垂仁天皇(下):333年皇位継承者決定~342年崩御/原日本紀の年代記〈5〉 | 邪馬台国と日本書紀の界隈

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邪馬台国・魏志倭人伝の周辺と、まったく新しい紀年復元法による日本書紀研究についてぼちぼちと綴っています。

今回は垂仁天皇治世に考案された形象埴輪や石上神宮の由緒などについて見ていきます。

*「原日本紀の年代記」は本ブログで独自に紀年復元した年代観にもとづいています。

 

 

垂仁天皇

・活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりびこいさちのすめらみこと)

*書紀設定では第11代天皇

 

【333年:垂仁30年:36歳(40歳)】※年齢は297年誕生説と293年誕生説を併記しています。

1月6日、五十瓊敷命(いにしきのみこと)と大足彦尊(おおたらしひこのみこと)(後の景行天皇)に「お前たちそれぞれに欲しいものを言ってみよ」と言われる。五十瓊敷命は弓矢が欲しいと言われ、大足彦尊は皇位が欲しいと言われた。そこで、天皇はそれぞれの望み通り、五十瓊敷命には弓矢を与え、大足彦尊には「お前は必ずわが位を継げ」と言われた。

*ここで大足彦尊(景行天皇)の皇位(大王位)継承が決まったとみることができます。

 

【334年:垂仁32年:37歳(41歳)】

7月6日、皇后の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)が薨去された。天皇は群卿に「殉死がよくないことは前に知った。この度の葬(もがり)はどのようにしようか」と言われた。すると、野見宿禰が出雲国の土部(はじべ)百人をよんで、埴土(はにつち)で人や馬や種々の物を造って天皇に献上して「これからはこの土物(はに)を生きた人の替わりに陵墓に立てることを決まりとしましょう」と言った。天皇は喜ばれ、その土物を初めて日葉酢媛命の墓に立てられた。名付けて埴輪あるいは立物という。天皇は野見宿禰の功をほめられ、土師(はじ)の職に任ぜられた。それで姓を改めて土部臣(はじのおみ)といい、これが土部連らが天皇の喪葬(みはぶり)を司る由縁である。野見宿禰は土部連の始祖である。

*これは2年前(332年)の倭彦命葬送の際に決められた殉死廃止を受けた記事です。ここから古墳に形象埴輪を立てる慣習が始まったとされます。この記事を信じるなら、それなりの規模の前方後円墳で形象埴輪が立てられた古墳は334年以降に完成したと考えることができます。

 

■日葉酢媛陵(佐紀陵山古墳/狭木之寺間陵):奈良市

大型の蓋(きぬがさ)形埴輪や盾形埴輪が見つかっているようですが、築造時期は4世紀末ごろと推定されています。そうであれば、日葉酢媛命の墓とは考えられません。

 

 

この年、大足彦尊と八坂入姫命(やさかのいりびめのみこと)の間に成務天皇が生まれる。

*これは成務天皇が367年に34歳で即位されたという推定から逆算したものです(この詳細については次回以降の関連記事において述べます)。八坂入姫命の父は崇神天皇の皇子である八坂入彦命(やさかいりびこのみこと)なので、大足彦尊と八坂入姫命はいとこという関係です。書紀の設定で、景行天皇が八坂入姫命を妃とされるのは景行4年ですが、その時の年齢は50歳ということになっています。しかし、復元紀年からは皇位継承がほぼ決まったこの時期、18歳の時に成務天皇をもうけたということになります。

 

【335年:垂仁34年:38歳(42歳)】

3月2日、山城に巡幸された。お付きの者が「この国には綺戸辺(かにはたとべ)という美人がいます。山背大国(やましろおおくに)の不遅(ふち)の女(むすめ)です」と言った。天皇は祈(うけい)をされ、その結果を見て、綺戸辺を後宮に入れられた。それより先に山背の苅幡戸辺(かりはたとべ)を召された。

 

【336年:垂仁35年:39歳(43歳)】

9月、五十瓊敷命を河内国に遣わして、高石池・茅渟池(ちぬのいけ)を造らせた。

10月には倭(やまと)の狭城池(さきのいけ)と迹見池(とみのいけ)を造られた。この年、諸国に命じて八百あまりの池や溝を造らせた。これによって、百姓(おおみたから)は豊かになり、天下太平だった。

 

【337年:垂仁37年:40歳(44歳)】

1月1日、大足彦命を皇太子とされた。

*景行天皇即位前紀では、この年、21歳で立太子されたと記されています。

 

【338年:垂仁39年:41歳(45歳)】

10月、五十瓊敷命が茅渟の菟砥(うと)の川上宮(かわかみのみや)で剣一千口を作られた。その剣を名付けて、川上部(かわかみのとも)という。またの名は裸伴(あかはだかとも)という。石上神宮に納めた。この後、五十瓊敷命に石上神宮の神宝を掌らせた。

 

