皆さんお久しぶりです。最近安倍の問題等で脱線していましたが、話を明治維新に戻します。

 

前は井伊大老が、天皇の許しを受けないのに、アメリカと、日米通商条約を結んだとこまで行ったと思います。

 

先にも書きましたが、彼は、国学を真剣に学んだ、天皇崇拝の考え方を思った方でしたが、国の将来のために、やむにやまれず、天皇の反対を押し切って、条約に調印します。

 

そして、桜田門外で殺されますが、そこに至るまでの経緯を少し書きたいと思います。

 

学校の教科書では、強引に条約を結んだ悪者みたいに書かれていますが、実はこの時の、孝明天皇や、公家が、頑迷で、ものがわからない、人たちだったのです。

 

条約調印の後、水戸の徳川斉昭、越前の松平春嶽らは、無断で江戸城に登城し、井伊を詰問します。それで、井伊は彼らを謹慎処分にしてしまします。

 

徳川斉昭も、基本は外国とはうまくやっていこうと考えていました、水戸は尊攘攘夷の考え方の生まれたところではありましたが、頑迷な外国排除ではなく、朝廷や、幕府等が争うことなく、日本が一体となって、国力を蓄え、外国と対峙しようと、穏健な考え方、これが尊王攘夷の基本的な考え方でした。

 

徳川斉昭らは、井伊直弼に、ちょっと性急すぎないかといさめに行ったのでしょう。

 

しかし、水戸にも過激派がいてやたら外国を排除することだけを言う人たちもいました。

 

頑迷な孝明天皇は、「戊午(ほご)の密勅」という勅令を出して、井伊直弼を糾弾せよ、諸大名には、攘夷と、朝廷を尊重せよと命令します。ここから話はおかしくなっていきます。

つづく・・・

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