ー三島先生、霊界は、霊の世界ですから、もう死ぬことは無いのでしょうけれど、
 つまり不死というか、不滅。実際に亡くなってみてどう感じますか?



 現世での私が思っていた生命とは、太陽のような、強烈な輝き、力です。ギリシャのアポロン神のようにね。しかし、実際に、神に適う生命は、繊細で儚い、さざ波のような響きなのです。生物は、言わば、精密機械のようなものだよ。慎重に丁寧に扱わなければ、上手く作動しない。人間の身体は、その慎重で精密な取り組みを、無意識に行っています。私たち人間という生き物は、本当に弱く儚い存在です。このような、命に寄り添う心を、もののあはれを知る心、と言います。そう、本居宣長大人の教えです。本居大人の教えは、仏陀の哲理と双肩します。

 そして、僕の魂の奥底に、儚き光の糸を辿るのだ、そうすると、魂の隅に、何かか弱いものが佇んでいる。この、か弱い者にも、光の糸がくくられているが、彼は気づかないのです。か弱い自分にとらわれているからね。か弱い自分は事実だけれど、それでも、前を向かないと、前を向けば、身の回りのあちらこちらに光の糸が絡んでいるのが分かる。魂の中のスパイラル、私の中に、重なり合う儚い私。

 そこで、はたと気が付くのです。儚い弱い者を維持するためには、慎重に大切に取り組むのであると。この繊細でか弱い私が生きている、命があるというのは、何かが私に寄り添っているからであると。


 そう、魂に絡まる光の糸か゜見えてきました。現世で生きていた時は、自分の魂に寄り添う光の糸に気が付かなかった。ダメな自分の姿にとらわれていて、そんな自分を肯定して、命の光を注いでくれる大いなる母性を見ていなかった。現世での私は、弱い自分を克服し、強くなり、男として正しい生き様を示したいと信じました。それは、武士道なのだけれど、本居大人の教えでは、武士道は漢心なので、神道からは離れる心境です。ですから、武士道からは、真の命の光は見えないのです。神からやってくる真の光は、もののあはれであり、そのもののあはれを知る心を持つことで、真の神の光を理解できるのです。強くなりたいと、訓練して鍛えていくのはいいが、それを見せびらかすと、魔物が来る。寄り添う心、もののあはれを知る心が無ければ意味がない。もし、本居大人の教えを理解していたなら、あんな派手な死に方はしていない。今さらですが、魂を魔物に浸食された、自業自得。

 もし、神の光を見ていたなら、弱くて脆い私の魂、それでも肯定してくれて、そんな私に愛を送ってくれる神を知っていたなら、違う生き方をしていました。今さらですがね。武士道には先がないのです。死の美学といいますが、死に美学はないです。久美子さんに「カッコつけているだけ」と言われますが、その通りです。神から見ると、武士のおろかな思い込みです。そこに魔物が入り込むのです。死は、美や醜は無いのだ。死はありのままの生、人生の一コマです。


 霊界に逝って、不死の世界をどう感じるのか?という問いですが、今話した通りです。漢心に逝った場合は、何もないです。滅んでいくだけです。そして、漢心には漢心が集まります。

私の命の輝きが、強ければ強いほど、光れば光るほど、魔物たちが集まるのだ。また言い訳だけれども、この魔物たちが、あのような死に方を演出したのです。私の生命の光、魂の輝きは、魔物にとっては麻薬のようなものらしい。私の生命の光、魂の輝きが増すほどに、私の人生が激化していった。夜の電灯に集まる虫たちのように、魔物は私の魂の灯りに群がった。死とは何か?そして、その感覚は?魂は不滅なら、不滅の世界をどう感じるのか?

 死することと、生けることは、同じものの、言葉の違いです。だから、感じは同じなのですよ。難しい、見えない人に色の説明をするようなものだね。だが、そう言えるまでには、一言では言い尽くせない葛藤がありました。一般の人が、家族や友人に看取られて、納得して亡くなると、肉体の苦しみも軽減されるし、心の整理もできるので、現世への割り切りができて、執着が無くなるから、平たく言うと、成仏の状態になる。その時に気が付く、何か不思議な感覚に包まれている自分が分かる。ああ、死んでいるんだな、とね。その死んでいる感覚を説明するのは、実際に体験しないとわからないだろうが、あえて伝えます。長々と難しいことを話しているのは、その伏線でした。

一般の人は亡くなると、仏さんになるけれども、一か月もすると「自分は死んでいるのた」と感じる。しかし、私のように悍ましい死に方をするとダメなのだ。成仏するというのは、日本人であるならば、天照大御神に適う魂をもつこのなのであるから、私のような死に方をすると、つまり、漢心に捕らわれた只中のまま、霊の世界に入るのですから、迷って当然と言えます。

そこで、話をまとめるとね、不死の世界の感覚には、二段階があるのだ。迷いの境域と、成仏して神の光が自覚できる境域です。迷いの境域は、現世での迷いと同じで、同じことを何度も考えて、過去をくよくよ思い返して、人生の貴重な時間を無駄にする。くよくよするくらいなら、魂にはそれほど害はないが、そこから魔物が入り、社会や、家族子供に悪影響を及ぼし、魔物を広めてしまうが、その状態の死後の感覚は、地獄だね。魂の中に、魔物が入り込むと、思考に偏りができ、被害者意識が強くなる。恨み恨まれる自分しか見えなくなるのだよ。当時の私は、心の奥では、日本を恨んでいたのかも知れない。美しい日本を認めようとせず、ないがしろにする日本人らしからぬ日本人を。さらにその日本に対して、何もできない自分を。

 霊魂の不滅や、不死というのは、成仏している状態をいうのですね。仏教学的理から言っても、現世的執着や依存を無くし、自由な魂となることを涅槃というが、日本人はその涅槃の先に、天照の光を感じるのです。天照の光は、生命の光、愛の光であるから、愛の場では、すべての者たちは互いに支えあい、美しい日本が現れるのです。不死の感覚とは、正にこれです。神の光は、生命力の根源なので、それに包まれていると、なんの不安も恐怖も無く、現世では敵の相手でも、魂の境域では、神の光の中では、仲間なので、怖れは無い。だが、まだ自分には、怖れもあるし、悔しさもあります。不死の感覚は、持てないようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ー善き死にざま について
 三島先生が、自身の死にざまについて、今もトラウマの部分があるようです。
 平たく言うと成仏しきれない?
 切腹自殺の理由について、三島先生の本心を語っているようです。



