富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「主イエスよ、来てください。」 ヨハネの黙示録22章6―21節

2021-12-26 03:26:01 | キリスト教

             ↑ 「アーメン、主イエスよ、来てください(マラナ・タ)。」黙示録22:20

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

降誕節第1主日(年末礼拝)2021年12月26日(日)  午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」(エフェソ4・16)

聖 句「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

                           礼 拝 順 序

                                                               司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 474(わが身の望みは)

交読詩編   24(地とそこに満ちるもの)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ヨハネの黙示録22章6―21節(新p.479)

説  教   「主イエスよ、来てください。」 辺見宗邦牧師

祈 祷                                                                 

讃美歌(21) 579(主を仰ぎ見れば)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇 オンラインで礼拝に参加できます。設定担当は、斎藤美保姉です。申し込み先:Eメール munekuni-hemmi@vesta.ocn.ne.jp

                  次週礼拝 1月2日(年始礼拝)午後5時―5時50分

                  聖書  詩編33篇1-22節 

                  説教題 「新しい歌を喜び、歌え」

                  讃美歌(21) 368 474 27 交読詩編 33    

本日の聖書 

22:6そして、天使はわたしにこう言った。「これらの言葉は、信頼でき、また真実である。預言者たちの霊感の神、主が、その天使を送って、すぐにも起こるはずのことを、御自分の僕たちに示されたのである。 7見よ、わたしはすぐに来る。この書物の預言の言葉を守る者は、幸いである。」 8わたしは、これらのことを聞き、また見たヨハネである。聞き、また見たとき、わたしは、このことを示してくれた天使の足もとにひれ伏して、拝もうとした。 9すると、天使はわたしに言った。「やめよ。わたしは、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書物の言葉を守っている人たちと共に、仕える者である。神を礼拝せよ。」 10また、わたしにこう言った。「この書物の預言の言葉を、秘密にしておいてはいけない。時が迫っているからである。 11不正を行う者には、なお不正を行わせ、汚れた者は、なお汚れるままにしておけ。正しい者には、なお正しいことを行わせ、聖なる者は、なお聖なる者とならせよ。 12見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。13わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。 14命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。 15犬のような者、魔術を使う者、みだらなことをする者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は都の外にいる。 16わたし、イエスは使いを遣わし、諸教会のために以上のことをあなたがたに証しした。わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。」 17“霊”と花嫁とが言う。「来てください。」これを聞く者も言うがよい、「来てください」と。渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。 18この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。 19また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。 20以上すべてを証しする方が、言われる。「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。 21主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。

本日の説教

人類の救いの歴史を記すために、旧約聖書は創世記の天地創造から始めます。そして新約聖書では、ヨハネの黙示録の世の終末と新天新地の出現をもって終わります。黙示とは、神の言(ことば)と業が、幻によって人に示されることであり、旧約聖書ではダニエル書が黙示書です。

第一世紀の終わり頃、ローマ帝国の属州であったアジア州(トルコ)の諸教会は、紀元95年頃、ドミティアヌステ帝の時に行われたキリスト教の迫害によって、殉教者が出始めました。皇帝礼拝が強要されるようになり、教会内部でも偽りの使徒により内部分裂の危機にさらされていました。福音宣教のためにパトモスの島に流刑の身となっていた預言者ヨハネは、キリストの再臨と勝利、この世の終末と神の国の完成を告げて、殉教の危機にさらされている諸教会と信徒を激励し、忍耐をもって信仰を守り抜かせるために、書いたのが黙示録です。

ヨハネの黙示録は聖霊に満たされた預言者ヨハネの幻視による壮大な終末の描写です。世の終わりに来臨する勝利の君、さばき主・キリストはサタンと最後の決戦をして、神の国を来たらせます。黙示録にえがかれているのは、世の終わりに起こる神の審判と、神の完全な支配です。黙示録は神の秘密を解き明かす文書です。

黙示文学に特有なシンボルや奇異な視覚的表現や象徴的表現が用いてられているのは、ローマ帝国のキリスト教徒を迫害する圧制の中では、ローマ帝国に対する神の裁きをあからさまに言えないからなのです。この黙示録では、キリストを小羊という言葉で表現しています。また、破滅するローマの都をバビロンという言葉で表現し、終末ににおける勝利の主イエスの姿を描いています。

                       .

