(霊界の目撃証人 43)


「生きている死者からの手紙」(1914年の出版、ノンフィクション)
        エルザ・バーカーによる記録
        金澤竹哲・訳

手紙26 砂に描いた円(後半)

 ここでは、望めば、何時間でも雲の色が変化してゆくのを眺めることができる。あるいは、もっと良いことだが、寝転んで記憶をたどることができる。記憶をさかのぼるのは素晴らしいことで、心を昔へ昔へと、前世からその前の前世へと何世紀もさかのぼらせ、自分を見つけると――なんと亀になっている! 未来へも行くことができる、前へ前へと、来世から来世へと何世紀も、光年を重ねてゆくと大天使になっている。過去を振り返ることは記憶で、未来を見ることは創造だ。もちろん、私たちは自分の未来を創造できる。他の誰ができるのかね? 私たちは他者から影響を受け、動かされ、方向を変えられたり、助けられたり、邪魔されたりする。だが、鎖を作るのはいつでも私たち自身だ。私たちは結び目をゆわえるが、しばしば、たいへんな苦労と当惑しながら、それをほどかされる。

 私は過去生をいくつもさかのぼるうちに、最後の転生の意味と原因を理解した。それは、ある意味で、もっとも不満の残る人生だった――ひとつの例外を除いてだが。だがいま、私は当時の目的がわかり、ここにいたときに準備していたこともわかった。私は、特定の友人たちと会うために、地上へ戻るタイミングさえ計算していた。

 しかし私はいまコーナーを曲がり、上昇するための行進を始めたところだ。急いではいないが、次の転生のための方針は定めている。君に祝福あれ! 私は、ここにいて存在しつつ味わう自由と楽しみを満喫するまでは戻らない。
 そしてもっと学ばねばならない。いままでは忘れていて、いま思い出した前世の数々で学んだことを復習したいと考えている。

 君も学校へ通っていた頃は、それまでの週や前の月に学んだことを時々復習していたと思うが、どうやっていたか思い出せるかね? 復習の習慣は、良い原則に基づいている。私はいま、復習しているところだ。しばらくしたら、地上へ戻る前に、復習事項を見なおして、意志の力によって、いちばん持ってゆきたい記憶のいくつかを刻みつけておきたい。いま目の前で繰り広げられている、記憶の数々から蘇った、壮大なパノラマのような体験すべてを持ってゆくことは事実上不可能だ。だが、いくつかの根本的な事柄、哲学的な原理や実例は、忘れるわけにいかない。そして同じく、ある特定の法則の知識や、君がオカルトと呼びそうな特別な修行の習慣も持ってゆきたい。それによって、私が新しい肉体で大人になった時に、いま目の前に繰り広げられている体験のすべての記憶をいつでも望む時に呼び出すことができるだろう。

 いや、私は君自身の前世について語っているわけではない。それは君自身で取り戻さなければならないし、できるだろう。記憶と空想の違いを知っている者なら、誰もができることだ。そうだ、違いは微妙だが、昨日と今日ほどの違いがある。

 君には急いでここに来てほしくはない。できる限り、地上にいてほしい。肉体を持っていても、ここと同様、たくさんのことができるからだ。もちろん、もっとエネルギーを使わなければならないが、そのためのエネルギーではないかな――使うための。貯めている時ですら、未来のためなのだ。このことを覚えておきなさい。

 私がたっぷり休息し、夢を見て、楽しんでいるのは、エネルギーをたくさん貯めて地上へ力強く戻るためだ。
 私の忠告を聞いて少し怠惰になり、自分自身の魂と親しむと良い。意識して自己のたましいを探求する者には、さまざまな驚きがもたらされる。魂は、ウィルオウィスプ(訳者注、鬼火=will o whisp)などではない。それは物質主義と忘却という岩礁を避けて航行するための灯台の光なのだ。

 私はギリシャの転生へ戻ってたいそう楽しんだ。彼らの集中力――当時のギリシャ人ときたら! 彼らの知識は膨大だった。たとえば、レーテーの河(訳者注、忘却の河)の話は――凄い概念だが――ここから素晴らしい記憶力によって持ち帰ったものだ。

 人が記憶を思い出す努力さえすれば、前世でどうであったかを時間をかけて考えさえすれば、どんな人間になれるか、大いなる希望が持てるのだ! 人間は神にさえなれる――それはつまり、普通の人間と比べてであり、神のごとき壮大さ、偉大さを持てるのではないかね? 「汝は神々なり」という言葉は、単なる比喩ではない。

 私はガラリアから来た大師と会って(訳者注、キリストのこと)、彼と霊的に交流した。彼は人間であり――そして神だった! 世界は「彼」を必要としている。