出来ないって人に伝える事の傲慢性。 | キンジの自分軸哲学

キンジの自分軸哲学

~自分軸を掘り下げて、リアリティに、付加価値にデザインする為のブログ~

 

 

 

どもども。

 

キンジです。

 

 

自分自身の肉体でもあり、時間でもあり、

所謂、

 

リソースってものには、

限界ってものが存在しています。

 

 

 

それっていうのは、

勿論、

 

今こここの瞬間で、切り取って貰うと、

尚更、

 

よく理解はでき得るものではありますね・・・・・・??

 

 

 

 

即ち、

 

いくら、やれる事や、

取れるアポや、

買える商品等が、たくさんあったとしても、

 

その時、その瞬間にやる事や、

 

取りつける約束や、

 

購入する商品には、

 

限界ってものが存在する事により、

 

それがあるが故に、

我々は、

 

日々、何かしらの選択をする事にはなっている事でしょう・・・・・・!!

 

 

 

まただからが故に、

 

優先順位とか、価値基準ってものが、

明確であればある程、

 

その選択にかかってくる負荷ってものが、

軽減されるものではあります。

 

 

 

即ち、

 

出来うる事と、出来ない事ってものを、

自分自身の中で、明確にするって事を、

初めとして、

 

出来ない事の中からも、

 

これからチャレンジして行く事を、発見する必要もあるし、

 

出来る事から展開して、

紐付ける事によって、

 

出来ないかどうかも、定かでは無い領域に、

少しづつでも良いから、

足を踏み入れて行くチャレンジってものが、

 

自分自身の成長を実感する為と、

 

飽きを回避して、新たな楽しさと、

新たな充実感を、満喫する為には、

 

必須の事項とはなって行くものではあります。

 

 

 

だからこそ、

 

自分自身の内では、

 

出来ないって思いこみでもあり、

出来ないって事自体があるって事自体は、

 

それ自体は、

ハッキリ言って、

 

消えて無くなって行くものでは無い事でしょうが・・・・・・・、

 

それをただ単に、

人に伝える際に、

 

「出来ません。」って伝える事っていうのは、

・・・・・・・どうなのでしょう(笑)

 

 

 

 

その出来ないは、

 

その手順や、情報の構築次第では、

 

簡単に、出来るって変わる可能性があるだけに、

 

自分自身にとっても、

その、

 

人に伝えた、

「出来ません。」って言葉自体が、

 

後々となって、

 

足を引っ張る可能性だって、存在しているのです。

 

 

 

 

だからが故に、

 

「出来ません。」ってだけ答えるとか、

伝える代わりに、代替案として、

 

何かしらの案でもあり、

 

何かしらの意見ってものが、

必要となってくるものでもありますね・・・・・・・??

 

 

 

 

その代替案ってものは、

勿論、

 

アポだけで言えば、

 

何か、別の用事でもあり、別の仕事に取り組んでいく事によって、

簡単に出来上がるものではある事でしょうが・・・・・・、

 

そのアポ自体にも、

そもそもとして、

 

出来ない案件と、関連性が存在していない事には、

 

相手の納得を得る事が、

難しいものとはなる事でしょう。

 

 

 

 

・・・・・・が、

そもそもとして、

 

「出来ない。」ってだけ伝えるのでは無く、

 

代替案ってものを、

用意しておいたとしても、

 

相手には、納得する余地ってものが、

あったとしても、

 

相手を、説得するって事自体は、

諦めてしまう覚悟ってものもまた、

 

必要にはなってくるのでしょうね・・・・・・・。

 

 

 

即ち、

 

代替案ってものを、

構築した上であれば、

 

後は、

 

勢いでもあり、思い切りが必要となるものでもあり、

 

その勢いと思いきりに必須となるのは、

 

自分自身の納得感ではあるのでしょう・・・・・・!!

 

 

 

 

その納得感を得る為には、

 

その代替案を、

ただ単に、

 

シンプルに、簡潔にまとめるだけじゃあ、

物足らないだろうし、

 

頼りなくなるって事も、

 

薄々、理解出来るのでは無いでしょうか??

 

 

 

 

要するに、

 

その代替案が、

シンプル過ぎたり、簡潔過ぎる事によって、

 

その、

 

「出来ない。」って伝える可能性があった物事を、

断る際に、

 

もしくは、

 

断り切れなかった際に、

 

後々に、

 

後悔って感情を、生み出してしまう元とも成りかねないものなのです。

 

 

 

だからこそ、

 

その代替案ってものは、

 

発展性・応用性ってものをも考慮して、

 

たとえ、

 

個人的な、主観的な視野からでも良いから、

壮大にしておくと、

 

尚更、

 

自分自身の納得を得る為には、

役に立って行くものでもあるのです・・・・・・!!