人の死に関して、アンコウのオスを述べますね。
自分の死にざまは、ああいうものは、無様なものです。

ネットには、私の死体画像が残されています。生首の画像が、永久的に残されていて、永遠のさらし首です。現世のさらし首は、カラスが食べてくれるよ。
現世の人に、死とはどんなものか、説明したいと、

それに近いものを探しましたが、感覚的なものです。

だが、とてもリアルです、私にとっては。結局、死することは、

どんな場合もエモーショナルなものであるから。


生命は、世界の特異点です。数学の言葉だけれど、

死を説明するにはぴったりする言葉です。哲学者のマイスターの説明では、

点は、長さや重さは無く、ただ、在る、を意味するもので、人間では、

自我に当てはまる、という。確かに、ありのままの自分は、

見栄や自惚れじゃなく、真の魂である。


今心の中に、穏やかに、どこまでも青くきらめく大海原を想像しよう。

その海原に突如、孤島を発見する、特異点。

何もない青いだけの世界に、行き成り小舟が目に入る、特異点。

長い船旅で、何も変わらない海を、ただ只眺めていると、咄嗟に海面が割れ、

シャチがジャンプした。初めて見るシャチは巨大で、

深海の水もろとも跳ね上がり、激しい水しぶきが広がる。

その姿は神々しく、紅の虹が立った。この感激も、特異点です。

このように、数学用語の特異点は、私にとっては、感覚的で脈動する、

命の原点としての特異点です。


生命は、人の魂は世界の特異点です。私が、大海でシャチの命の輝きを感じたように、神も、世界の特異点である私たちを見て感動するのだろうか?

私は神に、命のダイナミズムを伝えることはできるのだろうか?

生首がさらされている間はダメでしょう。


そして、死も特異点なのだよ。単に亡くなり無くなるのですから、

特異点であるが、生き物が亡くなるというのは、

物が無くなる特異点とは異なります。仏陀は、無になる、が口癖だけれど、

物質的な無ではないです。魂の観点から見ると、現世の死に関する、

魂の様子はあたかも、アンコウのオスのような体験をするはずです。

久美子さんは、鮟鱇は、臭みがあって好きではないらしいけれど、

あれは美味しいですよ、しかも、人が食べているものはみんなメスです。

知っている人もいるでしょうが、鮟鱇は生殖の時、オスは、

大きな体格のメスの腹部に入り込み、合体し、メスの身体に溶けてしまう、

つまり永久に一緒です。私はオスなので、この鮟鱇のオスが気になるのです。

彼は、メスに吸収されてどう感じるのだろう?苦しいのか、痛いのか?

魚に思考はあるかどうかはわからないけれと、鮟鱇の彼は、

女子に吸収されて悔しくはないのか?
そうすると、ここは霊界なので、魚の想念が漂うというか、やってきました。

鮟鱇くん、大洗の鮟鱇侍、と名乗りました。

侍というのは、私の出自を意識したのかも知れません。


「三島君、苦しくも悔しくもないよ、最愛の女性と溶け合って、

 その妻と子供のために、この身をささげられるのだから。

 君の魂の渇望、のはずです。もっと素直になり、人間は理性があるから、

 その時々で知恵を働かせて、真の愛を捧げていけばいいのさ」


鮟鱇侍は、若武者の姿に変わりました。


「三島君が、生首を忘れられないのは、

 君の類魂に、救いを必要としている御仁があるからですよ。

 苦しい自分にとらわれず、ありのままの世界、ありのままの自分を見ましょう。

 マイスターに呼ばれてきましたよ、ではまた!」


消えました。いつも見られているのですね、心の迷いを監視されています。

現世の私なら反発するところですが、何か、安寧なものを感じます。

神の親心でしょうか。
つまり、死というのは、私にとっての死は、

鮟鱇のオスになることであります。涅槃の世界ですね。

 

 

★★★★★★★★★★★

 

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昨年末から、土浦市に引っ越しを予定していて、やっと4月中旬に決まりました。

独りでの引っ越し準備で、大忙しですが、本の方もやらなければと、、、

「神様日記その2」は、画像を入れると出来上がり♡

評判を見て、「その3」も草稿がありますが、三島霊が割り込んできて、

数年前からの原稿もあり、そろそろ三島さんかなとも。

「三島由紀夫霊の霊界リサーチ!(仮)」にも取り組みますが、

その一部を公開します。生瀬の乱の霊的裏側と、

お岩山の真相、、、

 

★★★★★★★★★★★★★★★★

 

―茨城県の北にある、お岩神社ですが、謎が多いです。
 徳川光圀との関係も知っておきたいので、

 できたら調べてきてください。光圀さんもたまに来ますが、
 用事が済むと、さっさといなくなるので、

 話すタイミングがありません。
 偉いから忙しいのかしら?

 三島先生、霊界リサーチお願いします!

まぁ、私は偉くないので、暇ですよ、、、
私も、まったくわからないが、お岩神社の御眷属から、

少し聞き出すことができました。県境の八溝山周辺は数百万年前、

古代の天狗の生息地で、独自の国、世界になっていたが、

それは、現世の縄文初期まで維持されていた。

古代天狗は、山男のような姿をしているよ。

九州にもいて、修験者の守護神になったりしている。

○○権現などと名乗っています。権現たちは、神の配下になり、

人間の指導霊になりますが、そうじゃない、人間が嫌いな、魔的なものもいて、

所謂魔物だね。古代天狗由来の魔物は、人間界の権力者の魂に憑き、

人間を利用して、神に悪さをするね。魔物は、直接的に、

神に何かすることはできないから、人間を隠れ蓑にするのだよ。

何かと、ハエのように煩わしい連中だ。人間の魂に入り込むと、

あまり厳しく浄化すると、憑かれている人間が参ってしまう。

穏便にしようとすると、つけ上がるから、加減が難しい。
このように、人間にちょっかいを出して、人間の魂の成長を妨害していた

古代天狗だけれど、徳川以前の、佐竹家とは、なんとなく共存していた。

佐竹氏は、八溝の神域をそれなりに大切にし、精霊たちの家を作っていたから。

今のお岩神社のようにね。古代天狗は、人間たちより、自然重視!

