プレゼンテーションの意味と、その強弱の大切さ。 | キンジの自分軸哲学

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~自分軸を掘り下げて、リアリティに、付加価値にデザインする為のブログ~

Martin EklundによるPixabayからの画像

 

 

 

どもども。

 

キンジです。

 

 

プレゼンテーションって言いますと、

所謂、

 

企画・提案をして、

相手の了承を取った上で、

物事の進行を進めて行くものではある事でしょう。

 

 

 

即ち、

その為には、

 

勿論、

そこに必要となるのは、

所謂、

 

メリットってものではあるでしょうが・・・・・・、

 

そのメリットっていうのは、

 

機能的価値が存在することは、

当たり前だとしても、

 

それ以外の、

 

付加価値でもある、

 

エンターテイメント性とか、

ゲーム性のようなものが存在しない事には、

 

そもそもとして、

 

そのプレゼンテーションってものは、

人の注目を、集める事が、

難しいものとはなってしまう事でしょう・・・・・・・。

 

 

 

 

要するに、

 

そのエンターテイメント性とか、

ゲーム性、世界観ってものを、

共有する為とか、

 

もっと言えば、

 

その場を持ってして、

表現する為にこそ、

 

「誰が、何を、どのように、提供するか??」

って事が、問われる事にはなってくるものではあります。

 

 

 

即ち、

 

その誰がって部分を、

 

ある程度の、

 

深い領域まで、理解している人を相手にする場合において、

 

そのプレゼンテーションってものは、

ある種の、

 

身内補正がかかってくるものとなり、

 

その表現自体の難易度が、

低くなるものではありますが・・・・・・・、

 

そんな、

 

身内にばかり、

問いかけるようなプレゼンテーションってものは、

 

何だか、外野としては、

白けてしまうもんでもあり、

 

どちらかと言えば、

 

例え、身内も混ざっている場合においても、

その外野に当たる人々に向けて、

問いかける行為を指して、

 

プレゼンテーションとは、

呼ばれる代物とはなってくるものなのでしょう・・・・・・・!!

 

 

 

だからこそ、

 

そこに必要不可欠となるのは・・・・・・・、

 

誰が、何を、どのようにの、

どのように、って部分にはなってくるものなのです。

 

 

 

ある意味、

 

そこに磨きがかかっている人の場合においては、

 

「何をプレゼンするか??」って事は、

さほど、問題にはならないものとなるだろうし、

 

そのどのように、って部分が、

 

一般にも浸透している場合においては、

 

誰が、何を、どのようにの、

 

誰がの部分においても、

 

ある種のイメージ付けが出来上がっているものとはなっている事でしょう・・・・・・!!

 

 

 

まただからこそ、

そこに、

 

キャラクター属性ってものが、

出来上がって行く訳でもありまして・・・・・・、

 

そのどのようにを踏まえた上での、

キャラクター属性ってものは、

 

そのキャラクター属性が、明確になればなるほど、

 

好き嫌いもまた、

明確になってしまうもんではありますが、

 

逆に言えば、

 

誰も彼もに、好かれないようになるって事自体が、

 

特定の誰かに、

好かれるようになるって事でもあるのですし、

 

自分自身にとって、

好感度が高い人からの情報ってものは、

それだけ、

 

受け入れやすい=理解度が高まり易いって法則が、

当てはまってくるものでもありますし・・・・・・、

 

もっと言えば、

 

自分自身にとって、

好感度が高い人からの情報ってものは、

 

その情報そのものが、

例え、

 

自分にとって、使い辛い側面があったとしても、

 

それを価値感として、

創意工夫しようって想いが、

生まれるものでしょうし、

 

やっぱり、

 

自分自身にとって、

好感度が高い人からの情報ってものは、

何とかして、

 

価値感として、自分自身の血肉として、

受け入れたいって思うのが、

人情ではある事でしょう・・・・・・!!

 

 

 

その為にこそ、

 

誰が、何を、どのようにの、

 

どのようにの部分に拘る事により、

 

自分自身の、キャラクター属性を、

明確にするのです。

 

 

 

それは、ある種の、

 

ファンタジー的、理想論的な、

スタートとはなるのかも知れませんね。

 

 

 

けれども、

 

その、

 

どのようにの部分に当たる、

 

自分自身のありのままの表現でもあり、

あるがままの表現ってものを持ってして、

 

確実に、

 

響く人が出てくる代わりに・・・・・・、

 

所謂、

 

「普通」って枠組みからは、

はみ出る事にはなってしまうものとは言えるのです。

 

 

 

 

まぁ、もっと突き詰めて言えば、

 

「普通」って枠組みに収まるのであれば、

 

まだまだ、

 

ありのままであり、あるがままの表現力が、

乏しい状態であるとも言える事でしょう・・・・・・!!