 

 

 

 

また、

 

そこまでのレベルにおいて、

 

代替案ってものを構築して行く事が可能になる、

 

または、

 

そこまでのレベルまで、

 

その代替案ってものを、構築して行くプロセスにおいて、

 

その元々の、

 

「出来ない。」って伝える可能性があった物事ってものは、

 

良い意味合いで、

 

どうでも良いレベルにはなっているのもまた、

あるあるな事とはなっている事でしょう。

 

 

 

 

だからこそ、

その、

 

良い意味合いで、

どうでも良いレベルになっているって事実が、

逆に、

 

その元々の、

 

「出来ない。」って伝える可能性があった物事さえも、

代替案の中に、含まれて行く、

 

もしくは、

 

吸収されて行く可能性自体も、

無きにしも非ずなのですよ・・・・・・!!

 

 

 

 

・・・・・・まぁ、

だからとは言っても、

それは、

 

あくまでも、

 

代替案が存在し、

壮大なレベルで、

それを構築したが故に、

そうなっていっただけでもあり、

 

そのプロセスをすっ飛ばして、

 

「出来ない。」を、

単純に、

 

「出来る。」に変換するのは、

ちょっとあり得ない事だろうし・・・・・・・、

 

それは、一般的に言えば、

 

嘘付き呼ばわりされても、

可笑しく無いでしょうし、

 

直接的に、

 

嘘付き呼ばわりされなかったとしても、

 

「嘘付きの在り方。」と見て、

なんら、問題は無いものなのでしょうよ・・・・・・。

 

 

 

 

それって言うのも、

その、

 

「嘘付きの在り方。」ってものは、

まず、

 

自分自身が、嘘だと感じるからこそ、

そのような在り方になってしまう側面があります

 

 

 

 

即ち、

 

その大元の原因ってものは、

 

「出来ない。」って人に伝え過ぎって事なのでしょうね・・・・・・(^^;)

 

 

 

 

上記の「出来ない。」って事は、

勿論、

 

言葉だけでも無く、

 

「出来ない。」演技をしている方がもっと、

 

自分自身にとって、

嘘のレベルが高まって行く行為なのでしょう

 

 

 

 

・・・・・・・が、

だからとは言っても、

 

人に嘘をつくなとか、自分に嘘をつくなとか、

言うつもりは毛頭ございませんし・・・・・、

 

そもそもとして、

 

その、

 

嘘度(うそど)とも言いましょうか・・・・・・(笑)、

 

嘘度のレベルを、

ある一定以上まで、

上がらないように、

コントロールする事が、重要でもあり、

 

また、

その、

 

嘘度ってものは、

 

人のものじゃあ無く、

主観ってものが、大切な要素となるって事なのですし、

 

またそもそもとして、

 

その、

 

嘘度のレベルを、

ある一定以上まで上がらないように、

コントロールするって事自体が、

 

自分自身の納得を得る術とはなっているのでしょうね。

 

 

 

 

 

また、

その嘘度ってものは、

 

何か、打ち込める行動を持ってして、

リセットする事も可能になるだろうし、

 

そもそもとして、

 

行動ベースで、物事を、

 

世界観とか、ゲーム性とか、アート性を考慮して、

構築して行く際には、

 

何かと、

 

その嘘度ってものは、

付き纏う問題意識とはなる事でしょう・・・・・・・。

 

 

 

 

即ち、

 

新しい世界観とか、

 

新しいゲーム性とか、

 

新しいアート性を、

 

構築する為には、

 

そもそもとして、

 

行動ベースでは無い、

 

ポジショントークだけの在り方ってものを、

排除する必要性があるものでもありますが・・・・・・、

 

だからとは言っても、

 

それはあくまでも、

 

自分自身だけの問題とする必要もあり、

 

そうする事によって、

 

主導権を、自分自身の手の内に、

納めて行くって事もまた、

 

重要な課題とはなる事でしょうね。

 

 

 

勿論、

だからとは言っても、

 

ポジショントークをする人って言うのが、

消えて無くなって行く事も無いだろうし、

 

またそもそもとして、

 

自分自身でさえも、

いつの間にか・・・・・・、

 

ポジショントークしてしまっている場合も、

あるあるな事なのでしょうね・・・・・・・(苦笑)。

 

 

 

 

だからこそ、

 

その嘘度ってものが、

 

高まり過ぎないように・・・・・・・、

行動ベースにおいて、

コントロールして行く必要性があるって事なのですが、

 

これまたそもそもとして、

 

その嘘度ってものが、

 

0に近づく、即ち、

 

低くなり過ぎるって事もまた、

 

危ない領域に踏み込んでいるって認識を、

持ち合わせておいた方が宜しい・・・・・・・・って認識を、

持っておきましょう・・・・・・・。

 

 

 

・・・・・・・・と言うのも、

 

その嘘度ってものが、

0に近づく事により、

 

その嘘度ってものは、

 

バイオリズム的に、

波を打っているような側面があるだけに、

 

反転する事によって、

逆に、

 

その嘘度が、

100に振り切ってしまう可能性があるからなのです・・・・・!!

