富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「霊に従う生活」 ローマの信徒への手紙7章1~6節

2020-08-28 23:59:45 | キリスト教

        ↑ 「手紙を書く使徒パウロ」 by Valentin de Boulogne.(ヴァランタン・ド・ブーローニュは17世紀フランスで活躍した画家)

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403

  日本福音教団 富 谷 教 会 週 報

   聖霊降臨節第十三主日   2020年8月30日(日)  午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

    礼 拝 順 序

                司会 斎藤 美保姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 475(あめなるよろこび)

交読詩編    87(聖なる山に基を置き)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ローマの信徒への手紙7章1~6節(新.282)

説  教    「霊に従う生活」 辺見宗邦牧師

祈 祷                               

讃美歌(21) 342(神の霊よ、今くだり)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

                    次週礼拝 9月6日(日)午後5時~5時50分  

                    聖 書  エフェソの信徒への手紙5章11節~20節

                    説教題   「新しい人間」

                    讃美歌(21) 220 461 27 交読詩篇 98

          本日の聖書 ローマの信徒への手紙7章1~6節

 1それとも、兄弟たち、わたしは律法を知っている人々に話しているのですが、律法とは、人を生きている間だけ支配するものであることを知らないのですか。2結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば、自分を夫に結び付けていた律法から解放されるのです。3従って、夫の生存中、他の男と一緒になれば、姦通の女と言われますが、夫が死ねば、この律法から自由なので、他の男と一緒になっても姦通の女とはなりません。4ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。5わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。6しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。

      本日の説教

 ローマの信徒への手紙の第一部として、1章18節から5章21節にかけて、イエス・キリストを信じる信仰によって神に正しい者と認められる「信仰義認」について力強く述べたパウロは、第二部として、6章1節から8章39節にかけて、「キリスト者の義認の現実」について述べます。

パウロはまず最初の段落(6章)で、キリスト者の存在を洗礼の現実から述べます。罪の問題と信仰者が罪に死に、罪の支配から解放されて、キリストに生きる自由について語りました。

7章では、律法からの自由、律法から解放されるときに救いがあることを語ります。今日の聖書の箇所は、信仰によって義とされた者が律法とその働きの下にはなく、聖霊の支配の下にあることを結婚関係の譬えを通して語っています。

「それとも、兄弟たち、わたしは律法を知っている人々に話しているのですが、律法とは、人を生きている間だけ支配するものであることを知らないのですか。」(7・1)

<律法を知っている人々>はユダヤ人キリスト者を指します。パウロは5章20節で、「律法が入り込ん来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」と、キリストによって義とされる恵みについて述べました。この救いの恵みが誤解され、罪への居直りとして誤用されるのではないか、とパウロは思ったのです。つまりキリスト者は、律法も何もないのなら、何の心配もなく自由気ままにすることにならないか、というパウロに敵対し誤解した人々の非難が背後に存在したと考えるべきです。

7章1節の<それともあなたがたは知らないのですか>という言い回しは、6章1~3節の、<恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお罪の中に生きることができるでしょう。それともあなたがは知らないのですか>に対応します。パウロは6・1-2で持ち出された抗議にたいする相手の誤りを7章で論じるのです。

パウロに批判的な読者たちに対して、1節と4節で二度も続けて「兄弟たち」と親しく呼び掛けます。彼らは律法を知っている人達です。彼らは律法が人間に対して効力を持っているのは生きている間だけであると知ってる人たちです。1節での一般的な主張は、自分の死をもって律法の拘束力から自由になる人間を想定しています。

「結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば、自分を夫に結び付けていた律法から解放されるのです。」(7・2)

1節のような一般的な規則をあげるとともに、2節のように結婚した女性に関する律法の規定を思い起させることによってもパウロは少なくとも特別に律法を知っているという兄弟たちの注意をひきまます。結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫と結ばれているが、しかし夫が死ねば、この律法から解放されるのです。

 「従って、夫の生存中、他の男と一緒になれば、姦通の女と言われますが、夫が死ねば、この律法から自由なので、他の男と一緒になっても姦通の女とはなりません。」(7・3)

 妻は夫が生存中に他の男と一緒になれば姦通の女と言われるが、夫が死ねば、この律法から自由になるので、他の男と一緒になっても姦通の女とはなりません。彼女は夫の死をもってこの律法から解放されるのです。2-3節では、「律法の死」を、夫の死になぞらえて論証したのです。

律法そのものは聖であるので、律法そのものが、罪ではありません。律法は人間を不自由にするため、人間を規則にがんじがらめにするためではなく、神の愛のあらわれなのです。律法が罪を引き起こすのは、私たちの律法に対するかかわり方であり、それが「律法主義」だからです。

