[コピー]思想とは何かー原点へ2 | 秀雄のブログ

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前回は「表現とは何か」と題して、吉田松陰についての藤田省三氏の言説(出典は『日本思想体系』「解説」岩波書店)の紹介で終わりました。

松陰に主著はなく、短い生涯(享年30歳)そのものがたった1つの主著であった。

行動の中で、行動とともに書かれた表現。学者や文学者のように何かについて距離を維持しながら対象に向き合うのではなく、状況の真只中に突入しながら武士として、志士として、書き、語り、怒り、泣き、考え、説得し、忠告しただけの表現。

言葉と行動が密着している、という点でハムレットを想起させます。

ハムレット自身が演劇についてこう言っています。


「せりふに動きを合わせ、動きに即してせりふを言う」(W・シェイクスピア『ハムレット』第3幕第2場)


この「せりふ=(表現)」と「うごき=(行動)」の繋がりのもたらす劇的効果と、松陰のような行動家の、人生の完成感の強烈さとの類似を最も鋭く洞察していたのは、私の知る限り、三島由紀夫と福田恆存です。

(引用)

私たちは、死に出あうことによってのみ、私たちの生を完結しうる。逆に言えば、私たちは
生を完結するために、また、それが完結しうるように死ななければならない。ふたたび、それが、
劇というものなのだ。それが、人間の生きかたというものだ。

<福田恆存『人間・この劇的なるもの』新潮社 但し旧仮名遣いは全て新仮名遣いに改める>
(引用終わり)

とした上で、福田氏は三島由紀夫のつぎの文を引用します。

(引用)

行動家の世界は、いつも最後の一点を付加することで完成される環を、しじゅう眼前に描いているようなものである。瞬間瞬間、彼は一点をのこしてつながらぬ環を捨て、つぎつぎと別の環に当面する。それに比べると、芸術家や哲学者の世界は、自分のまわりにだんだんにひろい同心円を、重ねてゆくような構造を持っている。しかしさて死がやって来たとき、行動家と芸術家にとって、どちらが完成感が強烈であろうか? 私は想像するのに、ただ一点を添加することによって、瞬時にその世界を完成する死のほうが、ずっと完成感は強烈ではあるまいか?

<福田・同前>
(引用終わり)

劇的に生きることがいかに困難であるか、現実がいかにままならぬものであり、我々の劇的な生への意思を挫いてしまうものであるか、を、福田氏は他の所で繰り返し言っています。

それでも劇的に生きることこそが、人間の生きかたであり、それを思想と呼ぶならば、我々が『松陰全集』から感取するものは、まさにそれではなかったでしょうか。

(引用)

行動家は自己の生を芸術作品たらしめることができるが、芸術家は自己の生のそとに芸術を造るこ
としかできない。

<福田・同前>
(引用終わり)

主著としての人生とは、「自己の生を芸術作品たらしめ」た松陰の行動と表現であった。ここまでくれば、つぎのようにも言える。全ての行動は、(喧嘩も含めて)、思想表現であり、全ての表現は、自分の次の行動に自らを駆り立てるための助走、つまり(準備)行動だ、と。

明治の詩人、北村透谷は次のように言います。

(引用)

文学は時代の鏡なり、国民の精神の反響なり、故に天下の蒼生が朝夕を安んずること能はざる時に当たりて、超然身を脱して心を虚界に注ぐべしとするにあらず。畢竟するに詩文人は、其の原素に於いては兵馬の人と異なるなきなり、之を詩人に形り、之を兵士に形るものは、時代のみ。

<北村透谷「明治文学管見」『透谷全集』>
(引用終わり)