【339年:垂仁87年:42歳(46歳)】

2月5日、五十瓊敷命が妹の大中姫(おおなかつひめ)に、「私は老いたので神宝を掌ることができない。今後はお前が掌れ」と言われた。大中姫は、女の身では難しいと辞退し、物部十千根大連に授けて治めさせた。だから、物部連らが今に至るまで石上の神宝を治めているのである。

昔、丹波国(たにわのくに)の桑田村に甕襲(みかそ)という人がいた。その家に足往(あゆき)という犬がいた。この犬が牟士那(むじな)という山の獣(しし)を食い殺したら、その腹に八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)があったので、それを献上した。この勾玉はいま石上神宮にある。

*石上神宮は物部氏の管理するヤマト王権の武器庫だったという話が定着していますが、それを物語る説話が垂仁39年条に引き続いて記されます。書紀の設定では実に48年の年月が流れたことになっていますが、復元紀年では翌年のことです。もともとは石上神宮の由緒を語る一連の話だったのだと思います。また、ここにも「丹波国」が登場します。垂仁天皇は、皇后の日葉酢媛をはじめ丹波国と縁の深い天皇だったように思われます。

 

■石上神宮:奈良県天理市

 

 

【340年:垂仁88年:43歳(47歳)】

7月10日、群卿に詔して「新羅の王子、天日槍(あめのひほこ)が来た時に持ってきた宝物はいま但馬にある。国人に貴ばれて神宝になっている。その宝物を見てみたい」と言われた。使いを遣わして、天日槍の曾孫清彦に献上させた。

羽太(はふと)の玉一箇、足高の玉一箇、鵜鹿鹿(うかか)の赤石(あかし)の玉一箇、日鏡(ひのかがみ)一箇、熊の神籬(ひもろぎ)一具(ひとそなえ)であった。ただし、出石(いずし)という名の小刀が一口あり、清彦はそれを献上しないでおこうと思い、衣の中に隠した。しかし、酒を振舞われたときに衣から出てしまい、それも献上した。神宝はすべて神府(みくら)に納められた。その後、宝府(みくら)を開くと小刀がなくなっていたので、清彦に「刀子が急になくなった。お前の所に来ているのではないか」と聞かれた。清彦は、「昨夕、刀子が私の家に来ましたが、今朝はいなくなりました」と答えた。この後、出石の刀子は淡路島に行った。島の人はそれが神だと思い、刀子のために祠を立て、いまも祀られている。

昔、舟に乗って但馬国にやってきた人がいた。どこの国の人かを尋ねると、「新羅の王の子で名前を天日槍という」と答えた。但馬に留まり、その国の前津耳(まえつみみ)の女、麻拕能烏(またのお)を娶って但馬諸助(たじまもろすく)を生んだ。それが清彦の祖父である。

*垂仁3年(323年)条で記された天日槍の神宝がここで再度登場します。ここでは、出石の小刀の不思議な話が語られますが、7点の神宝がここでは6点になっています。出石の鉾一枝が消えているのです。私にはその方が不思議です。また、天日槍は古事記や播磨風土記などにも登場する謎の人物です。新羅の王子とされ、323年は三国史記では第16第王の訖解尼師今(きっかいにしきん)の治世(310年~356年)となっていますが、外国の文献にあらわれるのは377年春に高句麗とともに前秦に遣使朝貢したという資治通鑑の記事が最初です。この時期、新羅が国として成立していたかどうかも不明ですから、天日槍が朝鮮半島の方からやってきたのは確かかもしれませんが、新羅の王子というのは後世の創作である可能性が高いと思います。

 

【341年:垂仁90年:44歳(48歳)】

2月1日、天皇は田道間守(たじまもり)を常世国(とこよのくに)に遣わして非時(ときじく)の香果(かぐのみ)を求められた。いま橘(たちばな)というのがこれである。

 

【342年:垂仁99年:45歳(49歳)】

7月1日、天皇は纒向宮(まきむくのみや)で崩御された。140歳であった。

12月10日、菅原伏見陵(すがわらのふしみのみささぎ)に葬った。

翌年(343年)の3月12日、田道間守は非時の香果を持って常世国から帰ってきた。しかし、天皇の崩御を知り、天皇の陵で泣き叫んで死んだ。田道間守は三宅連の始祖である。

 

■垂仁天皇陵(宝来山古墳・菅原伏見東陵):奈良市

奈良市にあるとても美しい古墳です。写真の右手前に浮かぶ小島が田道間守の墓だとされています。しかし、この古墳も築造年代は4世紀後半と推定されていて、それが本当なら垂仁天皇の御陵ではない可能性も大だと思います。

私は今まで見た中でいちばんきれいな古墳だと思っています(訪れた時の天候が良かったということもあるでしょうが)。YouTubeのチャンネルアートにも使わせていただいています。

 

 

 

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(参考文献)

坂本太郎ほか校注『日本書紀(一)』岩波文庫

宇治谷孟著『日本書紀(上)全現代語訳』講談社学術文庫

 

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