルトー)   

 1763~1823、英国人、マックリン聖書のために描いた絵画彫刻(1800年)

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

降誕節第6主日 2023年1月29日(日)  午後5時~5時50分

                            礼 拝 順 序                      前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)  17(聖なる主の美しさと)

交読詩編     48(大いなる主)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳) ルカによる福音書21章1~9節(新p.151)

説  教  「正しい献金と神殿崩壊の預言」  辺見宗邦牧師

祈 祷                                                  

讃美歌(21) 390(主は教会の基となり)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇オン・ラインで礼拝に参加できます。                090-3365-3019(辺見牧師)に、申し込み下さい。

          次週礼拝 2月5日(日)  午後5時~5時50分

          聖 書 ルカによる福音書8章4~15節

          説教題  「教えるキリスト」 

          讃美歌(21) 57 536 27 交読詩編 147

本日の聖書

 21:1イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。2そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、3言われた。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。4あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」5ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。6「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」7そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」8イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現われ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。9戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」

本日の説教

ルカによる福音書21章1-4節の「やもめの献金」と、5-9節の「神殿崩壊の予告」は、19章28節のエルサレム入場から始まる主イエスの受難と復活の記事に先立つ記事です。イエスの三年近い公生涯の最後という観点からこの記事を読むことが求められます。

 主イエスは、エルサレムの神殿の「賽銭箱」の置かれている広場で、金持ちたちが賽銭箱にたくさん献金を入れるのを見ておられました。おそらく自由献金用の「賽銭箱」の近くに「座って」(マルコ12・41)、見ておられたようです。  

 神殿の婦人の庭の周りは柱廊で囲まれ、壁を背にして十三個のトランペット形の献金箱が置かれていました。それぞれの箱には、献金の使途のラベルが記されていました。箱のそばに祭司が立っていて、献金者は、自分の献金の使途と金額とを告げました。十三番目の箱は自由献金用の箱でした。       

 

 一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚を入れました。「レプトン」は、「レプタ」の複数形です。レプトン銅貨は当時パレスチナに流通していたギリシヤ銅貨の中で最小のものでした。マルコ福音書の方では、レプトン銅貨二枚を、一クァドランスと説明しています(マルコ12・42)。クァドランスはローマの青銅貨で、一デナリオンの64分の1に相当します(共同訳聖書巻末付録「度量衡および通貨」参照)。一デナリオンはローマの銀貨で一日の賃金に当たります。日本の貨幣に換算すると、一日の労務者の賃金を10000円とすると、その64分の1は、156円です。貧しいやもめは、156円しか持っていなかったことになります。

 イエスは、このやもめに目をとめ、弟子たちを呼び寄せて言われました。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から自分の持っている生活費を全部入れたからである」と言われました。

 イエスは、やもめが生活費の全部を入れたことを、貧しいやもめのみすぼらしい姿から見抜かれたのか、超能力によるものかは記されていません。この「生活費」という言葉は、原文のギリシャ語では「ビオス」という言葉です。「生活費」という原語は、「生命」をも意味する語です。彼女は彼女の「生命」をささげているのです。「生活費の全部」を入れたら、生活するのに困らないだろうかという疑問をもつかも知れませんが、主イエスは献金についての心の在り方を教えているのです。献金は、神の恵みへの感謝であり、更には自分自身を献げるという信仰の証しなのです。

 主イエスは金額を問題にしているのではありません。彼女は神により頼み、神は完全に守り給うと確信して、すべてを神に献げつくしたと、主イエスは言われているのです。神が求められるのは、献げ物ではなく、彼女の神に対する愛であり、神により頼む純粋な人の心であり、信仰です。

 主イエスは山上の説教で、「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのもので」ある」(マタイ5・3)と教えられました。この貧しいやもめは、「心の貧しい人」でした。「心の貧しい人」とは、「神に全く依り頼んでいる人」のことです。すべては神様の恵みによって生かされていることを自覚し、自らを貧しい者であるかのように見做している人」です。富んでいても、すべては神様からの預かりものとして、神様の御心に従う人です。「心の貧しい人々」は、神の国に将来参加するというだけでなく、その至福を現在受けているからこそ「幸い」なのです。

 この「貧しいやもめの献金」の物語は、神への献げ物が大きいほど神に喜ばれるという当時のユダヤ人の考えを是正する教えでした。献金する金額ではなく、その日の生活費を全部ささげたかどうかとかという問題でもありません。献金する心を神は求めておられるのです。何よりも大切なことは、富に頼るのではなく、神にすべてを委ね、全くより頼んで生きることです。

 使徒パウロはローマの信徒への手紙12章1節で、「こういうわけで、兄弟たち神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を、神に喜ばれる、聖いなる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」と、勧めています。自分の体を献げること、自分の生命をささげることが霊的な礼拝であると教えています。

 献金については、コリントの信徒への手紙二、9章6節-15節で、1.いやいや惜しみながらではなく、気前よく、喜んで。2.強制されてでもなく、自発的に。3.他人との比較ではなく、自分のきめたとおりに行うように、と教えています。神から与えられているお金を、神のみこころにかなうように、生活のためにも有効に用いなければなりません。神は生活費のすべてを献げることを求めているのではありません。献金はわたしたたちの命をささげる献身のしるしです。献金は神の恵みに対する感謝から、神への愛、隣人への愛、教会の宣教のために用いられるものであり、神への栄光のためなのです。

