mountain

スコットランド独立運動の排外化と、れいわ新選組の方向性

さて遠いスコットランドでは、独立運動がずっとくすぶっているわけですが…。

 

 

この記事によると、スコットランドの独立運動というのは、排外的な方向に行ってしまって、そしてイギリス製のものやイギリス人を嫌うという方向性になってしまい、それによって、運動の創始者であるロバート・ムガベという人は、運動の中心から引きずりおろされ、すでに運動を離れているのだといいます。
さてここで、少しだけ沖縄のことに触れておきますが、沖縄の運動の中にも、「排外的傾向」や、「本土の倭人を嫌う性質のもの」は、存在します。
しかし…沖縄の事情は、かなり違うとか、いろいろあるので、ここでは、スコットランドの独立運動と重ねることは、あえてしないことにします。
ともかく、運動の創始者が意図していなかったような、排外的な方向性に行ってしまっている…そして、創始者はすでに運動を離れている…よくあるパターンですよね。
私はこれを、あえて、れいわ新選組と比較してみたらどうかと、思ったわけです。

「れいわ新選組最大の不幸」と、大西つねき除籍事件の関係

前にも言ったように、れいわ新選組にとっての最大の不幸は、この1年間、解散総選挙がなかったことです。
それによって、議席数を増やすことができず、ゆえに、議席を持っている重度障害者の2人の議員だけが、特に目立ってしまうという結果に。
そして…その結果が、大西つねきつるし上げ・除籍事件や、それに続く野原善正離党事件に、つながっていったわけですね。
そしてですよ、こういう結果というのは、当初、山本太郎が予想していたものでは、なかったはずだと、思うんですね。
そもそも、太郎自身は、今ごろ、衆議院議員として、活発に議会活動をしているはずだった…んですよ。
そういう予定だったはず。
そして、太郎自身が、反緊縮に向けた具体的な立法活動をやって、ロスジェネ対策なり、学費免除なりに向けて、大いに旗を振っているはずだった。
しかし、解散総選挙がなかったために、1年間、それができなかった。
そして1年後の今でも、ぜんぜんできていない。

れいわの支持者たちは、「党への投資率」が高い=党への期待度が高い

ゆえに、支持者たちは、そのことに、不満を覚えるわけです、当然。
れいわの支持者というのは、寄付をしている率とか、ボランティアをしている率が、高いですから、人は「投資」に対しては、期待度も大きいから、ですよ。
すると、「投資に見合うものが得られていないことに対する不満」は、議席を持っている2人が「党としての公約を、やってくれないこと」に、向けられる。
しかし、太郎の本来の予定では、あの2人には、障害者対策をやってもらって、ほかのことは、自分がやるつもりだったんですから、困ったことになった、と、いうわけです。
支持者の不満を、あの2人に向けられては、困るわけです。
しかし、それは時間の問題だったわけですね。
そして、大西つねきの発言というものは、彼の支持層である20代~40代の非富裕層に向けられたものであって、その層こそが、最も「あの2人に不満を向けがちな層」であったわけで、太郎が、大西の動画発言にピリピリしたというのは、そういう意味合いで、当然のことだったのでしょう。

太郎が抱いた危機感の正体とは

そのままにしておいたら、議席を持っている重度障害者の2人に、不満が向けられてしまう、と思って、危機感を抱いた。
だから?
その芽を摘もうとして、強引なやりかたをせざるを得なかった。
もちろん、議席を持っている2人は、そういうことは、敏感に察しているはずですから、自分たちに不満が向けられることは、避けたいですし、ゆえに、大西さんに、ああいう発言を続けられては、困る。
だから、大西さんに、「そういう考え方は改めろ」と迫った、ということですよね。
まあ…そういうわけで…結果的には、折れなかった大西さんを追い出すという形で決着し、大西さんはたぶん、かなりの支持者を連れて出て行ったものと、思われます。
そして…太郎は、様子見をしていて、明日あたりに発言をするとかしないとかいう話もあるようですが、よくわかりません。

やったことは、しばき隊の障害者バージョンみたいな

結果的には、やったことは、しばき隊の障害者バージョンみたいな感じになってしまって、そしてすべてを非公開でやったために、憶測なり、裏情報が流れまくり、支持者たちは、党への不信感を強める、という最悪のダメージコントロールということに。
山本太郎には、組織を管理する能力が欠けているというのは、これは彼の経歴からすれば、ある程度は仕方のないことであり…そして、「運」もなかったですね。解散総選挙がなく、そしてコロナのせいで、今年じゅうにも、ないだろう、というそれが。

「方向性が違ってきた運動」からは、創始者が必ず抜ける

スコットランドの例でも述べたように、「方向性が違ってきた運動」というのは、創始者が抜けることで決着するというのが、パターンなわけです。
創始者の人というのは、「方向修正」に失敗した場合には、そこにはもう、いられない。
しかし今回の場合には、太郎自らが旗を振って、方向性を乱してしまったわけですから…。
どうなるんでしょうか。