「律法主義」は、第一に法律、戒律さえ守っていれば良いとし、神から罰を受ける事はないとし、心の内面はどうであれ、見せ掛けだけの行いに終始し、そのために偽善に陥ります。イエスが痛烈に批判したのはその点です。

第二に、自分たちだけが律法を厳格に守っているというエリート意識から、しばしば一般の人々を軽蔑するという高慢に陥ります。これもイエスによって痛烈に批判されました。

第三は、律法を厳格に守ることによって救いを確保しようとしたので、これで果たして良いかどうか、常に一抹の不安をもつということななりました。

パウロもはじめは律法主義者として熱心でありましたが、キリストに出会うことによって改心し、律法主義から脱出しました。

問題なのは、そのような律法主義的な私たちの生き方です。私を死へ導く「律法主義」、そして、その様な生き方を引き起こす「律法そのもの」の死について、どうしても語らければならないのです。そのために、パウロはここでは「律法の死」を夫の死になぞらえて語ったのです。「キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終わりとなられた」のです(10・4)。

律法主義に対する私たち日本人の問題は、完全無欠な行為が出来ないことは分かっているが、より完全な人間になろうとする努力を、神は望んでおられるのではないかと考える人が多いことです。そうした努力さえしない人間を神が救ってくださるはずがない、と考えるのです。自分のつつましい努力を、救いの権利の資格として捉えることになり、結局は自分の行為によって義を得ようとする、神の前に自分を誇ろうとする罪がそこに潜むことになるのです。

行いの実行に頼る人は、だれも神の前で義とされないことは明らかです。「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」(申命記27・26)と書いてあるからです。なぜなら「正しい者は信仰によって生きる」からです(ガラテヤ3・11)。私たちが救われるのは、不信心な者を義としてくださる神を信じて救われるのです。ただ、一方的な神の恵みを信じて救われるのです。

「ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。」(7・4)

7章4節からは、視点を変えて、律法の死ではなく、律法的な生き方をしていた「私」の死について語ります。信仰者は<キリストの体>を通して起こったこと、つまり十字架において起こり、洗礼と聖餐において現在する「からだの死」を通してて律法に死んだのだから、もはや律法にはしばられない、という主張です。私たちは律法に対して死んでいるから、律法は私に何の権利もない、ということです。律法に対して死んだ私たちは、死者の中から復活した主イエスのものとなり、神に対して実を結ぶようにされたのです。信仰者のキリストと共なる死に目が向けられ、4節では、キリスト者の死と律法からの解放と自由が語られています。従って4節は、1節の根本規定の適用です。キリスト者はキリストと共に死ぬことによって、律法に対して死ぬので、律法は彼らに対して支配を失いました。同時に2-3節の<他の人のものとなる>という言い回しを継承します。キリスト者もまた洗礼において死に、律法に対して自由になり、キリストのものとなることが出来るのです。

わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました」(7・5)

この<肉に従って生きている間>というのを、ほとんど人は直感的に肉体的欲望とか肉欲とかというふうに解釈してしまいます。パウロが「肉にある」というとき、それは「古き世にある」ということと同じで、律法の支配の下にあることを言い、律法によって生きようとする所、そこに罪が猛威を振うのだということを語っているのです。<罪へ誘う欲情>とは、私たちの自尊心をくすぐる様にして、駆り立てる空しい自分の義の追及のことです。問題は神に対して心を開かないで、いつも自分を中心にして、自分の求める義を求め、自分の義を立ててしまう生き方です。5節では、律法の支配下にあるときは、死のために実を結ばせることでしかないことが語られます。

「しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。」(7・6)

肉の生に対比される形で霊の生が語られます。本来律法は神の律法です。その律法を通して、その文字を通して、神の語りかける声を聞かなくてはならないはずです。「殺すな」という文字を通して、「兄弟に対して怒ってはならない」と言う、神の声を聞かなくてはならないはずなのです。しかし、自分の義を求める人間は、そうした他者の声を聞かず、律法を表面的な文字に限定し、固定化してしまい、生ける神に仕えることはしないのです。

従って、律法から解放されるのは、<律法の文字に従う古い生き方>から解放されることなのです。聖霊に従って生きる時、「外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされて」(コリント二、4・16)いきます。霊によって生きる場合には、もはや今までの自分にとらわれず、絶えず自分を捨てていくことができます。自分を捨てていくことが容易になる時、私たちは新しい生き方で神に仕えるようになるのです。6節では、キリストの十字架によって私たちが律法から解放される所に、真の生命と力が働くことが語られます。

最後のこの5と6の二節は、6章1節で始まっている長い議論に決着をつけるものであり、また恵みのもとで霊に従う新しい生き方が示されたのです。

 私たちは、キリストによって、つねに律法主義におちいる傲慢と自己中心を打ち砕いていただき、聖霊に従い神と人に仕えてまいりましょう。

 

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