秀雄のブログ

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好きな学問は、英語と、歴史・文学・思想・哲学・社会科学です。
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AIは人間の代わりになり得るのか。カズオイシグロの『クララとお日さま』は、日々進歩を遂げるAI技術に対する私達の驚嘆と、その裏側に潜む漠然とした不安に光を当ててくれます。


*ここからは内容に触れます。未読の方はご注意下さい。


登場人物は語り手でもある、AIを持つ人工友達(AF)であるクララ。クララはある日ジョジーという少女に見そめられ、AFとして仲良くなり、友人として、家族の一員として、時には保護者として、ジョジーの一家と暮らしていきます。


クララは他のAFよりも人間の表情や仕草から、その人の感情や心のひだまで読み取ろうとしていきます。そして、できるだけ家族との衝突がないように、人間との関係を構築し、それでいてAFとの役割を果たそうと努めていきます。


時代設定はアメリカの近未来です。ジョジーの家族がAFのクララに期待したものは、単なるfriendではなく、病弱で日々衰弱していくジョジーの代わりになれ、というものでした。


クララは、人間と同じように感情を持ち、淋しさ、悲しみ、恐れまで抱くAFです。「ジョジーの代わりになれ」と、ジョジーを無理やり演じることを求められれば、ほぼ完璧に演じてみせます。





さて、人間は人間でないものを、人間と同じ様に、同じ水準で愛することができるのでしょうか。仮に自分の子供や恋人、或いは配偶者と、姿、形、声、性格、仕草、行動、立ち居振る舞いに至るまで、全く同じロボットが現れて、それでも実の子供、実の恋人、夫、妻のように愛せるものなのでしょうか。


このような問いは馬鹿げている、と思われるかもしれない。


しかしChatGptで質問すれば、何でも人間のように答えてくれる世の中になっているではないですか。教育業界であれば、生身の人間の先生の代わりに、AIが果たす役割が着実に増えつつあるではないですか。「AIによってなくなる仕事」と検索すれば、次から次へとそのリストが出てくるではないですか。


人間を人間たらしめているものは何でしょうか。


小説の中盤で、まだ自分の本当の役割を知らされていないクララに、ジョジーの母親が、娘のジョジーの真似をさせる場面があります。クララは自分がそれまで学んだジョジーをそっくり模倣していきます。そして2人で会話をしていくうちに、母親は、クララの演じるジョジーに苛立ち、本気で口論していきます。その中でクララはついポロリと自分のAFとしての考えを、つまりは「ジョジーでない」部分を漏らしてしまうことになり、ここの描写が圧巻でありました。


「かけがえのない人」「この世にたった1人の愛する人間」。そういった存在がもう1人現れたとしたら、そういう存在が自分の大切な人と、そっくりそのままであればあるほど、人間は心が掻き乱され、苛立つのではないか。丁度ジョジーの母親と同じように。


それは「かけがえのない人」がそうではなくなるからであり、「この世にたった1人」の存在が「たった1人」ではなくなるかもしれないという恐れを抱くからだと思います。





イシグロのインタビューがあります。





その中でイシグロは「私たちの体には魂のようなものがあるのか。小説の中で科学者がこう言う。人間の体のどこを探っても魂なんてものは見つからなかった。愛する人の脳から全てのデータを移植することができれば、愛する人の代わりが作れると。しかしそれは間違っているのではないか。魂といわれるものはその人を大切に思うまわりの人たちの感情の中に宿っているのではないか。」とひとつの答えを出しています。


ここから導き出される結論は、「だからAIは人間の代わりにはならない、人間を超えられない」となります。


それでも、私は作者よりも深く作品を読み込みたい。最後の方で、クララが自分の元いた店の店長と再会し、次のように言います。


(引用)

「店長さん、わたしは全力でジョジーを学習しました。求められれば、全力で継続していたと思います。でも結果が満足いくものになっただろうかと問われると…。それは、完璧な再現などできないということより、どんなに頑張って手を伸ばしても、つねにその先に何かが残されているだろうと思うからです。母親にリックにメラニアさんに父親…あの人々の心にあるジョジーへの思いのすべてには、きっと手が届かなかったでしょう。」


(引用終わり、邦訳土屋政雄)


AFが自らの節度を知り、自らの限界を知り、自分の能力では届かない領域を自覚しています。


`I did all I could to do what was best for〜’


深く自らの節度を知りながら、誰かのために、何かのために、できるだけのことをして、最善を尽くしたのです。


私は本作品を英語で読了した後すぐに、X(旧Twitter)で次のように書きました。


「AIが人間の顔を持ち、姿を持ち、声を持ち、仕草を持ち、それでも心は人間の代わりができないと、つまりAI自らがAIの限界を知るようになれば、その一点に於いて人間より一歩上をいくのではないか。そういう逆説をこの小説は提示しているとは読めないだろうか。」


人間に於いてすら、己を知るのは難しい。膨張するエゴを食い止めるのは至難の業である。

AIにそれが可能であるならば…。


唯一の救いはこの作品がカズオイシグロという生身の肉体を持った作家によって書かれた、ということかもしれません。