教会の片隅で

信徒が眺めるカトリック教会の一断面

これが教会一致(エキュメニズム)か ー 聖公会との合同礼拝式

2024年01月22日 | 教会


 今日は年間第3主日だが、当教会では午後4時から聖公会との合同礼拝式がもたれた。正式名称は「聖公会とカトリック 合同 夕の礼拝」というものだった。「横浜教区からのお知らせ」によると、カトリック教会としては「2024年キリスト教一致祈祷週間」の行事ということのようだった。


 聖公会との合同礼拝は以前にも持たれていたようだが、今回は久しぶりとのことだった。エキュメニズムとか教会一致という言葉は近年あまり聞かれなくなった。公会議直後はよく話題になったが、近年は「諸宗教対話」(1)に関心が集中してしまい、肝心の聖公会との合同礼拝は少し関心が薄れてしまったのかもしれない(2)。

 エキュメニズムとか教会一致とか言っても、今までの教会の説明は理念や歴史の話が中心で具体的には何のことかよくわからなかったので、わたしは今回の合同礼拝には興味を持って参加した。
 結果的には、たくさんの人が参加され、一緒に祈り、よき集まりだった。いくつか印象を書き残しておきたい。

 共同祈祷会なので、カトリック側から8名、聖公会側から8名、計16名の司祭・牧師の参加があった(3)。司式は カトリック横浜教区司教 梅村昌弘、日本聖公会横浜教区主教 入江修 の共同司式だったが、実際には梅村司教様がすべて司式しておられた。

 礼拝式の式次第は興味深いものだった。聖公会のミサの式次第がどういうものかは知らないが、基本的には同じ流れのようだ(4)。聖公会のホームページの説明を見ると、カトリックとの共通性に気づかされる。ほぼ同じと言ってよいほどだ。私が気がついたのは、聖公会では、祈祷書が用いられること(カトリックも昔はそうだった)、聖書朗読が3回あること(カトリックでの旧約・新約・福音書朗読のことか)、信仰宣言はニケア信経(カトリックのニケア・コンスタンチノープル信条のこと 使徒信条ではない)一本、主の祈り(主祷文)は同一らしい(5)、ということだった。つまり、ミサの式次第はほぼ同じらしい。

 今日の合同礼拝式はミサではないので、聖体拝領は無かった(6)。式次第の流れは以下の通りだった。

入堂・招きのことば・集会祈願・第1朗読(申命記30 9-14)・答唱詩編・アレルヤ唱・福音朗読(ルカ10 25-37)・説教・洗礼の約束の更新・灌水式・共同祈願・主の祈り・平和の挨拶・結びの祈り・派遣の祝福・退堂

 洗礼の約束の更新とは信仰宣言のことだ。説教は横浜聖アンデレ教会司祭の渡部明央師(7)だった。短いが簡潔なよいお説教だった。主に最近の天災や戦火にふれながら今日の福音書にそって隣人愛の尊さを訴えておられた。
 驚いたのは、献金のとき司教・司祭まで献金していたことだ(そのように見えた)。今まで見たことのない動作だったので少し驚いた。能登半島地震被災者への献金だという説明があった。奉納行列はなかった。

 礼拝式の後、集会室で懇親会が開かれた。今夕の礼拝式の参加者は50名ほどと見受けられた。当教会の私の顔見知りの方は少なく(8)、ほとんどが聖公会の信者さんかと見受けられた。狭い集会室は人が入りきれないほどで、準備された婦人会・壮年会の方々は大忙しだった。御礼申し上げたい。

 キリスト教一致祈祷週間はカトリック・東方教会・プロテスタント共催の世界的な試みらしい。東京教区でも関口教会で開かれたようだ。これがあり得べき教会一致の姿だとは言えないだろうが、今日の合同礼拝式は意味のあるものだった。カトリックの中でももう少し力を入れてもよいのではないかと思った。とはいえ、合同礼拝式という形だけでは、つまり祈りとことばのやりとりだけではなにか不十分な印象を持った。そうは言っても、ご聖体拝領を、聖餐を一緒にするというのは神学的にも歴史的にも難しいのであろう。

 

【合同 夕の礼拝】

 