関ヶ原の戦いで、佐竹氏が西軍に入るのを止めたのは、八溝の古代天狗なのです。

人間から見ると、煮え切らない態度だが、八溝を守るためだったのです。

それで、徳川の世になるが、徳川家の先祖たちは、有能だが、欲がある連中、

戦国武将だからね。欲があると、魔物が入る。

義公(光圀)の父親の時に、生瀬の乱がおこるが、それは、徳川に入り込んだ、

八溝以外のもの、外国由来の魔物が、徳川を通じて八溝に喧嘩を売ったカタチ。

八溝は、精霊のサンクチュアリだったから、外国勢から狙われていたのだ。
日本は、世界の他の地域には無い、まほろば。無辜の血が流れると、

汚れてしまい、しばらく神がやってこなくなる。八溝地域は、佐竹が頑張って、

良い状態にしていたのに、乱がおこり汚れてしまったのだ。
その時に、八溝大神の奥方様や、精妙で神聖な精霊たちが、

お岩山の奥に避難したというわけだよ。


それで、我が水戸黄門様だが、義公の御霊は、

まほろばである日本を守るという使命を持っていた。

その使命をなすため、大日本史を編纂し、家臣を全国に派遣して、地方の歴史や

伝説を調べて記録し、日本国の本来の在り方を証明しようと尽力しました。

それは、神様も評価していてます。義公は政治家だから、

調べた情報を政治利用して、権力者になろうとしてもおかしくないが、

そうしなかった。大義があっても、戦による平定は、神は嫌います。

戦はダメです。死人が出るし、聖域である大地も、軍靴で汚れます。

それは神道を実践するならわかるはずですが、侍というのは、お役人で石頭、

型通りの仕事をします。八幡改めというものですが、義公は神道の名のもとに、

神社以外の宗教物を破壊しました。義公に、少しでも神に寄り添う気持ちがあれば、そんなことはしないでしょう。古来からの仏教施設を壊したため、

八溝の結界が無くなり、常陸は聖域ではなくなりました。

つまり、江戸時代初期から、現在まで、常陸の大神様たちは、

お隠れになったままです。徳川家の責任なのです。三島は、その徳川の霊系です。
以上は、大筋ですが、もっと複雑な霊的経緯があります。

生瀬の皆殺しですが、なぜそうなったのか?


生瀬には、忍者の家があったのです。佐竹家の忍者です。

今いうスパイというより、調査会社のような組織です。

全国の修験者の繋がりを利用して、各地の情報を収集して、

戦乱を乗り切っていました。いつも言っていますが、欲のある所に魔物が来ます。

自分に欲が無くても、相手が欲しがるものを持っていると、

気を付けないと争いになります。お山のものは、生き物も、樹木も、

鉱物も、みんな神様のものですから、たとえ殿様でも、私物化は認められません。

昔の日本人は、その理はわかっていたはずですが、あえてそれを所有すると、

財、なので欲が生まれて魔物が来ます。現在も、日立には鉱山がありますが、

戦国時代に、日立に金鉱があるという伝説があったのです。

それを聞きつけた魔物が、佐竹と八溝を狙ったのです。


現世の伝承では、初めに、徳川の役人が来て、年貢だといい、

村のコメを根こそぎ持って行った。その後また役人が来て、

もっとコメを持っていこうとするので、切れた村人がその役人を撃退したら、

実は一度目の役人は偽物で、強盗。二度目が本物で、水戸の役人。

本物の水戸徳川の役人に逆らったので、制裁され、皆殺しになったというものです。皆殺しは本当のことですが、年貢が理由ではないです。金山の情報です。

影の主犯は佐竹側です。なんでもそうですが、

人間にかかわる事物には裏があります。佐竹氏にも欲のある先祖があり、

徳川を許せなかったのです。呪いというやつです。生瀬の無辜の村人が

数百人殺され、当然のこと、血の気枯れがお山に染み付きました。

やったのは、水戸徳川ですが、そうなるように、情報操作を仕掛けたのは佐竹です。佐竹は常陸を去りますが、常陸に大神が降臨できないように、

生瀬に血の気枯れを残したのです。原因はともかくも、実行すると罪になるので、

徳川に生瀬の罪が残りました。無辜の民を殺すと大きな罪になります。
ところで、家康様が、東照宮で神様活動をしているのは、私欲のためではなく、

生瀬の民のような無辜の人々を救い、日本を守るためと伝えておき、

とりあえず、この話はここまでですね。

 

 

 

 

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「常陸の国神様日記・天岩戸開き研究会」

 

 

天岩戸岩戸開き研究会のメンバーとの、

メッセージ+のログです。

不思議な神霊の世界の実話です。

 

 
 

 

 

 

 

 

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★幸福への提言ー執着を捨てる生き方


<人間は浄化の場>

 

「幸せとは何か?」という問いかけがありますよね。
人それぞれに答えがあります。

例えばこんな感じ、

「家族みんなが恙無く暮らせることが何よりの幸せ」

「平穏無事ないつもの毎日が一番」

「とにかく仕事が在れば何とかなる」

「とりあえず、宝くじを当てたい」

この回答をよく考えると、幸せって、自分が置かれている状態や

環境に対して言っていることなのでしょうか?

自分の欲求が満足されていて、無事に暮らせる状態を幸せというのでしょうか?