 主イエスは不信仰な律法学者や祭司たち、イスラエルの民の反抗と迫害の中にあって、孤独でした。すべてを献げる信仰深いこの貧しいやもめの姿に、どんなにか慰められたことでしょう。彼女の神に対する真実と愛とを見られて、どんなにか力づけられたことでしょう。主イエスも、父なる神を信じて、十字架の上ですべてを献げられるのです。

 主イエスがおられたエルサレム神殿で、ある人たちが、神殿の見事な石と、奉納物で飾られていることを話していました。このエルサレム神殿は、バビロンから戻って来たイスラエルの民が建て直した第二神殿を、さらに紀元前20年にヘロデ大王が完全改築に近い形で大拡張した神殿で、さらに立派に、豪華になっていました。この神殿は、イスラエルの人々の誇りでした。エルサレム神殿に来た人は皆、この神殿の立派さに驚き、目を見張ったのです。しかし主イエスは、この神殿に対して、「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」と言われました。この神殿は瓦礫の山になる日が来ると言われたのです。これを聞いた人々は驚いたに違いありません。そしてそれは、この主イエスの言葉から40年程後の紀元70年に、ローマ軍によるエルサレム陥落により、本当に起きたのです。世界中のユダヤ人が集まり祈りをささげている、現在のエルサレムにある「嘆きの壁」というのは、この神殿の唯一の残った物です。神殿はこの壁一つしか残さずに破壊し尽くされたのです。

  

   エルサレムの「嘆きの壁」

主イエスがエルサレム神殿の崩壊を告げたので、人々は、それは何時起きるのか、それが起きる時にはどんな徴があるのかと尋ねました。主イエスはエルサレム神殿の崩壊の時のことではなく、それをも含む、終末に至る歴史を告げられたのです。イエスは、惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、「私がそれだ」とか、「時が近づいた」とか言うが、ついて行ってはならない。戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである、と言われました。

 惑わす人とは、主イエスの名を名乗る者です。偽キリストです。自分がキリストの生まれ変わりだと言ったり、自分はイエス・キリスト以上の者であるという人が出て来るのです。そして更に、イエスは、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。」言われました。主イエスは、そういうものが起きたら終末が来ると言われたのではなくて、そういうことが起きても惑わされてはいけないと言われたのです。その様なことが起きても私達が惑わされることなく、信仰に堅く立ち続けることが出来るようにと語られたのです。
 そして、迫害についてです。たとえそのようなことが起こったとしても、うろたえるな、惑わされな、信仰に堅く立ちなさい。主の守りがある、永遠の命がある。目に見えるものを頼るな。そう言われたのです。「それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をすることはないと、心に決めなさい。」とあります。弾圧・迫害はある。しかし、その時には弁明する準備もいらない。語るべき言葉、知恵が与えられる。だから安心していなさい、と言われているのです。弾圧や迫害は、何も国家の手によって為されるとは限りません。家族、友人から受けることもある。キリスト者であるというだけで人々から憎まれることだって起きます。

 「しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」と主イエスは言われます。私達はこのことを信じて、忍耐しなければなりません。その先には、神の国があります。主イエスが忍耐をもって命をかち取れと言われた永遠の命があります。

それでは、「終わり」は何によってもたらされるのか、そのことは、この21章27節で語られています。「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。」「人の子」とは主イエス・キリストのことです。主イエスが大いなる力と栄光を帯びてもう一度来られる、そのことによってこの世界は終わる、と聖書は語っています。

この世界と私たちの目に見える現実には、なお罪が満ちており、苦しみや悲しみがあり、天災や人災による苦難があります。それらが私たちをともすれば脅えさせます。そのようなこの世界にあって、目に見えない主イエスのご支配、父なる神様のご支配を信じて生きていくのが信仰者です。主イエスの支配は、いつまでも見えないままではありません。救い主イエス・キリストがもう一度来て下さり、そのご支配が目に見える仕方で完成して下さる時が来るのです。神様がお造りになったこの世界は、この主イエスの再臨によって終わるのです。このことを信じて待ち望みつつ生きるなら、私たちは、崩壊の現実に直面する時にもそれが「終わり」ではないことを、それらは「まず」起るに決まっているが、その先に神様の救いの恵みの完成があることを見つめて生きることができるのです。そのことによって私たちは、脅えから解放されて、偽りの安心を語る者たちによって惑わされることなく、本当に見つめるべきことを見つめつつ生きることができるようになるのです。

聖書がその最後に告げているのは、イエス様がすぐに来られる、という約束です(ヨハネの黙示録21章20-21節)。私たちのために十字架にかかって死んで下さり、三日目に復活して天に昇られたイエス様がもう一度来られる。そのことによって、この世は終わり、神の国が完成するのです。その時、私たちの救いも完成するのです。このイエス様の約束を信じて、「アーメン、主イエスよ、来てください」と祈りながら生きるのが、私たちの信仰です。

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