1 「諸宗教対話」といっても実際には正平協の体質が変化する中で活動の支持基盤が狭まり、仏教宗派との対話が中心になってしまった印象がある。『カトリック教会の諸宗教宗教対話の手引き 実践Q&A』(カトリック中央協議会 2009)
2 公会議直後は聖公会やルター派との接近がよく話題になっていた記憶がある。
3 聖公会はプロテスタント教会だから聖職者は「牧師」と呼ぶのかと思っていたら、そうでもないらしい。そもそも聖公会をプロテスタント教会と呼んでよいかどうか議論があるようだ。聖職者は聖公会ではFather, Pastor という言葉を使い、神父と呼んだり、牧師と呼んだりするようだ。聖公会は国や地域の独立性が高いので呼称は教区によって異なるらしい。横浜教区では「牧師」と呼んでいるようだ。聖職者は Bishop, Priest, Deacon の3階級で、主教・司祭・執事 と訳すらしい。カトリックの司教・司祭・助祭に対応するようだ。
4 ミサという言葉が使われるのかどうかは知らない。普通は聖餐式と呼んでいるようだ。
5 式次第で用いられる用語にはプロテスタント風の独特の用語があるが、カトリックと共通の言葉遣いも多いようだ。平和の挨拶があるし、「またあなたとともに」だ(また司祭とともに ではない)。アニュス・デイでは「憐れみ」が使われている(いつくしみ ではない)のは興味深い。
6 礼拝式であり、ミサ(聖餐式)ではないので聖体拝領がないのは致し方ないが残念極まりない。聖公会では聖体拝領が毎回あるのかどうか知らないが、聖体拝領がないのではただの集会でしかないと思った。ただ「ことば」があるだけなのだ。カトリックでも主任司祭がいない小教区(教会)が増え、集会祭儀だけの集まりがなされるところもあるようだが、信徒によっては何のための集まりかと思う人もいるだろう。
7 「師」という敬称をつけてよいかどうかはわからない。「先生」と言うべきなのかもしれない。

8 参加された当教会信徒はほとんど栄光学園の関係者だったようだ(梅村司教は栄光出身)。

 


終油の秘跡から塗油の秘跡へ ー 4年ぶりの敬老の集い

2023年09月18日 | 教会

 今日は年間第24主日なのだが、「祖父母と高齢者のための世界祈願日」でもあるそうだ。そのうえ明日は旗日(敬老感謝の日)ということで、今日のごミサの中で希望者に塗油の秘跡があった。また、ミサの終了後は敬老の集いが開かれ、記念写真の撮影が行われた。わたしはやっと敬老会に参加できる資格年齢に達したので、今日は皆さんとご一緒できてホッとしている(1)。

 ミサは病者の塗油の秘跡が入るので普段よりも長かった(2)。塗油の儀式はお説教と信仰宣言の間に挟まれた(3)。秘跡には七つあるとは知ってはいても(4)、塗油の秘跡はあまり考えたことがないので、今日のごミサはありがたかった(5)。

 ごミサの後、敬老の集いが行われ、80歳以上の方が祭壇の前で記念撮影をした(6)。そのあと日曜学校の子供たちがアーメン・アレルヤなど聖歌を歌ってくれた。お年寄りには何よりのお祝いだった。

 敬老会といっても、壮年会や婦人会のような教会の正式の構成組織ではないらしい。とはいっても教会の活動や組織維持に高齢者が果たしている役割は大きい(7)。今回も有資格者の数が多すぎて、パーティーでのお祝いはできず、記念写真を撮るのが精一杯だったようだ。神父様は敬老の日記念としてサイン入りのご絵をくださり、皆さんは大喜びだった。
 コロナ禍はまだ完全には終わってはいないとはいえ、教会は少しずつ日常性を取り戻しつつある。

【敬老の集い】

 

 

 

 