 

こんな例はどうでしょう、

三十過ぎの青年A君、彼は親に言われるままに良い大学を出て、

上場企業に入ったのですが、何故か突然退職してしまい、そのままニートをやっています。

初めは早く次の就職先を探そうと頑張っていましたが、

ふと気がついたのです、いのままでも良いのかも知れないと。

親が何でもしてくれるので、無職でも良いわけです。

今仕事をしなければならないという必然性が無いのです。 

A君は、親の機嫌を取りながらしばらくブラブラ暮らすことになりました。 

彼に「貴方は幸せなの?」とたずねたら

「少しも幸せではない、こんな自分になったのは親の責任。

 だから親は俺の面倒をみて当然なんだ」

何と勝手な言い分でしょう。 でも実際にA君みたいな人物が居たのです。

A君は、親と暮らしている限り幸せでは無い、と思っていますが、

ニートの身分を止めるつもりはありません。楽な暮らしですからね。

A君は、働かなくても親の資産で老後も暮らせます。 

派手に遊ばない限りは平穏に人生を送れます。でも本人は幸せだとは思っていません。 

彼は、自分の居場所が無い、と感じているのです。

職場にも、家庭にも自分を必要としてくれる人は居ない、

「自分は居ても居なくても良い存在だ」という考えがいつも頭の中にあり、

その強迫観念のような想念が、A君の周りに取り巻居ていました。 

どうしてそんな気持ちになるのでしょうか?彼が鬱だから? 

鬱と言ってしまえばそれまでですが、Aくんの発言は、

震災で大変な体験をしている皆さんにはまったくナンセンスで、話になりませんよね。

Aくんは、家族も生きているし、住む家もあるし、食べるのにも困らない。 

被災して何もかも失った人々から見ると、贅沢やわがままとしか映りません。 

実は、それはAくんも分かっているのです。でもどうしても仕事をする気持ちに成りません。

前向きな自分になれないのです。それは、幸せが無いからです。 

被災した人々よりまったく恵まれた暮らしをしていますが、

Aくんにとっては幸せではないのです。 つまり、幸せは、

物質的な環境に在るものでは無いと言うことですね。では幸せって何処にあるのでしょうか?


私は、一年間ほど歩けなくなったことがあります。

外はもちろん室内の移動も大変で、やっとトイレに行けるという状態でした。

座ることも出来ないので、和室の動作は苦労しました。

その時はアパートに住んでいて洋室は無かったので、畳に座らないと暮らせません。 

そこで時間があれば、膝を曲げて正座をする練習をしました。

もう一つ困ったことは、靴下を履いたり足の爪切が出来ないことです。

健常者なら何でも無いことですが、トイレに行ったり、座ったり靴下を履いたり、

日常の普通のことが、誰かに助けてもらわないと出来ません。 

しかし、当時は夫とは家庭内別居の状態で、実家も遠く、頼れる人が居ないので、

早く足を治そうと決意し、それから私は、毎日自分なりのリハビリをしました。

(整形外科のリハビリ室に務めていたことがあり治療法は熟知していました)

 

膝関節の周りを丹念にマッサージして柔らかくしながら曲げて行きます。 

痛いのを我慢して曲げ伸ばしを繰り返しました。一年くらい続けて、

少しずつ足の状態が良くなってきました。一番感激したのは、あまり時間を掛けないで

スッとトイレに行ける様になったことと、靴下を履けるようになったときです。

それまでは、靴下を履き替えるために身体を曲げると、大変な痛みだったので、

同じ靴下を何日も履いていました。

(それから20年たち、結局靴下を履くのがキツイのと、杖が必用になりました)

 

昔から「失ってみてそのものの大切さが分かる」といわれていますが、

正にそれを実感したのです。トイレに行くのも、靴下を履くのも、正座をするのも、

日常のありふれた行為ですが、それが出来なくなって、

身体が五体満足であることのありがたみが分かったのです。 

つまり、普通に暮らすことの幸せですかね。しかし、実はもっと深い意味があったのです。 

「失ったから大切さが分かった」のでは無いのです。 

執着がなくなったから、小さな幸せを感じることが出来るようになったのです。

もし執着があったなら、トイレに行けたくらいではうれしくないでしょう。

以前のような元気な身体にもどりたいと焦り、神や世間を恨んでしまいます。 

自殺願望があり、神を恨んでいる人は社会に対して執着していることが多いものです。

しかし、執着していないなら、自殺願望で悩まない。

何時死んでも良いけれど、自殺願望が原因でウツにはならないのです。

社会から自立しているので社会を恨まない。


それに気が付いたのは、3月11日の震災があって、自分自身も被災地区に住んで

直接体験し、熟考する機会が与えられたからです。

何かを失う、例えば破産して財産を失う、病気や怪我で身体の機能を失う、

大きな災害で家族を失う、など、元には戻せない大きな損失があり、心に傷を負っても

時間は流れていくものです。状況はどうであれ、時間の流れが人間を前進させます。

前向きでは無いにせよ「このままではダメだ、とにかく生活しなければ」

と言う気持ちに成ります。

 

私は、離婚して一人になったら、お金は生活保護をお願いするとして、

日常の動作を一人で出来るようになりたい、その一心でリハビリに励みました。

意地っ張りもありますが、今思うと、その時点で家族や仕事、

健康な身体に対する執着が無くなっていたのです。

「元の自分と同じにならなくてもいいから、取り合えず生活できるようになりたい 」

一端、現世的執着から離れて、どうやって生きていくか考え直し、

リハビリしかないと思ったのです。

つまり障害者になることで、執着が無くなったのです。ここで私が言いたいのは、

執着心が幸せを感じる心のチャンネルを閉ざしているという真実です。

心のチャンネルが閉じているというのは、霊的には大変重大な状態です。 

人の心は、神の光と物質界の波動が交じり合い、万物を浄化する場なのです。

その浄化の場を閉ざすというのはどういうことなのでしょうか? 

人間という存在が何故尊いのでしょうか?

