朝寝のモカです。
昨日は大好きな場所(公園)にいき生き生きと歩いてきました。

今日は父がいるのでお庭程度かな?

今朝父のトイレ介助で燃え尽きて座り込んだ私の足元に
いつの間にか来てました。


先日父の従弟が老衰で亡くなり今日は火葬と通夜で
明日は本葬です。

父宛の案内ですが勿論行くのは旦那。

亡くなった次の日に両親を遺体と対面させました。

久しぶりに会うのが葬儀会場と言うのは寂しいですが
晩年の従弟さんは老人ホームに入ったあと病気で入退院を
繰り返していて
その間に父も倒れてちゃんとした会話を交わしたのは
かなり前になってしまいました。


父の従弟の実母は父の母の妹さんで
聞いた話だと嫁に行ったけど
何らかの事情で子供をつれて実家に帰ることになり
すでにお婿さんを貰っていた父の母は家を出て
妹に家督を譲ったと言う風に聞いています。

それから樺太に家族で渡ったのだから
父の両親にも実家にも色々事情はあったのでしょう。

因みに父の姉は大きかったからか子守りとして大きな商家で
働き樺太には行かなかった??とか。

そして樺太で両親兄弟が亡くなり父はまだ小学生の身で
一人県内の父親の実家に帰りそこで成長。
中学を終わって姉や母方を頼り此方に来たのでしょう。

こうして書くと数行ですが本当に命からがらの帰還であり
私が生まれなくても当たり前の経歴です。

今回亡くなった従兄弟は家督になった叔母の息子として
実家を継ぎ出稼ぎや地元で大工として働き
一人娘と奥さんと震災の時を迎えました。

家は高台にあったので被害はありませんでしたが
被災した我が家を避難所にいの一番に見舞いに来て
支援物資を置いてってくれた人達です。

避難所に落ち着いてからは
まだお風呂のない私達を呼んで入れてくれたり
暖かいご飯を食べさせてくれたり
家の畑の大根やじゃがいもを譲ってくれたりと
本当に出来ることで支援してくれて
一人娘の私を気遣ってくれた人でした。

家の家がたつ頃従弟は大病を煩い
家にはいましたが前のようには動けなくなり
再建した我が家に招くことは出来ませんでした。

モカにも合わせられなかったな…😢

棺桶に入った従弟を見た父は静かにみまもり
そして何度も鐘をならして手を合わせました。

元気なときから病気ばかりしていて
耳が聞こえず会話にならない父を
心配したり叱ったりしてくれていた従弟の声が
聞こえるようでした。

「耳元で何回も何回も鳴らすな!!」笑

最後は経口から食べられずすっかり顔が小さくなっていた従弟の安らかな顔。


遠距離でも旦那様と介護してそして看取ってくれた
娘さんに見送られた事はみえたでしょうか。


子供の時には見えなかった人間関係とは
塞いでしまった感情とは
年を取ってこうして見えてくるもんなんだと
教えてくれた従弟の晩年は
私に老いの支度と言うものを自覚させてくれました。

好きには好き
嫌なものには嫌と言う
ただそれだけが人生を救う糸口になる。

それは同じように戦争と言う時代に翻弄され
会うことはかなわなかった父方の祖父母とともに
少なくとも自分には命として自由な選択があることを
尊く思うのです。