1 敬老の集いは実に4年ぶりだという。資格年齢に達しても敬老会(老人会)に入れなかった人がたくさんいたということであろう。
2 現在の神父様は歌ミサを好まれるようで普段でもミサの時間はそれなりに長いのだが、今日はさらに丁寧だった。お説教は簡潔で要領を得たお話が多いので好評のようだ。
3 塗油がミサの式次第のどこに挟まれるものなのかは知らないが、典礼としては聖体拝領の前になされる必要があるようだ。赦しの秘跡は塗油の前に受けておいたほうが良いらしいが、受けてなくとも構わないらしい。
 塗油は75歳以上の方なら受けてもよいということだったが、高齢者が必ずしも病者とは限らないし、逆に病者は若年者にもいるわけだから、「病者の塗油」という表現はなにかなじまない気がする。
 実際には今日のごミサには100人くらいの方がおられ、ほとんどの方が塗油の秘跡をうけておられたようだ。
4 七つの秘跡とは、洗礼、堅信、聖体、告解、終油、叙階、婚姻。終油の秘跡は現在は病者の塗油の秘跡と呼称が変わっている。病者の塗油の秘跡とは、病気など試練や危機にある信者に「病気」を意味ある試練として受け入れうことができるように助けるものだという。私は終油の秘跡と教わった世代だが、第二バチカン公会議の後「使徒憲章」(1972)で「病者の塗油の秘跡」と規定しなおされたようだ。古代教会から病者の塗油は儀礼として行われてきたが、西欧中世(8世紀以降と考えてみる)では意味がずれて臨終の迫った人に授けられる塗油つまり終油(extrema unctio)と呼ばれるようになったという。
 宗教改革者たちは当然終油を秘跡とはみなさなかったようで、現在でもプロテスタントの多くは病者の塗油を秘跡とは認めていないようだ(洗礼と聖餐のみを聖礼典(サクラメント)と認める宗派が多いという)。
5 カトリック司祭による塗油の秘跡の祈りを見てみよう。『カトリック教会のカテキズム』の第1編第2部第2章第5項は「病者の塗油の秘跡」と題されており、次のような使徒憲章の祈りが説明されている。
「病者の塗油の秘跡は重病の病人に授けられ、祝福された油-オリーブまたは他の植物油ーを額と手に塗り、同時に次のことばをただ一度唱えます。『この聖なる塗油により、慈しみ深いキリストが、聖霊の恵みであなたを助け、罪から解放して、あなたを救い、起き上がらせてくださいますように』。
 つまり、塗油の秘跡では、病者には心身の回復を、高齢者には慰めと忍耐を願い求めるという。病者の塗油の秘跡といっても、高齢者が含まれていることを忘れてはならないようだ。
6 今日のごミサに参加した人が大半が集まったので記念写真を撮るのが大変だった。
7 この教会の信徒数はざっと1500名弱だが、いわゆる日曜信者だけでもおそらく3割位だろう。月定献金をきちんと収めている人(世帯)はもっと少ないかもしれない。その中心は高齢者と思われる。敬老会の重要性は高そうだ。
 ところが、どういう歴史的経緯かはわからないが、当教会では敬老会への参加(加入)資格は年齢で(性別は問われない)、ながらく70歳が続いたという。ところが高齢者の増加で資格年齢が徐々に上昇し、一時は83歳が下限になったこともあるという。つまりメンバーが多すぎて一堂に会することが難しくなったようだ。そこで現在は(今年は)80歳に切り下げられたようだ。私はたまたまこの恩恵に与ったというわけである。


96歳の誕生会 ー 信者の鑑からロールモデルへ

2023年07月01日 | 教会


 教会の先輩の誕生会に招かれた。96歳の女性の誕生会である。ホテルの一室にお祝いに駆け付けたのは(招待されたのは)4組のご夫婦の方々を含む9名ほどだが、全員戦前生まれだ。つまり80歳代の人々の会食ということになる。楽しい集まりであった。

 先輩のSさんによれば、誕生会の名を借りてコミュニケーションの場を持ちたいと思ったからだという。彼女は自らパソコンを操り、スマホを操作し、招待状を作られたという。感心するどころか、ただただ驚くばかりだった。
 これは高齢化が進む今日のカトリック教会の一つの姿であり、印象を少し書き残しておきたい。どこの教会でも見られる姿ではないだろうが、かといって例外的な出来事とも言えないだろう。

 Sさんは、教会では入門講座を担当しており、また、いくつかのグループをつくって教会のリーダー的役割を果たしておられる。Sさんは当教会では80年に及ぶ教会歴をお持ちなので、周りからは「教会の生き字引」と呼ばれているという(1)。教会歴というよりは彼女の人徳が人をひきつけ、尊敬を集めているのだろう(2)。

 これは教会に限ったことではないが、高齢化社会の問題点の一つは高齢者のロールモデルが出来あがっていないことのように思える。自分の身近の周りを見わまして、自分もあういう高齢者になりたいあの人のように年を取りたい、と思わせてくれる人が減ってきているのではないか。高齢者といえば、すぐに介護だ、看護だという話になる。健康のために歩きなさいとか寂しさを紛らわすためにペットを飼いなさいとかいう話になる。だが、健康だけではなく、広い人間関係を持ち、精神的自立を保ち、周囲に誇りと自尊心を与え続けることができる高齢者の話をあまり聞かない。Sさんはそういう意味では、信者の鑑でも、教会の生き字引でもなく、高齢者の新しいロールモデルを提示しているように思えた。
 このロールモデルは当然単一のものではないだろう。地域や性別や年齢ごとに異なったモデルがあるだろう。また、どのように年を取るか、は、どのように生きてきたか、の反映でもあるので、このモデルを一律に議論するのは難しいだろう。とはいえ、高齢になることにはこのような喜びと楽しみと感謝があるのだと示せるロールモデルが欲しいものだ(3)。