それは、人間の魂と身体の中で、神の救済が行われているからです。

人は、神の力の媒体です。人間は神の力を、物質の世界に導く役目があり、

それこそが人間の存在意義なのです。


執着心によって心が閉ざされると、その役目を果たせなくなります。

自殺願望があり「早く死にたいのに、生かし続ける神を恨む」と言う人が多いですが、

その自殺願望に耐えて行き続ける事で、自殺霊を浄化しているのです。

つまり、いくら神に恨み言を言っても、生き続ける以上は、

神のお役に立ってしまうわけです。 逆に言うと、生きて行くこと自体が生きる意味なのです。

自分の生きる意味に疑問を持つ必要は無いのです。

 「霊性を高めなさい」「魂を浄化しなさい」と言いますが、正にこの仕組みを指していて、

人が自身において、神の光を物質界に放射し、この現世を明るく照らすことを言うのです。 神の光を媒介する人間は、隣人に対して、導きの灯台にならなければならないのです。


それは、このような事です、

生活するためにはお金が必要ですが、執着すると、お金のためにお金を欲しがります。 

「もっと欲しい」と思うようになります。

或いは、人よりも見栄を張りたくてお金が欲しくなります。

しかし、お金を稼ぐ本来の目的は生活をする為だったはずで、その生活は何のたか?

というと、社会に役立ち人のためになるため、何かの役に立つために生きている

という事ですよね。その何かの役に立ちたいという気持ちも、

心のチャンネルを開く切っ掛けになります。人のために何かしたい思いやりの気持ちは、

執着から離れて素直な気持ちになれるからです。

でも、執着を離すだけなら、瞑想や精神統一などの行で案外と上手く行きます。 

無になるということですが、それだけでは「幸せ」とは違うようです。

無になると、心は穏やかになりますが、より「幸せ」というわけでは無い。

人間は執着を無くすだけでは「幸せ」ではありません。

 


<執着を無くすと学びがある>

 

それを理解したのは、本格的にスピリチュアルカウンセリングを始めて、

様々な霊と交流するようになってからです。

真面目にスピリチュアルに取り組んでいる努力家には、

僧侶の霊が付いていることが多いのですが、本人も僧侶霊も霊格は高いのに、

何故かあまり幸せじゃないのです。僧侶霊は他界して二、三百年経つのに

「まだ修行中です」と言います。無欲で修行に励む。 

それ自体は悪いことではありませんが、何か違うな、と感じました。

僧侶や行者の霊は、生前は一生懸命修行して、そのままの意識で他界し、

霊界でも同じように修行しているようです。

彼らの目的は「世俗を離れ、欲を無くす」事ですが、

それなら障害者に生まれ変わると良いのです。 

障害者になれば、俗世の殆どのことをあきらめなければならなくなります。

地位も名誉もお金も無意味になり、セックスも出来なくなるので、

出家する必要がなくなります、と、ある僧侶霊に話すと

「カタワ者は未熟な人間なのだ」と言ってきたバカな霊が居ました。

この僧侶霊は、単純に修行すると業が無くなり徳を積めると思っているようです。


私は、自分自身が幸せか、不幸かということは考えたことは在りません。

でも、人生の中で一度だけ「自分は不幸だ!」と感じたことがあります。

それは高校三年の三学期で、進路を考えなければならない時でした。

それまではある大学を志望していて、共通一次に取り組んでいました。

その大学は自分でも自信が在ったので、必ず合格できると信じていたので、

もう入学する気持ちでいました。 しかし、願書の提出期限ギリギリで進路を変更し、

大学進学を諦めざるを得なくなりました。 当時は大変なショックでした。

今でも、年末のその時期になると思い出します。元々目が悪かったのですが、

気が付くと0.01になっていたのです。視力がガクンと落ちて、メガネを掛けているのに

最前列の席でも黒板の字が見えなくなっていました。

慌てて眼科に行くと「この視力は盲人のレベルだよ」と言われました。

病名は緑内障です。 それで大学進学を諦めたのです。

無理に行けば行けるとは思いますが、先が無いですから。 

大学を出ても、目が見えなくなっていたら、社会に出られなくなります。

それなら、失明しても身を立てられる盲学校に進もうと考えたのです。 

(私は親との確執があり、失明しても親に頼るつもりはありませんでした)

クラスメートは、みんな大学受験の追い込みです。 私一人だけ盲学校でした。

すごく落ち込みましたが「失明対策!盲人になっても自立するため」

と自分に言い聞かせました。それから盲学校入学の四月まで、

ツウツウとして毎日をすごしました。 

「自分は不幸。霊能者ってプライベートでは不幸になるっていうけど本当」と感じていました。


<寄り添う心が人を幸せに導く>

 

しかし盲学校の生活がスタートしてからは、

自分の考えが完全に間違っていたと分かりました。

盲学校は、私にとっては人生の学びの場で、しかも楽しいところでした。

盲学校は、先生も生徒も真面目で勉強熱心な人たちばかり、ワルは一人も居ませんでした。同じ境遇の仲間で、みんな互いを思いやり、アットホームな場所でした。

それに比べると健常者の普通校は、殺伐としていて

下品で粗雑な人間の溜まり場に見えました。普通校は身体が元気な分、

動作や言葉遣いが粗野なのです。

それと、盲学校の皆さんは自分のことは不幸と思っていないのです。

それは、自分の置かれている状況を冷静に受け止めて、

流れのままに生きているからなのです。もっとも感銘を受けたのは、先輩のカップルでした。二人とも全盲ですが、学校を出て社会人になったら結婚すると言います。

「先輩達は、結婚して子供はどうするの?」と聞いたら 「当然、欲しいよ」というので、

「もし目の病気が子供に遺伝したらどうするの?心配じゃないの?」

大変に失礼な質問ですが、人事ではなかったのであえて聞きました。

「二人とも遺伝性の病気だから、子供もそうなると思けど、

 私は家族が欲しい。一緒に生きていける家族が欲しいから子供を生むよ」 

先輩は、ごく自然な口調で話しました。私はこの言葉も、感銘を受けました。 

昔から、生まれてくる子供は五体満足で、欲を言えば頭のいい子がいい、

といわれていますが、子供を生む本来の意味は、優秀な人間が欲しいということが

目的ではなく、魂が、絆のある人生の仲間を求めているからでしょう。

五体満足な健常者は、どうせ育てるなら優秀な子供が欲しい、と願いますが、

それは目的の履き違いで、子供を生む目的は、家族を作ることであり、

自分と絆のある仲間を自らの力で作ることなのです。 苦しみや、喜びを分かち合って、

共に寄り添って生きていく仲間を作ること。それが家族。

盲学校の皆さんは、障害を持ち、互いに寄り添って生きていくことで、

人間として大切な気持ちを自然に現すことが出来るのです。

私は、心の底から盲学校に入って良かったと感じました。

そのまま健常者の中に暮らしていたら、

人間として本当に必要な心に気が付いていなかったでしょう。

この時、初めて霊界に感謝しました。

 

それで、幸せって何でしょうか?

