富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「「独り子をお与えになった神」 ヨハネによる福音書3章16-21節

2021-12-14 03:07:24 | キリスト教

   ↑ 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、      永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    

週    報

降誕前第1主日  2021年12月19日(日)    午後4時~4時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」(エフェソ4・16)

聖 句「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

                           礼 拝 順 序

                                                              司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 260(いざ歌え、いざ祝え)

交読詩編    2(なにゆえ、国々は騒ぎ立ち)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ヨハネによる福音書3章16-21節(新p.167)

説  教    「独り子をお与えになった神」 辺見宗邦牧師

祈 祷                                                                     

聖餐式    81(主の食卓を囲み)

讃美歌(21) 265(天なる神には)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇 オンラインで礼拝に参加できます。設定担当は、斎藤美保姉です。

申し込み先:Eメール munekuni-hemmi@vesta.ocn.ne.jp

               次週礼拝 12月26日(年末礼拝)午後5時―5時50分

               聖書   ヨハネの黙示録22章20~21節

               説教題 「主イエスよ、来てください。」

               讃美歌(21) 474 579 27 交読詩編 24    

本日の聖書 

3:16神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 17神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。

18御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。 19光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。 20悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。 21しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。

本日の説教

 ヨハネによる福音書2章23節に、「多くの人々は、その行われたしるしを見て、イエスの名を信じた」とあります。3章は、イエスが行ったしるしを見て、イエスが神から来られた人と信じた一人として、ニコデモが夜イエスの前に登場します。ニコデモは、議会の議員で、ファリサイ派に属する、律法を守ることに熱心な人です。イエスはニコデモに「人は新しく生れなければ神の国に見ることは出来ない」と言うと、ニコデモは「年をとった者がどうして生まれることができましょうか」と言います。それにイエスが答えて「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることは出来ない」(3章5節)と言われ、二人の対話が10節まで続いて終わります。11節からは対話ではなく、イエスの独白へと移ります。「わたしたち」は、「あなたたち」と語り出します。「わたしたち」とは、イエスと福音書記者ヨハネを含む教会です。「あなたがた」とは、ニコデモによって代表されるユダヤ教の会堂とこの世、すなわち不信仰の世界です。12節で再び「わたし」に戻り、「わたしが地上のことを話しても信じないとすれば・・・とイエスが語り出します。天から下って来た人の子の他に、天に上った者はだれもいないと話し、14節で、イエスはモ―セが荒野でへびを上げたという故事(民数記21:4-9)を引き合いに出し、へびに人を救う力があったのではなく、へびを仰ぎ見ることが大切だったのです。モーセが青銅の蛇を上げたと同じように人の子も上げられなければならないと話し、イエスも十字架につくことが父のみこころであると、その必然性が語られます。15節は福音書記者による14節の解説です。それを信じる者は永遠の命を得るためである、と語ります。それは荒野で死をまぬがれたような一時的な命ではなく、永遠の命です。永遠の命とは、命が永遠に続くという未来のことよりも、現在「キリストによって与えられる」永遠の命に生きることであり、永遠なる神との交わりを与えられることです。永遠の命が与えられる根拠を示すのが、3章16節です。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(3:16)

この聖書の言葉は、ルターが「小福音書」と呼んだように、聖書全体のメッセージが要約されている聖句です。主イエスのお言葉であり、教会の信仰告白の言葉でもあります。

永遠の命を与えられる根拠は、神のこの世に対する徹底的な愛にあります。世とは、この世界とそこに生きている私たち人間全体を意味しています。「この世」は、神によって創造されながら、その神を信じようとしないで、神に逆らう罪の中にあり、神に背むいている世なのです。私たち人間が、神に従わずに自分の思いを通そうとし、自分が主人となって支配しようとする罪に陥ったために、神の祝福は失われ、この世界も闇となってしまったのです。そのような世であるにもかかわらず、神はこの世を限りなく愛し、ご自分の独り子を与えて下さったのです。<独り子>という言葉によって表現されるのは、「何にもまして愛されている神の御子」のことです。<与えて下さった>とは、独り子であるイエスが、この世に人間として来て下さっただけでなく、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったということです。神の独り子が罪人である私たちの身代わりとなって死刑になって下さったのです。そのことによって、父である神は私たちの罪を赦して下さり、私たちをもう一度神の下で生きる者として下さり、失われた祝福を回復して下さったのです。さらに、神はイエスを死から復活させ、天に上げられ、私たちを支配している死の力に勝利して、わたしたちに復活と永遠の命を与えて下さったのです。神はそれほどまでに私たちを愛して下さっている、愛されるに値しない罪人であるこの私たちに愛を注いで下さっている、それがキリストによる救いの福音なのです。