【1952年ごろの聖堂】



1 私は個人的には心ひそかにSさんを「信者の鑑」を呼んでいるが、ご本人はこの表現を好まれない。ところが「教会の生き字引」という呼称には抵抗感がないようだ。わたしにはSさんのこの語感の違いに興味を感じるが、Sさんと私の世代の違いの反映なのだろうか。
 Sさんに80年の教会歴があるということは、彼女は戦後日本のカトリック教会の歴史をほぼすべてずっと見てこられたということであろう。時々周囲の方に感想をおもらしになるということなので、一度ゆっくりとお話を聞いてみたいものである。
2 こういう表現をするとすぐに「だから教会には老害がはびこっている」みたいな批判をする人がいる。少し視点を変えるとこういう批判が如何に近視眼的かがわかる。
3 高齢者向けの議論ではしばしば、「残りの人生は短いのだから、自分の好きなように生きなさい」という言説がまかり通っている。この種の言説は一見もっともらしく聞こえるが、ひとつ大きな欠点がある。それは「自分個人の人生」のことしか念頭に置いていないことだ。ところが、なんでも好き勝手にできる自分個人の人生なんてものはなく、それはいつも集合的・共同体的ははずだ。Sさんが一つのロールモデルに見えるというのは、彼女の人生が教会という一つの共同体の中で営まれてきたからだ、と言うと言い過ぎだろうか。


2018年10月堅信式

2018年10月16日 | 教会

 

松本教会です

 

 

別の教会での堅信式です


小説家と神父

2017年03月15日 | ジョンストン師
自分の出会った神父によって基督教が好きにもなり、嫌いにもなる- そんなことはあってはならないことだけれども、この日本では往々にしてそのような出来事を見る。

「わたくしにはムツかしい神学などわかりませんがね、……でも○○神父さまが、生涯 かけてお信じになっているので、わたくしも信じる気になったのです」

と洗礼を受けたある年とった婦人が言った。いかにも日本人的なこの改宗の説明に私は 素直にうなずくことができた。彼女の気持がじいんと伝わってくるような気がした。

切支丹時代の素朴な農民や漁師たちには、出会った宣教師のやさしさにふれて切支丹になった者も多かったにちがいない。文字も読めぬ彼等に教理はよくわからなかっただろうが……

私も自分の半生をふりかえってみると、あの神父がいたから、今なお細々と信仰を持っ ていると言えるような気がする。その神父のなかにはなくなられた大泉神父がいる。クラ インゾルゲ神父もおられる。その人たちは私の物の考えには直接影響を与えはしなかった が、その心の優しさゆえに私はなにかを感じたのであった。

その何かとは-その頃はわからなかったが今になると、やっと理解できたようだ。それはイエスの優しさでありその投影だった。「人は誰かを通じてイエスに出会う」これは私の言葉ではない、私と同じ小説家の高橋たか子の言葉だが、本当にそうなのだ、そうなのだ。原爆病で寝ておられたクラインゾルゲ神父のなかに私はやはりイエスに出会ったのである。病苦に耐えながら彼がみせてくださった子供のような笑顔を私は生涯、忘れることはできぬ。

この間、河上徹太郎氏が亡くなられた。我々の尊敬するこの批評家はある日、私にカト リックの話をしてくれと言われた。神父ではない私はいろいろ考えた末、三人のカトリッ ク作家と友人のⅠ神父とをつれて氏の宅を訪れ、おそくまで酔っぱらった。

そのときから、同じメンバーで毎年一度、氏のお宅で御馳走になるようになった。そし てこの間、氏が亡くなられた終夜にⅠ神父が告別式の司会をやり、葬式のミサもたてたの を見ながら、私は感無量だった。すべてが摂理だったような気がしてならなかった。

この日本、泥沼の日本に石をおくもの、この日本、石ころだらけの荒野をこれから耕す もの、それは小説家と神父とである。我々は小説家として小さな石をこの日本におこうと 試みている。その石をわたって人々がイエスを知ることができる向う岸に行けるようにと。

神父たちも頑張ってもらいたい。おたがい辛い辛い仕事と使命だが御一緒に頑張りましょう。

遠藤周作 1981年「この路を」(イエズス会司祭と修道生活)9号より