他界して何百年も経つ僧侶霊は、霊界で真面目に修行して、

執着心はなくなっているはずなのに「まだ修行中です」という。

そして、私が盲学校で知った、互いに寄り添う心の真理。 

私は、人として素直な気持ちで生きていく、盲学校の先輩カップルが真であると思う。

人として在りのままに生きていけば、出家して僧になる必要は無いと考えています。 

皆さんはどう考えますか?


★遠野の世界と精霊ー自然は危険に満ちているはず


<本来、自然は危険に満ちているはず>

 

神様の気持ちになって考えたとき、神様ならどんな人間が好きでしょうか?

もちろん神は平等に考えるでしょうから、意味も無く人を差別することは無いでしょう。

でも、神にも感情があるとしたら、どんな人間に好感をもつでしょうか?

私は「幸福の提言」で触れた、盲学校の先輩カップルと思うのです。

 

人は、自分に覚えの無い出来事が起こると、他人の所為にします。 

お年寄りの物忘れで、自分でしまったことを忘れて「嫁が盗んだ」と思い込む義母や、

切れやすい性格の人に多いのですが、自分の感情が爆発するのを相手の所為にしたり。 

それを震災と同じに論じてはいけないかも知れませんが、テレビのインタビューで、

津波で流された街を見て「神様なんて居ない」と言っていた被災者が居ましたが、

お気持ちはわかりますが、それは違うのです。

人知を超えた部分に対してそう感じますが、神様の有無と天災は関係ないのです。

天災は自然の営みの中で法則的に起きていることですから。

神様から見ると「神様なんて居ない」と言われると、

「勝手なことをいっているな」と思うでしょう。神様は人間の都合で存在していないので、

逆で、人間が神のために作られているのですからね。

人は、神に代わって、より幼い霊たちを助けるという役目を負っています(イザナミワーク)  それ故、神はいつも人間に寄り添い、人間と苦しみを分かち合っているのです。


私の母の実家は北海道の漁師の家系です。今も親類に漁師がいます。

漁師は10年に一度は海で悲惨な事故に見舞われるそうです。

つまり、同僚の誰かが亡くなるのです。だから漁をする時は

「次は自分かも知れない」と、いつも心の隅では覚悟があるそうです。 

 

同じように、炭鉱の作業員もそうです。

私は夕張の側に住んでいましたが、子供の頃はまだ炭鉱があり、

炭鉱も大変危険な職場なので、皆さんは覚悟して仕事をしていました。

炭鉱のおじさん達は「あれは危なかったな、今度は死ぬかもしれん」 

と言いながら居酒屋で談笑していました。 

「死」という言葉が日常の何気ない会話に出てくる。

漁師や炭鉱労働者は、自ら危険に向かって行くのですから、震災被害とは違うものですが、行き成り多数の人命が失われるというのは、意味としては同じことだと思います。

でも、漁で遭難して亡くなる人も、炭鉱事故で亡くなる人も「神なんて居ない」とは言わない。 危険と隣りあわせで生きているということを自覚しているからです。

震災で、壊滅した街を見たとき、大変に衝撃を受けましたが、

ふと思ったのは、今お話した、漁師さんや炭鉱夫さんのことでした。同じなのです。


街で平和に暮らしていると忘れていますが「危険」はすぐそこにあるのです。 

人間は自然の中で間借りして暮らしているのです。

自然の中では何時何が起こるかわからない、それは極当たり前のことなのです。 

人間の営みは、本来は危険に満ちているものなのです。安全な生など何処にも無い。

それを冷静に受け止めて、覚悟して生きること。

スピリチュアルの側面では特に求められています。


<パワースポットの担い手は精霊たち>

 

パワースポットがブームになり、安易に聖域を荒らす人間が増えましたが、

 「行けば取り合えず何かご利益がある」と思っているのでしょうか?

自然はそんな簡単なものではないのです。 

自然は、人間の慰安のためにあるのではありません。 

貴方が聖域の精霊だったら、やってきた人間をすべて歓迎できるでしょうか?

パワーを与えるに相応しい人間と、来て欲しくない人間があるはずです。

 

ところで、パワースポットから何故パワーをもらえるかご存知ですか? 

波動とか、気と言いますが、その荷い手は精霊なのです。

その場所で「気を感じる」という表現をしますが、その陰では精霊が活動しているのです。 

一精霊一ご利益というか、精霊が人間に憑くことでパワーとなるのです。

自然界の生命の欠片が、長い時間を掛けて個性を持ち、精霊となります。 

自然に宿るツクモ神のようなものだと思ってください。精霊達は、無邪気で繊細な性格です。

精霊は自然界のいたるところに棲んでいますが、

パワースパットといわれるところにはたくさん居ます。 

だいたいそんな所は、精細で美しい場所です。人間は、綺麗な風景に感動しますが、

それは、ただ単に景色の良し悪しの問題ではなく、

精霊の存在を人間の魂が受け取るからこそ「ここは綺麗、すがすがしい」と感じるのです。

精霊達が「ここに居るよ、楽しいよ」という波動を人間に発し、

それをそのまま人間が受け止めているから「パワーをもらった」と感じます。

ほとんどの人間は、オーラや気の変動としか感じていないようですが、

精霊が動いて初めて「気」が分かるのです。

精霊達は、人間から見ると霊としては未熟で幼い霊ですが、

神の端くれであることには間違いありません。 

そして、精霊達の純粋な波動は、楽々と神に通じてしまうのです。


<生きることの覚悟 遠野、再び>

 

