◇はじめに、本日ご供養をさせていただいた方々のご家族の皆様、また、ご来賓の同窓会、三心会の皆様にご挨拶申し上げます。本日はご多端の中をご参列賜り、まことにありがとうございます。お陰様をもちまして、名村直髙理事長老師ご導師のもと、全校の生徒諸君とともに営みました精霊祭の法要を、一層心のこもったものにすることができました。どうぞ、今しばらく、お時間をともにお過ごしくださいますよう、お願い申し上げます。
 そして、生徒諸君、先ほど理事長老師からもお話があったように、本日お迎えさせていただいているみ魂は、君たちにとっても学園を通じてご縁のある方々のみ魂です。最後まで、真っ直ぐな姿勢と心で、式に臨んでください。
 私たちは、縦にも横にもつながる数え切れないほどのご縁のお陰様で、「今、ここ」を生きています。精霊祭は、そのことに改めて思いを馳せ、自らの生き方を見つめ直す機会でもあると思います。
 一人の男子高校生に、心を救われた女性がいます。
 ある年の8月、女性のご主人がくも膜下出血で倒れました。意識は戻らず、医師からは「年内はもたない」と告げられて、女性は絶望の淵をさまようような思いでいました。病室でご主人と長い無言の時間を過ごす女性にとって、せめてもの気分転換は、時折、病棟の一角にある談話室に行くことだったそうです。その窓際にはいつも、受験勉強に励む青年がいて、その前向きな姿から力をもらって、病室に戻るのが女性の日課でした。
 医師の言葉に反して、ご主人は何とか年を越すことができました。元日に訪れた静かな談話室で、女性は初めて青年と言葉を交わします。青年はまだ高校2年生であり、入退院が多いためにすでに受験勉強を始めているのだと教えてくれました。女性も、ご主人のお見舞いに来ていること、その病状のことを話しました。ところが、女性が「年を越せるとは思ってなかったの」と溜息交じりに呟いたとき、青年は急に表情を曇らせ、厳しい口調でこう言ったそうです。「本人が必死で生きようとしているのに、家族が諦めてどうするの」と。
 意表を突かれて動揺を隠せないでいる女性に、青年はあわてて謝罪の言葉を述べると、自分は医者から余命半年と言われている、しかし、「医者になる」という夢を病気なんかのために諦めたくない、だから命尽きるまで努力し続けるのだと、力強く語ったそうです。
 努力が報われるかどうかではなく、未来を見つめ、熱心に何かに取り組むことができるかどうか、それが人生の質を決めるのだと、女性は青年の生きる姿勢から教えられたといいます。そして、たとえ望む結果が得られなくても、今、自分にできる最善のことをしよう、ご主人の人生の最終章を笑顔で飾ろうと決心したそうです。
 しかし、青年に救われたのは、この女性だけではありませんでした。彼の不撓不屈の精神に触発されて、多くの患者さんが前向きに治療に取り組むようになっていました。
 女性はこのときのことを振り返り、「希望」という最良の薬を患者さんたちに処方した青年は、すでに立派な医師であった、そして自分にとっても心の主治医として、永遠に生き続けるであろうと語っています。
 人が亡くなったあとに残るものは、集めたものではなく、与えたものです。そして、与えたものとともに、ご縁を結んだ人々の心の中で生き続けます。
 青年が与えたものは「希望」であり、「勇気」です。それは、青年の生きる姿勢が純粋でまっすぐだったから、意図せずとも、女性や患者さんたちの心にまっすぐに届けられたのだと思います。
 夢を叶える、それ以上に大切なことがあります。それは、多くのご縁のお陰様で「今、ここ」に生かさせていただいていることに感謝をし、だからこそ夢を持ち続け、あきらめずに精いっぱいの努力を重ねることです。「明日をみつめて、今をひたすらに」生きる、そのこと自体に大きな価値があります。それを「精進」と言います。
 先ほどお唱えした『修証義(しゅしょうぎ)』の冒頭に、「生(しょう)を明(あき)らめ死を明らむるは仏家(ぶっけ)一大事の因縁なり」とあります。「明らめる」とは、「断念する」ということではなく、「明らかにする」ということです。では、生死を明らかにするとはどういうことか。青年の生き方に、そのヒントを見ることができます。やらない理由を探すのではなく、自分を律し、誠心誠意の精進を重ねて、二度とはないこの人生を、一人ひとりが明らかにしてほしいと思います。(精霊祭のお話から)