EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

令和に改元され早くも5年、気持ちも新たに初詣

2023年01月08日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

1月3日午後、我が家の氏神様である日尾八幡神社に初詣に行って来た。

今年松山は、年末から気温は低く例年にない寒い年の瀬であったが、令和5年の年明け平年並みの気温となり穏やかの新年を迎えた。

私の正月の過ごし方は、例年通りで、元旦は、実業団駅伝、2日・3日は、関東大学箱根駅伝をTV観戦、今年の箱根は往路、復路も平成28年の様な体調を崩し大崩れする選手も無く無事終了した。

令和5年は、駒澤大学の素晴らしい走りで、出雲駅伝・全日本大学駅伝・箱根駅伝を制し、三冠王に輝いた。大八木監督は退任し総監督となり、新たに、藤田敦史さんが新監督に就任するそうです。

駒澤大学のスーパールーキー佐藤圭汰の走りに注目していたが体調不良で欠場した。大物選手は、1年生から快走するが、体調不良は自己管理が出来ない証今後が心配である。

注目したのは、上野裕一郎監督が就任した立教大学55年振りの箱根駅伝復帰、今後の活躍が楽しみである。
上野裕一郎監督は、立教大学現役駅伝選手よりも走力が勝っているそうで、男子都道府県別駅伝には長野県の選手として出場するそうです。

上の監督は、佐久長聖高等学校時代から注目していた選手であった。今後の活躍が期待される。立教大学がシード常連校として、そして優勝を目指しての活躍を祈念しております。

来年の箱根駅伝は、中央大学の吉居大和選手・駒澤大学の佐藤圭汰選手の走りに注目したい。

愛媛県出身の選手はいないのかとTV観戦したいたところ、2人の選手がいた。

さて、東京箱根間往復大学駅伝も終わり、昨年のお礼を心にして令和5年の初詣に出掛けた。

多くの氏子達が家族ずれで氏神様である日尾八幡神社に来ていた。
昨年は全国各地で新型コロナが蔓延し、未だ平常な生活が出来てないが、今年は一日も早く元の生活に戻る事を祈願し、災害のない平穏な年であることをお願いするとともに、今年も家族一同元気で過ごせますようにとお祈りをした。

日尾八幡神社の楼門

氏神様である「日尾八幡神社」の所在は、松山市南久米町、旧国道11号線沿いに位置し、松山市小野地区・久米地区・石井地区の一部の氏子を祭事する神社である。

神社入口に、大きな注連(しめ)石(いし)があり左に「魚躍」右が「鳥舞」で、書道家三輪田米山の揮毫で、米山は、日尾八幡神社神官・三輪田清敏の長男、名は「常貞」で号を「米山」と称した。

社号碑「県社日尾八幡大神」・注連石に「鳥舞」「魚躍」は明治13年10月、米山60歳の時の揮毫で、書家米山の切っ掛けとなった代表の書「鳥舞・魚踊」である。

日尾八幡神社前には、後藤酒造「久米の井」があった。(一昨年3月で酒造業から撤退)此処によく行き酒を飲んでは揮毫していたそうだ。

日尾八幡神社周辺の神社の社号碑や注連石は米山が揮毫した碑が沢山ある。

明治時代の軍人で、陸軍の三太郎と言われた一人に「仙波 太郎・中将」がいたが、現在の松山市福音寺町の出身で、三輪田米山塾で教えを受けたそうだ。

※ 陸軍の三太郎とは、宇都宮 太郎(陸軍大将)・桂 太郎(第11代内閣総理大臣)・仙波 太郎(陸軍中将・衆議院議員)である。

なお、日尾八幡大神の楼門の「社号額」の揮毫は、三輪田米山である。

私の中学時代の同級生が日尾八幡神社の娘さんで、現在は結婚し東京都杉並区に在住している。2年に一度開催していた中学の同期会には何時も出席してくれていた。

楼門に飾られた「注連縄(しめなわ)・門松・そして国旗(日章旗)である。

近年各家庭では国民の祝祭日に国旗を揚げて祝するという気概がなくなり、国旗を掲揚する家庭が激変した。・・何故であろうか?・・皆さん何故だと思われますか。

楼門左には、大きな石碑「忠魂碑」が建立されている。

旧温泉郡久米村から、日清・日露・大東亜戦争に出征され戦死された方々の慰霊碑である。

忠魂碑は、明治100年記念として昭和43年10月23日建立された。

さーこれから158段の長い石段を上り拝殿に行きお参りをする。

158段の長い石段の中程に知られてない小さな社がある。
それは「黒田霊社」である。

祭神は、黒田九兵衛霊

県社日尾八幡大神縁起に「黒田霊社の由来」の項があり次の様に伝えている。

黒田霊社の由来:

慶長5年9月15日関ヶ原の戦に伊豫国松前城主加藤嘉明は東軍に属し3,000人の将士を率いて美濃(関ヶ原)に進軍した。
その虚に乗じて西軍の雄、芸州毛利輝元は家臣、村上掃部、能島内匠、曽根兵庫、宍戸善右衛門等を将として松前城を襲わしめた。

芸軍凡そ三千余騎、百余艘の兵船に分乗して芸州軍は興居島に到り、さらに三津浜に上陸して民家に宿営したのが慶長5年9月18日のことで、伊予の関ヶ原と言われる激戦があった。

この時、松前城の城代、佃次郎兵衛十成はひそかに兵を率い夜に乗じて三津に押し寄せ民家に火を放して陣営を破り、大いに芸軍をなやまし敵将村上・曽根・能島らをはじめ数多の将士を打ち取ったが、残兵はなおも逃れて久米村如来院(現・松山市南久米町、日尾八幡神社直ぐ傍)に立てこもった。

これを追撃する佃十成の軍に黒田九兵衛という勇士がいた。

衆に抽んでて如来院に馳せ付け悪鬼の如き勢をもってその門を破り、うち出す弾雨の中を物ともせず門内に討ち入り、数多将兵を打ち取りなおも奮戦を続けるうち、惜しいかな敵弾を受け戦死をとげた。即ち予に言う久米の戦いである。
この豪勇の士、黒田九兵衛を祀った墳を黒田塚と呼び、里人が病を患い苦しむ時この塚に線香をたむけて祈れば必ず平癒すると言い、これを崇めて一社の神に祈ったのがこの黒田霊社である。

昭和35年4月刊行「日尾八幡大神縁起」より引用

この戦いで、敗北していれば関ヶ原の戦いに東軍として戦い武勲を挙げた加藤嘉明は帰る城がなかった。留守を守った城代、佃次郎兵衛十成に対し、嘉明は、松山城築城の際「北之郭」を造り之を与えこの功績に答えたのである。
松山城の北之郭は、佃次郎兵衛十成、一代だけの居住であった。

158段の長い石段、途中中程で少し休みました。

158段の長い石段を登り詰めると日尾八幡神社神の拝殿がある。

令和5年1月3日は画像の通り快晴であった。

日尾八幡神社の拝殿内部、コロナ感染濃厚接触防止の為密にならぬよう氏子の皆さん気を付けて参拝していた。

氏子達が初詣をする日尾八幡神社神の拝殿内部。

祭神は天御中主大神、天照皇大神、月夜見大神の神々が祀られている。

拝殿左側、春日大社入口には、おみくじを頂く特設を設置、今年の正月は気温が高く好天で巫女さんも楽であっただろう!!

おみくじを頂き、内容を確認して、おみくじを結んでいた。

拝殿右側に「役目を終えた昨年の御札の「納札所」が創られていた。

旧お札や注連飾りは、1月15日の小正月に火祭りとして行われる「どんど焼き」として神職が神社境内で行う。

日尾八幡神社神の直ぐ東方面に四国八十八ヶ所第49番浄土寺がある。

八幡神社神と第49番浄土寺を繋いでいる歩道があり、徒歩3分程の距離である。

参拝を終えた後、浄土寺にもお参りをして帰った。
我が家の菩提寺である。宗派は、真言宗豊山派である。

浄土寺には、三輪田米山の墓がある。

米山は、明治41(1908)年11月3日 88歳で永眠、墓所は、日尾八幡神社神の直ぐ東にある四国88ヶ所第49番札所・浄土寺にあり墓標の文字「米山三輪田先生墓」は、米山が生前に自ら揮毫したものである。

裏面に、教正自取筆、明治廿七年甲午冬十一月習書、明生中建之 明治四十一年十一月三日逝去 年八十八・・と書かれている。当時としては長寿である。

四国八十八ヶ所第49番浄土寺の山門。

浄土寺の境内で、中央に本堂が、右に大師堂がある。

家内安全、無病息災を祈り鐘楼の鐘を心を篭めて撞いていた。

鐘を突き、鐘の音がなくなるまで暫くお参りをされる参拝者。

境内には正岡子規の句碑がある。そして観光俳句ポストがある。
句は「霜月の 空也は骨に 生きにける」で、揮毫は、元高野山管長・森 寛紹(東温市出身)の筆。

明治29年12月3日号の雑誌「太陽」に掲載された冬の句。『寒山落木』巻五所収。
空也は平安中期の僧侶。
浄土寺に残る木造空也上人立像は国の重要文化財で、六波羅蜜寺に所蔵されている空也上人像と瓜二つの逸品。