3・11で被災したお年寄りが

「この世の地獄を味わった。自分の寿命は長くないが生き残ったから生きていくしかない」

と語った。この老人は、テレビの前で話すことで、生きることの覚悟をしたかも知れない。

福島原発の放射線被害で、避難せずに家族と残っている母親が、

「福島に残るも地獄、避難して出るのも地獄」 と言っていた。

それは、福島に居ても、福島から出ても全く見通しが立たず、

絶望と不安の中でそれぞれの道を選択しなければならないという、

生きることの覚悟の言葉です。

 

震災という極限の体験でなくても、人生の中で生きる覚悟をする場面は幾つかあります。

例えば、出産の時は、子供を産み育てていくという覚悟。

癌等の大きな病気をして、その治療やリハビリに向かうときの覚悟。

母親が子供を連れて離婚するとき、など。

人生を掛けて取り組む生きるための覚悟は、普通の暮らしの中にも在るのです。 

『生きるための覚悟』は、霊性を豊かにするためにはとても大切な心的状態です。

 

震災によって、多くの皆さんの魂がそのときを迎えようとしているのかも知れません。 

何事も無い、のんびりできる日常が平和が、

正しい社会であると勘違いしている人が居ますが、リスクの無いものはありません。 

だから保険に入ります。震災でなくても、事故や大病を経験した人は分かるでしょう。 

一日一日が大切だということ。


ところで、ここ6年くらいから、毎年東北へ行っています。 

主に青森県内の神社めぐりですが。 恐山も年に何度も行っていて、

あちらこちらにお稲荷さんが奉られています。東北の海岸線の道路の側には、

小さいお社が点在していて、お稲荷さんと八大竜王が多いです。 

国道を走っていて見え隠れする赤い鳥居は良い風情でした。

車を止めて境内に入ると、小さな精霊くんが木陰からこちらを覗いていました。 

そのお社たちは、津波で流されているのでしょうね。 

山の上の神社は大丈夫でしょうが、テレビを見ていると、土台さえも残さず、

跡形も無くなった神社が出ていることがあります。気になるのは、その神霊さんたちです。 

みんなどうしているのでしょうか?

 

被災した人間、福島の原発避難区域に取り残された動物達、命ある者はみんな心配です。 そして同じくらいに、被災地域の精霊たちの動向が気がかりでした。

すると、ウチのお稲荷さんの高橋くんが、

「上の神様は避難しているけど、精霊たちは人間のところに居るよ。

 ボランティアさんたちと一緒だよ」と、稲荷は得意げに語ります。

「天の神様は現場の仕事はしないけど、精霊は里の住人、人間と一緒だよ。

 ボランティアの人たちにくっついて全国から集まっているよ」なるほど。。。

精霊は軽い性格なので、厳しい場所には居ないと思っていましたが、

被災地に留まっているのです。 人間を支援しているのでしょうか?


私は、3.11の津波が襲い社殿が無くなった地域は、しばらく神は居ないのでは?

と考えていました。 というのは、以前、阪神淡路大震災があったときのことです。

当時は成田に住んでいましたが、近所の神社内に神戸の生田神社と同じ祭神の、

稚日女尊を奉る神社がありました。麻賀多神社です。

成田のこの神社は全国のワカヒメ様が集まる聖地で、神戸のワカヒメさまも降りていました。

近くのなので、何かとお参りに行っていましたが、境内に入ると、

いつもこの女神様たちがニコニコして出迎えてくれました。 

それが、ある日突然、ワカヒメ様たちの気配が無くなったのです。

姫神たちだけでなく、境内の精霊さんも静かになりました。 

神社の神霊を感じなくなることはたまにあります。 

社家や氏子に不幸があるときや、神社の隣の敷地にビルが立つとか、

台風がやってくるときなど。でも、たいていは二、三日で戻ってきます。

神社に誰も居なくなることは無いはずなので。

しかし、その時は一ヶ月経っても二ヶ月経っても神霊の気配はありませんでした。

境内全体が喪に入ったようでした。「何か重大なことが起こるのかな」と心配していた矢先、阪神淡路大震災が起きました。 私は「ワカヒメは震災で霊威が傷ついたのかも知れない、そのため身を隠したのかのだろう」と考えていました。

ですから、3.11でも、被災地の神様はしばらく居なくなるのではないか、と予想していました。


稲荷は「ボランティアと一緒に全国から精霊さんが集まっている」と言っていますが、

どんなことなのでしょう。そこで霊的な観点から、3.11とボランティアについて調べましたが、

興味深いことが分かりました。 それは「遠野」です。 

柳田国夫「遠野物語」は有名ですが、最近NHKの新日本風土記で遠野をやっていました。 「遠野物語」の精霊の世界は今でもひっそりと残っているようです。

今はすっかり有名になり観光客が殺到する中、集落のお年寄りが屋敷神や

座敷童子の伝承を守り伝えています。実は遠野地域だけでなく、東北全域に、

まだ精霊が住んでいます。明治の初めまでは、日本全体が精霊の国でした。 

精霊の国、というとのどかなパラダイスの感じがしますが、先のも述べましたが、

「覚悟をして生きる」所に精霊が棲みます。東北に精霊が残っているのは、

自然が厳しい地域だったからです。

 

「遠野物語」に出てくる河童は赤い顔をですが、それは口減らしのために川に捨てた

赤ん坊の象徴だそうで、座敷童子も、闇に葬られた子供を表立っては供養できないので、

座敷童子という妖怪に見立ててお奉りしたのが起源らしいのです。

「遠野物語」のファンタジーの世界は生と死が隣り合わせに生きていた東北の人たちの、

苦悩の物語でもあるのです。 江戸時代の頃は、二、三年起きに飢饉があり、

苦しい生活が続いています。そのギリギリの暮らしの中での神霊との交流だったわけです。

 

天の神(天照に代表される天津神)は、人間の苦しみの現場に直接降りることは出来ません。

それは、穢れがあるからです。通常でも神に会うには潔斎が必要ですよね。 

神社のお参りは、直接祭神が出てくることは殆どありません。 

眷属の神霊が人間の用件を神界に取り次ぐのです。災害の現場や、飢饉などで

たくさんの人間の苦しみの想念が渦巻く場所には、神は降りないのです。


では、神様は何もしてくれないのでしょうか? 