「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」(3:17

16節後半で、神の愛は、「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とありましたが、それを受けて、17節は「その理由は」で始まります。16節で語られたことが、更に説明されます。

<裁かれる>という言葉が繰り返し用いられています。<裁かれる>とは、16節の<滅びる>と同じ意味です。神が御子を世に遣わされた目的は、世が御子によって救われることにあることが繰り返され、強調されています。

「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」(3:18)

神の御子の十字架の死によって、神の愛が明らかにされました。この神の御子を信じるか、信じないかによって、救いか、それとも裁きか決定されます。ここでは、裁きは歴史の終末の時に行われるのではなく、今ここで信じる者は裁かれない、信じない者は裁かれる、と言っています。今、イエスを信じ、救い主として受け入れるか、否定するか、の決断を迫られているのです。永遠の命は未来の約束ではなく、現在与えられているものとなっています。

「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。」(3:19)

 この世が暗黒におおわれているうちは、信仰と不信仰のどちらかを選ぶという決断は起こりません。光に照らされなければ、この世が闇であることに気づかないし、そこから抜け出したいとも思いません。<裁き>というとき、罪に対する罰として与えられる不幸や苦難を考えやすいものです。しかしヨハネは、「光よりも闇の方を愛したこと」がすでに裁きであると言っています。光に背を向けて、自分の欲望のおもむくままに、生きたいように生きることができるということが、すでに神のさばきなのです。

 主イエスを信じて罪を赦され永遠の命に至る救いの道を歩むのか、それを拒み、罪による滅びへの道を歩み続けるのかが、今私たちに問われているのです。

「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。」(3:20)

悪を行うというのは、何か大それた罪を犯すことではなくて、光を憎み、光の方に来ないこと、つまりまことの光として世に来られた主イエスを信じることなく、この世を覆っている闇の中に留まっているということです。光である主イエスのもとに来るなら、その行いが明るみに出されるとあります。それは隠していた罪が暴かれるということではなくて、私たち人間が根本的に神に背き逆らっている罪人であることが、主イエスの光に照らされることによって明らかになる、ということです。主イエスによって罪を示され、明らかにされるところにこそ、主イエスの十字架による赦しの恵みが与えられていくのです。罪を明らかにされることを恐れて、光である主イエスのもとに来ないならば、救いにあずかることもできない、それが悪を行う者の歩みです。

「しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」(3:21)

真理を行う者としての歩みは、ことさらに立派な善いことをして生きることではなくて、光の方に来る、つまり主イエスのもとに来て、その救いにあずかることです。それは真理を行う者の行いが元来神から出て、それに導かれていることが明らかになるためであるとしています。そこで明らかになるのは、その人の行いが立派だということではなくて、彼らは神に導かれて生きているということです。独り子をも与えて下さる神の愛を信じ受け入れて、その救いの恵みによって生かされていくところに、真理を行う者としての歩みが与えられるのです。

人を信仰に導く決断は、その人の自由意志でしょうか。パウロの言葉によれば、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言えないのです」(コリント二,12:3)。わたしたちは、聖霊の働きによって光に導かれるのですが、光に照らされて初めて、自分の罪深さを知らされます。光のもとに来たことが苦痛となり、重荷となります。しかし、その時こそ、大胆にキリストの十字架によるあがないに信頼しなければなりません。罪から解放して下さるイエスに信頼しなければなりません。そうすれば、イエス・キリストと結ばれて、聖霊に従って生きる者とされる望みが与えられます。主イエスと一つとされて、聖霊の力を受けて歩むことが信仰生活なのです。「今やキリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって、命をもたらす霊の法則は、罪と死の法則からあなたを解放したからです」(ローマ8:1-2)とあります。

「この世には「滅び」というものがあります。「一人も滅びないで」という言葉は、「滅び」が存在していることを表します。わたしたちの誰もが死を迎えます。どんな人でも、老衰や死には無力です。人間の死は花が散ったり落葉したりする自然の結果とは違います。また動物の死とも違います。人間の死ぬのは自然なことではなく、あってはならないことが起こることなのです。だから人間は死をこわがるのです。人間が死を恐れるのは、死に付随する苦痛のためではなく、死が「滅び」であることを直感的に知っているからです。

ところがこの「滅び」に打ち勝つものがあります。それが「愛」です。キリストの愛は不滅だからです。その愛は、「神は、その独り子をお与えになった」ということ、イエスが神の独り子としてわたしたしのために死んだ、ということによって説明されています。そして、キリストの永遠の愛に生かされることにより、死が克服され、死を恐れず生き、そして死んでゆけること、それが永遠の命というものです。ここにキリスト教のどんな宝にも勝る、お金で買うことが出来ない高価な恵みがあるのです。

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