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「母子家庭」で育ち、軟式野球で努力を重ね…テスト生から初の野球殿堂入りをはたした広島カープの名投手秘話
1/28(火) 17:10配信
デイリー新潮
引退試合の終了後、ナインから胴上げされる広島の大野豊投手(1998年9月)
2月1日からプロ野球春季キャンプがスタートする。この時期には、まだ移籍先が決まらない選手が入団テストを受ける例も多い。ロッテ・吉井理人監督も、オリックスを戦力外になった2004年の春季キャンプ中に、近鉄と合併したオリックスの入団テストに合格している。過去には、新人としては異例の2月にテストを受け、合格を勝ち取ったばかりでなく、後に野球殿堂入りをはたしたレジェンドがいるのをご存じだろうか――。【久保田龍雄/ライター】
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ライバルの球界入りに「自分もプロで通用するかも」と
その男の名は、大野豊。1972年、出雲商2年秋からエースになった大野は、球は速くても制球に難があり、「抑えてやろう」と力んで四球を連発。苦し紛れに投げた好球を痛打されるパターンが多かった。
だが、3年春の県大会では、この大会を制した選抜出場校の松江商に敗れたものの、9三振を奪い、県内屈指の左腕と注目された。
エース、主将、3番打者で迎えた夏の県大会では、1回戦で実力がほぼ互角の安来に2対3と惜敗。2対1と勝ち越した直後の6回裏、2死から連続タイムリーを浴びたのが命取りになった。胃腸が弱い体質の大野は、夏は食欲不振から体重が激減し、腹に力が入らなかったにもかかわらず、この試合では7三振を奪っている。
この時点でプロ入りをまったく考えていなかった大野は、母子家庭だったこともあり、自宅から通えて、どんな形でも野球が続けられる堅実な職場という条件に合う地元の出雲信用組合に就職。窓口業務や自転車で外回りの営業をしながら、軟式野球部でプレーした。チームは全国クラスの強豪で、在職中、全国大会に2度出場。大野もダブルエースの一人として活躍した。
初めてプロ入りを意識するようになったのは、入社3年目の1976年秋、1学年下で、平田高のエースだった青雲光夫が大学を中退して阪神にテスト入団したことがきっかけだった。
青雲とは高校時代に何度か投げ合い、実力では引けを取らないと思っていただけに、「自分もプロで通用するかもしれない」と強い刺激を受けた。
高校時代もスカウトの目に留まっていたが、「母子家庭」であったために
同じころ、地元の出雲高が秋の中国大会出場を決め、練習試合で出雲信用組合の胸を借りることになった。3年ぶりに硬球を握った大野は、5回を1安打13奪三振の快投を演じ、「プロでできるかもしれない」の思いを深めた。
さらに翌1977年の年明け後にも、運命的な出来事があった。出雲市で少年野球教室が開かれ、広島の山本一義打撃コーチと前年20勝を挙げてリーグ最多勝を獲得した池谷公二郎が講師として招かれた。グラウンド整備などを手伝った大野は、野球教室終了後の食事会で2人からプロについて直接話を聞き、ついに「自分もプロでやってみたい」と決意した。
たまたま高校1年のときの谷本武則監督が山本コーチの法政大時代の先輩だったことから、“法大ルート”でプロ入り希望を伝えると、新人としては異例の2月下旬に入団テストを行うことになった。
雪の季節で練習もままならないなか、大野は友人や高校時代の野球部の後輩の協力を得ながら、雪かきをした中学のグラウンドで遠投、屋根付きの相撲場をマウンドに見立て、投球練習に励んだ。
受験を前に野球部監督を務める上司に辞表を出したが、不合格になったときの身の振り方を心配した上司は「1週間の休みをあげるから、休暇願を出しなさい」と言って、辞表を預かってってくれた。
テストは2月下旬に広島2軍のキャンプ地・呉で行われ、野崎泰一2軍監督、木庭教スカウトの立ち会いの下、投球を披露した。木庭スカウトは、大野の姿を見るなり、「なんだ、勝(高校時代は父方の勝姓)のことだったのか」と思い当たった。島根は準地元であり、高校時代にリストアップしていたのだ。
「スカウト」(後藤正治著 講談社文庫)によれば、多少触手が動いたが、「子供の体」であることと母子家庭で出雲を離れられないようだという話を聞き、手を引いたという。
だが、あれから3年が経ち、球威も増し、大きなカーブを投げるようになった大野は、左腕であることも大きな魅力で、まさに“掘り出し物”だった。
「我が選んだ道に悔いはなし」
それでも、プロで成功しなかったときの将来を案じた木庭スカウトは「一応、採用の方向で考えているんだが」と告げながらも、本人の気持ちが変わらないかどうか確かめるため、「お前さん、信用組合で金を数えているほうが、安定した暮らしでいいんじゃないか」と再考を促した。
