ベルを見送ってから3か月が過ぎました。

早いですね。

 

ベルがいた頃も幸せだったけど、

見えない存在として一緒に生きている今も幸せだなぁと思います。

 

不思議な感覚です。

 

 

平和で、ふわふわして、天国にいるみたいに感じることもあります(笑)

陽気のせいかな。

 

 

 

やはり寂しさや悲しみというものは沸いてこなくて、ベルと一緒に違う世界線に移動したんだな、と思います。

 

ある人が「死は卒業だからね」と言っていましたが、ほんとそうですね。

 

 

やることをやり終えて、体も古くて機能しなくなって・・・そうしたら卒業です。

 

もうこの世に用事(?)がないのに、飼い主の思いだけでひきとめるのは、上の方から見ていたら滑稽なことかもしれませんね。

 

近所のカフェで

 

 

 

たとえて言えば、油まみれになって、汚れて、重くて動けなくなった作業着を脱いで隣の部屋に行こうとしているのに、行かないで~、そのまま汚れたままでいいからここにいて~、って引き留める人っていないですもんね。

 

 

そういうことは、頭でわかっていても、実際に自分の愛しい子がいなくなると、理屈じゃなくて寂しい、というのが普通なのかもしれないけど、あっさり「そうなんだ、じゃまたね」って言って、姿の亡くなった子といるのがデフォルトになってしまった私は、やっぱり瞬間的に世界線を移動したんだなぁと思わないではいられません。

 

 

 

悲しまないのがいい事、悲しむのが悪いこと、というわけじゃなくて、どちらでもいいと思うのですが、軽くなった方が楽というのはあると思います。

 

 

お花はできるだけ切らさずにしているけど、暖かくなってきたからモチが今一つ

 

 

 

起きることにはもともと意味はなくて、そこに意味をつけるのは人間。

 

だから、同じ現象でもいい事にもなるし、悪い事にもなる、価値を置くこともできるし、うっちゃっておくこともできるのだと思います。

 

 

ベルが来たことで、私の人生も変わったし広がりました。

 

でも、ことさらそれをドラマ仕立てにすることはないのかなという気もします。

 

 

いやでも実際は、どうでもいいような人生を生きてきた私に、ベルは愛や幸せや苦しさなどなど、いろんなことを経験させてくれました。

 

でもベルは、お母さんにこれを知ってもらおう、とか、これを経験させよう、なんていう気はなくて、ただただ存在していただけです。

 

だからそこに意味をつけたのは私ということになるんでしょうね。

 

 

天の配剤というか、ざっくりとは計画があったのかもしれないけど、そこから先の細かいことは飼い主次第ということなのかもしれない。

 

そしてそれはわんことの生活だけじゃなくて、結婚や仕事や家庭生活すべてのことに言えることなんだろうな、と思います。

 

ワンコは特別愛しいけどね^^

 

 

 

 

暖かくなってきたので、電車に乗って買い物に行ったり、隣駅まで歩いて行ったり、散歩の習慣をなくした私は、なんとか頑張って健康を保つようにしています(^^;

 

まず足から、っていうからね。

 

 

今日は清澄白河まで出かけて、おいしいサンドイッチと豆乳パン、ロールケーキも買ってきました。

 

 

 

 

あっという間に3月も終わっちゃうんだろうな。

 

もうすぐ桜も咲き始めるから、今年はお花見に出かけようかと思ってます。