黙示録の構成は、次のようになっています。

1章 初めの言葉、七つの教会へのあいさつ。ヨハネへの啓示が示された顛末(天上におられるキリストの姿)。

2章-3章 七つの教会へのメッセージ(エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキア)。

4章-5章  天上の礼拝と巻物を開く小羊。

6章-8章5節 六つの封印が開かれるー災いをもたらす色々の馬が現れる。神の刻印を押されたイスラエルの子ら。白い衣を着た大群衆。第七の封印が開かれる。 

8章6節-11章19節 天使のラッパと災い。天使が巻物を渡す。二人の証人。第七の 天使がラッパを吹く(天の神殿が開かれる)。

 12章-14章 天の戦い(女と竜ー神の民を迫害する)。二匹の獣。十四万四千人の歌。三人の天使のことば。

15章-16章 最後の七つの災い-七人の天使が七つの鉢から神の怒りをぶちまける。神の怒りが極みに達する。 

17・18章 大淫婦の裁きとバビロンの滅亡。

19章1-10節 天における礼拝 子羊の婚宴。

19章11節-20章 キリストの千年の統治の開始、サタンと人々の裁き。白馬の騎手の君臨。千年間の支配(千年王国)。サタンの敗北。最後の裁き。

21章 新らしい天と新しい地。新しいエルサレム。

22章1-5節 神と子羊の玉座からいのちの水の川が流れる。22章6-21節 キリストの再臨。                                                  .

21章1節には、「わたしはまた。新しい天と新しい地を見た」とあります。<新しい天と新しい地>は、旧約の預言者第三イザヤの預言が引き継がれています。

第三イザヤは紀元前六世紀頃(前539年~441年)に活動した預言者で、イザヤ書56章~66章の著者です。「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。」(イザヤ書65:17)。<始めからのことを思い起す者はない>とは、古き時代の苦悩が拭い去られる、ということです。第三イザヤは新天新地の創造によって神の国が実現し、神殿さえも不要になる日を描いています(66:1)。

それでは、22章6節から、御言葉を聞いていきましょう。 

 「そして、天使はわたしにこう言った。「これらの言葉は、信頼でき、また真実である。預言者たちの霊感の神、主が、その天使を送って、すぐにも起こるはずのことを、御自分の僕たちに示されたのである。」(22:6)

 ヨハネに対する天使の言葉です。この黙示は、<キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになった>(1:1)メッセージでした。ここも<預言者たちの霊感の神、主が>天使を送って僕たちに示したことが反復されています。<すぐにも起こるはずのこと>と<わたしはすぐに来る>も、序文と挨拶の<時が迫っている>(1:3)と<見よ、その方が雲に乗って来られる>(1:7)を繰り返しています。

「見よ、わたしはすぐに来る。この書物の預言の言葉を守る者は、幸いである。」(22:7)

<わたしはすぐに来る>は1:31で述べられた状況です。<この書物の預言の言葉を守る者は幸いである>も、<この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちは幸いである>(1:3)と、始めに挨拶した言葉と呼応しています。

 「わたしは、これらのことを聞き、また見たヨハネである。聞き、また見たとき、わたしは、このことを示してくれた天使の足もとにひれ伏して、拝もうとした。」(22:8)

 預言者ヨハネは、読者・聴衆にあて、書き記してきたメッセージに思いいたし、これを伝えるためにキリストから送られた天使に感謝の思いでいっぱいでした。ヨハネは<天使の足もとにひれ伏して拝もうと>しました。

 「すると、天使はわたしに言った。『やめよ。わたしは、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書物の言葉を守っている人たちと共に、仕える者である。神を礼拝せよ。』」(22:9)

 すると、天使はわたしに、<やめよ・・・神を礼拝せよ>と言いました。天使も預言者たちと同じ神に仕える者だからです。

 「また、わたしにこう言った。「この書物の預言の言葉を、秘密にしておいてはいけない。時が迫っているからである。」(22:10)

ヨハネの黙示は、書き記して読み伝えなければならないメッセージです。<秘密にしておいてはいけない>のです。<時が迫っているから>です。ここにはパウロの祈り、<マラナ・タ(主よ、来てください)>(コリント一16:22)と同じ再臨期待があります。

「不正を行う者には、なお不正を行わせ、汚れた者は、なお汚れるままにしておけ。正しい者には、なお正しいことを行わせ、聖なる者は、なお聖なる者とならせよ。」(22:11)

 <不正>-<汚れ>と<正しい>-<聖なる者>とが、道徳的観点と宗教的観点から対比され、示されてます。神に背く者たちの裁かれるべき定めが断言され、神に従う者の祝福が約束されています。

 「見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。」(22:12)

 <見よ、わたしはすぐに来る>が繰り返し言われています。<それぞれの行いに応じて報いる>は、<彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた>(20:13)の内容と並行します。

「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。」(22:13)

<アルファ・・・オメガ>は、ギリシア語の文字一覧の最初と最後の文字です。歴史を始め、歴史を終わらせるのはキリストです。キリストによって救いの歴史は完成したことを示します。