 

 

 

ま、かと言っても、

何も、

 

自ら、キワモノになれって言ってる訳じゃあありませんよ・・・・・・??(笑)

 

 

 

誰も彼もに、

必要最低限、好かれる必要性なんて無いって事でもありますし・・・・・、

 

そのような、

所謂、

 

八方美人的な、普通な状態ってものは、

原則的に、

 

自分自身を、蔑ろにする事によって、

生まれる状態であるって事を、

理解しておきましょう・・・・・・。

 

 

 

即ち、

 

自分自身でもあり、

ってものは、

あくまでも、

 

主観的でもあり、内観的なものでもあり・・・・・・、

 

他人と共有するのであれば、

 

心でもあり、感情の再現を持ってして、

共有を図るものでもあり・・・・・、

 

その心でもあり、感情の、

 

アウトプットの先でもあり、

表現の形ってものは、

 

その人その人の経験と、

 

キャラクター属性という名の、在り方によって、

様々な形態を、とる事にはなってくるものなのです。

 

 

 

 

まぁだからとは言っても、

 

同じ心でもあり、

感情から始まるものであれば、

 

そこまで剥離した、

形態にはならないでしょうし・・・・・・、

 

真逆の心でもあり、感情が湧き出てくる人は、

そもそもとして、

 

居心地が悪くなる事によって、

離れて行くのが常でしょうしね。

 

 

 

それならそれで、

また、

 

その真逆の心でもあり、

真逆の感情が湧き出てくる人を集めて、

 

シェアし合えば良いものとはなるでしょうから。

 

 

 

 

ま、とは言っても、

 

感情ならまだしも・・・・・、

 

心ってものは、

目に見えないって事には、

注意が必要とはなる事でしょう・・・・・・。

 

 

 

し、

そもそもとして、

 

「心が無い。」って状態もまた、

時と場合にはよるのでしょうが・・・・・・(苦笑)、

 

僕自身としては、

割と、多々、あるにはありますね。

 

 

 

まぁ、

だからとは言っても、

例え、

 

「心が無い。」とは解っていたとしても、

 

それをアウトプット=表現する事によって、

少なくとも、

 

感情は湧き起こったり、

揺れ動いたりする訳ですから、

 

そのアウトプット=表現をする事によって、

結果的には、

 

何かしらの、心ってものが、

生まれている訳ではありますね・・・・・・。

 

 

 

そのは、

もしかしたら、

 

悪魔的な心かも知れませんがね・・・・・(笑)。

 

 

 

 

即ち、

 

心って概念には、

 

天使と悪魔が戦う構図からも、

想像出来るように・・・・・、

 

天使性と悪魔性、

両方が存在しているのでしょうし、

 

その天使性、悪魔性、

両方の心と、現実的なメリットや、

現実的な束縛との兼ね合いにおいて、

 

そのシチュエーション次第で、

「心が無い。」って事が、

おき得るのでしょうね・・・・・・(笑)。

 

 

 

僕達は、

そもそもとして、

 

天使でも、悪魔でも無く、

でありますから、

その、

 

「心が無い。」って状態は、

別に、

 

何ら悲観とか、絶望とか、ショックを受けるものでも無く、

 

ある種の、

人間臭さとも言えるものなのでしょう。

 

 

 

し、

 

「心が無い。」ように感じたとしても、

 

五感でもあり、意識は確かに存在するだろうし、

 

生まれて培ってきた、

肉体も存在するでしょうから、

 

それらを通して、

 

感覚でもあり、感情は、

湧き起こって、動いて行くものではありますから、

 

尚更、

 

その、

 

「心が無い。」って状態であったとしても、

 

何かしらの、

芸術性でもあり、エンターテイメント性として、

アウトプットするって事が、

重要な要素にはなるのでしょう。

 

 

 

すると、

その、

 

「心が無い。」って状態が、

 

何かしらの、

 

世界観でもあり、ゲーム性を生み出す事によって、

 

誰かの心に、響くものと、

なるのかも知れませんね。

 

 

 

 

要するに、

 

心の表現ってものが、

結局は、

 

「ありのまま。」とか、

「あるがまま。」ってものを、

形にする手段とはなるものなのでしょう。

 

 

 

そのってものは、

勿論、

 

「無い時は無い。」ものではありますが・・・・・・(笑)、

「ある時もある。」ものでもあるのです。

 

 

 

 

それらは結局は、

 

自分自身にとっては、

 

過去の心でもあり、

過去の感情でもあり、

 

もしくは、

 

誰かの心でもあり、

誰かの感情ってものをモデリングして、

それを再現しているのに過ぎないものなのかも知れません。

 

 

 

勿論、

 

心でもあり、感情だけを切り取った論理ではありますが。

 

 

 

そこをスタートとして、

 

我が身を使って、

表現でもあり、行動に移すからこそ、

そこに、

 

その人らしさってものが、

生まれるものとなるだろうし、

 

その、その人らしさってものは、

 

微細な微差の集大成であるが故に、

 

何でも無いように見えて、

大差を生み出すようなものなのでしょう・・・・・・!!

