ブログ・ザ・不易流行

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自分のための言葉を見つける旅

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 私は小学生の時までは、理系に進学しようと思っていた。小学校の卒業文集にも、「将来どんな仕事に就きたいか」という質問に答えて、「日本のためになる仕事。できれば理系」などと書いていたように記憶している。「日本のためになる仕事」が「理系」だなんて、ずいぶん短絡的な思考だが、両親がともに理系であったため、知らず知らずのうちに「洗脳(?)」されていたのかもしれない。げんに私は、「理科工作クラブ」なるものに属しており、植物を育てたり、ラジオをハンダごてで作ったりするのが好きであったし、自分でも「理系」が好きであると勝手に思い込んでいた。

 

 ところが中学生になると、好きなはずの「理系」科目の「数学」や「理科」を少々難しいと感じるようになった。それとともに、若くて美人(!)の国語の先生に作文を褒めてもらったり、「あなたは国語が出来る」と言われたりして、有頂天になり、自分は国語が得意なのだと勝手に思い込むようになった。

 

 高校生になると、たぶん無理だろうと思っていた進学校にたまたま合格できて入学してしまったからか、1年生の入学時は、どの科目もさんざんな成績で、授業もあまりついていけず、唯一「現代文」の時間だけが、救い(?)の時間となった。現代文の先生はアトランダムに生徒に発問される方であったが、クラスメイトが答えに詰まっている時、「どうして僕に当ててくれないんだろう」と思ったりした。そして、自分はどうしても大学の文学部に行かなければならないという思い込みを持つようになった。

 

 なんとか希望通りに大学の文学部に入学できた私であったが、高校の時に意気込んでいたわりには、大学の講義を聴講することに熱心でなかった。それというのも、大学の授業は、ともすれば教授の専門的な話題に終始して、受験勉強しかしたことのない初学者には入り込んでいけないようなものであったからである。今から考えると、「猫に小判」という感じで、貴重な機会をずいぶん無駄にしてしまったものである。

 

 そうした大学の授業の中で、唯一と言っていいほど啓発されたのは、1回生の教養課程での大峯顕先生の哲学の講義であった。大峯先生は、新学期の最初の講義で、新入生の前で次のような内容のことをおっしゃった。

 

「君たちはきっと、人にはいろいろな考え方があって、それぞれが『自分の哲学』でものごとを処理しているのだから、いまさら人の考えなんて学んでも意味がないのではないかと思っているのだろう。けれどもそれは間違いである。君たちの考え方や、思想、哲学なんて、たかがしれたものだ。哲学とは自分の考えを大事にすることではなく、先人の哲学を学ぶことである。哲学とはまず哲学書を読むことだ。自分のちっぽけな思想をこねくり回すことではない。」

 

 3回生になって、私はドイツ文学を専攻したが、当時助教授であられた中村元保先生はゼミの中で「文学はまず基礎から」とおっしゃった。

 

 「文学に基礎なんてあるのか」とうそぶき、文学部生にとって重要な語学をサボる口実にしていた私は、自分の思索や体験から身を切るようにして生まれたものが文学作品であると思っていた。そして、たとえ語学力や文学史的な知識に疎くても、文学的な直観力みたいなものは、自分には人並み以上にそなわっているのではないかという、勝手な妄想のようなものを抱いていたのである。なまじ高校生活が受験勉強漬けで、ストイックな生活でありすぎたので、その反動だったのかもしれない。

 

 今にして思えば、これらの先生方の言葉は、いっぱしの思想家気取りの若者の鼻をへし折り、まずは謙虚な気持ちで学問に取り組ませることが必要との配慮によるものだったのであろう。

 

 もちろん、哲学や文学などは、先人の書物を読むことに終始してよいものではあるまい。ショーペンハウアーは、『読書について』で、書を読むばかりで自分の頭で考えることをしない学者達を嘲笑している。読書ばかりしている輩は、自分の頭でものを考えようとせず、他人の思考の跡を辿っているだけの怠惰な人間であると言う。

 

 だが一方で、自分の思考を大事にしすぎて、先人の知恵に学ばないのは、先の先生方のお言葉のごとく、別の意味で怠惰と呼ばれても仕方あるまい。

 

 それでは、ひたすら先人の書物に触れるほうがよいのか、それとも、自分の考えを深めていくほうが大事なのか……そういった迷いを一言で解決してくれる言葉が、『論語』にある。

 

 「子曰く、学びて思はざれば即ち罔(くら)し、思ひて学ばざれば即ち殆(あやう)し、と。」(「為政第二」15)

(孔子先生がおっしゃるには、学ぶばかりで、自分の頭で考えようとしなければ、ものの道理がわからない。自分で考えるばかりで、先人から学ぼうとしなければ、ひとりよがりになって危険である。)

 

 私がこの言葉に初めて触れたのは、高校の漢文の授業だったと思うが、今になって考えてみると、驚くべきことにたったこれだけのセリフの中に、理想的な学問のあり方がさらっと述べられているのである。凄いことだ。日本人が『論語』をことさらに重んじてきた理由がわかる気がする。

 

 思えば、大学入学時の私は、高校時代の受験勉強の反動からか、「知識をため込むような勉強はもういやだ」というような意識が強くなっていたのかもしれない。しかしながら、やはり「思ひて学ば」ないことのツケは確実にやってくるようだ。大学4年間を通して「思ひて学ば」ないというモードからなかなか抜け出せずにいた私は、教師になってからは生徒に偉そうに「学ぶこと」の大切さを説いているが、内心ずっと忸怩たる思いを抱えているのである。

 

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