無量の智恵に生かされ、無辺の慈悲を賜る
大悲の願船に乗ずれば、いま明らかに救いたもう弥陀の大悲を、常に伝える(行ずる)幸せをいいます。
大悲の願船に乗じたならば、阿弥陀仏の無量の智恵と、無辺の慈悲とに生かされるからです。
無量の智恵を賜るから、獅子のごとく何者にも恐れず、一分一秒休みなく今ハッキリする弥陀の救い(弥陀の本願)を伝えずにおれない、衆生済度の活動となります。
また無辺の慈悲に生かされるから、巨象がジャングルを踏み分けて進むように、外道・邪義の群賊から、どんな嘲笑・罵倒を受けようとも、末代不思議の妙法を独り占めはゆるされない。一刻も速やかに弥陀の大悲を伝えずにおれない、利他行となるのです。
思えば獅子のように荒くたくましく、象のように柔和で力強い、親鸞聖人の御一生が浮かんできます。
以下は、その文証です。
智慧あるが故に、生死にとどまらず、慈悲あるが故に、涅槃に住せず
『大集経』には、真の仏弟子は法を説く時には自分を医王の如く想って説くべし、と教えられています。もちろんこれは、他を見下げて法を説けということではありません。
何者にも恐れず、いまハッキリする弥陀の救いを自信一杯伝えよと、大悲を行ずる重責を教導されたものです。
親鸞聖人は、伝える大悲について、こう教誡されています。
"大悲の願船に乗じて絶対の幸福に救われた者は、阿弥陀仏の大恩に報いるために、弥陀から二つの贈りもののあることを、漏らさず伝え切らねばならない。
弥陀の二つの贈りものとは「往相廻向」(絶対の幸福に救う働き)と「還相廻向」(すべての人を救わねば止まぬ働き)の二つである"
他力の信をえん人は
仏恩報ぜん為にとて
如来二種の廻向を
十方にひとしくひろむべし
(正像末和讃)
たとえ、どんなに嘲笑冷笑されようとも、同じことを繰り返し繰り返し分かり易く、弥陀の大悲を伝えんとされる親鸞聖人の熱い常行大悲の言動が、『唯信鈔文意』のお言葉からも汲み取れます。
田舎の人々の文字の意も知らず、あさましき愚痴きわまりなき故に、やすくこころえさせんとて、おなじことを、度々とりかえしとりかえし、書きつけたり。
心あらん人はおかしく思うべし。あざけりをなすべし。しかれども、大方の謗りを省ず、一筋に愚かなるものを心得やすからんとて記せるなり
(唯信鈔文意)
『正信偈』の、煩悩の林に遊んで神通を現す(遊煩悩林現神通)ご金言も、浄土から還って(還相)からの働きばかりではなく、現世から大衆(煩悩の林)の中に飛びこんで自在の活動(遊んで)をすることでもありましょう。
蓮如上人の常行大悲の教導も、多く散見されます。
以下は、その文証です。
自信教人信と候時は、まず我が信心決定して、人にも教えて仏恩になる
(『御一代記聞書』九四)
大悲の願船に乗じたら一人でも多く弥陀の大悲を伝えることが、仏恩に報いることである。
まことに一人なりとも、信をとるべきならば身を捨てよ
(『御一代記聞書』一一五)
一人でも大悲の願船に乗ずるならば、我がことは後にしても、弥陀の大悲を説くべきである。
専修正行の繁昌は、遺弟の念力より成ず
(『御一代記聞書』一二二)
(続く)