大野は、最終意思確認にも迷うことなく「よろしくお願いします」と答えた。
「夢の第一目標を突破したことは、私のその後の自信と励みになった。挫折しそうになると、いつもこの日の感激を思い出し、本気になってやれば、あきらめないで続ければ、できないことなどないのだ。やればできる。その時、夢は初めて『ただの夢ではなくなる』(自著『全力投球 我が選んだ道に悔いはなし』宝島文庫)。
ここから22年間の長きにわたるプロ野球人生がスタート。通算148勝、138セーブを記録し、1998年9月27日の横浜戦で現役最後のマウンドに上がったレジェンドは、試合後に行われた引退セレモニーの挨拶で、「我が選んだ道に悔いはなし」の言葉を口にして、スタンドの大歓声を受けた。
そして、2013年1月には、ドラフト外入団のテスト生出身ではNPB史上初の野球殿堂入りをはたした。
ドラフト外入団がなくなり、育成選手枠もある現在では、春季キャンプ中に新人の入団テストを行うことはあり得ない。独立リーグなどNPB入りにつながる野球環境も広がった。
だが、今もどこかに“ダイヤモンドの原石”が埋もれているのではないかと、“第2の大野”を脳裏に描き、ロマンをかき立てられるファンも少なくないはずだ。
久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。
デイリー新潮編集部
新潮社
あらためて、我らがカープのレジェンド、大野豊さんがどれだけすごく、素晴らしい選手だったかがわかります。大野さんも今年の8月で70歳になるんですね。ドリヨシが少年時代に、カープの黄金期を支えた左腕投手です。
1年目の1977年は9月4日の対阪神タイガース戦(広島市民球場)に1試合登板したのみでしたが、この時片岡新之介選手に満塁本塁打を打たれるなど、掛布雅之選手からアウト一つを取ったのみで降板しました。自責点5、防御率135.00という成績で終わりました。大野投手は後年、「いくら成績が悪くとも、この時の防御率を下回ることは絶対にない。スランプの時にそう考えると、精神的に大分楽になった」と語っています。
1978年、南海ホークスから移籍してきた江夏豊投手に見初められ、古葉竹識監督から預けられる形で、二人三脚でフォーム改造や変化球の習得に取り組み始めました。江夏投手は当時の大野投手について「月に向かって投げるようなフォームだった。しかし、10球に1球ほど光るものを感じたから、とりあえずキャッチボールから変えてみようかということになった」と語っています。また、江夏投手は「俺と同じ『豊』と言う名で、俺と同じ母子家庭で育ち、俺と同じ左腕投手なのも何かの縁。俺の弟のようなもの。是非、俺の後継者にしたい!」と大野投手を評していました。時に鉄拳も飛ぶ厳しい指導の末、やがて大野投手は中継ぎの柱へと成長を遂げました。同年10月9日のヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場)では2安打でプロ初完封勝利を記録しましたが、これはこの年の開幕から完封負けなしを続け、史上初の「シーズン完封負けゼロ」(現在も未記録)を狙ったヤクルトをシーズン最終戦で初めて完封するという快挙となりました。
1979年、中継ぎとしてリーグ最多の58試合に登板しました。
1981年には、トレードで日本ハムファイターズへと移籍した江夏投手の後を受けてリリーフエースに
抜擢され、「気の弱い大野に抑えは無理」と評されながらも同年8勝11セーブ、翌1982年には10勝11セーブを記録しました。
1984年から先発に転向し、同年の日本シリーズ制覇、1986年のセ・リーグ優勝に貢献しました。1990年までに4度の2桁勝利を記録し、1988年には13勝7敗、防御率1.70という好成績で最優秀防御率のタイトルを獲得し、昭和最後の沢村賞も受賞しました。13勝での沢村賞受賞は、2020年に中日の大野雄大投手が11勝で受賞するまで歴代最少でした。
翌1989年にも防御率1.92を記録し、2年連続防御率1点台という出色の成績を収める。1970年から2007年までの間、2年連続防御率1点台を記録した選手は大野投手しかいません。
最速150 km/h近いストレートに加え、パームボール、 真っスラ(ストレートとスライダーの中間軌道の変化球)、スラーブ(スライダーとカーブの中間軌道の変化球)、シュート、ドロップ、といったさまざまな変化球を駆使する様は「七色の変化球」と形容され、「精密機械」北別府学投手、「巨人キラー」川口和久投手らと共に、1980年代広島投手王国を支えました。
1991年には、津田恒実投手とのダブルストッパー構想の下、リリーフに再転向しましたが、病気による津田投手の早期戦線離脱に伴い、クローザーの責務を一人で負うことになりました。しかし大野投手はシーズンを通して抑えとして大活躍を見せ、6勝26セーブで最優秀救援投手に輝き、また開幕から14試合連続セーブという日本記録も樹立しました。7月に札幌市円山球場で読売ジャイアンツの主砲フィル・ブラッドリーにサヨナラ本塁打を打たれストップ。チーム6回目のセ・リーグ優勝に大きく貢献し、優勝試合となった対阪神戦(10月13日)で胴上げ投手となりました。
