長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

私たちの居た場所

2022年01月02日 23時28分39秒 | 旧地名フェチ
この時季ならではの必然的な用向きで、宮益坂の渋谷郵便局へ向かう。
渋谷のまちは私の学生時代、明治通りが長いこと工事中だったが、それから40年余りたった現在も大工事中である。

ことに、この度の大改造は…何かというとmy休息の場所であった東急プラザが建て替わり、そして今また屋上から地下街まで自分の庭のように思っていた東急東横店(井の頭線コンコースから階段を使わずにデパート内のエスカレーターだけで東館へ抜ける道筋を知っていたのは私の密かな自慢でもありました)を失うに至り…自分の体のように感じていた場所を一つ、また一つと喪って、“逆どろろ”現象とでも申しましょうか、
「この場所に85年間、東急東横線渋谷駅がありました」という看板を見るたび泣いていたのだが、その看板すらなくなってしまった。

2019年暮れの地下鉄銀座線渋谷駅最終日は、偶々青山1丁目に用事があったので立ち会うことが出来た。
宮益坂から、以前取引先の関係でよく立ち寄った三菱信託銀行の脇を入って、ヒカリエを抜けて銀座線の高架通路沿いに井の頭線へ至る帰り道、通るたび変わってゆく景色と工事の進捗状況に、しばし感慨に耽る。
明治通りの中空に出来た新しい銀座線渋谷駅の、まだ工事中である西片の旧東急東横店遺構内のレールの先に、かつて私たちが佇んでいた、旧銀座線渋谷駅のホームが見える。

あの場所から、むかし、押上の住民だった"整いました"の友と浅草へ出掛けた。
半蔵門線が半蔵門駅までしかなかった昭和の学生時代、神保町の古書店街へ行くのも、あのホームからだった。
平成ヒトケタ時代に勤めていた虎ノ門の会社や、新橋、銀座、木挽町の歌舞伎座、三宅坂の国立劇場へ向かうのも、あの場所からだったのだ。
あのホームに立って電車を待っていた人々は、今はどうして居るのだろ…

渋谷の街角はこのところ我が愁嘆場と化していた。
 …われ 人と とめゆきて 涙差しぐみ かへりきぬ……
圓歌師匠も泉下へ赴かれた。
談志師匠のお誕生日に往古の念にとらわれるのも因縁でありましょうか。

20世紀の渋谷の街は、もっとずっと、お洒落で明るい生き生きとした日常生活と風情のある、活気にあふれた美しい街だったのですよ…
無機質でただただ巨大な建設中のビル群は、もう何世紀か経つとパルテノン神殿かストーンヘンジに似た廃墟への未来を予感させて、人間の寸法で出来ていた温もりのある街並みを懐かしみ、我々にとっての幸いとはどこに在ったものだったのか、と、独り顧みる。



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