 

 

 

100に振り切る事によって、

 

「真実の行動が出る。」って認識する方もいる一方、

 

100に振り切る事によって、

 

テロ行為や、犯罪行為が蔓延するとか、

テロ行為や、犯罪行為に走ってしまうと、

認識する方が、

 

より、

 

現実的なものの見方とみて、

ほぼ、間違いが無い事なのでしょうね・・・・・・・。

 

 

 

 

勿論、

 

その振り切りによって、

 

勢いが出る事でしょうし、

テンションも高まるでしょうから、

 

行動し始め易いって利点はあるでしょうが、

 

そもそもとして、

 

それは、

 

普段から、ほとんど動いていなかった人達を、

無理矢理行動させる術でもあるでしょうし、

 

行動マネジメントでもあり、

 

セルフマネジメントを意識している人にとっては、

 

逆に、

 

その勢いとか、テンションってもの自体が、

あり過ぎる状態ってものが、

邪魔になる側面も、あるのです。

 

 

 

でも、ここで問題となるのは、

ここでまた、

そもそもとして・・・・・・・、

 

嘘ってものは、

消えて無くなって行くものじゃあ無いでしょうが・・・・・・・、

 

主観世界において、

 

嘘ってものは存在しないでしょうから、

 

あくまでも、

 

個人的、主観においては、

 

物事を、ひとまとまりのカオスとして、

展開し、構築して認識するって事ではあるのでしょう。

 

 

 

その個人的、主観と主観が、

干渉し合う事によって、

 

嘘って概念が生まれるものでもあり・・・・・・・、

 

その嘘って概念は、

 

また別の誰かの主観においては、

 

真実である可能性ってものもまた、

 

一概に、頭ごなしに否定出来ないものではあるのです。

 

 

 

 

・・・・・・が、

そんな事はお構い無しに、

 

我々には、

 

自分自身の人生でもあり、

自分自身の世界観でもあり、ゲーム性、アート性ってものを、

大切にして行く権利がありますから、

 

それとは分けた上で、

 

自分自身の主観っていうよりかは・・・・・・、

 

自分自身の世界観でもあり、ゲーム性でもあり、

アート性ってものを、

護る行為もまた、

 

必須にはなってくるものなのでしょう・・・・・・!!

 

 

 

その視点に立つと、

 

嘘度ってものが0になったり、

逆に、

 

100になるって事自体が、

人の人権でもあり、人の可能性を迫害する行為、

 

即ち、

 

自分軸では無く、他人軸を、

人に押し付ける行為となり、

 

その行為によって、

結果的に、

 

自分自身の自分軸ってものを、

穢す事に、繋がって行くのです・・・・・・・。

 

 

 

まぁだからこそ、

 

人にも自分軸を持ってもらうって事自体が、

大前提とはなるだろうし、

 

生きてる限りはこれまた、

 

他人軸ってもの自体もまた、

無くなって行くものじゃあ無いものとはなっているのでしょうね。

 

 

 

 

ま、そこにこそ、

 

代理戦争的な、

 

世界観でもあり、ゲーム性でもあり、アート性においての、

戦いが存在するとも言えるし・・・・・・・、

 

それは結局は、

 

他者と、より良い関係性を育んで行く行為ととってもらっても、

 

僕自身にとっては、

何の矛盾もございません

 

 

 

コミュニケーションでもあり、

 

行動でもあり、

 

仕事ってものは、

 

主観的に見れば、

代理戦争的な、戦いなのです。

 

 

 

だからこそ、

 

シンプル過ぎたり、単純過ぎる、

情報構築であれば・・・・・、

 

それはそのまんま、

 

本物の戦争でもあり、

喧嘩みたいになりガチになっちゃうだろうから、

 

情報自体を、

たとえ、

 

個人的な、主観からでも良いから、

 

展開し、構築し、

ひとまとまりのゲシュタルト(全体像)=カオスとして、

関連させて、体系付けて、

認識する必要性があるのです。

 

 

 

 

情報が複雑化されたとしても、

 

動ける人は動けるだろうし・・・・・・・、

 

そもそもとして、

 

その方が、

 

行動マネジメントや、セルフマネジメントに慣れている人にとっては、

動き易いものではあるでしょうし、

 

これまたそもそもとして、

 

情報の複雑化=混乱するって事では無いものでしょう・・・・・・!!

 

 

 

混乱を生むのは、

 

シンプル過ぎるのに、

 

過多な解釈が氾濫している状態でもあり、

 

そのたった一つか二つの物事を、

 

決断出来ない場合において、

人は混乱するものなのでしょう。

 

 

 

だからこそ、

 

代替案ってものが、

必須でもあり、

 

その代替案ってものを、

 

応用・流用性ってものを考慮して、

構築しておく必要性があるのでしょうし、

 

それは結局は、

 

抽象度を高く構築するって事でもあり、

 

哲学的に構築するって事なのでしょう・・・・・・・!!

 

 

 

まぁ、

僕自身にとっては、

 

あくまでも、

 

自分軸哲学なのですが・・・・・・(笑)。

 

 

 

 

それらを踏まえて、

実は、

 

過去に掘り下げておいた記事は、下記から・・・・・・・。

 

 

 

 

続きはこちら

 

 

 

 

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