1992年も、26セーブでリーグ最多セーブを記録(36歳で開幕を迎えたシーズンのセーブ王獲得は20年後に岩瀬仁紀が37歳で開幕を迎えてセーブ王を獲得するまで最年長記録)。9月16日の阪神戦において新庄剛志にサヨナラ本塁打されたパームボールについて、その打たれ方のタイミングや飛距離からもう通用しないと判断したことをきっかけに同球種の使用を封印しました。
1993年シーズンオフ、MLBのカリフォルニア・エンゼルスから広島に、38歳になる年でありながら、大野投手を獲得したいという公式オファーがありました。年俸100万ドル、専従通訳と住宅付きで1年間のレンタル契約、代わりの外国人選手を広島に1人紹介するという破格の内容でした。しかし、当の本人はその翌年開幕時で38歳となる高齢などを理由にこれを固辞。カープに愛着があり移籍するつもりはなかったことと、若い時にフロリダの教育リーグに行き、アメリカの大きくて滑るボールが自分の指になじまなかったことから、話を聞いたその場でオファーを断ったといいます。当時はまだ野茂英雄投手がアメリカで旋風を巻き起こす前であり、メジャー球団から日本の現役選手に、正式にオファーが掛かることは史上初でした。
1995年、開幕から調子が上がらず、佐々岡真司投手と入れ替わる形で再び先発に転向しました。オールスター前までは先発でも今ひとつの内容が目立ちましたが、オールスター後は閉幕まで6連勝を記録した。10月8日の対巨人戦、盟友原辰徳選手の引退試合では原の最終打席でワンポイント登板し打ち取りました。
1996年、40歳で迎えたシーズン、6年ぶりに開幕投手を務めて8回3安打2失点の好投を見せましたが、この試合を含めてなかなか勝利投手になれず、5月10日の登板6試合目に完封でシーズン初勝利を挙げました。その後もローテーションをほぼ守り投げ続けていましたが、8月中旬から約1か月間、左上腕部動脈血栓症により戦列離脱しました。大野投手本人によれば、「投げていてもボールに血が通っていない気がした。温かさも感じられない状態だった」とのこと。血栓の除去手術を受けた後、再発防止のため、それまで練習中一切行わなかった水分摂取を行うようにしました。当初は体が受け付けずに下痢を起こしたこともあったが次第に慣れていったそうです。
1997年、41歳にして開幕を迎えながら好調を持続し、防御率2.85で2回目の最優秀防御率のタイトルを獲得しました。タイトルは獲得したもののシーズン終盤に左腕は再び血行障害の兆候が出ており、本人はタイトル獲得もかかっていた事もありなんとか規定投球回をクリアするために投げていた事を引退後に語っています。
1998年4月3日の広島市民球場での中日ドラゴンズとの開幕戦で、史上最年長となる42歳での開幕投手を務めた。同年4月12日に通算146勝目を記録。これにより記録した21年連続勝利は2009年に中日山本昌投手に更新されるまではセ・リーグ記録でした。だが、持病となっていた血行障害が悪化し、8月4日の巨人戦においてワンポイントリリーフで登板した相手の当時新人だった高橋由伸に逆転3ランを打たれたことをきっかけに引退を決意しました。9月27日の自身の引退試合(相手球団は同年の日本シリーズを制覇する横浜ベイスターズ)は、既に消化試合であったにもかかわらず球場は満員でした。登板は横浜中根仁選手に対するリリーフだけでしたが、初球のストレートは146 km/hを記録し、最後は142 km/hのストレートで空振り三振に切って取りました。横浜中根選手は、引退試合の礼儀から対戦前から三振することを決めていました。しかし、初球の146 km/hのストレートを見て「これは本気でぶつからないと失礼だ」と感じ、全力で向かい三振に終わりました。試合後の挨拶では、対戦した横浜の選手もセレモニーに参加し、その中で「我が選んだ道に、悔いはなし!」と答え、ファンの大歓声を受けました。
引退当時の年齢は43歳、チーム在籍年数22年。通算148勝138セーブ、生涯防御率2.90。生涯防御率2.90は、投球回数2000イニング以上の投手の中では歴代30位の成績です。
そんな大野投手みたいな大投手が再び現れるでしょうか。現在、大野投手と同じ背番号24を背負っているのは黒原投手です。黒原投手は昨季リリーフ投手として活躍し、53試合に登板。4勝3敗で防御率2.11を記録し、カープのブルペンを支えました。今季は飛躍のシーズンです。大野さんと同じように、先発、リリーフ共に大車輪の活躍で記録にも記憶にも残るピッチャーになって欲しいと思います。
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