こんにちは、ちかこです。
訪問ありがとうございます。
最近感じたことですが、
例えば、ラインで送られてくる子どもや旦那の文章、身近な人のXの呟き、
それって、その人本人の言葉だと受け取って、
ああ、今こんなふうに思っているのか…とか、
今、大変な思いをしているんだ、と感傷的になったりとか、
読んで、思考と共に感情も出たりするじゃないですか。
だけど、その湧いてきた思考や感情と同じように、
ラインやXに書かれている文章も又、単なる思考、
湧いて現れただけの言葉の羅列なんですよね。
息子の言葉…ではなく、単なる言葉。
それに対して、ああでもない、こうでもないって考えたりするけれど、
それもまた、単なる言葉。湧いただけの思考。
でも、それらの思考を本気にして、あれこれ考えたり、心配したり、もやったり、
もしくは苛立ったり…。そうやって、ストーリーにはまって行ってしまう。
実はわたくしも、最近、すこ~しだけ、感傷に浸ってしまったのですが、
あ、この文章たちは、書いた人本人ではなくって、単なる言葉だった。
今ここに現れている家族や身近な人の存在とは別だ。
例えば、息子。もし前に息子が書いたラインの文字を読んだとして、
その文章もすでに過去のもので、消え去っている幻で、
今、目の前にいる息子という存在が、今はただ在るだけなんだ。
な~~んて、そんなことを感じましてね。
文章って、解釈じゃないですか。
それを読んだら、それに対してまた解釈の思考が出てくる。
言葉にした途端に、解釈をつけてストーリー仕立てになる。
私が書いている文章もそう。
どんなに悟りに関して詳しく書いていようが、
私じゃないもっと偉い人が書いた文章だろうが、
意味づけする思考と同じように、単なる言葉が湧いているだけに過ぎない。
本当は意味なんてない。
でもさ、人って見たものに対して何でも意味付けして、
正解なんてないのに、正解を求めて、
ジャッジしたり、共感したり、反論したり…。
言われたことを気にして、きっと私は嫌われているんだとか、
言われたことに腹を立て、あいつ気に喰わないとか、
起きたことを嘆いて、今後どうなるかと不安になったり、
あの時ああしていればと後悔したり、今度はこうするぞと計画を立てたり、
目の前を受け入れられなくて、なんとかしようともがいたり、
人をコントロールしようとしたり、自分を変えようと必死になったり、
全部、意味などない世界の中で、
言葉で意味づけして、勝手な解釈をして、ああでもない、こうでもないと
右往左往したり、一喜一憂したり、苦しんだりしている。
全部幻想なのに。全部思考の妄想なのに。
ああ、みんな、妄想族なのね。
人類=妄想族だわ…。
実際在るのは、いまここの現われ、それだけなのに。
なんて、ストーリーに一瞬はまったけど、
すうっと抜け出して感じたことです。
今日もお付き合いありがとう。またね。
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