松山市教育委員会設置の説明板。

境内には休憩用のベンチが設置されている。背もたれに粋なはからいが施されている。それは四国の形が切り抜かれている。

重要文化財「浄土寺・空也上人像」の表示板。

昭和24年1月26日、法隆寺金堂壁画が火災により焼損した。
これがきっかけで日本の法律の一つ「重要文化財保護法」が昭和25年5月30日制定され、国宝・重要文化財に指定されている場所には画像の様な表記版が設置されている。

参考までに
松山城天守は、昭和25年5月29日迄は国宝であったが、重要文化財保護法が制定後に重要文化財に指定替えされた。なお、現存12天守は全て国宝であったが、重要文化財保護法が制定され、松本城天守・犬山城天守・彦根城天守・姫路城天守が新たに国宝に指定され、あとの、弘前城天守・丸岡城天守・備中松山城天守・松江城天守・丸亀城天守・高知城天守・宇和島城天守・伊予松山城天守は重要文化財に指定替えされた。
なお松江城天守は、平成27年7月8日に国宝に指定された。

松江城天守国宝指定書
建第233号 国宝指定書 松江城天守 一棟 右を国宝に指定する 
平成27年7月8日 文部大臣 下村博文
が松江市に送られた。

木造 空也上人立像

昭和11年9月18日、国指定重要文化財に指定。
平安時代中期の僧侶で、巡錫中3年ほどこの地に滞在し自刻の木造を残したと伝えられているのがこの像である。
像高さは:122,4cmの寄木造り、南無阿弥陀仏と唱え遍歴する姿で、口から六文字の名号が仏となって現れている珍しい姿。踊念仏を広めた僧として有名で、鎌倉時代の僧侶、時宗の開祖である一遍上人に与えた影響は大きかったと言われている。一遍上人が踊念仏を唱えながら遊行したのは空也上人の影響大ではないか?と言われている。

参考までに

一遍上人は、伊予守護・河野通広の第二子として、松山市道後湯月町にある宝厳寺で誕生した。名は、河野通尚、13歳の時出家し大宰府で修業し名を智真と改名、その後一遍と名乗り踊念仏を唱えながら全国を遊行し民衆を極楽浄土へと導いた。
称号は、円照大師で、その後証誠大師が追贈された。
時宗の総本山は神奈川県藤沢にある「清浄光寺(遊行寺)」である。

時宗の総本山は神奈川県藤沢にある「清浄光寺(遊行寺)」。
画像右下の道路は、国道1号線で、東京箱根間関東大学駅伝で選手が走破する往路3区・復路8区間にある遊行寺の坂としてTV放送でアナウンサーが紹介する場面である。

一遍上人誕生の寺「宝厳寺」火災で焼失前の本堂。

平成25年8月10日、午後2時過ぎ火災で宝厳寺本堂・庫裏が全焼し、国指定の重要文化財、「木造一遍上人立像」も焼失した。
画像は、平成25年8月10日、午後2時43分松山城天守最上階160mから私が撮影した。火災は原因不明である。

平成25年8月10日、午後2時過ぎ火災で宝厳寺本堂・庫裏が全焼した。
時宗の開祖一遍上人の誕生の地、宝厳寺の本堂再建が完成し平成28年5月14日、落慶法要が行われた。なお、宝厳寺の所在地は、松山市道後湯月町5番4号で道後温泉本館から徒歩5分で、日本三大八幡造りの一つ伊佐爾波神社の直ぐ傍にある。

伊佐爾波神社本殿で、造りが八幡造りとなっており、日本に三カ所しかない。日本三大八幡造りの一つ、京都の石清水八幡宮・大分県宇佐市の宇佐八幡宮・松山市の伊佐爾波神社である。社殿は、石清水八幡宮を模して造営された。

参考までに

その1
日本三大八幡造りの一つ「伊佐爾波神社」は、伊豫松山三代藩主松平定長は弓の名手といわれた。松平定長は、第4代将軍・徳川家綱より江戸城内において流鏑馬を命じられた際、湯月八幡宮(伊佐爾波神社)へ必中祈願をした。寛文4年(1664)6月、定長は、将軍家の御前で弓を無事に射ることができ、祈願成就の御礼として現在の社殿に造り替えた。

その2
八幡造りとは:切妻・平入りの2つの建物前殿(まえどの)・後殿(うしろどの)を前後に連結させ、中間に1間の相の間(あいのま)が付く。
前殿を外殿・礼殿・細殿・出殿・出居殿といい、後殿を内殿とも呼ぶ。
前殿に椅子、後殿に帳台が置かれ、ともに神座である。昼は前殿、夜は奥殿に神が移動するとされる。

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