そう、現象的には何も出来ないのです。

(西洋では、キリストが天使と聖霊を引き連れて現世に降りますね) 

結局のところは、人間は自力で立ち上がるしかないのですが、

しかし、神霊は人間に「元気」や「勇気」「喜び」は与えてくれますね、

その荷い手が精霊たちなのです。神が人間に与えるこれらの力は「愛」と言われています。

精霊たちはその神の「愛」を人間に運ぶ手伝いをしています。

 

野の花が咲く草原に立つと「気持ち良い」「癒される」と感じるでしょう、

それは野の精霊が貴方の魂に土地の神の霊力を分けているからなのです。

精霊の力を受け取らなければ、ただ単に綺麗な場所だったな、で通り過ぎてしまいます。

このように、精霊は神の愛の力を人間に伝える役割を持っているのです。

神は、人間を取り巻く環境の至る所に精霊を配置していますが、

しかし、東北は3.11の津波で沿岸部は流されてしまい、

精霊が宿るための自然や場所がなくなりました。

精霊は機械を嫌うので、復興の工事中は戻らないでしょう。

(神社の精霊たちは車のエンジンや発電機の音、電気の配線が苦手のようです)

それではしばらく被災地には精霊は戻らないのでしょうか?

先にお話しましたが、高橋くんが言うには、全国の精霊たちが

ボランティアの人間に憑いて被災地に入っているというのです。

ボランティアの人たちが、被災者と交流することで、

全国の精霊の力を東北に与えているらしいのです。そこで、遠野が出てくるのです。 

被災地を支援するにはその中心となる拠点が必要ですが、

それは自治体の社会福祉協議会が担うのですが、3.11では、市役所や役場も

壊滅してしまい、機能できなかったのですが、隣の地区の遠野は全く被害が無く

東北のボランティア活動の拠点となっています。震災から一年ほど経ち、

被災者に寄り添うという活動の在り方が求められていますが、

遠野に相応しい役割であると感じました。 遠野は柳田国夫により、

精霊の里として世に知らしめられましたが、そして今、

震災によりその霊的使命がより一層明確になったのです。

東北の神々は、古くからの日本の国津神です。 妖怪の姿をしている神もあります。 

それは、何にも飾らない自然体の精霊の姿です。 

国津神は、太古に生まれた精霊が神界で成長して神の域に達した神霊です。

その神霊を起源とする精霊たちと共に生活する日本人は幸せであるはずです。

では、どのようにすると精霊たちと暮らせるのでしょうか?

それは、貴方が精霊たちの魂の里になるということです。

 

 

★代受苦者の神理ー被災者はイエスさま 

 

家の中に、悪い念が入り込むと、ペットや子供など、

その家庭の中の弱いものに現れることが多い。さして理由が無いのに

子供が病気がちであったり、動物を飼っても二、三年しか生きなかったり。 

私は、外で勤めているとペットの犬や猫が早死にする傾向がありました。

元気な子を飼うのですが、二歳くらいで亡くなります。 

私はペットが亡くなるたびに「自分の業を背負ってくれたのだな」と感じました。

というのは、当時の仕事は人間関係が厳しく、職場から悪い念を持って帰ったり、

同僚に逆恨みされることがあり、その業想念は、

私の体調が悪いときは病気になって現れるのですが、ほとんどはペットを攻撃したのです。 

つまり、ペットのワンコが私の代受苦者だったのです。 

 

しかし、子供の頃は、私が親の代受苦者でした。 

私の実母は、正義感が強く竹を割ったような性格の人です。

定年まで仕事をしていましたが、職場の上司やオーナーに対しても、

間違っていることはズバリと物言いをするので、何時も逆恨みされていました。

母が職場でトラブルがあると、相手の生霊が憑いて来ます。 

相手の睨んでいる顔が母の肩越しにビジョンできます。

そうすると、私のところに来るのです。母は強い人なので、

相手の生霊は跳ね除けてしまうのですが、その相手もそのままでは気がすまないので、

子供の私に憑くわけです。 それで次の日は熱を出して寝込むことになります。 

子供心に、その図式がとても嫌で「どうして母の業を引き受けなければならないのか?」

といつも母に反発していました。ある時それを指導霊に尋ねると

「それは君が親だからだよ。霊界では君が上だから下の者の面倒をみないとね」 

とそっけなく答えました。 

しっかり者の子供が、ダメ親の責任を取らされているのでしょうか? 

当時はそう簡単に考えていましたが、その図式は地球全体の視点に立つと

とても重要な意味を持つのです。

障害を持って生まれている人に対して「前世のカルマだ、前世の悪行の報いだ」

言いますが、それは全く違う。今までたくさんの方の前世を見ましたが、

前世で強欲な地主で、たくさんの人々を苦しめた人が現世で医師になっていた

というケースや、前世では高僧で、日本の政治に影響するまでの働きをした人物が、

現世では平凡なサラリーマンのような場合もありました。 

前世の行いがそのまま次の人生に現れているわけではないのです。


盲学校に居たときや、障害者施設の職員をやっていたときに分かりましたが、

障害を持って生まれてくる人は、魂が繊細なのです。 柔らかな霊体を持っています。

そのために周囲の人間から霊力を取られてしまうのです。

私が母に憑いてきた生霊を浄化していたように。

繊細な魂で、柔らかな霊体は、より霊的な存在ですから、精霊たちに近いものです。

実際に、施設で知った重度の知的障害者の女の子は、

霊視すると光しかビジョンできませんでした。その人は成人していますが、

自分の名も分かりません。 健常者にはこんな光を持っている人は居ません。 

この人のような障害者は、「それでも生きていける」ということです。

 

つまりその業が無いので持たなくても生きていけるのです。

健常者は生きるために学歴やお金、名誉など現世欲に関わるものが必要ですが、

施設に暮らす障害者には必要ないのです。

 

 

 

 

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