「命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。」(22:14)

<幸い>な者は、7:14で述べられたように、小羊の値で罪を贖われ、衣を白く洗われた者です。<幸いである>と言われる者はまた<命の木に対する権利を与えられ>ている者であり、<門を通って都に入れる>者です。

「犬のような者、魔術を使う者、みだらなことをする者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は都の外にいる。」(22:15)

<都に入れない>者は、21:27に、「汚れた者、忌まわしいことと偽りを行う者はだれ一人、決して都に入れない。小羊の命の書に名が書いてある者だけが入れる」と述べられたが、ここでは更に強調されて、<犬のような者、魔術を使う者>と表現を変え、言葉を加えて拡大されています。

「わたし、イエスは使いを遣わし、諸教会のために以上のことをあなたがたに証しした。わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。」(22:16)

<わたし、イエスは・・・・証しした>は、序文1:2を再度述べたものです。イエスは天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものであり、ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分の見たすべてのことを諸教会のために、あなたがたに証言しました。<ダビデのひこばえ>は、ダビデ王の子孫のメシアを強調します。<明けの明星>は勝利者に与えられる約束です。それは、序文1:4-6で、おごそかに賛美されているキリストの十字架の血による権威に他なりません。

と花嫁とが言う。『来てください。』これを聞く者も言うがよい、「来てください」と。渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。」(22: 17)

<『来てください』>という重要な鍵となる語は、聖霊も言います。夫を待つ花嫁のような教会も言います。それを<聞く者も言うがよい>と繰り返されます。都に入れる者は、<命の木><命の水>にあずかります。<価なしに>無償の<恵み>によって、の意味です。

「この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。」(22:18)

この警告の言葉は、申命記4:2、13:1を引用したものです。

「また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。」(22:19)

手紙の結びに際して、ヨハネは<この書物の預言の言葉>を読者・聴衆に確実に守らせようとしています。

以上すべてを証しする方が、言われる。「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。」(22:20)

<証しする方>イエスは、序文では<証人>とありました(1:4)。<然り・・・アーメン>も序文の再録です(1:7)。<アーメン>は「真実に、確かに」の意味です。キリストの<わたしはすぐに来る>を、<然り>と<アーメン>で囲む形になっています。さらに、キリストの然りに応答して<主イエスよ、来てくださいという祈りがあります。

「主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。」(22:21)

<主イエスの恵みが>あるようにと、預言者ヨハネは手紙の前後に入れて、啓示の使信を送ったのです。終末の時、「命の書」に名を記された人は祝福を受け、新しい天と地に迎えられ、永遠の生命を受けるのです。こうしてすべてが新しくされ、神と小羊は永遠に支配し、民は祝福の中に生きるのです。したがって民は「マラナ・タ(われらの)主よ来てください」と祈り、主は「わたしはすぐに来る」と約束されたことを記して、ヨハネの黙示録は終わるのです。

主イエスが世に来られ、「悔い改めよ。神の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められました(マタイ4:17)。この時より神の支配が始まったのです。わたしたちは、主の来臨の日が遅いと考えがちですが、「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。・・・神の日の来るのを早めるようにすべきです。・・・わたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。・・・このことを待ち望みながら、きずや汚れが何一つなく、平和に過ごしていると神に認めていただけるように励みなさい」(ペトロ二、3:8-14)とあります。

 完全な救いは主の来臨をまたなければないませんが、その前に地上の生涯が閉じられて日が来ても、主のおられる天上に迎えられ、「目の涙はことごとく拭い取られ、もはや死はなく、悲しみも嘆きも労苦もない、祝福、喜びに満たされることになるのです(黙示録22:4)。神との交わりの中に生きる者とされるのです。

世の人々は、真実の愛を求めています。対人関係で最も大切なのは愛です。赦しの愛、裏切ることのない不変の愛、差別のない愛、利害に左右されない愛、利己的でない愛です。人間の愛は完全な愛ではありません。主イエス・キリストのわたしたちに対する愛が、真実の愛であり、永遠の愛です。

キリストを信じて救われた者は、神様との完全な交わりの中に生きる者とされます。聖霊による神に愛に生かされ、神を愛し、隣人を愛し、神に仕え、隣人に仕える生き方を与えられます。

りつつ、マラナ・タと主を待ち望みつつ、新年を迎えましょう。

この一年、神の守られて過ごすことが出来たことを感謝し、マラナ・タと主を待ち望みつつ、新年もキリストによる神の愛を証ししてまいりましょう。

今年もあと五日を残すだけとなりました。この一年、神の守られて過ごすことが出来たことを感謝し、「御国を来らせたまえ」と祈りつつ、マラナ・タと主を待ち望みつつ、新年を迎えましょう。

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