 

 

 

 

即ち、

 

誰かの物真似とか、

誰かのノウハウを、

幾ら、細かくなぞったところで・・・・・・、

 

自分自身が、意識的に行った、

 

「ありのまま。」とか、

「あるがまま。」の表現の、

 

微細な微差の表現の解像度には、

敵いっこ無いものとはなるのです。

 

 

 

それが結局は、

 

その人らしさとか、

その人ならではとはなりますが・・・・・・・、

 

それは、

 

良い意味でも、

 

悪い意味でも、

 

その人らしさとなり、

その人ならではとなるものでしょうから、

 

そこに必要となってくるのもまた、

 

機能性の共有とか、

基本動作の共有といったような、

 

「解り易く。」足並みを揃えるような行為ともなってくるのでしょう・・・・・・!!

 

 

 

「ありのまま。」とか、

「あるがまま。」ってものは、

確かに、

 

ゴール視点とも関連してくるものとはなるでしょうが、

 

それで共有が為されるのは、

原則的には、

 

心とか、感情だけなのかも知れません。

 

 

 

だからこそ、

 

それを自分自身で、

再構築して、

 

自分自身の、

「ありのまま。」とか、

「あるがまま。」を、

表現する際に、

 

元々の影響元から、

剥離し過ぎない為にも、

 

共有する為の部品として、

 

共有する為の、チェックポイントとして、

 

機能性の共有とか、基本動作の共有ってものが、

必要とはなってくるものなのです。

 

 

 

 

まぁ、逆に言えば、

 

機能性の共有とか、基本動作の共有ってものを、

しっかり体に馴染ませた上で、

 

「ありのまま。」とか、

「あるがまま。」を、

追求していけば良いものとはなるでしょうが・・・・・・、

 

だからこそ、

あまり、

 

複雑過ぎる情報、細か過ぎる情報ってものは、

 

その、機能性の共有とか、基本動作の共有には、

当てはまらないものとはなるのでしょうが・・・・・・、

 

まぁ、

それも踏まえて、

 

複雑性とか、細かい部分ってものを、

再構築して行くって事が、

 

物事の、

達人性を高めて行く術ではあるのでしょうね。

 

 

 

 

また、

 

その機能性の共有とか、基本動作の共有ってものは、

 

それがシンプルで解り易く、

 

尚且つ、

 

その懐が広い場合において、

 

それそのものの上達自体は、

あまり期待出来ない状態においても、

 

それ以外の専門性において、

応用・流用が可能になるものでもあり、

 

その、

 

応用・流用が、幅広くなって行く事により、

何処かで、

 

その本人の達人性が、開花する分野に、

出会う可能性がある事でしょうし、

それは、

 

応用・流用として、

関連しているからこそ、

そう言えるものだろうし、

また、

 

応用・流用として、

関連しているからこそ、

新たな分野に、チャレンジするモチベーションにもなるのですし、

 

その、

 

チャレンジした分野から、

逆輸入で、応用・流用する事によって、

 

元々の、

 

機能性でもあり、基本動作の共有を図った分野の、

上達が見込めるって場合もまた、

あり得るだけに、

 

可能性は、広がるばかりではある事でしょう・・・・・・!!

 

 

 

・・・・・・・・が、

 

可能性が広がるってことは、

それだけ、

 

問題も拡大するってことでもあり、

 

その問題を、

適切にクリアーして行くだけの、

 

マネジメント能力が問われるだけに、

 

あまり無理はせずに、

 

優先事項を決定して行く必要性もまた、

出てくるものとはなるのでしょうね・・・・・・。

 

 

 

 

その優先事項の決定にはまた、

 

「青臭い。」って想う人もいるでしょうが・・・・・・・、

 

自分自身の心に響く、

 

良い感情の再現が見込める分野を、

チョイスして行くのが、

望ましいのですが、

まぁ、

 

それだけで済むって事は、

そ〜そ〜世の中には存在しませんでしょうから、

 

それを中心核として、

 

応用・流用を、繰り返して行く事とはなるのでしょうし、

 

その中心核となる分野ってものは、

「プライスレスが当たり前。」なものでしょうし、

 

そもそもとして、

 

お金や時間を工面しつつも、

続けて行く事が前提にくるものでしょうから、

 

逆に言えば・・・・・・・、

 

そこから関連して行く、

 

応用・流用性の、隣りの分野ってものを、

適切にチョイスして行く必要性があるのかと。

 

 

 

 

それらを踏まえて、

実は、

 

過去に掘り下げておいた記事は、下記から・・・・・・・・。

 

 

 

 

続きはこちら

 

 

 

 

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