国宝「人物画像鏡」の隅田八幡神社に行きました! | 邪馬台国と日本書紀の界隈

邪馬台国と日本書紀の界隈

邪馬台国・魏志倭人伝の周辺と、まったく新しい紀年復元法による日本書紀研究についてぼちぼちと綴っています。

 先日、はじめて隅田八幡神社(すだはちまんじんじゃ)に行ってきました。

 2019年、拙著『ヤマト王権のはじまり』で、隅田八幡神社の人物画像鏡に記された銘文についての新解釈を書いていたのですが、実はまだ行ったことがありませんでした。

 この銘文解釈が、私に私の紀年復元法の正当性を確信づけてくれたものでしたので、ぜひ早いうちに訪ねたいと思っていました。新型コロナウイルスの感染拡大などで延び延びになってしまっていたのですが、やっと実現できたというわけです。

 

【隅田八幡神社】

 

 隅田八幡神社は和歌山県橋本市に鎮座する859年創建とされる由緒ある神社です。

 主祭神は応神天皇、仲哀天皇、神功皇后となっています。

 この隅田八幡神社に出土地は不明ですが、古くから伝わっている人物画像鏡があります。

 

 境内の案内板によれば、

「この鏡がいつ頃隅田八幡神社の所蔵するところとなったかは詳らかでない。江戸時代後期に編さんされた『紀伊続風土記』および『紀伊国名所図会』にはこの鏡に関する記述があり、相当以前から神宝として隅田八幡神社に伝えられていたことがうかがえる」

ということです。

 

 その鏡の直径は18・9センチメートル(案内板より)で、鏡背には東王父(とうおうふ)・西王母(せいおうぼ)など中国の伝説上の人物が9名描かれていて、周囲に48文字の銘文が鋳出されています。

 これは日本最古級の金石文とされ、人物画像鏡は昭和26年に国宝に指定されています。

 

【境内にある巨大なレプリカ】

鋳出された銘文の文字の形がよくわかります。

 

 

 銘文はこのようなものです。

 

癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟

 

 隅田八幡神社では、この「癸未年(みずのとひつじねん)」がいつで、「日十大王(ひとだいおう〈読みは仮〉)」「男弟王(だんていおう〈同仮〉)」「斯麻(しま)」が誰かについて公式の見解を出されていないようです。しかし、この解釈については昔からいろいろな説が出されています。もっとも一般的と思われるのは次のようなものでしょうか。

 

503年8月、日十大王(この大王については仁賢天皇とする説が有力? しかし日本書紀の設定では武烈天皇の治世です)の治世、継体天皇が忍坂宮にいた時、百済の武寧王が河内直と穢人今州利の二人らを遣わして、白上同(上質の白銅)二百旱でこの鏡を作る。

 

 以前にこのブログでも書きましたので(原日本紀の復元016継体天皇〈番外〉解明!?隅田八幡神社所蔵「人物画像鏡」銘文の新解釈)詳細は省きますが、この503年という年は私が紀年復元した「原日本紀年表」では非常に特殊な年になります。

 503年は清寧天皇(せいねいてんのう)の崩御年(治世5年)となるのですが、清寧天皇は1月16日に崩御されています。その後、億計王(おけのみこ)(後の仁賢天皇)と弘計王(をけのみこ)(後の顕宗天皇)が皇位を譲りあわれたため、姉(一説には妹)の飯豊青皇女(いいどよのあおのひめみこ)が朝政を執ったとされています。飯豊青皇女は天皇(大王)への即位説も有力な女帝です。

 

 銘文中の「日十大王」が飯豊青皇女であるなら、他の二人は即決します。

 「男弟王」は顕宗天皇であり、「斯麻」は仁賢天皇としか考えられないのです。

 顕宗天皇は仁賢天皇の弟であり、飯豊青皇女の弟でもあります(姉説を採用すれば)。飯豊青皇女が女性だから、顕宗天皇をわざわざ「男」弟王と記したとも考えられます。そして、仁賢天皇の別名は「嶋稚子(しまのわくご)」や「嶋郎(しまのいらつこ)」であると日本書紀に明記されているのです。

 

 そう考えれば、526年まで大和に入ることのできなかった継体天皇や、遠く百済の武寧王を連れてこなくても、銘文はすっきりと解釈できるのです。

 このことは、私に「無事績年を削除していく紀年復元法は正しいのだ」と確信させてくれ、さらなる意欲をかきたててくれるものでした。

 

 今回、隅田八幡神社を訪ねてみて、案内板を読んでいた時に「重さは1434グラム」と書かれているのが心に引っかかりました。

 いままで人物画像鏡の重さについてはあまり考えることがありませんでしたが、銘文には「白上同(上質の白銅)二百旱(かん)でこの鏡を作る」と記されています。

 1旱が約7グラムであれば、200旱でこの鏡1面ということになりますが、この1旱がどれくらいの重さであったのか、調べてみてもなかなか答えが見つからないのです。

 

 「旱」が「貫(かん)」であればもっと重いような気がします。そうであれば、作られたのは1面だけではなく、何面も作られたということになります。つまり、多くの同范鏡(どうはんきょう)があることになるのです。

 銅鏡には同じ鋳型で製造された同范鏡が多くあることが知られています。それをつないだ図を目にすることも多いですが、東北地方から九州地方までつながっていたりします。

 隅田八幡神社人物画像鏡の同范鏡も、そのうちどこかの古墳から出土するかもしれません。同じ銘文が記されているのですぐわかるでしょう。すると、その古墳は顕宗天皇にゆかりのある方の墓ということになります。

 そんな妄想を楽しんでいます。

 隅田八幡神社人物画像鏡については、下のYouTube動画にもまとめてみました。よろしければご覧ください。

 

 

YouTube【古代史新説チャンネル】邪馬台国と日本書紀の界隈

新作配信中です! チャンネル登録もぜひお願いします。

 

【日本書紀の界隈011】(最新動画)

503年に隅田八幡神社鏡を作ったのは誰? 謎の国宝銘文を読み解く!

 ↓  ↓  ↓

 

 

 

 

 

【邪馬台国の界隈015】(最新動画)

倭人伝の新解釈〈12〉「魏志倭人伝後世書き換え説」三国志が書き換えられた証拠!

 ↓  ↓  ↓

 

 

 

 

 

お読みいただきありがとうございます。よろしければクリックお願いします。

 

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ   
にほんブログ村   古代史ランキング

 

*****

【ヤマト王権前夜】日本で何が起こっていたのか!? 重版好評発売中!

 

 

 

*****

【ヤマト王権誕生】新説続々! 新しい紀年復元で『日本書紀』を読む!

 

 

 

*****

【邪馬台国】新しい視点から倭人伝を読み解けば熊本に!